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箱庭療法。
主に子供を対象として確立された精神療法の一種で、近年では成人に対しても有効な治療であると知られる優れた療法の一つである。方法は縦横五、六センチで縁取られた長方形の箱の底に砂を敷き詰め、その箱の中に患者の自由な世界を構築させると言うもの。その際、治療者は箱庭の構成についてなんら言及はせず、患者が作り出した箱庭の世界を見ることでその心理を読み解く。
箱庭とは、すなわち患者の内的世界を現しているのだ。
醜悪なモンスター。悪い魔法使い。囚われの姫。彼の内的世界は希望と救いを求めていた。
倒れても倒れても立ち上がり、共に戦ってくれる屈強な仲間たちと、決して敗れることのない無敵の英雄の姿を。
道を阻む醜悪なモンスターを蹴散らし、立ちはだかる魔法使いを圧倒して、華麗に姫を救い出す。信頼する仲間たちと勝利の喜びを分かち合い、絶望の世界に希望の光を灯す。
それが彼の求める救いのプロセスだった。
しかし、箱庭の世界は彼の思い通りには進まなかった。醜悪なモンスターは騎士の道を阻んだりはせずただただ怯えて逃げ惑った。魔法使いはしつこく何度も立ちはだかり騎士団の進軍を苛立つほどに妨げた。
結果、屈強な仲間達は英雄の到着を待てず全滅。ドラマチックな救いの物語など彼の箱庭では展開されなかった。
希望の光は、彼の世界を照らさない。内的世界にすら、彼は救いを見出すことが出来なかった。もはやこの世の何処にも、彼の居場所など存在しないのだ。
偶然と不幸が奇跡的なタイミングで重なり、悲劇は静かに幕を上げた。
その日の教室掃除は彼を含む十名ほどが当番を割り当てられていた。と言っても実際真面目に掃除をしている生徒はそのうちの二割程度しかおらず、当然作業は遅々として進まない。
倍以上の時間をかけてようやく掃除を終えた彼を含む二割の生徒たちは、ろくに掃除をしなかった怠惰な生徒たちに文句の一つも言わずそそくさと帰り支度を始めていたのだが、あろうことか怠惰な生徒たちがそれを許さなかった。
何故これほど時間がかかった? 何故もっと効率良く仕事が出来ない?
己の不労を棚に上げて、怠惰な生徒たちは理不尽な怒りを彼らに、正確には彼一人にぶつけてきた。無論それは本気の怒りなどではない。ただのちょっとした苛立ちをたまたま目の前にあったサンドバッグにぶつけているだけ。ただそれだけのことなのだ。
理不尽な怒りは瞬く間に彼を拘束し、あれよあれよという間に彼を冷たい暗褐色の掃除ロッカーの中へと閉じ込めた。
助けを呼ぼうとて無駄なことだ。彼以外の二割の生徒たちは怒りの矛先が自分ではないことに気づくと彼らの方には目もくれず各々教室を後にしていた。
もっとも、助けを求めたところでそれに答えてくれるかは怪しいものだが。
薄暗い箱の中、彼は自分を取り囲む下卑た笑いを思い出し、苦笑した。
五月半ば、金曜日の出来事だった。
「安西……井上……」
どれくらいの時間が経っただろうか。彼は薄闇の中で虚ろな意識を覚醒させた。
「上田……内山……」
活気付いている教室の喧騒。朝日と思われる光がロッカーの隙間から目に入り彼は顔をしかめた。
「川相……木下……」
やかましさのせいで聞き取りづらくはあるが、確かに成人男性が名前を読み上げている声が聞こえる。なるほどそうか、と彼は少しずつ状況を理解し始めた。
「今野……佐藤……」
おそらく今は月曜朝のホームルーム中。順番から考えて彼の名前が呼ばれるのはもう間もなくのはずだ。
「鈴木孝也……鈴木勇人……」
彼は能天気な現実逃避で状況を好機と捉えた。ただ助けを求めたのでは余計な勘繰りを入れられてしまうかもしれない。だが名前を呼ばれると同時に返事をしたらどうだろう。状況は一転、笑いへと変わる。皆を驚かせようと朝から掃除ロッカーに潜み、誤って出られなくなった間抜けな彼を、教室は笑いをもって迎えてくれることだろう。いじめや暴力などは存在せず、羞恥が彼の心を蝕んだりはしない。何故ならそれが彼の役割なのだから。笑われるのではなく笑いを取ることで彼はその場に存在することを許されているのだから。
彼は箱の中で今か今かとその期を待った。
「田代……田中……田辺……」
いよいよだ。ごくりと鳴らしたのどに痰が絡む。
軽く咳払いをして彼は大きな返事を返せるようにと息を吸い込んだ。そして――、
「ナカータ、ナカムーラ……マキ」
担任の片言が教室に響いた。
静寂が教室を包み、ややあって爆笑が巻き起こった。笑いの渦は一瞬で室内の音をかき消し、彼の小さいながらも精一杯の抵抗を無情にも実に簡単に無きものとしてしまう。
他意も悪意もない、それは偶然の出来事だった。自身のネタに集中していた担任は中田の前にぽっかりと空いていた空席を見て、深く考えず黙って出席簿に欠席と記した。そして不幸なことに、三日ほど何も口にしていなかった彼の体には喧騒を割ることが出来るだけの声を出す力など残ってはいなかった。
彼が救いを求めて伸ばした手は偶然の出来事と不幸な運のめぐり合わせにより誰の目にも映ることなく埋もれてしまったのだ。
口々に上がる笑い声が、まぶしい朝の日の輝きが、彼の存在をことごとく否定していた。
彼などいなくとも、彼の存在などなくとも、教室は変わらず笑顔であふれ、太陽は毎日彼以外の全てを照らし続けるのだ。
彼の居場所はここには無かった。彼という存在はこの世界には必要なかった。
彼は自嘲した。何をいまさらと口角を吊り上げた。
薄々感づいてはいたのだ。顔をあわせれば不機嫌そうな舌打ちを吐き捨てる母を見て、自分がいてもいなくても楽しそうに毎日を過ごしている同級生たちの笑い声を聞いて、勉強も運動も得意ではなく人より優れた才能など何も持たない自分が、この世界の無用者であるのだということに、気づかないはずがない。
彼の心に久しく忘れていた感情がわきあがる。それは怒りであり、悲しみであり、悔しさであり、そして恨みであった。彼は自らを嘲笑った。
なんと愚かなことだろう。希望を諦め、絶望を忘れ、それでも彼は生きようとしていたのだ。自分を拒絶するこの世界を、自分を必要としないこの世界を、彼は生きようとしていたのだ。この世界に自分の居場所など無いと、とうの昔に気づいていたのに、彼は――。
彼は目を閉じ、膝を抱え、空想した。彼が必要とされる世界を、彼の存在が許される世界を、彼の求める理想の世界を、彼は空想した。空想の世界になら自分の居場所があるのではないかと、空想の世界でなら自分は存在しても良いのではないかと、わずかな希望を胸に抱いて。
彼は世界の全てに絶望し、新たな世界を希望した。
いつの間にか頬を濡らしていた涙は、やはりいつの間にか乾いていた。