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灰色の羊  作者: 御目越太陽
第四章『灰色、同じ色』
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4-12

 突き立てた指がつかみ所を見つけられず、ずるずると滑り落ちてゆく。体を支える足は踏ん張る力を無くし、頼りなく内股を震わせながら何度も何度も床をすべる。


 それでも騎士はすがり続けた。あがき続けた。無駄な抵抗と知りつつも。救いなど無いと分かっていても。純粋に、無垢に、騎士は希望を信じ続けた。


「何してる?」


 悲痛な顔で騎士の背中を見つめている茂野の耳に突然横合いからの声が響いた。


「助けないのか? 居るんだろ、あそこに」


 まだ本調子でないふらつく足取りで教室に入ってきた水野は横目で騎士を示して茂野に尋ねた。


 教室に他の人影は無い。誰か隠れているとすれば騎士のすがりついている掃除ロッカー以外にはないだろう。


 水野に尋ねられ、茂野は首を振って騎士を指した。


「……き、き、騎士が」


 水野は力なくロッカーをかく騎士の背中を見た。開け方を知らないのか、騎士の手は取っ手にも錠にも触れず、ただがりがりとロッカーに指を突き立て、何もつかめずにずり落ちていく。しかし、脱落していく両腕は落ちる先からまた何かをつかもうと必死にひじを伸ばす。ずり落ちては伸ばし、伸ばしてはまたずり落ちる。左右の手が、何度も、交互に、諦めることなく上下を繰り返す。


 手がロッカーを滑るたびに生じる小さな音が、激しい雨の中かすかに水野の耳に届いていた。


 消え入りそうだが確かに、水野の耳にそれは届いていた。


「あ、あ、あのき、騎士は、助けなんか、い、いらないって言う、か、彼の意思、なんだと、思う。あ、あ、あの騎士が、居る限り、いくら手、手を差し伸べても、無駄なんだ。騎士が全部、払い、払いのけてしまう。き、騎士はき、きっと、彼がひ、独りで生きていくためにつ、つ、作り出した、幻なんだ。……多分」

「多分って何だ? 心が読めるんじゃないのか?」


 茂野はまた首を振った。


「よ、よ、読めない。騎士は、能力者がつ、作り出した、幻だから。そ、そ、それに、能力者の、こ、心の、声も、ず、ずっと聞こえない。さっきから」


 近づいて殴られでもしたのか、いつの間にか腫れ上がっていた右のまぶたを押さえて茂野は騎士を見つめた。


 不安だった。心の声が聞こえないということは箱の意識がすでに失われている証左なのではないかと。

しかし、いまだに空間は隔絶され、騎士も目の前に存在している。箱の意識は生きているはずである。


 今〈悟り〉を使うことが出来れば箱の求めるものを理解することができるかもしれない。箱を救い出すことが出来るかもしれない。しかし、聞こえてくるのは窓を叩く激しい雨音と雷鳴ばかり。肝心なときに役に立たない自身の能力に茂野は歯噛みした。


「き、聞こえないから、待つしか、な、ないんだ。彼が、あ、あ、諦めてく、くれるのを。か、か、彼がじ、自分から、助けを、も、求めてくるのを、待つしか、ぼ、ぼ、僕には」


 無力だった。日村や三田なら騎士の抵抗を振り払って強引にでも箱を救い出すことが出来たかもしれない。高井や山際ならまっすぐな言葉で箱を説き伏せることが出来たかもしれない。


