その少女は卵から生まれた
『その少女は卵から生まれたらしい』
私が春に赴任してきた時には、そんな荒唐無稽で無責任な噂が学校中にひっそりと息づいていた。
思春期によくありがちな夢想か、はたまた生徒によるいじめの一種なのか、判断の付きかねない状況をどう打開すべきかと頭を悩ませた。
新人教師にはヘビィな悩みである。
部活動の顧問だとか小テストの作成だとか保護者への対応だとか、そんなことよりもよっぽど重苦しく私を怠惰にさせた。
「狩屋先生、相羽と上手く行ってますか」
私の後ろから廊下を歩いて来た学年主任の東が言った。
「ちょっと家庭とか、本人に問題のある生徒ですが、先生なら大丈夫だと信じてますよ」
快活に笑う東に対して、適当に聞き流しながら曖昧に笑いを返すと彼を見送る。
そして今日も、昼休みの空いた時間にメロンパンを持って、屋上へ向かうのだ。
よく晴れた、雲一つない青い空に鉄柵とセーラー服。
「先生、空を一番長く飛んでいられる天気って知ってる」
ソプラノの声が私を出迎えた。
青空の下、白に黒いストライプの入ったセーラー服の裾が揺れる度に、影が新たに作り出される。
申し訳程度に取り付けられた手すりにもたれ掛かる少女はロングストレートの黒髪が乱れるのも無視して、半身を空の向こうへと伸ばした。
彼女の喉が見えた。
体を大きく反らしただけに近いその格好では、どうも飛べないように思える。
「よほど酷い気象じゃなければ何時だって飛べるじゃないか」
飛行機とか、ヘリとか。
「つまらないなあ。人間は発想がつまらない」
体を反っているせいか、その声は変にかすれている。
「何がつまらないんだい。危ないからこっちに来なさい」
空を見上げた状態のまま彼女は両手を広げて天へ伸ばした。
何かが振ってくるのを待っているように見えた。
あるいは、渇望。
「私はまだ生まれてないの。私は二度生まれるの、一度目は胎内を通って卵として。二度目は殻を破って世界の形を知る。そして一生に一度だけ空を飛ぶチャレンジをするの。失敗したら――」
どーん、と嫌な効果音をつけて両手をパン、と合わせる。
雛鳥が巣から飛び立つ所を想像する。
地面スレスレを滑空しながらも徐々に高度上げて、やがて見えなくなる。
私の注意を無視して語りだす彼女の言葉はいつだって何一つ分かりやしない。
もうこんなことが続いて2ヶ月だ。カーディガンが半袖に変わっても、彼女は何一つ変わりやしない。
友人もつくらなければ部活動に精を出すこともしない。
かといって、好きな俳優やアイドルにうつつを抜かすわけでもない。
授業をサボっては屋上へ逃走したり、あるいは学校へ登校せずに街を散歩して補導されたこともある。
「分かった。分かった。お昼ご飯にしよう」
私は投げやりになって動物に餌をやる時のようにメロンパンを振る。
「メロンパン。もーらうー」
彼女の顔がようやく見える。年相応の顔もできるのに、どうしてこんなに残念なのか。
メロンパンを私の手から取るとその場で袋を開けてかじりついた。
「彼氏とか、作らないのか」
女子が好きそうな話題を提供してみる。彼女の顔なら引く手あまただと思うのだが。
「彼氏。先生が毎日来てくれるから出来ない」
そんなわけないだろ。私は顔をしかめて彼女に無言の否定をした。
「あとな。ちゃんと授業に出ないとだめだろ。わからない所があるなら教えてやるから。友達は出来たのか? それともいじめでも受けてるのか、先生はいつでも力になるぞ」
お決まりの台詞である。テンプレート化されたこの文句は学校がある日は常に私の口から発せられる。
「授業、必要なこと教えてくれないんだもん。これじゃあいつまで経っても飛べないよ。友達はあそこ」
はるか頭上を指差す。雲よりも私たちに近い位置。
鳥の群れが規則正しく隊列を崩さずに飛んでいる。
生憎わたしは生物に関して詳しくはないので種類まではわからない。
彼女はあの中へ入りたいのだろうか。
「ねえ先生。私は卵から生まれるのよ」
地べたに足を伸ばしてぺたんと座ると、笑う。
噂の出処は、彼女自身。少しだけ違う内容。
卵から、彼女の指が薄い膜を破って1本1本外へ突き出る。
光のスペクトルに覆われて受ける二度目の生。
彼女にとって卵とは、殻を破ることとは一体なんなのか。
「カッコウの卵は何色だったっけ」
――また、脈略のない話だ。
私の思考を打ち消すと面白そうに問題提起をする。
……カッコウ、たしか托卵で有名な鳥だったと思うが、それ以外の情報は出てこない。
「卵の色は知らないが、人間は卵から生まれません。けど君が生まれた所を見たわけじゃないから、もしかしたら、もしかするのかもな。背中に羽が生えたら先生に一番に見せてくれ」
私は若干呆れた口調でかえす。
風が心地いい、校庭の隅に植わっている木々が緑色にきらめいて、影を作っている。
初夏は綺麗だ。暑くもなく、寒くもない。
メロンパンをかじる彼女を静かに見守る。この時間が私は割りと好きだった。
「私ね、人間は嫌いだけど先生のことは割りと嫌いじゃないよ。先生は私の事好き? 」
メロンパンを食べ終わると、ゴミを私に押し付けて彼女はスカートを手で払った。
「それはどうもありがとう。私も相羽のことが嫌いじゃないぞ」
嫌われてはいないらしいことにホッとする。
このまま少しずつ心を開いてくれればいいのだが。
そしてあわよくば真面目に学業へ打ち込んで欲しい。
……希望的観測というやつだ。
チャイムの音がなりはじめた、あと数分で授業が始まるだろう。
「私もう行くね」
「おう、ちゃんと授業には出ろよ」
後ろを向いたまま、彼女は立ち止まる。
「先生、今日はネクタイしてないんだね。始めてみた。それ、きれいな指輪だね」
「クールビズというやつだ。カッコイイだろ」
衣替えの日。
ネクタイを外している胸元には銀の鎖でつながれた指輪が光っている。
つまみ上げて彼女の顔の前に晒した。
結婚指輪は無くさないようしない主義だが、妻にどうしてもと言われてネックレスにしている。
「先生の子供はきっと卵から生まれないよ」
おだやかでいて、さざ波のような。
「卵が生まれたら温めるのは俺になりそうだ」
妻の性格を想像したらそんな気がした。
扉に向かって歩きだす彼女のさらりとなびく髪から微かにシャンプーの香りがした。
「明日には飛べるかも」
声だけが階下からやわらかく届いた。
「明日は快晴らしいぞ」
私の声に反応した笑い声が聞こえたが、徐々に遠ざかっていく。
次の日、校庭の端で、動かなくなった羽のないカッコウが静かに眠っていた。
見上げた先には屋上の手すりが十字架のように並んでいた。