暗闇から纏わりつく目
この小説の舞台では、夏のホラー2016の公式設定「裏野ハイツ」の間取りを使用しております。(ただし昨年の企画であることを考慮し、作中には裏野ハイツと明示はされていません)
よろしければ、そちらも合わせてご覧ください。
真っ暗なアパートの部屋に、鍵を開ける音が響く。
「ただいま」
自分が一人で住んでいる部屋なのに、由佳は、家に帰ってきた時は、必ずそう言うようにしている。
ずっと実家暮らしで、家に入る時はそうしてきた習慣は簡単に抜けなくて、何となく無言で家に入ることに違和感があった。
パンプスを脱ぎながら、部屋の電気をつけ、洗面所に向かう。
そして、心臓が掴まれたようにはね上がる。
(また、だ――)
朝、ちゃんと閉めてきたはずの、トイレのドアが、少し開いている。トイレには電気がついていないから、ドアの隙間からは見えるのは黒い線のような、向こうの暗闇だけ。
手が震えるのを抑えながら、由佳はドアに近付き、ドアを押して閉める。カチャリ、と確かに金具が引っ掛かる音がして、ドアが閉まった。
その由佳の後ろで――音もなく風呂場のドアが開いた。
■■■
大学のカフェテラスで、俺、水落幸晶は怯える由佳の相談を聞いていた。
肩までの黒髪のストレートに、初夏に相応しい薄緑色のワンピースと清楚な出で立ちなこの女性――張ヶ谷由佳は、高校からの後輩だ。
俺は経済学部、由佳は文学部と専攻は違うが、今年の春からは同じ大学の後輩になっている。
彼女が切羽詰まった様子で、相談したいことがあるというので来てみたら、その内容は、住んでいるアパートのドアが勝手に開く、というものだった。
「大家に相談した方がいいんじゃないか?」
「それはしたんです。でも立て付けは問題ないって……」
それに、と由佳は続けた。
「視線を感じるんです」
ある夜、風呂から上がると、洗面所と部屋を隔てるドアが開いていた。
閉め忘れたのだろうか、と由佳は疑問に思う。だが、ドアが多少開いていたところで、部屋には由佳しかいない。大した問題ではないはずだが――違和感を覚えた。
その時、ドアの奥から、視線のようなものを感じた、という。
「最初は気のせいかなって。でも……」
次の日の朝、空気の動く気配がした気がして、起きた由佳はぎょっとした。
寝室としている和室と、リビングを繋ぐドアが、薄く開いていた。
「間違いなく閉めたんです」
それからというもの、由佳はやや神経質にドアをしっかり閉めるようになったという。
だが、ふと由佳が背中に視線を感じて振り向くと――そこには必ず、薄く開いたドアの隙間の、のっぺりとした暗闇があるという。
「――でも、こんな話は大家さんにはできなくて」
「はあ……」
視線を感じるというのは、何とも曖昧だ。
怖い映画を見た後、どこからともなく視線を感じて、些細な物音にびくびくする、そんな経験は誰しもないだろうか?
しかし、気のせいと片付けるには、由佳は不憫なくらいに怯えている。
「あの部屋にいると、いつも誰かに見られているみたいで、怖いんです。先輩、お願いします」
「お願いしますって言われても……俺は霊能力者じゃないからな」
「え、違うんですか? でも、不思議な力を持ってるじゃないですか」
「これか?」
俺は懐から、いつも持ち歩いている水晶を出した。深い青色の八面体の水晶には、銀の鎖がついている。
俺は顔色の優れない由佳の顔をもう一度見て、立ち上がった。
「……俺に何かできるかはわからないけど。後輩の頼みだからな」
「ありがとうございます……」
「けど、本当にいいのか? 俺を部屋にあげて」
質問と意図が分からないのか、由佳がきょとんとした。
「いや、俺、一応男なんだけど……」
一応をつけなくても、男である。女の子がほいほいと部屋に上げていいものか。
「あ、大丈夫ですよ、彼氏とかいませんから」
「そうではなく」
「はい?」
由佳は俺が何を言いたいのかちっとも察しない。彼女の天然ぶりに、諦めてため息をついた。
■■■
由佳の住んでいるのは、大学から数駅のところの、小さなアパートだった。
「なんで、一人暮らし始めたんだ? 大学、実家からでも通えるだろ」
無論、このアパートの方がより近いだろうが、わざわざ家を出るほどではない。現に俺は実家――ばあちゃんと二人暮らしをしている家から通っている。
「そうですね、でも、大学進学を機に、一人暮らしをしてみたかったんです」
「ふうん」
アパートに到着し、由佳が部屋の鍵を開けた。だが、玄関の扉を開けることはせずに、訴えるような視線で俺を見る。
開けていいのかとと目で問えば、由佳は頷いた。
「……じゃ、お邪魔します」
俺はゆっくり玄関の扉を開けて、部屋の中を覗いた。後ろから、由佳が小さく、ひっ、と悲鳴をあげる。
「……あのドア?」
由佳は頷いた。
入って左手にあるドアが、細く開いていた。
いつまでも玄関に立っていても仕方ないので、部屋にあがらせてもらう。
一人暮らしには十分な1LDKで、綺麗に片付いていた。几帳面な由佳のことだ、俺を呼ぶために慌てて掃除したのではなく、普段からちゃんとしているんだろう。
特段、女性の部屋に入った経験があるわけではないが、女性らしいかわいらしい部屋だな、という印象だった。ベージュのカーペットに、ピンクの花柄のカーテン。窓際には、キャラクターものらしい熊のぬいぐるみと観葉植物が置かれている。
とりあえずは、5センチほど半開きになっていたドアを調べてみる。
「洗面所か、ここ」
「はい……」
中に入って見渡すと……トイレのドアが小さく開いていた。
「……。」
俺はゆっくりとドアを閉じた。カチャ、と金具が確かに引っ掛かる音がする。
「確かに立て付けは問題なさそ……」
言いかけた俺は、ふ、と何かが動く気配に、洗面所の鏡を見た。
鏡に写る俺の後ろで、風もないのに、ゆっくり、ゆっくりと――風呂場のドアが開いた。
そして背後から感じるのは――紛れもない、視線。
「先輩……」
思わず唾を飲み込む。
「……ああ、由佳。確か――寝室のドアも開くって言ってたよな、見せてもらっていいか?」
「はい、こっちです……あっ!」
由佳が小さく声をあげた。震える指で、指差す先には、リビングと寝室を隔てるドアがあるのだが――間違いなく、さっき玄関から入って見た時に、そのドアは閉まっていた。
それが、小さく開いている。
(あの隙間の向こうに、何かいるのか?)
