第二説 狐ノ嫁入リ
『狐の嫁入り』という言葉を知っているだろうか。これは太陽が顔を覗かせているのに、少量の雨が降る天候のことを示す。そしてその晩には、幾多の狐が行列となって森を徘徊し、その行列の中心には、美しき純白の嫁入り衣装を身に纏いし雌狐が人間の如く二足歩行で歩くとされている。それは、森に住む狐の妖怪たちの列記とした儀式なのだが、ただの人間にはそれぞれの狐たちは青く不気味に森を照らす炎に見え、その花嫁は美しいおなごに見えてしまう。
その日の午後は、太陽が照りつき、雨が小降りの天気であった。兄がいつもと変わらぬ表情で空を見上げる。目を細め、森に落ちる水たちの音をただジッと聞いているように見えた。
今夜、狐の嫁入りという儀式が行われる。いや、ここ最近その儀式は頻繁に行われていた。不思議に思った兄は、その儀式が行われる東の森まで身を出し、耳と尾を隠して一番近くの大きな村、バンラク村の異変を探った。バンラク村は非常に活気に満ちた村だと噂されていたが、そのときの人々には活気など微塵も感じず、中には一日中泣き喚く人までいたという。兄は泣き喚く人を落ち着かせ、訳を聞いてきた。なんとその人は、村の長を務めている男だった。
「この村の近くに、大きな森があることをご存知でしょうか。あの森には、昔から神の使いであると言い伝えられてきた狐たちが住んでおります。私らは少しの森の恵みと少しのご恩返しを繰り返し、生きてまいりました・・・・・・。しかしここ最近、狐の群れを束ねていた大狐様の様子がおかしいのです。多くの狐たちが村へ降りてきては、作物を奪い去っていき、最近では多くの村人たちがさらわれて行きました」
「村人・・・・・・を・・・・・・?」
「はい・・・・・・」
村長は俯きながら身体を奮わせ、唇を強く噛んでいた。
「中には男もおりましたが、その多くはまだ若きおなごたちでした。村人たちは狐が降りてくるたびに震え上がり、家の中に閉じこもっております。そしてある日、大狐様と名乗る男が、私の元へやってきて言いました」
『この村の長よ、わらわは森を守りし大狐でありまつる。わらわ狐たちは、お主ら人間に多くの恵みを与えてまいった。今度はお主らがわらわ狐たちに力を与える番である』
「その言葉の意味がわからず、唖然としていた私に、その男は人とは思えぬ恐ろしい笑みを見せました。そして、私のたった一人の大事な娘へと目を向け、長い腕を伸ばし、娘の腕を掴みました。最初から、狙いは私の娘だったのです。もちろん、娘も必死に抵抗しました。しかし、娘の力ではとても・・・・・・」
ぐったりとうな垂れる村長を兄はどんな表情で見ていたのだろうか。僕がそんなことを考えながら兄の顔を見ていると、兄は悲しそうな顔をしていた。
「狐たちは何の疑いもなかったのだろうね」
不意に発せられた言葉の意味がわからず、僕が首を傾げると、兄はそんな僕の頭に自らの手を乗せて撫でる。その手は死人のように冷たかった。
その晩、東の森ではやはり狐の行列が静かに徘徊していた。僕は兄とともにその様子を見ていたが、明らかに普通とは様子が違うことに気がつく。並ぶ狐たちの目は異様にギラつき落ち着きがなく、中には牙を剥き出しの状態で歩くものもいた。そしてその花嫁は、白い布で目と口を隠され、両腕には棘のあるツルが繋がれており、歩くたびに苦痛が伴うのか、その足取りはとても覚束無い様子だった。純白の衣装は自ら流れた血で所々真っ赤に染まり、時折小さな奇声を上げている。そしてその花嫁は、二十歳にもならぬ若き人間のおなごであった。
「何故人間のおなごが花嫁に・・・・・・」
自然では絶対にありえぬ光景に僕は息を呑む。兄は黙っていた。
すると不意に、花嫁の足が縺れ、そのまま地面に転んだ。花嫁は擦れる棘に悲鳴を上げ、その場にうずくまる。泣いているのか、目に被さる白い布がグッショリと濡れていた。なかなか立ち上がらない花嫁に、そのツルを引いていた狐の妖怪が赤い瞳で花嫁をチラリと見ると、そのツルを物凄い力で引っ張り出す。すると花嫁の身体は倒れたまま、地面に引きずられ、行列はそのまま進んでいく。花嫁の腕からは絶え間ない血、そしてその激痛に悲鳴を上げ続ける。それでも行列は進んでいった。
「その娘を嫁に貰おうなどと考える愚か者の名を言え」
