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気がつけば、すでに五月に入っていた。
桜の花はすっかり散り落ち、薄着で過ごしても汗ばむ陽気が早くも夏の兆しを感じさせる。
三田敗れるの報は瞬く間に能力者たちの間に広まった。
三田に苦汁をなめさせられたもの、ひそかに三田の首を狙っていたもの、あらゆる能力者たちの注目が〈水の曲芸〉の水野洋介に集まり、水野は一躍時の人となった。
無論、能力者たちの間でのみだが。
一方、水野に敗北して以来、三田龍平は学校に顔を出さなくなった。
噂によると「山に篭る」との書置きを残して入院先の病院を抜け出し、そのまま行方をくらませているらしい。捜索願が出されていないことから、保護者の了承は得ているようである。
何にせよ一番のトラブルメーカーだった三田が居なくなったことにより、非好戦的な能力者たちの間には一時の平穏が訪れていた。一部能力者同士でのいさかいが耐えることは無かったが、それでも三田がいたころに比べれば幾分穏やかな衝突と言えた。
そして日村たちはといえば、相変わらず能力者たちの情報を集めることとそのいさかいの仲立ちに奔走していた。
昼休みの第二音楽室。
ここ数日で調べ上げた能力者の詳細が記されているノートを片手に、日村は腕を組んだ。
紙面には各能力者の学年、組、名前と能力の概要、性格、交友関係などが柔らかな字体で記載されており、名前の横には二頭身にデフォルメされた各能力者のイラストがコミカルなタッチで描かれている。その手作りの履歴書を思わせる構成が書き手の几帳面さを如実に物語っていた。
日村は手にしていたノートを茂野に渡し、尋ねた。
「……シゲ、この前駅で見つけたって言うのは」
日村の意図をくみ取って茂野が首を振る。
「……そうか」
先日駅前で茂野が心を読んだ能力者はその中にはいなかった。
心を読んだだけで恐怖を感じさせるような強力な能力者が、もし突然攻撃を仕掛けてきたら、自分の力では仲間を守ることができないかもしれない。日村は一刻も早くその能力者の特定と能力の対策を立てなければならないと考えていた。
そしてそのためには茂野の協力が不可欠なのである。
「なあシゲ、お前あの時……何を読んだんだ?」
日村に問われて茂野はうつむいた。
よほど恐ろしかったのか、茂野はあの日のことをあまり語りたがらなかった。あの日から数日は能力を使うことすら嫌がっていた。
ようやく立ち直ってきた茂野にそんな辛いことを思い出させるのは日村としても気が引けたが、現状例の能力者の手がかりを持っているのは茂野だけである。
ダメ元で日村は茂野の返事を待った。
長い間を空けて、茂野は堅く閉じていた口を開いた。
「……は、箱を……み、み、見た」
「箱?」
茂野のか細い声を聞き逃すまいと日村が身を乗り出した。
ただでさえ小さい茂野の体は声を発するごとにさらに小さく、消え入ってしまいそうなほどに萎縮していく。それでも茂野は声を絞り出し続けた。
「……さ、〈悟り〉で、心……よ、よ、読んでたら、……変な、く、黒っぽい箱が、み、み、見えたんだ。……な、なん、何だろうと、思って、そ、それ、見てたら……こ、こ、声が」
茂野の頭にあの日聞いた声が蘇った。
それは怒声であり罵声だった。それは嘲笑であり冷笑だった。大人も子供も、男も女も、あらゆる人々が彼を呪い、その存在を否定する声だった。
茂野は震える左手を震える右手で押さえつけた。いまだかつて感じたことのない強烈な悪意を、あの日茂野は味わったのだ。
「分かった、もういいシゲ。悪かったな」
日村は、すっかり顔色を悪くして怯えきった様子の茂野の肩に手を置いた。小刻みに震える小さな肩が彼の不安を日村にも伝える。
「……箱か」
日村はようやく掴んだ能力者の手がかりを口にした。
一体どのような能力なのかは分からないが、その能力者の尻尾の先くらいには触れることができたのだ。その能力者の正体を掴む時が来るのも時間の問題のはずだ。
「……大丈夫だ」
日村が不安を打ち消すようにつぶやくと、
「おーっす」
と、能天気な挨拶とともに山際が、その後に続いて水野がそろって音楽室に入ってきた。
「どうしたお前ら? 顔色悪いぞ」
「そうか?」
山際に言われて初めて日村は自分が動揺していることに気づいた。
動揺を悟られまいと内ポケットをまさぐり、一本吸って落ち着こうとタバコに手が触れたとき、自分が今学校にいるのだということを思い出して日村は苦笑した。
「どうした?」
「何でもないよ」
立ち上がって背を向けると日村は大きく伸びをした。滞っていた血流が全身を巡るまでの時間が、日村の心を静めていく。
「何だこれ?」
日村の様子を気にも留めず、水野は机に置かれたノートを手に取った。
「高井がまとめてるノートだよ。お前のこともちゃんと書いてあるぞ。一組根津山際、二組に伊藤三田、三組鷹原土屋と、四組風間、五組水野、そして六組は俺とシゲ。ちなみに三年の能力者は大体四つのグループに分かれていて」
「と言うか三年ばっかりだなこれ。……それに、高井ってやつのが無い」
「どれどれ? ……ホントだ。まあ書いてる本人だし必要ねぇんじゃねぇの? て言うか」
水野に言われて横から覗き込んだ山際は、丸っこい文字で統一された紙面を見てポツリとつぶやいた。
「……なんか、女みてぇな字だなあいつ」
そう言われて日村は改めてノートを見てみた。
山際のいう通り、その字体や文章からは良く見知った快活な少年の姿は想像できない。イラストの絵柄や文字の書き方、使用しているペンの豊富さなどからは、日村にとってあまり馴染みが無い少女の可愛らしさが、そこはかとなく醸し出されていた。