多濡奇(たぬき)
この話に登場する怪人:多濡奇。
悪の組織、『村』の怪人。セイレーンの子孫。
被り物が趣味の、アラサー女子。
大量殺戮専門。
歌を唱う衝動を常に押さえ込んでいる。
その歌を聴いた者は、死や昏睡、もしくは醒めない狂乱に陥る。
彼女の能力は、村で最も危険なものだが、それを扱う本人は、非情になりきれない等、性格的な問題が多い。
何より案件という特殊任務をこなしたがらない。
組織としても対応に苦慮する怪人である。
※※※※※※
僕は彼女の事を、密かに『鳥さん』と呼んでいた。
彼女はいつもひよこの被り物をしていたから、この呼び方は特に不思議でも失礼でもないと思う。
まあでも、ほとんど会話をしたことのない女の人を、鳥呼ばわりは、失礼だったかもね。
実際声をかけるチャンスが来たとき、僕は彼女を、
『ひよこさん』
と呼んだ。
そちらの方が、印象が良いかなって思ったんだ。
するとあの人は、
「私はおばさんだし」
と照れながら困った。
歳を訊くと、年齢は教えてくれなかった。
けど僕は彼女の、おばさん、という言葉には異議を唱えたい。
だってさ、被り物をとった鳥さんは、つぶらな瞳がキュートな、どこにでもいる感じの女の子だったんだ。
おばさんというほど歳をとっているようには、全く見えなかった。
でも鳥さんが着てる服はいつもくたびれていた。
あんまり大きくない会社の、事務員のおばさんが着てそうなあれを想像すると分かりやすいかもね。
スーツはだっさい水色だった。
あまりにもダサすぎて、確かに服だけならおばさんだ。
だからまあ、おばさん趣味な女の子、かな。
でも、水色のスーツにひよこの被り物のコーディネートは、とてもエキセントリックだよね。
絶対、人の目をひくはずだ。
でも街を行く人達は、全くお構い無しだった。
彼女にも、彼女の前で歌う僕にもね。
まあ、僕の場合は歌うというより、か細い声でギターを鳴らすだけだったからね。
無視も当然かな。
声量が絶対的に足りなかったんだ。後、自信も。
そういうわけで、僕らはいつも見えない透明な被膜に包まれていた。
「私は、鳥じゃないの。たぬき」
「え? 腹黒いんですか?」
「腹黒いのは否定しないけど、たぬきっていうの。名前は」
「珍しい苗字ですね」
「私に苗字は無いの。村人だから」
よくわからない会話だった。
かみ合わない。
けど、鳥さんはとても嬉しそうだった。
僕も嬉しかった。
だってその日は初めて彼女が、ひよこの被り物を取ってくれた日だったからだ。
当時の僕はあんまりパッとしない大学2年生でね。
曲を書いて弾いて、直してまた弾いての繰り返しをしていた。
毎日毎日、譜面と向き合って、これでもかと悩む。
悩んだ結果が正解か不正解か分からないけど、週1の路上ライブで発表するんだ。
そういう音楽的な生活を、僕は送っていた。
音楽活動の合間に、大学のレポート執筆や、セブンでバイトがあった。
僕がこういう生活をしていた頃は、エンヤや、オレンジセンチ、大塚LOVEとか、ゲツメイシが流行っていた。
今は知っている人はほとんどいないんじゃないかな。
でも、キャッチーだし、僕は嫌いじゃなかった。
けどさ、僕がつむぎたい音楽は、そういう物じゃなかったんだ。もっと違う何かを、魂は探していた。それはちょっと楽譜の上のコードと睨めっこをしたくらいじゃ、見つからない。
でも、向き合わないと、絶対にたどり着かない。
当時の僕は、そういう信念の塊だった。
青臭いよね。
そんな日々の中で、僕は彼女と出会った。
場所はバイトをしていた深夜のセブンだった。
日付を跨ぐと、コンビニは1度フィーバーするんだ。
チューハイを買うサラリーマン。
いちゃいちゃして絶対この後やるんだろうな、と死んで欲しくなるカップル達。
めちゃめちゃブスッとして、疲れきったお姉さん達。
ほとんどが、帰宅途中だ。
もちろん、工事現場に向かう土方のお兄ちゃん達も来る。
栄養ドリンクと珈琲がやたら売れるね。
で、怒濤のご来店が過ぎると、潮が引いたみたいに、店内は静かになる。
2時を回る位が、そういう時間だ。
僕は雑誌を並べ直す。
とても落ち着くというか、ちょっと一息という感じだ。
で、この丑三つ時に、ひよこの被り物をした人が店内にいきなり入ってきたんだ。
僕は強盗かな? と緊張した。
「お客さま。店内ではヘルメットはご遠慮いただいております」
と声をかけると、きょとんとされた。
首の傾げ方が鳥っぽい。まあ、ひよこの被り物だからね。
でも、こちらも引くわけにはいかない。
ひよこと僕の視線は交差した。
結局彼女は、くるりと茶色のハイヒールの踵を返す。
そのまま、すたすたと出て行った。
僕はホッとした。
それから、エキセントリックなお客さんだなあ、と思ったのを覚えている。
次に彼女にあったのはライブの路上だった。
僕はひたすら通行人にしかとされながら歌っていた。
透明な膜につつまれるみたいな、しかとされ具合だったよ。