リンとした声が、その行列を止めた。ギラつく赤い目が、一斉に兄へと向けられる。ツルを引いていた狐は首を傾げた。
「人間の小僧が我らへ抵抗をする気か?」
「狐如きがずいぶん偉そうな口を利くようになったものだ」
完全に人間の姿を借りている兄を、まるで餌を見るような目で眺めている。周りの狐たちも絶え間なく涎を垂らし、今にも飛び掛ってきそうだった。
「残念だが、お前はここで死ぬ。そしてこの巫女は、我ら大狐様の嫁となり、そして雌狐へと生まれ変わるのだ」
「雌狐に生まれ変わるだと?」
どういう意味だ、と聞く前に避けた口で答えが続けられた。
「人間を食えば我々は人間の力を手に入れることが出来る。この巫女を大狐様の選んだ雌狐に食わせれば、この巫女の力を手に入れることが出来る」
「・・・・・・・・・」
兄は呆れた様子で右腰に差した銀桜丸に手を伸ばす。その瞬間、先ほどまで言葉を発していた狐は敵意むき出しの獣へと変わり、兄に向けて爪を立てた。しかし、それはヒュッという音とともに空を切り、その狐は容赦無く振り下ろされた兄の刀によって一瞬で絶命した。血飛沫が嫌な音を立てて舞い、それが合図かのように、幾十もの狐たちが兄へと一斉に襲い掛かってきた。僕はその光景に身体が竦み、草陰で震えていた。
一匹、また一匹と、兄は息を切らすこともなく、冷たい表情で襲い掛かってくる狐たちを殺していく。そのたびに狐たちの悲鳴が森に響き、僕の心臓は早く波打つようになっていった。見ている内に、僕の身体はどんどん熱くなっていく。血の匂いが鼻を掠めるたびに、不思議な感情に支配されていくようであった。今までに感じたことのない、唇を噛締めたくなるような感情。
圧倒的な兄の力に成す術なく、勝ち目がないと感じたものは、森の奥へと逃げていった。襲ってくるものがいなくなり、兄は娘の腕に巻かれた痛々しいツルを丁寧に剥がし、塞がれた目と口の布を取ってやった。そして血だらけのその腕に、傍に生えていた柔らかい草を巻きつけ、血を止める。
「痛かったろうね、もう大丈夫だから」
兄がそう言って微笑むと、娘も涙を拭って少し笑った。そしてフラフラと立ち上がると、兄と僕に向けて両の手を合わせ、丁寧にお辞儀をした。
「ありがとうございます・・・・・・。私は東の巫女、カミコシの神から力を授かったものでございます」
「そう、だから真っ先に狙われたのだね」
兄の言葉に娘は悲しそうな顔で小さく頷いた。
「はい、私は巫女でありますが、未だ修行中の身。狐の妖怪を追い返す力はありましたが、大狐と名乗るものを追い返すほど、強い力を持っておりません。だから・・・・・・」
娘はチラリと、僕を見る。それはまるで僕の容姿すべてを確認しているかのようであった。
「サクライヌ様、モミジイヌ様、どうか私の大切な村を、森を救ってください・・・・・・。このままでは森も村も、みな、私の大好きなものみな死んでしまいます・・・・・・」
悔しそうな顔でそう言うと、すっとその膝を地面につき、娘は深々と頭を下げた。
「勝手なお願いだということは重々承知しております!カミコシの狛犬様の力を借りるようなお願いではないかもしれません!ですが今の私ではどうすることもできないのです!何も守れないのです!これ以上、人や物の怪が死んでいく様を見たくは無いのです!」
地面に頭をつけるくらい、娘は必死だった。自分の不甲斐なさが悔しくて、それでもどうしようもないと、娘は繰り返し言い放つ。兄はそんな娘に困った表情をすると、膝を折ってしゃがみ、顔を上げない娘の頭に右手を乗せる。そして優しく撫でてやった。
「お前、名をなんという?」
「・・・・・・カナメ・・・と申します・・・・・・」
「カナメ、お前は村へ戻って父を安心させておやりなさい。あとは我に」
兄はそう言ってカナメの頭から手を離すと、木陰に隠れていた僕の元に歩いてくる。そして呟くように「行くよ」と言うと、森の奥へ歩を進めていく。その後ろからカナメの声が追いかけてきた。
「私は不思議に思いました!何故!祈りの精霊、サクライヌ様が償いの力までもその腕に宿しておられるのか!サクライヌ様!」
その言葉は僕の胸を刃物で刺すような痛みを与えた。兄はいつもの表情で僕を見て、止まった足を進ませるように僕の手を握る。そして少しの力で引いてくれた。その質問に答えることはなかった。
