幕間 進化とフラストレーションその二
「先生、どうかなさったんですか?」
青年は狭い研究室の執務机に身を沈めている恩師に声をかけた。
先生と呼ばれた老人は目だけ青年の方へ向けて「何が?」と聞き返す。青年でなくとも一目見れば明らかに様子のおかしいことは分かるだろう。老人にはやはり覇気が無かった。
「らしくないですよ、そんな風に落ち込むのは。注目されないなんていつものことじゃないですか。きちんとデータをまとめて地道に売り込んでいけばどこかの企業が」
「友永君」
突然言葉を遮られ青年は口をつぐんだ。
「例の投薬実験、君はどうだった?」
「へ? えっと、たしか陰性でした……けど」
「私もだよ。私も陰性だった」
そう言ったきり、老人はまた黙りこくってしまった。
青年には老人の消沈する原因に見当がついた。思えばこの研究が佳境に入ったころ、投薬による臨床試験が始まったあたりから老人は徐々に生気を失っていった気がする。実験については充分な成果を見ることができたと言うのに。
「先生、仕方ありませんよ。僕も先生もとっくの昔に成人してるんですから。マウスによる実験でも第二次性徴が終わる前までが望ましいと出てた訳だし、この結果もいい論証に」
「友永君」
青年は再び言葉を止めた。気付けばいつの間にか老人の覇気の無い目が青年を見つめていた。
「何故第二次性徴前までが望ましいか分かるかね?」
「えっと……それは」
青年は慌てて手に持っていた論文を繰り始めた。
老人は青年の答えを待たず言葉を継いだ。
「第二次性徴が終わる前、それは人間の一生において最もフラストレーションが高まる時期だからだよ。大人と子供、そのちょうど間に位置する不安定な精神が現実と理想の板ばさみに遭い、それを乗り越えるため自らの心に急激な成長と過剰な進化を促すのだ。だからこそ生命の、人間の進化はその時期をどう過ごしたかに強く影響する。……私は論文の中でそう結論付けた。不本意ながらね」
「なるほど…………不本意ながら、ですか?」
「不本意だよ。そんなものは論文を綺麗に飾るための言葉でしかない。私はそんな結論を出すためにこの研究を始めたのではないのだ」
「……では、何故?」
青年の問いに老人は沈黙した。ややあって、青年の手から論文を引ったくると老人はそれに一瞥もくれずゴミ箱に放り投げた。
「私は、大人になどなりたくなかった。大人になるということは欲求をあきらめ現実を受け入れると言うこと。そんな考え方が、生き方が、無限に広がる進化の可能性を摘んでしまうのだ。欲求のない人間に進化などない。大人になると言うことは進化を放棄することに等しいのだ。故に私はいつまでも子供のままでいようとした。どれだけ歳を重ねようと、誰に後ろ指を指され、笑われようとも、バカな夢を見続ける子供の心を忘れなかった。そのように生きてきた。……だと言うのに」
老人は盛大な溜め息をついて天井を仰いだ。心底疲れている、もう何もしたくない、そんな表情だった。
「私は自分の研究で気付いてしまったのだ。いや、気づかされたと言うべきか。あの薬が完成し、私のフラストレーションは解消され、同時に私は大人になってしまった。自分がどうしようもなく大人であると知ってしまった。自身の研究があれだけ忌み嫌っていた大人になることへの後押しをしていたのだ。こんな皮肉はないだろう?」
「はぁ」
青年がどう返答していいか言葉に詰まっていると、突然机上の電話が鳴った。
老人は受話器を取り、二、三言葉を交わすと首をかしげて青年にテレビをつけるよう指示した。青年が言われたとおり書物の下に埋もれていたテレビの電源を入れると、画面には不可思議な光景が映し出された。
番組は報道特番のようだった。リポーターがカメラに向かって何やら怒鳴っており、その指差す方向にカメラがズームすると、巨大な、四角い、暗褐色の箱が画面を独占した。
箱の周囲には救急や消防、パトカーや報道車両、
それに平日の地方都市とは思えないほどの人、人、人。
制止する警官を押しのけながら何事か叫んでいる主婦や箱に向かってコンクリートブロックを投げつける若者、人ごみから一歩離れた位置でひざまずき、涙ながらに祈りを捧げる老婆の姿など、一目で分かる異常事態がその四角い液晶には映し出されていた。
「何なんですかね……これ……?」
青年はかたわらで食い入るように画面を見る恩師に尋ねた。
暗く沈んでいたその目が映し出された箱を認めると、老人は実に久しぶりに心の底からの無邪気な笑みを浮かべた。