けど、声量に自信がなかったから、それも仕方ないと思っていた。でも、とにかくがむしゃらに歌っていたんだ。
鳥の被り物が僕を見上げていた。
ちょこん、と座るみたいにしゃがみ込んで、膝の上に頬杖をついる。
ぎょっとして、僕は歌を止めた。
「歌い続けて」
透き通るような綺麗な声だったよ。
戸惑いながらも僕は頷く。
そして楽譜を指で、音階を確認するように触る。
気持ちを落ち着けてから、もう一度歌い始めた。
終わると鳥さんは消えていた。
なんとなく、セロ弾きのゴーシュという小説を思い出して
― 僕、上手くなれるかな。 ―
と思ったりした。
けど、生まれ持った声量はどうしようもないんだ。
メロディラインも、人を止めれるものではなかった。
自信もなかったからね。
でも、諦められない。
僕の中には音楽があったからだ。
それは羽化を待つ蛹のような。
次の週、僕はいつもと同じように路上でライブをしていた。
新曲を引っ提げてね。
ギターを抱える胸には期待があった。
今度は誰かが止まってくれるかもしれない。
いや、期待しちゃうのは、いつもの事だったけどね。
でもその晩は、期待に裏切られなかった。
止まってくれたんだ。
鳥さんが僕の前にきて、しゃがみ込んでくれた。
今度は僕は歌を止めない。
ひよこの被り物さんに見上げられるのは変な気持ちだったけど、聴いてくれる人が1人でもいる。
その事が僕の声に張りを与えた。
……鳥さん以外に聴いてくれる人はいなかったけどね。
まあ、それはいつもの事だし、大した問題ではない。
歌い終わると、鳥さんはやっぱり消えていた。
でも、嬉しかったんだ。
2回も聴いて貰えたんだからね。
その日から、鳥さんは僕の常連になってくれた。
で、彼女が被り物を取ってくれるまで、3か月かかった。
けれど、僕はこれが長いのか短いのかわからない。
その3か月、彼女はいつも、水色のスーツと被りものだった。
だから僕は彼女の服装の理由について、色んな推測をした。
キャラクターグッズの会社の事務員さんなのかな?
不幸な事故で顔がケロイドになった結果なのかな?
……とかね。もっと下世話な妄想もあったけれど、恥ずかしいから控える。
ちなみに、服装以外にも不思議な事があった。
誰も彼女に目を向けなかったんだ。
彼女は、誰の目にも留まらないことを当たり前にしていた。
平行世界の住人みたいだ。
透明な被膜。
この被膜の中で、僕と彼女は2人ぼっちだった。
それは、彼女の被り物が当たり前に思えてから、しばらく経った夜だった。
記念日だったんだ。
彼女が初めてライヴに来てくれてから、丁度3か月目でね。
いつもの通りの路上ライブで、やっぱり鳥さんはしゃがみ込んでいた。
彼女は、唐突に被り物を外した。
セミロングの黒髪が揺れて肩にふさっとかかる。
キュートでつぶらな瞳が現れた。
主に原宿界隈かな。
どこにでもいる感じの女の子だった。
くたびれたスーツは変わらなかったけどね。
僕は、とてもびっくりして歌を止めてしまった。
「歌って。歌い続けて」
透き通った声は、澄んだ瞳にぴったりだった。
僕は我に帰って歌い始める。
でも、ドキドキしていた。
ライブ前はいつも迷いがあったし、肩に力もはいっていたけれど、そういう緊張ではなかった。
本当に鳥さんの素顔がキュートだったからだ。
でも、いいとこを魅せたいと思いすぎてね。
勢いあまってコードを間違えたりしちゃったけど、彼女はライブの終わりまでいてくれたんだ。
最後の曲を歌い終えると、拍手もしてくれた。
その日は初めて尽くしだったよ。
鳥さんの素顔。
最後まで聴いてくれたこと。
拍手。
鳥さんは、すっ、と立ち上がった。
くるりと茶色のハイヒールな踵をかえそうとする。
その時、
「あ、あの」
と声をかけたことを、僕は今でも後悔はしていない。
でも、多くの人が責めるかもしれない。
けれど、そんなことはどうでもいいんだ。
「……え?」
彼女は振り返ってくれた。
「あ、あの。いつも、聴いてくれてありがとうございます」
「いいえ。私が眺めたいだけだから」
「あの、えっと。何で」
「え?」
「……なんで、ひよこさんなんですか?」
彼女はきょとんとして、それから笑った。
「ロミオとジュリエットみたいね」
「へ?」
「シェークスピアの戯曲。ロミオとジュリエットのジュリエットの有名なセリフなの。『あなたはどうしてロミオなの』てね」
彼女は瞼を薄く落として、また笑った。
そして、会話は冒頭にもどる。
僕は彼女が鳥さんではなく、たぬきさん、とても変わった書き方をするたぬきさんだという事を知った。
という訳で、その日から彼女は鳥さんから、たぬきさんに変わった。
彼女はひよこを被ったり被らなかったりだった。
けど、どういう姿でもそのキュートでつぶらな瞳を思うと、僕の歌声も自然と張るようになったんだ。
これは大きな進歩だ。
おかげで、たまにだけど、人も足を止めてくれるようになった。
だからかな?