 自分だけが何も出来ずただ見守ることしかできないのだと茂野は思った。自分の力は箱を救えない。自分の言葉は、自分の声は、箱には届かないのだと。


 茂野は水野に向き直った。


「き、き、騎士を、倒して、欲しい。そ、その間にぼ、僕が、は、は、箱を、助ける」


 水野の目的は分かっている。箱を倒し、己の力を誇示することだ。茂野の目的とは微妙に食い違うが標的は同じ。無下にはしないだろうと茂野は思った。


 しかし――、


「断る」


 茂野の耳に届いたのは意外な言葉だった。思わず顔を上げた茂野の目に映ったのは眉をしかめて騎士を見つめる水野の、怒りを抑えているような実に苛立たしげな表情だった。




 あの日もこんな雨が降っていた。


 激しい雨が水面に弾け、そこに居る者の聴覚と声を圧倒的な力で奪っていった。


 不明瞭ながらかろうじて生きている視界に、水野は小さくなっていく弟の姿を捉えていた。


 弟の声は聞こえなかった。だが、弟が助けを求めていることは分かっていた。


 水野は弟の名を呼んだ。だが、その声は弟の耳には届かなかった。


 無力な少年は、弟が水中に消えていく様を、ただ黙って見ていることしかできなかった。




「聞こえない?」


 水野は教室に落ちていた黒板消しを拾い上げた。声など聞こえなくとも水野には分かっていた。


「だから待つ?」


 水野は拾い上げた黒板消しを握り締めた。それは茂野に対してというよりは自身に対しての怒りだった。


 黒板消しは水野の渾身の力でひび割れた窓に投げつけられると、窓を突き破り階下に消えていった。


 叩き割られた窓から強い風雨が無遠慮に室内へと侵入してくると、水野は手をかざし、雨粒を集めた。雨粒は荒ぶるように渦を巻き、かざした右手の前に水球を形成した。


「声なんて聞こえなくても分かる。待ってたって何の解決にもならないことくらい」


 水球を片手に水野は小さく弱々しい騎士の背中を見つめた。


 それは助けを求めながら水中に消えていく弟の姿だった。


 そして、それを何も出来ずに見守っている茂野は幼き日の水野だった。


 言葉など発しなくとも、声など聞こえなくとも、水野には騎士の心をはっきりと感じ取ることが出来た。


 水野は水球を手に、よろめきながら騎士へと近づいた。


「――っ!」


 不意の裏拳が水野を襲う。足元のおぼつかない水野だったがとっさに差し出した水球が水野の代わりに攻撃を受けた。はじけた水球が緩衝材となって拳の威力を軽くする。


 水野はその拳を掴むと強引に後方へ引き倒した。受身も取れない騎士が無様に教室を転がり、その隙に水野はロッカーまで近づくと力任せに取っ手を引っ張った。


 が、しかし、硬く錠を施された戸が箱の開放を拒む。思わず舌打った直後、蘇った騎士に隙だらけの後頭部を殴られ今度は水野が無様に倒れ伏した。


「……っく!」


 騎士は水野を倒すとすかさずロッカーに背を押し付けて自らが壁となった。その身を挺して、文字通り最後の壁となった。


 水野は苦痛に顔をゆがめながらも何とか体を起こした。後頭部に直撃を受けたはずなのに大したダメージは無い。日村たちを圧倒した時ほどの力はもうその騎士には残されていないようだ。


 水野は立ち上がり、騎士を見つめた。


「近づかれるのが嫌で、裏切られるのが怖くて、あんな人形を作り出したのか。……全く、救えないほど――」


 騎士の拳が言葉を遮る。


 頬に直撃をもらった水野だったが今度は倒れず逆に騎士の兜を殴り返した。ロッカーに背中を打ちつける騎士のマントを引っつかみ、水野は騎士の体を引き寄せる。


「救えないほどの馬鹿だ、お前は!」


 騎士は上体をひねり、両腕を暴れさせ、なんとか水野を振り払おうとした。


 しかし、殴られても蹴られても足を踏まれても、水野の両手は騎士のマントを掴んだまま放さない。


 握り締めた両手を何度も揺さぶり騎士の体を何度もロッカーに叩きつけて、水野は怒鳴った。


「逃げて、逃げて、目をそむけ続けたこの結果を見て、まだ分からないのか」


 止めようと身を乗り出した茂野の心にいつの間にか誰のものか分からない感情の奔流が流れ込んできていた。


 彼は救いを求めていたのだ。


 道をはずれ、群れから距離をとられても、つかず離れず、群れに見えるところを歩き続ける。平凡さゆえに孤高の存在になることも出来ず、半端な非凡さが足を引っ張り群れに溶け込むことも出来ない。


 理解ある仲間と救いの存在を、彼の心はずっと求めていたのだ。


「寂しいなら助けを求めろ。辛いなら辛いとそう言え。一人で生きていけるほどお前は、お前は強くないだろ!」


 説いたところでそれが容易でないことを水野は理解していた。何故なら水野とて彼と同じ、群れに馴染むことの出来ない中途半端な灰色の羊だったのだから。


 しかしそれでも、水野は訴え続けた。


 理解ある言葉が、仲間の声が、彼の求める希望と信じて。


 茂野は駆け出し、ロッカーの錠に飛びついた。硬く固定されているねじを全力でひねり、それがびくともしないと分かると足元に落ちていたステンレスの定規を力いっぱいに突き刺した。


