月と太陽。
病室から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。秀香だ。連絡したのだから、来るのは当たり前なのだが、嫌な胸騒ぎがした。紫苑と秀香は、魅かれあっていた。いつも、自分と秀香は、対極にあると言っていた。かんなが、一時、絵を描くのを辞めていたのも、秀香を意識してだった。秀香には、敵わないと思っていた。大翔も、知らず知らず、秀香に魅かれていた。似た魂を持つ人は、やはり同じような、人に魅かれるのだろうか。紫苑の意識を持ってしまった大翔が秀香に魅かれるのは、当たり前の事だ。秀香が、そこにいるのが嫌だった。
「あら・・。」
入室したかんなに気づいて、秀香の顔色が少し変わった。
「連絡ありがとう。遠慮なく押しかけたわ。」
そこは、大人だから、秀香は、冷静に久しぶりの友を迎える顔になっていた。
「随分、忙しそうね。」
「えぇ・・。お蔭様で。」
かんなは、答えた。この場で、自分の結婚の話になるのが、嫌だった。購入した画材道具を、大翔に突き出した。
「使わないのがあったから、どうぞ。」
「あら・・。」
秀香は、笑った。
「今、私も届けた所なの。ここにそんなに、あってもね?」
秀香は、押し返した。
「かんな。持ち帰って。彼は、使わないの?あぁ・・。画商だから、必要ないわね。結婚するんでしょう?今や、売れっ子になった画家と画商の結婚なんて、理想だわ。」
結婚の言葉に、大翔の瞳の奥が揺らいだ。
「理想だなんて・・。」
大翔の前で、結婚の話はしたくなかった。
「呼んでくれるんでしょう?新しいドレス買わなきゃね。」
秀香は、ノートを開いて、大翔に差し出した。
「どんなデザインがいいかしら?」
「君が着るの?それとも、彼女?」
大翔は聞いた。
「どちらだと思う?」
「君は、ドレスより、和服がいいよ。意外性がある。ドレスは、似合って当たり前だ。」
嬉しそうに秀香は、笑った。久しぶりにみる秀香の笑顔。メールでのやり取りはあったが、顔を合わせるのは、かんなの忙しさもあって、久しぶりだった。
「ごめん・・。あたしさ・・。」
この場に居ずらかった。二人の前から、逃げたかった。
「また、来るから。」
「そうね。同じ病院だし。」
秀香が、言った。
「そうでもないの。もう、退院するの。」
大翔と話したかった。でも、秀香がいたのでは、無理だ。
「ねぇ・・。」
大翔が、秀香に言った。
「喉が渇いたから、下にいって、コーヒー買ってきて。」
「今?」
秀香は、かんなと二人にしたくないようだ。
「今。待ってるから。」
秀香に言い聞かせるように、ゆっくり微笑んだ。あぁ・・。これも、紫苑と同じだよな。かんなは思った。秀香も、すっかり、大翔の言葉通りに、紫苑の姿をみつけ、時間だけが、遡り、秀香の心に火をつけていた。
「わかった。」
秀香は、ちらっと、かんなの顔をみやると、しぶしぶ病室から出て行った。
「かんな・・。」
秀香が、出て行ったから、大翔は、小さな声で言った。
「結婚するのか?」
紫苑の眼差しだった。
「本当に、そうなのか?」
かんなは、答えられなかった。
「行くなよ・・。」
「紫苑。」
今、目の前にいるのは、紫苑である。かんなは、そう思っていた。
「どうして、今頃。」
「ずーっと、待ってた。今、こうして、戻られるように。ごめんな。僕の力が足りないばかりに。」
「そんな・・。」
かんなの、目から涙がこぼれた。
「約束したから・・。紫苑の生き方を否定させてはいけないって・・。紫苑の生きた証を残すって。」
「一人で頑張ったんだろう・・。」
「大丈夫だから・・。」
誰にも、聞こえないように、かんなは、呟いた。
「いくなよ。かんな。」
「紫苑。あたしどうしたら?」
「傍にいて。」
「紫苑。」
かんなの手が、大翔に触れていた。
「力になって・・。誰にも、知られず。」
「力に?」
「絵を描くんだ。」
「いくらでも。」
かんなは、紫苑に触れたいと思っていた。昔、アトリエで、こっそり、触れ合ったように。紫苑に触れたいと。でも、いつ、秀香が、戻るかもしれないので、じっと我慢した。
「力になる。まかせて・・。」
「戻ってきたから。紫苑の絵を描くよ。」
犀椰と考えていた事を紫苑が知っているかのように、答えたのを聞いて、かんなは、少しドキっとしたが、すぐその思いは、かき消えていた。大翔の唇がそっと触れてきたのだ。何年も、かんなが、望んだ瞬間だった。
「紫苑・・。」
かんなは、満ち溢れた思いだった。