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前を走る肥満少年のスピードは徐々に落ちてゆき、とうとう通りがかった神社の前で停止した。
膝に手をつき全身を使って、少年は地球上のすべての酸素を取り込んでしまいそうな勢いで呼吸する。全身から分泌される津波のような汗と高湿な熱気が、まるでフルマラソンでもしてきたかのように彼を演出していた。
少年は制服を脱いで脇に抱えると鳥居のそばにある手水舎の水で顔を濡らした。
「し、……死ぬ、……あ、……心臓、……痛」
水野も多少息は上がっていたが肥満少年の方はまさに息も絶え絶えといった様子である。
「おい」
水野は丸まった背中に声をかけた。彼には聞きたいことが山ほどあった。さっきの電気使いの少年のこと、突然現れた炎のこと、肥満の少年の素性に、自分を助けた理由。
「何なんだ、お前」
まずは、今一番身近な疑問を口にした。
両腕の痺れはすでに治っているし、ここには水もたっぷりとある。もし戦闘になったとしても先ほどのような遅れは取らないはずだ。臨戦態勢を整えて水野は相手の出方を窺った。
少年は荒い呼吸のままゆっくりと向き直り水野を手で制する。
「……ちょ、……待て、……まず、……座ろ」
少年の背後で、水野が作り出した水球がゆっくりと水の中に沈んでいった。
その小さな神社は閑散としていた。神殿が陰になって夕日は入ってこられず、暗く染められた参道は神聖というよりもどこか邪悪で不気味な雰囲気を漂わせている。
闇の中、唯一光を放っている神殿の蛍光灯の下に二人は腰を下ろしていた。
と、肥満の少年は不意に制服のポケットからタバコとライターを取り出すと、火を着け、煙を吐き出した。
慣れた手つきでタバコを吸う少年を見て水野はあっけに取られた。
「ふ~、あっ悪い、タバコ良いか? 今更だけど」
「あ、ああ。別に」
水野は平静を装いつつ目だけで周囲を探った。相手の動きを警戒しているわけではない。人に見られてはいないかを心配したのだ。もし誰かに見られて自分まで罰を受けさせられでもしたらたまったものではない。幸い周囲に人影は無かった。
水野の心配をよそに少年は切り出した。
「さて、自己紹介がまだだったな。六組の日村だ。よろしくな」
そう言って日村烈は右手を差し出した。
「……日村、六組の」
差し出された手と相手の顔を交互に見る水野は明らかに警戒している様子だが、そんなことはお構いなしに日村の右手が水野の右手を捕らえた。
「はい、よろしく~」
つないだ手が軽く上下させられると水野の手はあっさりと開放された。
「…………」
相手の考えが分からず、水野は黙って日村を見つめた。頬を伝う汗が蛍光灯の明かりに照らされて日村の顔の輪郭をはっきりと映し出している。
水野のクラスは五組。学年を言わなかったと言うことはこの少年もおそらく水野と同じ三年生なのだろう。六組と言えば水野にとっては隣のクラスである。にもかかわらず目の前の少年の顔は、水野にとって全く見覚えのない顔だった。
先ほどまでとは違う緊張感が急激に水野の頭を支配していった。同じ学校同じ学年とはいえ水野にとって隣に座るこの少年は他人でしかないのだ。仮にクラスが同じだったとしてもその意味は変わらない。
水野の緊張を知ってか知らずか、日村はただ、黙ってタバコをふかした。
そして両者しばしの沈黙の後、鼻から煙を吐き出しながら日村が口を開いた。
「災難だったな、さっきは」
「え?」
「三田の野郎、いきなり襲ってきただろ? あいつ見境ねぇからなぁ」
「三田?」
急に始まった会話に戸惑いつつ水野は何とか鸚鵡返しで応じた。三田、と言うのがあの電気使いの少年の名前のようだ。
「二組の三田龍平だよ。能力者と見たら誰彼かまわず喧嘩売って回ってるはた迷惑なやつで、結構有名だぜ? 最近急に学校休むやつ多くなったのも、実は皆あいつに襲われたのが原因なんじゃねえかって噂もあるくらいだしな」
「ちょっ、ちょっと待て」
「ん?」
