色彩の渦に・・。
夕陽が、教室に暖かな陰をつくっていった。空気が、暖かい。絵の具の匂いが、心を落ち着かせる。かんなは、美術室に入ると、その鼻腔いっぱいに、空気を吸った。油の匂いが、鼻腔をくすぐる。
「かんな・・。来たんだ。」
逆光になった影が、静かに語りかける。
「ん。」
かんなは、声にならない、返事をした。はっきりと、届くように、返事をしたかったが、恥ずかしくて声が出せなかった。
「はやく、仕上げろよ。」
影が、ゆっくりと、立ち上がった。
「紫苑。」
そう呼ばれた彼は、キャンパスを差し出した。
「全然、進んでないんだな。」
「のらなくて。」
かんなは、そういいながら、かばんを下ろした。
「コンクールに間に合わなくなるよ。」
「わかってるんだけど。乗らないと書けないの。」
「それは、俺もわかる。」
紫苑は、自分のキャンパスを振り返った。
「何回も、塗り直しだよ」
かんなは、そっと、紫苑のキャンパスを覗きこんだ。
「いい色だと思うけど。」
かんなは、紫苑の作品を覗き込んだ。繊細で、優しい紫苑の筆が、一人の女性を書き上げていた。母子像と、おぼしき2人が、見つめ合う絵であった。どことなく、その母親の、表情が、かんなに似ていた。
「表情が、うまく書けないんだ。」
ポツリと、紫苑は言った。
「暖かい眼差しだと思うよ。」
かんなは、応えたが、紫苑の求めた答えではなかった。
「暖かい表情が、書きたいわけでないんだ。」
「子供を、見つめる表情よね・・。」
紫苑は、ふっと、笑った。
「暖かい表情だけが、母親の表情でないんだな・・。」
寂しい笑い方だった。
「ごめんなさい・・。」
紫苑には、影がある。かんなは、紫苑が好きだった。だが、紫苑の心の中は、かんなが、計り知れない程、暗闇でいっぱいだった。
「いいよ・・。まだまだ、力がたりないんだ。」
紫苑は、かんなの作品に目を落としていた。
「かんなは、色を綺麗に出せるよな・・。」
かんなは、純粋だ。紫苑は、思った。物事をそのまま、受け止め、表現する。かんなの心に、陰りはない。それを、愛すべき所だと思う一方、眩し過ぎ、その光は、紫苑の心を焼きつかせる。
「ハデな色遣いだって。」
かんなは、紫苑の言葉に、素直に照れた。
「それは、絵の具を、ムダに使いすぎるって事かい?」
紫苑は、笑った。
「酷い。」
かんなは、自分の作品に、紅い色を、塗りつけた。
「綺麗なものが、好き。見ていて、気持ちがいいの。見ていて、楽しい。そんな目を楽しめる絵を書きたいの。」
「そうだな・・。かんなの、色遣いは、凄いよ。」
紫苑は、そっと、かんなの指に触れていた。
・・・・そう。
かんなは、思っていた。
あの時のかんなは、今の大翔と同じ歳。夢多く、始まったばかりの恋に、胸がいっぱいだった。あれから・・。かんなは、唇を噛み締めていた。何年、経過したんだろう。黙って、コーヒーの染みを拭きながら、溢れる色彩の中にいたあの時の自分。何故か、涙が、滲んでいた。