表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
灰色の羊  作者: 御目越太陽
第一章『水野洋介は水を操る』
3/38

1-2

 二週間前のその日、水野が通う中学校では身体測定が行われていた。


 クラス替えをしたばかりとはいえ、三年生ともなれば新しいクラスに知り合いが全く居ないという事態も起こりがたく、新学年が始まって一週間もたっていないというのに教室は和気藹々としていた。


 測定が終わった教室ではクラスメイトたちが、身長が伸びただの体重が減っただのといった当たり障りのない話で盛り上がっている。


 水野はその会話には参加せず、一人窓の外を眺めていた。


 外はどしゃ降りの雨。


 寝坊してあわてて家を出てきた水野は、朝の天気予報を確認しなかったことを後悔していた。学校で雨が弱まるのを待つか、誰かの傘を勝手に拝借するか、ずぶ濡れになって帰るか……。まだ午前中だというのに水野の頭は下校時の心配でいっぱいだった。


 教室ではクラスのお調子者が教壇の上に立って最近流行の若手芸人の物まねをしている。


 窓の外を見るのをやめて爆笑の渦に包まれている室内を冷めた目で見た水野は、黙って席を立ち、そのまま教室を出た。


 クラスメイトたちは誰一人として水野が教室を出たことに気づかなかった。いや、水野が教室にいたことすら気づかなかったかもしれない。


 水野はクラスで浮いていた。どの教室にも一人はいる、親しい友人は持たず、休み時間は便所にいるか自分の机に伏せて寝ているか、いじめを受けているわけでもなければ恐れられているわけでもない、いてもいなくても何の影響もない存在、それが水野だった。


 この手の人間は三種に大別することができる。自分に問題があるか、周りに問題があるか、その両方に問題があるかである。水野は自分に問題があるタイプだった。


 生まれ持っての人見知りに加えて根拠のない尊大さと人並み以上の自尊心を兼ね備えていた彼には、元々友人があまり多くは無かった。そのただでさえ乏しかった人間関係を修復困難なまでに破壊したのは思春期の少年少女たちが罹る流行病、俗に中二病と呼ばれるものだった。


 彼は周囲から浮き出してしまった自分を、自身が特別な存在であると勘違いすることにより肯定した。


 自分は人と馴れ合えないのではない、馴れ合わないのだ、自分は周りの奴らとは違い徒党を組まずとも生きていける特別な人間なのだと。


 実際のところ、彼は特別な存在でも何でもなかった。


 勉強ができるわけでもできないわけでもなく、運動が得意なわけでも苦手なわけでもない。何か人より秀でたものがあるわけでもなければ特別打ち込んでいるものもこれといってない、全く平凡な少年だった。


 そんなどこをとっても普通な彼にとって、人間関係が希薄であるということは数少ない彼だけの個性だったのかもしれない。彼は孤独なことに自身の特別性を見出し、群れている人々を見下すようになった。集団から浮き出すことが即ち悪だということは無いが、彼の場合孤立は得にも利にもなっておらず、加えて彼には周囲に溶け込む最低限度のコミュニケーション能力も欠如していたため、はっきり言って彼は一般的な意味とは違う方向で問題児だと言えた。


 自分自身の中に根拠のない特別性を見出すことは思春期の少年少女たちの間ではしばしば起こることだと思う。普通そういった勘違いは人との付き合いや衝突を通して見直されていくものだが、彼の周りには彼を諌めてくれるような存在がいなかったため、熱病は加速度的にその症状を重くしていった。


 結局誰かの傘を勝手に拝借することにした水野は、便所で用を足したあと、その足で下駄箱へと向かった。


 廊下は窓を激しく打ち付ける雨の音に満たされていた。その暴力的な雨音は廊下を歩く水野の足音をより一層小さくし、いつもはもっと聞こえているであろう各教室の喧騒を徹底的にかき消している。湿気を帯びた床の、歩くたびに上履きのゴムを吸いつけるようなべたついた感触は、彼をますます不快にさせた。


 雨のせいか真冬のように空気の冷たい廊下を水野はただ一人歩いた。


 不意に、どこかの教室で歓声が上がり、水野が反射的に声の方を振り返ると、彼の視界にはさっきまで自分が歩いてきた廊下が映った。


 暗くジメジメとした冷たい廊下。銃撃戦のような激しい雨音に支配されたその廊下には水野以外の何者も存在しなかった。歓声はすでに止み、雨音だけが響き渡る一種の静寂がそこには広がっている。


