第六話 天使
昨日は忌引休暇を取ってもよかったのだというか、とるべきなのだということに翌日風人は気が付いた。
葬儀業者を探したりするなど、法事の段取りを整えているところに、息子の入院している病院から電話がきた。容体が急変したとのことだ。ずっと元気だったはずの息子が、一転して、緊急の治療を要する事態になったのだ。
『生存率は恐らく……三〇%くらいかと……』
「そうですか……ただちに向かいます」
風人は妻の家族に連絡を入れ、病院に向かった。
息子は死んだ。
細胞のがん化が、急速に進んだのだそうだ。抗がん剤も分子標的治療薬も投与されることはなかったのに、まるで死神に取り憑かれたように、苦しい声を上げながら、病気と最後まで戦い、そして死んでしまったのだという。
風人は、病院の中庭で、闇夜の下、電灯に照らされながら、空になった缶コーヒーを握りしめ、顔をぐしゃぐしゃにしながら泣いたのであった。
息子は自分の不倫を一切知らない。毎週見舞いに行く風人は、息子にとっていい父親であることに間違いない。見舞いに行く間、風人も、育代も、幸せで、別れ際ほど切ないものはなかった。ゆえに、息子にとっては、風人と育代は、いい親であり、隔絶されようが、病魔におかされようが、幸せな家庭の中にいたと信じて疑わなかったはずだ。
風人は、帰りの電車で、自分がもう誰からも必要とされていないことが分かった。だけど死ぬわけにもいかない。数学の研究をしたいと思った。受験数学の研究をすることに憧れていて、一度落ちた予備校講師の採用試験を、受けようかと思った。
彼は職場に辞表届を出した。校長は、彼の辞表を妻の死と結びつけ、すんなり受け入れた。
風人はその日から、牛丼屋でバイトをしながら、数学検定の勉強をし、三ヶ月後に一級に合格した。どうやら、大学時代での優秀な成績は、嘘をつかなかったらしい。そして採用試験に向け、数学の専門書をひたすらこなした。
そして採用試験に向かった。大手予備校の試験を片っ端から受けた。だが、筆記試験が非常に難しかった。それを突破しても、面接でほとんど落とされた。彼は、何故か予備校講師にこだわっていて、採用率がよっぽど高い個人指導や家庭教師の試験は受けなかった。
いつしか風人は夢をあきらめ、牛丼屋のバイトも辞め、酒とたばこに浸り、家で自堕落にテレビを見ながらゴロゴロする生活を始めた。
そして、教員をやめて二年と半年ほどたったころ、眉子から電話が入った。
「……眉子さん?」
『はい』
「僕と会わないと言ったのでは」
『牛丼屋であなたが働いていると聞きましてね。そこに教え子が働いていたものですから、お話を聞いたの』
「……ご用件は」
『死にましょう』
風人は口をつぐんだ。
突然、眉子が雨に濡れている場面を想起した。レースをまとうのが好きな彼女が、ぐじょぐじょに濡れているのだ。長い髪もぺしゃんこになり、そして、競泳水着を服の下に来ている…………。
「あなたは死ぬ理由はないはずです」
『好きでした、風人さんのことが』
風人の頬を、涙が一筋伝い、こぼれた。彼は鼻を啜り。
「あとでかけなおしてください」
彼は通話を切った。
そして――――
「――――時雨風人だな」
彼はどこからか聞こえた声に反応した。
言うまでもない、その声の主は。
二等級天使の私、モノだ。
「あんた、誰だ……?」
「私はモノ。天使だ」
私が彼に寄って行くと、面白いことに、彼はつんのめった。
「天使……?」
「そうだ」
窓ガラスを見ると、私の姿が映っていた。
白いローブに身を包み、胸の辺りから金のネックレスを掛けている。背は、そこらの家具と比較すると、二メートル近くあることが分かる。
「だが、私は貴様の願いをかなえたり、貴様に罰を下したりする存在ではない」
「お……おまえ、強盗だろ? どっから入ってきた? 警察に通報するぞ」
「やれやれ、私が現れると、そのような定型句をいつも聞かされる。少し信じてもらえるように手品をしよう」
私は指をパチンと鳴らした。
すると、アーモンドチョコレートの箱が二箱、床に落ちた。
「これは…………」
「そうだ、お前の息子、時雨雄大の好きな、チョコレートだ」
風人は口をぱくぱくさせて、私の顔を見上げていた…………。