東の森の奥の奥、狐の行列が向かうはずだったそこには、黒い緑の葉をつけた天まであるのではないかと思わせるほどの巨大な神木とその前に立つ人の形をした獣だった。
「お待ちしておりました、狛犬様」
獣は近づいてきた僕らをまるで出迎えるように、気味の悪い笑みを浮かべた。手招きをするように爪の長い手を揺らしながら、僕らの方へ、いや、僕の方は近づいてくる。
「おやおや、なんて幼き精霊でありましょう。印もまだ薄く、力も不安定・・・・・・いや、まだ目覚めてさえないのか・・・・・・」
僕の顔にその手を伸ばしてきた。僕が思わず目を瞑ると、すぐ近くで鈍い音が響く。そして目の前で風が起こり、数秒後にまた何かが地面にぶつかるような音が聞こえてきた。目を開けると、兄が冷めた表情で獣を殴り飛ばしたことを知る。
「汚い手で触るな、下衆が」
倒れた獣からは苦痛の声が上がらず、その代わりその大きな口を裂けるくらい広げ、つり上がった目を更に細め、甲高い声で笑った。悲鳴にも似たその笑い声は遠くの木々まで響くようだった。その瞬間、兄は僕の隣から消え、右手に銀桜丸を構えて容赦なく獣に切りかかった。獣はすぐさま身体を起こし、それをかわす。銀桜丸は空を切り、獣は後ろへよろけた。その動きで舞い上がった地の葉たちが再び地面に敷き詰める前に、兄は身体を回すように獣の腹へ蹴りを入れる。獣は唾を飛ばし、突然の痛みに目を見開きながら、後方へ吹き飛んだ。
「ぐっ!」
神木へと叩きつけられ声を漏らす。そこへまた一発、兄は膝を同じ場所に入れた。
「うっぐぁ!」
鈍い音と獣の声。獣が地面に落ちる前に、兄は後ろへ下がった。
「ひ、ひひひひひひひ・・・・・・」
それでもまた。
「ひひひひひひひひひひひひ・・・・・・」
獣は笑う。
「ひぃひっひっひっあはははははははは!!!」
口の裂けた顔を僕に向ける。涎を垂らし、先ほど襲ってきた狐たちと同じ表情で僕を見る。
「素晴らしい、素晴らしいよぉ、なんて素晴らしい力なんだぁ」
そういい終わるか否か、獣は僕へまっすぐと手を伸ばしてきた。僕には蛇のような手が伸びてきて体を掴んできたように感じた。実際は獣が物凄い速さで僕に近づいてきた。兄は動かなかった。
「お前を食えば俺は完全なる力を手に入れることが出来る。大狐を超す力を、俺にその償いの力をよこせぇええええええ!!」
僕の首に長い爪が食い込む。赤い鮮血がツーと首を流れた。
「あぁ、なんておいしそうなんだぁ。巫女の力なんかよりずっといい・・・・・・」
「い・・・・・・」
あまりの痛みに声が出なかった。喉が熱くて、とても恐ろしかった。兄は僕を見ているだけだ。その表情はいつもと同じ、穏やかで優しい。
「どうしたぁ?サクライヌ様。弟が食われても構わないのかい?」
動かない兄を奇妙に思いながらも、獣は目の前にある餌(僕)の匂いに涎が止まらないようだった。酷く、心臓が痛かった。
『何故、助けてくれないのですか』
爪が僕の喉に深く食い込んでいく。
『痛くて熱い。苦しい』
獣は牙を向け、僕の喉元へ噛み付こうとしている。兄はそれを見守るようにただ見ているだけだった。そして、獣の鋭い牙は僕の細い喉に食い込まれた。肉が裂ける音が僕の耳元でじっくりと聞こえてきた。僕はもう、ここで壊されてしまうのだろうか。そう思って、意識が遠のいていく。
兄から聞いた。それが初めての、僕の力の目覚めであった。
「愚か者が・・・・・・、狐の獣ごときがわらわを食らうだと?」
そう言った、そうだ。獣が驚いて首から離れた瞬間、僕は獣の頭を掴み、尋常じゃない力で捻りちぎった。湧き出る水のように赤黒い血が一気に噴き出し、僕の着物や顔や髪を染めた。
僕の意識がはっきりと戻ったのは、倒れた僕を支える兄の腕の中でだった。首に激しい痛みを感じ、上手く言葉が話せない。兄が傷口に手を当てると、熱かった傷口から熱が引いていった。僕は再び、意識を失った。
どれくらい眠りについていたのかわからない。僕が目を覚ました頃には日が昇り、太陽の光が心地よく差し込んでいた。
「モミジイヌ様」
一番初めに目に入ったのは、カナメだった。カナメは少しだけ安心した様子で僕を見ると、まるで落ち着かせようとするかのように頭を撫でてきた。
右腕が燃えるように熱い。そしてそれが激痛だと気がつくのにそう時間はかからなかった。