 言葉を届けられないなら行動で示せばいい。もしそれが駄目なら意志を貫く。そうすれば真摯な気持ちはいつかきっと彼に届くはずだ。その気持ちが、いつかきっと彼を救ってくれるはずだ。


 どれだけの災厄を撒き散らしても、どれだけの不幸がつまっていても、パンドラの箱の底には希望が残されていたのだから。


 騎士の前蹴りが水野を突き飛ばし、振りぬかれたひじが茂野の脳を揺さぶった。


 しかし、脱力する四肢に力を入れ、二人は再び立ち上がるとゆっくり騎士に歩み寄る。


 恐慌に駆られた騎士は二度、三度、と立ち上がる二人を追い払い続けた。だが、何度手を振り払われようと彼らの心が折れることはない。


 騎士の強がりに隠された本当の声を彼らは聞いてしまったのだから。


「シゲ! 水野!」


 ぐったりとした山際を両脇から支え、日村と高井が室内に飛び込んできた。騎士の姿を見るとすぐさま日村は山際を投げ出して即座にライターに着火した。


 急に重くなった山際を支えきれず高井が尻餅をつく。


「うわっ、日村さん、山際さんは?」

「そこら辺に転がしとけ! 二人とも、今助けるぞ」


 勢い込む日村を茂野と水野が「まっ」「待て」と、同時に制止した。


「物騒なものはしまえ。俺たちは、仲間だろ?」


 困惑する日村を尻目に水野と茂野は顔を見合わせ、ふっと笑った。


 直後、無言の合図で二人は何度目かの突撃を敢行する。


 茂野が騎士の足に絡んだ。その隙をついて水野がロッカーに向かう。


 騎士の心は半ば折れていた。何度追い払っても立ち上がる二人に加え、新手が二名も加勢してはもはや抗うすべもない。


 そしてとうとう捕らわれてしまった騎士は役目を果たせぬまま無力にも消え行く自分の不甲斐無さを呪った。同時に訪れる長い戦いの終わりに若干の安堵を覚えながら。


 水野は水溜りから一握りほどの水を集めてイメージした。


 圧力を加えた水は時に厚さ十ミリの鉄板すら容易に切り裂くことが出来る。人差し指と中指の先に集めた水は細い糸となって親指との間に直線を引いた。肉眼では視認しづらいが糸は二本の水流で出来ていた。一本は人差し指と中指の側から、もう一本は親指の側からそれぞれを高速で行き来し、触れたものをいとも簡単に切断する水の糸鋸を形成しているのだ。


 水野はその糸鋸をゆっくりロッカーの錠に近づけた。


「水切り」


 金属製の錠が豆腐のように手ごたえなく切断され、長らく閉ざされていた扉がゆっくりと開かれる。


 茂野は抵抗を止めた騎士から身を離すと水野と共に箱の中でうな垂れている少年を助け出した。


 生気のない少年の体は引かれるままにロッカーから転げ出ると、ぐったりと手足を投げ出す。


 日村はその少年の顔に見覚えがあった。


「……こいつ……五組の内藤……だよな? ……能力者だったのか」


 同意を求められた水野が首を振る。


「知らん」

「何でだよ。同じクラスだろ?」

「同じクラスでも知らんもんは知らん」


 呆れ顔の日村に水野はにべもなく答えた。だが、内藤の顔を見て「けど」と微笑むと、


「そうか、内藤って言うのか」


 と、つぶやいた。水野に名前を呼ばれて穏やかに眠る内藤の顔がかすかに微笑んだように茂野には見えた。


 「あっ」と、突然高井が声をあげ、皆は一斉に高井が指差す窓の外を見た。


 いつの間にか雨は上がっていた。天を覆っていた不細工な雲は徐々に細かく、散り散りになっていき、下手くそな手描きの太陽が現れたかと思うと、学校を包んでいた暗褐色の箱はゆっくりとその姿を消していく。


 内藤の傍でうな垂れていた騎士の体もうっすらと明滅し始め、やがて嘘のように霧散すると、警察やら消防やら救急車やら野次馬やらの喧騒が校外から響き始める。


 箱の外に見る本物の空は雲一つなく、蒼穹は無限に広がっていた。


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