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四月。春雨がアスファルトを濡らし、まだ夏を感じさせない冷たい風が桜の花を散らせている朝。
通勤中のサラリーマンや登校中の小中学生が忙しなく往来を行き来している。
春という季節がそうさせるのだろう。雨だというのにどの顔も心なしかハツラツとしていて、憂鬱さなど微塵も感じ取ることができない。彼らの目には雨など映っていなかった。映っているのは新しい環境への期待と明るい未来への希望。
そこにいる全ての人間は知らず知らずのうちに春の攻撃を受けていた。春はあらゆる生命をハイにさせるのだ。
水野洋介も他と違わず機嫌が良かったが、彼の場合それは春のせいだけではなかった。
それは耳につけたイヤホンから流れる軽快な音楽のせいでも、前を歩く女子中学生たちの健康的でしなやかなふくらはぎのせいでも、時折鼻腔をくすぐる年齢にそぐわないしゃれた香水の香りのせいでもなかった。
シトシトと路面を濡らす雨。
水野は雨雲に覆われた空を見上げると口元に微笑を浮かべ、傘を持ってない左手の指で自分の傘を内側から軽く弾いた。傘の上を滑っていた水は宙を舞い、小さな塊となって地面に落ちていく。水滴は路面に弾け、流れる水の中に消えていった。その様子を見つめていた水野は満足そうな笑みを浮かべてまた空を見上げる。
水野の機嫌を良くしていた最も大きな要因はこの雨だった。
水野は二週間も前からずっとこの雨を待ちわびていた。自分が他者とは違う特別な存在であると実感できるこの雨を。自分以外のすべての人間を見下し、この上ない優越感に浸ることができるこの雨を。二週間前までは自分も他者と同じように、ただ鬱陶しく思っていただけであったこの雨を、水野は待ちわびていたのだ。
水野は前を歩く少女たちに視線を移した。
車道側を歩く少女は健康的な肌の色をした活発そうな女の子だった。傘を肩にあずけているため、傘をつたった雨だれが彼女も気づかぬうちに彼女の鞄に滴っていた。
その隣を歩く少女は整った顔立ちをしたセミロングの女の子だった。こちらの少女は傘を空に対して垂直に持っているため、歩くたびに傘から落ちる水滴が彼女の靴や腰の辺りに跳ねていた。
何のことはない普通の光景である。人は例え傘を差したところで雨を完全に防ぐことはできない。合羽を身にまとい、長靴を履き、その上に傘を持って挑んでもそれを脱ぐ時どこかしらに水滴を被ってしまう。一〇〇%完璧に雨を防いでその下を歩くことなど、人間にはできないのだ。人間と自然とは太古からそのような関係性のもとに出来ているのだ。何か特別な方法でも取らない限りは。
ふいに自動車が制限速度オーバー気味な速度で車道を通過した。車は車道の水溜りを荒々しく踏みつけしぶきを巻き上げると、巻き上げられた水しぶきは歩道を歩く水野たちに飛散する。
「あっ」
しぶきをもろに受けた車道側の少女は突然の出来事に短く悲鳴を漏らした。驚いたセミロングの少女が心配そうに声をかける。
「だ、大丈夫?」
状況を理解した車道側の少女が嘆息した。
「う~わ最悪。あり得ないんだけど」
セミロングの少女が差し出すタオルを受け取り、直撃を受けた鞄と下半身を拭う車道側の少女。
「ちょっと~何これ? 携帯やばくない?」
「大丈夫? ちょっとあたしに掛けてみ」
そんなやり取りを尻目に二人の横を水野は通り過ぎる。彼も爆心地にいたはずなのだが、不思議なことに彼の衣服にはその痕跡がまるで見られなかった。
衣服だけではない。靴にも背負っている鞄にも雨水を受けた様子は見られない。水野の体は、彼が手に持つ傘を除けば晴天の日のそれと何も変わらない、その場においては極めて不自然な状態だった。
水野はこみ上げてくる笑いを隠すため、左手で口元を覆った。
周りにいる者は誰も気づかなかったが、しぶきが飛んできたまさにその時、水野の周囲では不思議な現象が起こっていた。巻き上げられた水しぶきも、天から降り注ぐ雨粒も、傘をつたって落ちてくる水滴も、彼の体に触れようとした瞬間滑るようにその軌道を変えて、あるいは彼の足元に、あるいは彼の体を横滑りして地面や周りの人間に降り注いでいたのだ。まるで全身に防水加工でも施しているかのように、まるで彼の周囲にのみ目には見えない透明の膜でも張ってあるかのように、雨は彼の体を避けて通った。
水野は行き交う人々を見てほくそ笑んだ。傘を差して雨をしのぐその姿は水野にたまらない優越感をもたらした。
(無駄だ。傘など差しても。お前たちにはこの雨を防ぐことなど出来はしないんだ)
水野はこの世でおそらく自分にしか得る事ができないであろう優越感に胸を満たし、自分を特別な存在たらしめてくれる雨に感謝した。
水を操る能力。水野洋介はちょうど二週間前の雨の日に、自身の中にあるこの特別な力の存在を知った。
全四章構成。起承転結で言うなら承のあたりです。
続きも早めに推敲して上げたいと思います。