幕間 進化とフラストレーションその三
灰色の箱は音も無くカメラの前から消えうせた。
ただ敷地を囲むことしか出来なかった外の人間たちは恐る恐る校内に足を踏み入れ、各自散っていった。
カメラがリポーターを追って歓声と怒号の溢れる野次馬を掻き分けると、何かの配慮のためか、ややあって映像はコマーシャルに切り替わった。
「あーっ! き、消えてますよ先生、箱が」
電話の受話器にかじりついていた青年は声を上ずらせて老人を見た。
しかし老人の興味はテレビからの歓声にも不可思議な超常現象にも、すでに無いようだ。机上に山と積まれた書類を乱雑に引っ掻き回ししながら「ああそう」と老人は抑揚無く返した。
やがてその手が一束の資料を探し当てると、老人は先ほどまでと打って変わった会心の笑みで資料のページを繰り始める。
青年は横から資料をのぞき見ながら訪ねた。
「何なんですか先生、さっきから何を?」
老人の耳に青年の声は届いていなかった。彼は突然狂人のように笑いだすと青年に資料を突き出した。
青年は突き出された紙の束を見て首を傾げる。老人の意図が分からないのだ。
「陽性反応者が二十七名だぞ。全く若いというのは本当に素晴らしいな。羨ましいな。そうは思わんかね?」
それは秘密裏に行われた投薬実験の結果を記録した資料だった。本来なら許されない人体を用いた新薬の実験。老人は自分と研究員のみならずコネクションのある各教育機関にも手を回して新薬投与の臨床試験を行っていた。募るフラストレーションをエネルギーとした成長促進剤。彼自身の言う、馬鹿な子供の夢を結実させる無限の進化の可能性。老人が青年に突きつけたのはひそかにその試験対象となっていたある公立中学校、そこで採取されたデータのリストだった。
「……湖南市立高尾中学校? これって今、テレビで……」
それは今しがた謎の超常現象でテレビをにぎわせていたのと同じ中学校だった。そう気付いたところで、青年は再び首を傾げた。老人の反応はまるで、今しがたの事件と彼らの実験が何らかの関連性を持っているかのようなものだが、青年にはどうしてもこの二つの事象の間に因果関係というものが掴めなかったからだ。
老人は青年の様子を鼻で笑うと目を見開いてまくし立てる。
「分からんのか? あれはな、あれは人の進化の可能性だよ友永君。止めようも無くたぎり続け、やり場のない彼らのフラストレーションが、状況を、状態を、何とか改善しようとして、あんなものを作り出した。全く、全く、全く素晴らしい!」
気でも違ってしまったかのような老人の剣幕に青年は思わずたじろいだ。
熱心に語る老人の顔は以前までと何も変わらない、無邪気な少年にいつの間にか戻っていた気がした。
見た目だけが年相応に老け込んでしまった無邪気な老人に、青年はうらやましさと若干の哀れみを感じていた。