紫苑の幻影を抱く人。
もう、陽が傾いていた。かんなと大翔の母親が、病室に向かったのは、空気の乾いた晴れた日の午後だった。大翔が事故に逢ったと聞いて、何回かは、病院に来ていたのだから、初めてではなかった。何度も、大翔の母親として、逢い話をしていた。だが、記憶を無くしたという、大翔の反応は、母親に対しては、何もなく、涙ながらに帰る事が多かった。
「たぶん・・。今日も。」
何も、変わらないと、母親は言った。拓未に見せる顔と、母親に見せる顔は、違うような気が、かんなには、していた。
「どうでしょう?」
不安な思いで、かんなは、母親と病室に、入って行った。そこに、拓未の姿はなく、大翔が、ベッドの上から、外を見ていた。
「こんにちは・・」
かんなは、そっと、声をかけてみた。ぼんやりと、外をながみ、瞳には、あの紫苑に見た、炎は、見えなかった。
「誰・・?」
大翔のままだった。遠くを、見つめていた瞳は、ぼんやりと焦点が合わないようだった。
「お母さんと、来たよ・・。」
どちらの名を呼んだらいいか、わからなかった。
「大翔よね・・。」
母親は言った。
「・・・」
大翔は、視線を合わせようとは、しなかった。
「あなたに、話しておきたい事があるの。」
母親は、大翔の隣に座った。
「もっと、早くに言わなきゃいけなかったと、思う。こんな事になる前に。だから・・。あなたが、絵を描くのは、嫌だったのに・・。」
絵と聞いて、大翔の瞳が、揺らいだ気がした。
「大翔・・。もう、覚えてないわよね。あなたには、拓未がいるけど、本当に血の繋がった、兄弟がいるの。言わなきゃいけないのは、わかっていたけど。」
「誰の話?」
大翔は、そっと、母親の顔を見下ろした。
「紫苑・・って、いうの。あの子を置いて、出てきてしまったの。」
じっと、大翔は、何かを考えている様だった。
「そう・・。」
力なく、大翔は、答えた。
「それで・・。あなたは、どうしたくて、今更、ここに来たの?」
「大翔なの?それとも、紫苑なの?」
母親は聞いた。
「紫苑の記憶を持って、戻ったって、聞いて・・。謝りたくて。もし、私のした事で、あなたを悩ませているとしたら、それでは、マズイと思って。」
泣いていた。
「違うでしょ?」
大翔は笑った。紫苑だ・・。かんなは、思った。紫苑が、目覚めている。
「あなたが、心配なのは、この彼でしょ?今まで、何回も逢ったって、俺かもしれないって、事は、考えもしなかった。この女の話を聞いたから、来たんだろう?」
「ありえる事では、ないでしょう?」
「それは、そうだ。だけど、兄弟だと、知っているのがあなたなら、この俺の中に何が、あるか、考えるだろう?」
その顔は、大翔にも、紫苑にも、見える。
「自分の呵責に耐えかねて来たんだろう?後を追う子供を突き飛ばして、出て行ったんだからな。」
これは、紫苑だ。
「この体を返してほしい?だが、この女は、返してほしいとは、思っていない。」
最早、どちらの、人格が、交互に出ているのか、わからなかった。
「帰れよ・・。母さんと言ってほしかったか?もう、来るな。大翔も、あまり、お前に可愛がってもらったと思ってはいない。来ても、ムダだ。」
大翔は、すくっと、ベッドの脇に立った。
「大翔!」
かんなは、立てないはずの、大翔の行動に口を覆った。
「無理しないで!」
「帰れよ。」
かんなの制止を、振り切り、大翔は、母親の肩を押し出した。
「もう、来ないでくれ。」
そう言う大翔の頬を伝うものがあった。涙だった。
「紫苑・・。本当は、逢いたかったんでしょう?」
「余計な事をいうな。君も帰って!」
かんなと、母親を押し出し、ドアは、静かな音をたてて、閉められた。
「紫苑・・。」
かんなの口は、ポツリと名が、こぼれて行った。
「そうよね・・。」
母親が、力なく言った。
「あなたは、気づいたのに、私は気づかなかった。逢っていたのに・・。兄弟だから、似ているのは当たり前だって・・。」
かんなも、ショックだった。紫苑の絵と、大翔の絵が、似ているのは、当たり前なのだ。似ているから、大翔を利用し、紫苑の絵として、世に出した。いずれ、大翔は、自分の力で、世に出る事が、出来たかもしれない。その時、紫苑の絵も出た可能性だってある。かんなが、大翔の芽を摘んでしまった。自分と、紫苑の幻影の為に・・。
「結局、何も、見えてなかったって、事なんです。私も、おば様も・・。」
かんなは、大翔に、寄り添いたいと思っていた。それが、紫苑の幻影を抱いているせいなのか、わからなかったが、ただ、このまま、傍にいたいと願っていた。