1人目、リーゼロッテ(15)
この作品では、今年最後の投稿です。お楽しみいただければ幸いです。
ニコレットがケロッとしていたので誰も気づかなかったが、どうやら、彼女は相当疲れていたようである。生まれ育った修道院が火事にあったという事実と、ライヒェンバッハ公爵の来訪など、衝撃が続いたためだろう。気づかなかったヴォルフガングたちも悪い。
彼女をベッドに寝かせた後、ヴォルフガングは政務に戻った。ニコレットは夕食のころには起きてきて、いつもと同じようにおいしそうに夕食を食べていた。ちなみに、今日は鶏肉のクリーム煮で、最近判明したニコレットの好物の一つだ。ちなみに、一番好きなのは白身魚のソテーらしい。
昼寝をしてしまったので、夜になってもニコレットは眼が冴えていた。ベッドに座って本を読む彼女を、ヴォルフガングは寝そべったまま眺めていた。前々から思っていたが、ニコレットの本を読む姿は神秘的だ。
無言の時間が続くが、不思議と居心地がよかった。現在ニコレットが読んでいる本は古代語だ。
「……面白いか?」
「んー。よくわからなくて頭痛くなってきたところ。専門的な語句が多くて」
ニコレットは苦笑して本を閉じた。その本をサイドテーブルに置く。彼女はぐぐっと伸びをした。
「まだ眠くならないか?」
「うん……。ヴォルフ様、先に寝てもいいよ。疲れてるでしょ」
ニコレットがニコッと笑って言った。ヴォルフガングは別の本を手に取ったニコレットを見て「そうか」とうなずく。そして、彼女の膝に頭を乗せた。
「わわっ。……どうしたの?」
「嫌か?」
「嫌じゃないけど……」
ならいいな、と判断して、ヴォルフガングはニコレットの膝を枕にし、彼女の右手を取った。
「少し、俺の話を聞いてくれないか?」
「う、うん」
「……俺の、お前の前の妻の話だ」
「……」
さしものニコレットも沈黙した。それはそうだ。誰が、夫の前妻の話を聞きたがると言うのか。しかし、ニコレットは微笑んで言った。
「いいよ。ヴォルフ様がそれで楽になるっていうなら、私は聞くから言って。話すことで、過去は思い出になるんだって。だから」
「そうか」
ヴォルフガングはニコレットの優しさに微笑んだ。そして、どうやら、彼女は本当に哲学や心理学の勉強を始めたらしい。
「……俺の最初の妻はリーゼロッテだった」
彼女を娶った時、ヴォルフガングはまだ皇太子であったため、彼女を『最初の皇妃』と言うのは語弊があるだろう。言うなら、『最初の妻』だ。
当時23歳の皇太子ヴォルフガングに嫁いできたのは、18歳のライヒェンバッハ公爵の末娘、リーゼロッテだった。非公式であるが、リーゼロッテはライヒェンバッハ公爵の妾の娘だった。
リーゼロッテは控えめな娘だった。過剰に干渉してこなかったし、いつもヴォルフガングの少し後ろをついてくるような娘だった。
性格は違ったが、彼女は少しニコレットと似ていたかもしれない。話しかければ控えめに笑い、小さな贈り物に喜んだ。笑うリーゼロッテを見て、ヴォルフガングはほっとしたものだ。
リーゼロッテを娶ったころ、ヴォルフガングが幼いころから続いていた帝国と周辺諸国との戦争は激化していた。必然的にヴォルフガングはその戦争に駆り出されており、すでに彼はその才能を開花させていた。
そんなヴォルフガングが、リーゼロッテは怖かったのだと思う。必死でそんなそぶりを見せないようにしていたが、おびえられているのは何となくわかった。
リーゼロッテと結婚して2年が経とうかという頃、ヴォルフガングの父である当時の皇帝が病で政務が取れなくなった。このころから、ヴォルフガングが皇帝内で権力を持つようになった。
そのためだろうか。リーゼロッテをヴォルフガングのもとに嫁がせてからは沈黙を続けていたライヒェンバッハ公爵が、ついに動きを見せた。その最初の行動が、次の皇帝であるヴォルフガングを暗殺することだった。
この時、ハインツェル帝国の後継ぎはヴォルフガングしかいなかった。ヴォルフガングには弟がいたが、折しも諸外国との戦闘で亡くなっていた。
ヴォルフガングが暗殺されれば、その皇位継承権はどこへ行くか。おそらく、ヴォルフガングの父の姉の血筋の人物に継承権が与えられる。ライヒェンバッハ公爵は、ヴォルフガングの伯母の血筋の者たちに皇位を継がせ、裏から操ろうとしたのだろう。
ライヒェンバッハ公爵にそんな才覚があったかはともかく、ヴォルフガングが彼によって暗殺されそうになったのは事実である。あろうことか、ライヒェンバッハ公爵は娘であり、ヴォルフガングの妻であったリーゼロッテに暗殺を実行させようとした。
させようとした、と言うことは、実行されなかったということだ。父親の命令に逆らえず、しかし、人を殺すことに恐怖したリーゼロッテは、その日の夕食時にヴォルフガングのグラスにワインを注ぐ手を震わせていた。そのことで、リーゼロッテがライヒェンバッハ公爵に命じられてヴォルフガングに毒を盛ろうとしたことが判明したのである。
『あの人は、わたくしの父です……逆らえません……』
暗殺を実行しようとした理由を尋ねたヴォルフガングに、リーゼロッテは震える声でそう告げた。その言葉に、ヴォルフガングは自分が強い衝撃を受けたのを今も覚えている。
リーゼロッテにとって、ヴォルフガングはライヒェンバッハ公爵の次だったのだ。彼女にとっての一番は父親のライヒェンバッハ公爵であり、夫のヴォルフガングではなかった。いくら横暴な父親であったとしても、育ててくれたことに恩を感じていたからだろうか。