水野の頭は相変わらずテンパっていたが、整理のつかない頭でも聞き流すことができない言葉が彼に日村の言葉を遮らせた。
それは先ほどからずっと気になっていた単語だった。
拳に電気をまとわせ、操っていた三田。突然現れた炎とタイミングよくやってきた日村、その手にはジッポライター。その二人が共通に口にした能力者という言葉。すべてがいやな予感とともに水野の鼓動をはやし立てた。
「能力者って、何なんだ?」
尋ねられた日村は黙ってタバコを吸うと静かに煙を吐き出し、微笑んだ。
「なるほど、自分以外の能力者に会うのは初めてか」
言うなり日村は持っていたタバコを指先で弾いた。タバコはくるくると回転し、突如、空中で手の平ほどの大きさの炎を上げて燃え尽きる。そして炎は差し出された日村の手の上に滞空し、人魂のように揺らめきだした。
「二週間くらい前、俺は突然、この火を操る能力〈無限烈火〉に目覚めた。俺の仲間も、多分三田も、他にもたくさん、何故か同時期にこういった特殊な力を発現させた奴が現れだしたんだ。お前もそうだろ?」
日村はまるでボールでも扱うように掌上で炎をもてあそんで見せた。日村が炎を両手に挟み、ゆっくりと手を離すと今度は炎が二つになり、日村が宙に手で円を描くと炎はその軌跡に沿って回り始めた。二つの炎はまるで互いの尻尾を追い駆ける子犬のように、くるくるとワルツを踊り続ける。そして、日村がふっと息を吹きかけると炎は跡形も無くその姿を消した。
水野は息をのんでその様子を見ていた。
「…………」
「何日かたって、三田がこういう特殊能力に目覚めた奴を狩り始めた。お前も能力者か? ってな。便利だから俺たちもその呼び方を使うようになって、気づいたらそれが他の能力者の間でも定着して、まあ今に至るって訳だ」
物知り顔で話す日村とは対照的に、水野の顔は徐々にその色を失っていった。
「他にも、他にもたくさん居るのか? 能力者が」
「ああ。俺の見積もりだと一クラスに2、3人。それが六クラスで大体十人ちょいで、さらに下の学年にも居るらしいからおおよそで三十人くらいは居るのかもな」
「…………三十人」
水野は打ちひしがれた。人にはない特別な能力を持っているのは水野だけではなかったのだ。
水野は今日、絶対の自信を持っていた能力で敗れ、他人の能力に救われたのだ。
水野の胸を強烈な不快感が襲った。
自分は特別な存在でもなんでもなかった。普通に居る能力者の一人。日常生活ではたいして役にも立たない宴会芸レベルの能力が使える平凡な能力者、それが水野だった。
水野は必死に不快感を押し殺そうとした。自分は特別だ、周りの奴らとは違うのだと、まじないのように何度も何度も心の中で繰り返した。
しかし、何を考えても、どう言い訳しても、この不快な結論が水野の中から消えることは無かった。
お前は凡庸なただの中学生だ。あの電気使いの少年三田が、心の中で水野を嘲った。
気づくと水野は立ち上がっていた。抑えられない怒りが、言葉にならない悔しさが、水野の体を無意識に動かしていた。
認めたくない。認めてはならない。もしそれを認めてしまったら、彼はまた生きる意味を見失ってしまう。ぼんやりとした不安を抱えたまま、何もできない劣等感にさいなまれながら、ただ無為に毎日をやり過ごす日々に、水野洋介は戻らなければいけなくなってしまうのだ。
急に立ち上がった水野を日村が心配そうに見上げていた。
「どうした? 急に」
日村の問いには答えず、水野は黙ってうつむいた。今の水野では何を聞かれても答えることはできないだろう。口を開いても嗚咽以外の音が出てこないであろうことを水野は感じていた。
水野の心中には思い至らず、のんきに携帯を開いて日村は立ち上がった。
「まあいいや。俺たち昼休みはいつも第二音楽室にいるからさ、何かあったら来いよ。俺の仲間も紹介するしさ」
軽く手を振って歩いていく日村。
「じゃあな、水野」
去っていく日村の背中を見つめ、水野は一人神社に立ち尽くした。その視界から日村が消えてもなお水野の体は動かず、堅く握り締められた拳だけが闇の中わずかに震えていた。