第一話 プールサイドの女教師
時雨風人は東京創学館大学大学院を卒業した高校教師である。彼は博士号まで取得し優秀な成績で卒業した。だが彼は大学には残らなかった。東京創学館大学は名門の国立大学であり、卒業生は、文系は弁護士や検事、理系は研究職に就く者が多い。
風人は大学には残らなかった。育代と学生結婚し、二人の間に生れた息子が、白血病に冒されたので、大学に残っていては、治療費に困るだろうと考え、一流私立大学の付属高校の採用枠を、高い倍率を勝ち抜いて獲得し、息子のために懸命に働いた。
それから十年。風人は煙草を覚えた。息子が入院し、妻は従順だが、友達と呼べる人はほとんどいなかった。生徒から慕われることも皆無だった。
「ただいま」
冬の真っただ中、雪に降られながら、自宅のマンションに上がった。
「おかえりなさい、あらあら、寒かったでしょう」
妻は風人のスーツを脱がせた。風人はすぐストーブに当たった。それから食事をし、味噌汁を啜った。
「公輝はどうしてる。院内学級で馴染めているか」
「ええ。嬉しそうに話すのよ、お友だちがどうとか、国語のテストで95点を取ったとか」
「そうか。見舞いに行かなくてはな」
息子――公輝の次に、二人目の子を作ろうともした。しかし、風人はある時期から、子作りをやめてしまった。
風人は、恋をしてしまったのだ。
結婚して五年目の頃だ。公輝が二歳になった。そのとき、水泳部顧問の風人は、屋内プールの点検を行っていた。それは夜のことだった。
ドアが勝手に開いた。競泳水着を着た、背の高い女が入って来た。華奢な体で、肌は白く、胸は大きくないが、百合の花のようにきれいな顔をしている。
「あ」
風人は目を奪われてしまった。
「夜咲先生」
入って来たのは、夜咲眉子という、音楽講師だった。
「うふふ」
眉子は台に乗り、プールに飛び込んだ。体をしなやかに使い、洗練されたフォームで泳いで行った。風人は、ただただ目を奪われていた。
眉子の泳ぎをじっくり見て、彼女が上がってきたとき、風人は尋ねた。
「夜咲先生でしたよね……」
「ええ。ごめんなさいね、水泳部の顧問が変わったこと、知りませんでしたの」
「あなたは、毎晩こうして泳いでいるのですか」
「ええ。昔国体に出たこともありますのよ」
ふふっ、と眉子は吹き出した。
「眉子先生は、いつも綺麗な黒髪を、背中まで垂らしているもんですから」
「私の髪のことをそんな風に言うなんて、失礼ですわ」
「あ、こりゃ失敬」
くすくすと眉子は笑った。