たぬきさんは、最後まで聴かないで行ってしまう事が多くなった。
あの人は相変わらず透明な被膜に包まれていた。
しゃがんでいても立っていても、ひよこでもキュートな女の子でも、誰も彼女に構わない。
気にしていたのは僕だけだ。
僕の曲を、歌声を、とにかく聴いてほしかったんだ。
そのころ書いていた曲には彼女への想いが溢れていた。
それは、鬱陶しいくらいね。
そして、突然その日はきた。
いつも通り、僕はたぬきさんの姿を探しながら熱く歌った。
何人か、サラリーマンとか女子高生たちが拍手をしてくれる。
ライブが終わって人が去っても、彼女はまだしゃがんでいた。
その日はキュートな普通の女の子だった。
でも、改めて見ると、綺麗な鎖骨の隅に赤い血がついていた。
血は開いたYシャツから覗いている。
「怪我、してるんですか?」
彼女のそばに寄って訊いた。
彼女は辛そうに微笑んで、首を横に小さく振った。
「私の血じゃないから」
― え。 ―
意味がわからない。
看護師さんで手術帰りなのかな、とか思ったけど、あり得ない。疑問符が脳内に溢れる。
そんな僕に、たぬきさんは瞼を薄く落とす。
キュートでつぶらな瞳が、さらに小さくなった。
「もう、ここに来れないの。私」
彼女の声は寂しそうだった。
僕の心臓は跳ねる。
「え?」
「何年もかかる案件が入ってね。もう来れないと思う」
「単身赴任、ですか?」
「そんなものかな。ずっと休暇で、案件も断ってきたんだけどね。ニートもいつまでもできるもんじゃないし。私は村人だから」
「メアド、交換しませんか? しましょう!!」
携帯を取り出す。
当時はガラケーなんて呼ばれてなかったやつだ。
けど、やっぱり首を横に振られた。
「電波が通じないとこに行くの。あ、でも。数字を覚えるのって得意? ものすごく長いけど」
「正直苦手です」
「そっか。……困った。私は貴方が歌う姿に癒されていたから、この地を去る前にお礼がしたいのだけれど」
「僕の」
「うん?」
「僕の歌は、どうでしたか?」
僕の声はとてもかすれていた。
たぬきさんは、初めてあった夜みたいに、きょとんとした。
それから、とても寂しそうに笑う。
セミロングな黒髪が、肩で揺れた。
「私は音楽が分からないの。音階も旋律も分かるけれど、それが音の連続としか分からない。音に喜怒哀楽を感じる能力が、私には欠けている。それは私の因果が、歌で、ご先祖様がセイレーンだからだけど」
「え」
「とにかく、私が眺めていたのは、貴方が歌う姿よ。とても一生懸命でとても癒された。お礼がしたい」
何から何まで唐突すぎて返事の声が出せない。
色々な言葉が、頭の中を駆け巡っていた。
けれど色々過ぎて、僕はただ混乱する。
そんな僕に彼女は困ったように微笑んだ。
「ごめんね。分からないことばかり言って。ええと、私が貴方にしてあげれる事は2つあるの。1つは。今晩貴方に抱かれてあげる。何回でも、思う存分どうぞって感じ。もう1つは、お金。口座を教えてくれれば、今後の人生に困らない分くらいのお金は振り込んであげられる」
僕を見上げながらそこまで言って、彼女は首をかしげた。
「どちらがいい?どちらでもいいけれど、2つは無理」
……どちらかを選ぶべきだった。
でも、どちらも選ぶには酷過ぎる選択だった。
たぬきさんとの間柄は、お金で割り切れるものではなかった。かといって、彼女に抱いていた想いは、一晩抱くとかそんなことで終わらせるには、桜のように淡すぎた。
つまりこの大学生は、純粋過ぎたのかもしれない。
僕は彼女にしゃがみこむ。
そして、遠くに呼びかけるみたいに、声を出す。
「貴女の歌が聴きたいです」
つぶらな瞳が、とても大きく開いた。
それから、とても大きなため息をついて、彼女は目を伏せた。