「ぅあぁぁぁあああああ!!あぁあああああああ!!」
心臓が締め付けられるような痛みと、右腕が燃えるような熱を感じ、苦しくて僕はもがき暴れる。全身から汗が噴き出していた。今まで感じたことの無いその苦痛に、ただただ耐えるしかない。僕の苦痛を兄は外でずっと聞いていたそうだ。その苦痛は日が少しだけ傾くまで続いた。
村の人間たちは以前よりだいぶ活気を取り戻していた。兄が大狐と名乗るものはただの狐の妖怪であったことを伝え、さらわれた人々はみな、すでにこの世にいないことも丁寧に伝えた。僕が起き上がれるようになるのを待ち、兄は僕を連れて再び東の森の奥へと向かう。
「兄様・・・・・・あの・・・・・・」
たくさん聞きたいことがあったが、まだ心臓が痛くて上手く話せなかった。昨晩のことがあったあとだからか、森がとても穏やかに感じる。木々は安らぎの音を奏で、たまに野生の狐や狐の妖怪を見かけたが、彼らは静かに軽やかに走り去っていった。
やがて僕らは、昨晩やってきた神木にたどり着いた。それまで木々の揺れる音しか聞こえなかった森に、少し甲高い女の声が響く。
「お待ちしておりました、サクライヌ様、モミジイヌ様」
それは、黄色い着物を身に纏いし華奢な女の姿を借りた大狐と呼ばれる霊獣であった。大狐は神木の前に美しい立ち姿で僕らを向かえる。繊細な動きで手を合わせ、丁寧にお辞儀をし、そしてまっすぐ僕を見た。
「貴方様が制裁した罪深きものは、この森の狐たちの頭領でありました」
表情は変わらず、淡々とした口調で大狐はこの森の出来事を説明する。
「きっと村の人間たちから聞かれたと思いますが、この森の狐たちと村の人間たちはお互いを助け合って生きておりました。私の役目はこの東の森を守ることであり、人々の行く末を見守ることであります。しかしある日、目の色をぎらつかせた狐たちの頭領が私の元へやってきました。彼からは僅かながらも、人間の子供の血の匂いがしておりました」
「人の味を知ってしまった狐、ですね」
兄が優しい声でそう言うと、大狐は大きく頷いた。
「はい、彼が子供を襲ったのか、それとも死んでいるものを見つけ舐めたのか、実際のきっかけなるものはわかりませぬ。しかし、彼からは確かに血の匂い、そして異常な狂気を感じました。彼は完全に、人の血に酔ってしまっておりました」
大狐は一度言葉を切ると、自分の足元を見下ろした。
「頭領は人間の血を舐めるため、村に降りてはこっそり人をさらい、殺すようになりました。私の言葉には一切耳を貸さず、欲望のままに人を食い漁るようになったのです。こうなってしまっては私に出来ることは、もう、彼を殺すことしかありませんでした」
「しかし、彼は人の肉体を使ってこの世に蘇ってしまった」
兄が続けると大狐は頷く。そのときだけはとても悲しそうな表情であった。
「はい、彼の死体はこの下にございます。若者の身体を使って蘇ってしまった彼を、私は止めることが出来ませんでした。彼は私を捕まえ、私のもう一つの身体を、狐である体を粉々になるまで壊し続けました。私の心は悲しみで覆われ、彼はそれを上塗りするかのように、人間の血を私の命であるこの神木に吸わせました」
だから神木の葉は不気味な色と化してしまったのです、と大狐は言った。未だ神木の色はほぼ真っ黒に近い緑色をしていた。
「彼が制裁された今、この森は穏やかに戻り、やがてこの神木も元に戻るでしょう」
くるりと身体を翻し、神木を優しく撫でる。彼女は悲しい表情をしたまま、僕らに背を向けた。兄は黙って聞いていた僕の頭に手を乗せると、小さな声でささやいた。
「行くよ」
神木とその前で俯く大狐を振り返って見ながら、僕は兄に言われるままその場から去っていく。そのとき、大狐はその瞳から大粒の涙を流し、それはやがて頬を伝い大地を濡らして消えていった。
兄は茂った森をゆっくりと歩きながら、独り言のように言葉を発した。
「最初の嫁入りは彼女だったのだろうね」
「え?」
「愛しきものを二度も殺さねばならなかった彼女は、彼の最大の傷跡だよ」
そのときは言葉の意味がわからず、僕はただ目を細める兄の横顔を見ながら、穏やかな光を反射してたくさんの葉が光るこの東の森を淡々と歩き続けることしかできなかった。
-狐ノ嫁入リ 完-