◆ 01
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僕はみちるに恋をした。
あれは、昨年のこと。
雨のようやく降り止んだ7月の中旬。憂鬱な季節は終わろうとしていた。
あまりにも濡れ過ぎた外の景色、急に勢いを取り戻した太陽の光を少しでも覆い隠そうとするかのように、ビルからも道路からも白いもやが精霊のように立ち昇っている。
精霊はすぐに戦いに敗れ、流れる雲の隙間からのぞく青い空に還っていく。
世界が乾ききる前に、僕は図書館を出ていった。気持ちは焦っていた。早く家に帰って片っ端から読みたい。10冊か、12冊か、その時何を借りたのかはあまり覚えがない。小説がいくつもあって、図版みたいのもあって、ノンフィクションとかも数冊あったはずだ。
図書館では、棚と棚の間をさかりのついた猫のように歩きまわり、左上から右下にむけて斜めに目を走らせていく。そうして、ぱっと目に止まった本を誰にも取られないうちに人差し指ですいと引き出して手に収める。だから、選ぶ基準も何もあったものではない。しばらく陥る空しさの埋め合わせになるような、しっとりと手に収まるものならば何でもよかった。
いつも図書館に来てから、大きいエコバッグを持ってくるべきだった、と後悔するがその日もそうだった。限度いっぱいまでの本を借りて両手に積み上げ、バランスをとるように図書館前の広い階段を下りていった。
「あつっ」
どん、と後ろ向きの背広が僕にぶつかってきた。
僕は持っていた本を全て大きく放り出して、前に倒れかかった。
携帯で何か話しながら歩いていたらしいそのサラリーマンは、
「……んだよ」
その時ようやく前に向き直り低くつぶやいたが、電話に向かっては
「いいえ、だいじょうぶです。申し訳ありません、今ちょっと移動中でタクシーがぜんぜん、はい、そうですねあと10分もあれば」
やや高い声で愛想よく受け答えしながら、あっという間に視界から消えた。
落とした本が汚れていないか、慌てて拾い集める。
幸運にも階段からはすでに水が引いていたが、数冊は植え込みのほうに入っていた。
「何だよ、は、どっちだ。バカ。死ね」
人に会いたくない。人と触れ合いたくない。それが僕が本に埋没する理由だ。
だからこうして図書館に来るのもできるだけ最小限と限られている。
借りられるだけ借りて、返却期限ギリギリまで、ひどい時には1週間も過ぎた頃ようやく返しにくる。しかも、閉館時間を狙って、建物の外から返却できるブックポストの投函口に。
僕はどうにか最後の一冊を拾い上げた。植え込みの黒い土が角にわずかに食い込んでいる。爪で擦ってみたら何とか目立たなくなった。それでも僕が借り出した時よりは確かに汚れている。
さっきのサラリーマンの目が、つぶやきがまだ心に棘となって刺さっている。傷の深さで鼓動が速い。
よせばいいのに、またあの男が去っていった方に目をやった。
「ホント、死ねよ」
呪いは自分にも跳ね返る。吐き出したとたん身体の平衡がくずれ、一番上の一冊をまた落とした。
目の前の歩道で、本はまん中あたりで見開きとなって目に飛び込む。
その時、初めて僕はみちるに会った。そして、恋をした。
おそらく初めての、本当の恋。