気づけば、ヴォルフガングはリーゼロッテを斬り殺していた。
リーゼロッテを斬り殺すまでの経過に、何があったのか思い出せなかった。おそらく、逆上したのだと思う。この時になって初めて、ヴォルフガングは、自分がリーゼロッテを本当に愛していたのだと気付いた。だから、裏切られたと感じたのだ。
結局、リーゼロッテがライヒェンバッハ公爵に指示された証拠は見つけられなかったので、ライヒェンバッハ公爵は5年間の領地での謹慎処分が下されるにとどまった。
「私の『残虐皇帝』の呼び名は、おそらく、ライヒェンバッハ公爵が流布したものだと思う……。いつか、謀反を起こす時に、皇帝が残虐だとやりやすいだろう?」
リーゼロッテのことを語り終え、そう言ったヴォルフガングに、ニコレットは緩く首を左右に振った。
「ヴォルフ様は残虐じゃないよ。それに、ライヒェンバッハ公爵には、謀反を起こすだけの器量がないよ。起こしたとしても、きっと失敗する」
ニコレットは静かに言い切った。確信ありげな言葉だった。下から彼女の顔を見上げると、ニコレットは苦笑した。
「ライヒェンバッハ公爵は、私の父に似ているわ。父には一度しか会ったことがないけど、怖いものを遠ざけておく人。でも、自分で手を下す勇気のない人でもある。私の祖父が言っていたらしいんだけど、自分で手を下さない上官には、部下がついてこないんだって」
「……なるほど。一理あるな」
ヴォルフガングは何となく納得してしまった。おそらく、ニコレットの母方の祖父であるかつてのブリタニア王太子ニコラスのセリフなのだと思う。
「ヴォルフ様は、嫌なこともちゃんと自分でやるから、人がついてくるんだよ」
ニコッと、ニコレットは笑った。薄明りの中で微笑む彼女は、自分の夫がかつての妻を愛していると暴露しても、何も態度が変わらなかった。ヴォルフガングは手を伸ばし、ニコレットの頬に触れる。
「すまないな……お前に聞かせる話ではないのに」
「いいよ。別に」
ニコレットは頬に当てられたヴォルフガングの大きな手に自分の頬を摺り寄せる。彼女にしては、少し珍しい反応だ。
「もちろん、リーゼロッテ様に思うところがないわけではないけど。ヴォルフ様の話を聞くって約束したもの。それに、今のヴォルフ様の妻はリーゼロッテ様じゃなくて、私だもん」
「……俺が恐ろしくはないのか」
ここで拒否されたら、自分はニコレットのことも殺してしまうかもしれない。そんなことを考えながらも、ヴォルフガングは尋ねた。ニコレットは、いつかと同じように「どうしてそんなことを聞くの?」と首をかしげた。
「ヴォルフ様はこうして私に話をしてくれる。話が通じる相手は、怖くないのよ。それに……」
ニコレットは少し間を置き、深呼吸してから答えた。
「私は、ヴォルフ様がリーゼロッテ様をまだ愛していても、ヴォルフ様をあ、愛してる、から、そばにいたいもの」
消え入りそうな声で紡がれた言葉に、ヴォルフガングは目を見開き、上体を起こした。驚きの表情でニコレットを見る。
「……お前」
「に、二度は言わないわ!」
叫んだニコレットの唇を、自分の唇でふさいだ。座った姿勢のまま耐えていたニコレットだが、濃厚なキスに次第に体の力が抜けていった。くにゃりとなったその肢体をベッドに押し倒す。唇を離すと、顔を真っ赤にして肩で息をしているニコレットと目が合った。
『好き』と『愛』の違いが判らないと言った彼女に、愛されているという事実がうれしかった。
リーゼロッテの時は、ヴォルフガングからの一方通行であったから、うまくいかなかったのかもしれない。
そうして、リーゼロッテを殺してしまったことを何かのせいにしたいだけかもしれないが、4人目の妻であるニコレットとは、うまくやって行けるような気がした。
彼女は、リーゼロッテとは違う。ヴォルフガングは、どこかでニコレットとリーゼロッテを重ねていたのかもしれない。最低だ。
ニコレットが言った通り、過去は語ることで思い出になるのかもしれない。ヴォルフガングは、誰かにこの思いを聞いてほしかったのかもしれない。とても、楽になった気がした。
殺してしまったかつての妻たちのことは、簡単に忘れられない。忘れてはならない。そこまで無慈悲な人間になりたくなかった。忘れてしまえば、本当に『残虐皇帝』になってしまう。
忘れなくても、ニコレットと一緒になら歩いていける気がした。ヴォルフガングが迷った時には、彼女が隣で手を握ってくれる。代わりに、彼女が迷った時には、ヴォルフガングが隣にいよう。
かつての妻たちとは、こんな関係は作れなかった。ニコレットの明るい性格と、屈託のなさ、折れない心の強さのおかげだ。
そして、彼女がヴォルフガングを慕ってくれるおかげだ。
「俺も、愛している。ニコラ」
「……っ。うん……」
耳元でささやくと、ニコレットが息をのみ、ついで小さくうなずいた。ヴォルフガングは微笑み、彼女の首筋に口づけた。
本当に、愛しているのだ。
だから、拒まないでほしかった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
そして、変なところで終わる! でも、1月1日から3日まで、この作品を連続投稿します。よろしければ、読んでやってください。
ではみなさん、よいお年を!