「……貴方は後悔するでしょう。私の月蝕の歌を聴いたら。けれどそれが貴方の望みなら、私は否定しない。何故なら、これは、私の感謝だから」
僕が応える前に、彼女は瞼を閉じて歌い出した。
……それは。透明な歌声に乗せられた、とても美しい旋律だった。
でも、正直あれが歌なのか、今でも分からない。
けれど、たぬきさんが歌というなら、歌なのだろう。
この旋律を耳が受容して音階コードを脳が処理する、そのどこかで、脳が溶ける錯覚を覚える。
温かい粘液に包まれて剥かれて溶かされていくような柔らかい快楽と絶頂。
突き抜けた浮遊感と、重力。
瞼を焼く光と暗黒。
その感覚は、始まりに過ぎなかった。
歓喜とか、心地よいとか、そんな言葉では表せない。
けれどそれ以外に言葉は無い。
原始的でどろどろとした絶頂。
脳髄がえぐり出るような歓喜。
それらは交互に押し寄せる。
その間隔はどんどん狭くなってっていく。
意識が、ぽん、と飛んだ。
……目が覚めると、ベッドから天井を見上げていた。
体が動かない。
白衣の天使さんがいて、天国じゃなくて病院だと気が付いた。
天使さんはお医者さんを呼んで、何やら電話をしていた。
ひどく体が重い。
まず、女の人が息を切らしてきた。
病室の入り口から現れたその人は、親戚の葬式で顔を合わせた母方のおばさんと似ていた。
どなたですかと訪ねると、泣かれる。
天使さんに、お母様ですよ、と言われて困って戸惑う。
夜だった。
窓ガラスの闇には、痩せ細った男が映っていた。
斜めに上がった寝台に背をあずけている。
30代。髪はださく短く切りそろえられて、如何にも病人って感じだ。
……それが僕自身だと気が付くまでにしばらくかかった。
一時間ほどして、父と母、すっかり成人した妹、主治医な先生、それに天使な看護師さんが、一堂に会した。
なんか、昔見た映画のシーンみたいな、恥ずかしい位柔らかな感動の場で、初めてカレンダーを認識する。
干支が一回りしていた。
……現実感がないままに、僕は月蝕の歌を口ずさんだ。
たぬきさんから聴いたこの旋律が、耳に残っていた。
とても歌いたかったんだ。
だって、僕はついさっき、それは実際には12年前だけど、たぬきさんの歌を聴いていたんだから。
本当に、歌いたかったから歌ったんだ。
そこに何の理由もない。
けれど、歌い終わって、歌えたことに満足をして、辺りを見渡すと、全員倒れていた。
白目をむいて泡を吹いている。
股間に三角の染みを大きく作っていたけれど、それが失禁のせいだと分かるまで、しばらくかかった。
父も母も妹も主治医な先生も、そして天使な看護師さんも、その晩からずっと昏睡している。
この前干支が一回りしたので、起きる事を期待したけど、起きなかった。
体質なのかな? わからない。
僕はというとこの12年間の間に、昏睡から目覚めた奇跡の人として歌手デビューを果たした。
夢のシンガーソングライターだ。
けれど、いつも何か飢えている。
この飢餓感の先は分かる。
たぬきさんの歌をもう一度聴きたいのだ。
だから、色々工夫したんだ。
僕は、月蝕の歌を色々加工して薄めに薄めて、軽い中毒的な音階にして世に送り続けた。
曲は当たる。
それはそうだ。
そういうものなのだから。
彼女なら、たぬきさんなら、僕がここにいて歌ってるってわかるはずなんだ。
でも現れてくれない。
「僕はここにいます。貴女を想って歌い続けています」
それだけが伝わってほしい。
突き詰めると、それだけなのに、あたわない。
それと、色々な事、主に孤独に疲れた僕は、今晩紅白に出る。
ギターの弾き語り。
曲名は、月蝕の歌。
さすがに紅白で純度100%で唄ったら、たぬきさんにも届くんじゃないかな、と僕はすがるような期待と想いを抱いている。
それはあの日と変わらない位には、淡い、淡い想いだ。