 水野は内ポケットに忍ばせた音楽プレイヤーの電源を入れ、イヤホンで周囲の音を遮断した。


 一体どのクラスからの歓声だったのか、何故教室は沸いたのか、何も確かめず彼はその場を後にした。




 下駄箱につくと水野は早速目当ての傘を探した。


 盗まれる側の心情も考えて、なるべくぼろく安っぽく無個性なものが望ましい。そのほうが後日返却するときにも都合がいいだろう。


 彼は己の悪事が発覚するのを警戒して自分の下駄箱から一番遠い一年生の傘立てからそれらしいビニール傘を物色し始めた。


 ――そして数分後、水野は中々お目当ての獲物を見つけることができないでいた。


 ビニール傘自体は何本か在ったのだが、おそらく女子が使用しているものなのだろう、どれも柄の部分がハート型のシールや蛍光ペンできらびやかに装飾されていて無個性とは程遠い代物だった。


 それに加えて傘の量が全体的に少なかったことも彼の選定を難しくしていた。彼は知らなかったが、その日の雨は突発的なもので、彼以外の大半の生徒も彼と同じく傘を持たずに登校してきていたことがその原因だった。


 水野は傘立てに腰掛けて溜息をついた。


 昇降口から見える外の景色は相変わらずの豪雨である。傘を拝借する手は取れそうにない。残るは学校で待機か濡れて帰るか。学校で待ったところでこの雨が弱まるという保証はない。かといってこの時期雨に打たれて帰るのは避けたいところだ。下手をすれば風邪を引くし、よしんば引かなかったとしても生乾きの制服で次の一日を過ごす破目になるのはごめんだ。


 なすすべも無く、水野は雨を眺めた。雨は弱まる気配無く、ただ降り続いている。


 水野は雨が嫌いだった。夏のじめっとしたぬるい雨も、冬の凍てつくような冷たい雨も、五月雨も秋雨も水野は大嫌いだった。雨の日の人口密度の高い休み時間の教室は彼をイラつかせた。傘を差しても防ぐことができない強い風雨は、彼がずっと忘れたかった嫌な記憶を無理やりに呼び起こした。


 何より、自分の意思が介在できない圧倒的な自然の力は、自身の存在をひどくちっぽけなものに感じさせるのだった。


 そんな水野の気持ちなど関係なく、ただ雨は降り続けた。間断なく降り続ける雨粒が、まるで格子のように水野には見えた。彼を雨から守るこの校舎は柵。そして柵の中で群がる彼らは羊。無断で外に出る権利など、当然ありはしないのだ。


(とっとと止めよ面倒くせぇ)


 水野は心の中で不満を漏らした。誰に宛てたものでもない。苛立つ気持ちを心の中でつぶやいてみた、ただそれだけのことだった。


 だが、その何気ない気持ちが、奇跡を起こした。


 もし信仰に篤いものがそれを見たら、神の仕業だと思うかもしれない。もしそれを目撃したのが無神論者だったら自身の主張を覆してしまう要因ともなるだろうか。それほどまでに異常で不自然な現象が、彼の目の前では起こった。


 ――雨が止んだ。


 先ほどまで降り続いていた雨は彼の心中でのつぶやきと同時に、その視界から忽然とその姿を消したのだ。


 水野は思わず立ち上がって外を眺めた。止んだと言う表現は適切ではない。正確には、雨は今も彼のいる校舎に、校舎が存在する町全体に降り続けている。ただ、彼の視界の中でのみその存在を消してしまったのだ。遠くの方でかすかに雨音がするが彼の目の前の空間は嘘のように静かだった。


「……え?」


 一拍置いて、雨はまた降り注いだ。一瞬だけ激しく地面を叩くと、さっきまでの勢いに戻ってまた何事も無かったかのようにもとの調子で降り続ける。


 水野は混乱でしばし茫然とした。自分の目に映った不思議な現象に脳の状況判断が追いつかない。


 水野は周囲を見渡した。彼以外に今の光景を目の当たりにした者はいないようだ。


 水野は混乱した頭で慌てて昇降口を出ると、手に雨を受けてみた。何の変哲もない普通の雨である。雨雲を見上げてみても変わったところは見当たらない。水野の頭はいまだ混乱していた。


 今、何が起きたのだろうか。かなり長い時間、雨がやんでいなかったか。風の影響か何かでここだけ雨が届かなかったのか。そんな感じではなかった。まるで自分の願いが聞き入れられたかのように、雨は降るのをやめていなかったか。偶然だろうか。まさか自分がやったのか。そんな魔法みたいなことが……。


 馬鹿な考えだとは思いつつも、水野はもう一度念じてみることにした。どうせ周りには誰もいないのだからかく恥もない。


 目を瞑って精神を集中させると、先ほどより強く、水野は念じた。


(とっとと、止めっ!)