俺は気持ちを奮い立たせて、ドアの隙間に手をかけ、一気に開いた。
「……。」
何の変哲もない、寝室がそこにあった。
ベッドの横には、鏡台とクローゼット。白とピンクを中心にまとめた、これまた可愛い部屋だ。
レースのカーテンがかけられた窓はしっかりと閉まっていた。近付いて確かめたが、隙間のようなものはない。ドアが風で開いた可能性はなさそうだった。
「…………先輩」
「ああ」
由佳は泣きそうだった。確かにこんなに頻繁にドアがひとりでに開くのでは、「たかがドアが開くだけ」とは言っていられない。
さらに――開いたドアの隙間から、じっとりとした視線を感じるのであれば、尚のことだ。
俺は、水晶を取り出し、鎖を指に絡めて、静かにぶら下げた。精神を集中させ、部屋にある全てのものを見て、音を聞いて、感じ取ろうとした。
しばらくそうしていると――青い水晶は、不規則に跳ねるように震えた。
間違いない。ここには『何か』がある。だが――。
「何か、分かったんですか?」
俺は首を横に振る。
「由佳、もう少し詳しく聞かせてくれないか。何を探すべきか――もう少しイメージを絞りたい」
■■■
高校の時に、由佳がなくした大事なものを、俺がこの水晶の振り子で探し当てたことがあった。
それ以来、由佳は俺を霊能力者と思ったらしく、どうしても困った時に俺を頼りにするのだ。困った様子の由佳の頼みを断りきれずに、助けることは何度かあったが――俺のしているのは、大したことじゃない。
――俺がやってみせたのは、ただのダウジングなのだから。
俺と由佳は、リビングに戻った。右手から水晶をぶら下げたまま、由佳に尋ねる。
「まず聞きたいんだが、勝手に開くっていうのは、寝室、洗面所、トイレ、風呂の四つのドアだけだな?」
「はい、でもこの部屋に、他にドアはないですし……」
「玄関や窓は? 冷蔵庫の戸や、他の戸棚は?」
言われて、由佳は考える。
「ない……ですね」
「視線を感じた状況は? どの方向からとか」
由佳は再び考えたようだったが、よくわかりません、と答えた。
「確かに視線は感じるんです。でも、部屋には私しかいないのに、視線を感じるなんてこと自体がおかしいですし……」
「何となくでいいんだ。いつ、どんな時かでもいい」
由佳は、視線を感じた時の恐怖を思い出したのか、ぶるっと震えて話し始めた。
「ベッドで寝てる時や、起きた時に。あと、トイレに入ろうとした時とか、お風呂から出た時とか……とにかく一日中です」
「……由佳、ここで待っててくれ」
一人にしないでほしいと目で訴えられるが、ちょっと洗面所に行くだけだと説明する。
洗面台の前に立ち、自分の顔を見る。
左右の、トイレと風呂場に繋がるドアがまたも開いていたが、無視した。
視線を感じる、というのは、不思議なものだ。
相手から、直接何かが出て体に当たっているわけじゃない。なのに、こちらが後ろを向いていても、気配に気付く。
「――――っ」
またもはっきりと、背中に総毛立つような、視線を感じる。
右から、左から、上から、下から。
手に、汗がじわり、と滲み出た。
間違いない――何かに、見られている。心臓の鼓動が速くなった。
息を整え、俺は由佳の待つリビングに戻った。
「先輩?」
「……なあ、由佳」
俺はダウザー――ダウジングを行う者ととして、感覚は人より優れているつもりだ。
その俺がここまで『感じる』のだ。気のせいなどではなく、ここには何かがある。
だから、もうこの部屋は出た方がいい、と言おうとした。
全身を丸裸にされているような、あんな視線に晒されていたら、ストレスが溜まる一方だから――
「――っ!」
言いかけて、はっとした。
「え?」
由佳は突然表情の険しくなった俺に、びくっと震える。
「由佳……もしかしたら、すごく嫌な思いをさせるかもしれない」
「え、え?」
俺は水晶を改めて吊り下げ――部屋中を睨んだ。
隠された悪意を、見つけるために。