 念じると同時に、水野の体を打ちつけていた雨の感触が無くなった。汗なのか雨なのか分からない生温かい水滴が閉じた目蓋の上を滑り、息と唾液を飲み下した水野の急速に鼓動が速くなる。


 水野がゆっくりと目を開くとそこにはさっきと同じ光景が広がっていた。


 遠くでかすかに聞こえる雨音。雨は確実に降っているはずなのだが水野の視界には映っていない。


 水野は震えながら空を見上げた。


 そこには大量の雨粒があった。雨は止んでいたのではない。水野の上空五メートルほどのところで停止していたのだ。


 空中に縫い付けられた雨粒は陽光も無いのにきらきらと輝いていた。雨上がりの蜘蛛の巣のような、不気味だがどこか幻想的なその光景に、水野の頭はフリーズを起こした。


 降り注ぐ水滴は水野の頭上でその動きを止めるとすぐさま球体を形作った。その直径数ミリメートルの球体は徐々に数を増していき、水野の視界をあっという間に埋め尽くす。


 頭上に展開した球体はやがて少しずつ結合を始めた。BB弾ほどの大きさがパチンコ玉の大きさになり、それ同士が結合しあってピンポン玉、野球のボールと段々その大きさを増していき、気がつくとそこには直径一メートルほどの水の塊が出来上がっていた。


 水野はその不思議な光景にしばし心を奪われていたが、眼前に浮かぶ巨大な水球の威圧感で、はっと我に返った。心なしか最初のときよりずいぶん長く彼の周りで雨が止んでいる気がする。水野がそれに気づいたとき、雨は再び落下を始めた。


 空中で停止していた水球は、突如雨粒と共に水野のもとに落ちてきた。


「うわっ」


 咄嗟に手で顔をかばう水野に水球は直撃した。


 水球は水野にぶつかり、ちょっとした洪水を起こしながら地面に広がっていく。遠雷の様な派手な音が辺りに響いた後、やがて雨はまた最初の勢いに戻って降り始めた。


 荒く息をつく水野がおそるおそる目を開けると、そこにあるのは何の変哲も無い世界だった。容赦なく地面を叩きつける雨。遠くで響く雷の音。灰色の雲が頭上を埋め尽くし、その中に水野がただ一人ぽつんと立ち尽くしているのみ。


 白昼夢でも見ていたのだろうかと、水野は自分の手に視線を落とし、異変に気づいた。


「……濡れて、ない……?」


 水野の手は彼の見ている目の前で、落下する雨水を弾いて見せた。


 手だけではない。水野は自分の体に触れてみた。不思議なことに彼の制服は濡れていなかった。今も目の前で雨は降り続いているというのに彼の制服にはどこにも雨を受けた形跡が無かった。水野の体は降りしきる雨水をことごとく弾いていた。彼の体は、まるで見えない壁に守られてでもいるかのように雨の攻撃を撥ね退けていたのだ。


 水野は興奮に震える手のひらを天に向け、念じた。


 雨粒は彼の手の上に集まり、先ほどと同じく球体を形成していく。水野は水球が徐々に大きくなっていく様を見ながら自身の鼓動が徐々に高鳴っていく音を聞いた。


 バレーボール大にまで成長した水の球体は、水野が力強く拳を握り締めると水風船のように弾け、水は周囲に飛び散った。弾ける水は派手に四散するが、決して彼の体に触れようとはしなかった。


 水野は駆け出した。無意識に足が前へと進み、地面を蹴って彼の体を宙に浮かした。


 水野の見てきた一連の光景は夢などではなかった。現実の物理法則からは著しく逸脱した現象が水野の目の前では巻き起こっていたのである。彼の意志は、願いは、圧倒的な自然の力をいとも容易くねじ伏せたのである。


 水野は駆け出した。上履きのまま、教室に荷物を置いたまま、拳を握り締めて水野は駆け出した。


 車道には何台も自動車が走っている。だが水野の心はそんな自動車よりも速く歩道を駆け抜けていた。


 大雨で氾濫気味のくすんだドブ川も、舗装中で足場の悪い歩道も、そこかしこにそびえる信号も電柱も街路樹も、何ものにも彼を止めることはできなかった。ドブ川を飛び越え、舗装中の歩道の砂利を蹴飛ばし、赤信号を無視して水野は走り続けた。


 草花が激しい雨に打たれて頭を垂れている。まるで主を迎える従者のように。水野はひれ伏す群衆を両脇に従え、高らかに凱旋した。


「はっ、ははっ、はははは、あははははは」


 全力で走りながら、水野は笑っていた。無邪気に笑う彼の姿は、教室ではしゃぐクラスメイトたちと何も変わらない、特別なところなど何もない、ただの少年そのものだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