雪夜の記憶。
絵は、暗闇の中にあった。月明かりに照らされ、その部分だけ、輝く。
「来たのね・・。」
秀香が、寂しく微笑んだ。
「これを見たら・・。なんだか、先に進めなくなっちゃった。」
力なく椅子に腰かけた。
「才能って、あるのね・・。」
かんなを前に堰を切ったかのように、話は終わらない。
「もう・・。辞める。」
「秀香?」
初めて、大翔の前で、凍りつくように、絵に見入っていたかんなが、振り返った。
「辞めないでほしい。」
秀香は、ため息をついた。
「かんな・・。わかってるの?」
諭すような声だ。
「あなたのそれが、重いの。」
「重い?どうして、あなたの絵が見たい。そう思っていたから、紫苑も・・。」
紫苑の名を出してはっとした。
「そうよね・・。」
静かに秀香は、言った。
「あたし達、大切な事、話し合ってこなかったわね。」
「大切な事・・。」
二人とも、裂けていた話。
「ねぇ・・。かんな。」
秀香を向き合うのが、怖い。
「どうして・・。紫苑は、ここにいたの・・。」
「秀香・・。」
「あなたが・・。紫苑の隣にいるのが、あなたなら・・。許せたのに。」
あの日。約束を守れなかったのは、かんな。信じる事が出来なかった。
「あなたが、一番、理解していると思っていた。」
「理解はできない・・。似てただけ。紫苑が、探していたのは、秀香だと、思っていた。」
「そんな・・。あたしは、かんな。あなただと・・。」
似すぎていて、怖い。かんなは、思っていた。
「秀香。あなたは、まぶしい。あなたといると、自分が霞んでいてしまう。それが、惨めだと思った事はなかった。世界の違う人だと思っていたから。でも、紫苑が、一番、近くにいる人と思っていた、紫苑が、あなたを、見ていると思ったから。」
秀香の顔が大きくゆがんだ。
「何を言っているの?紫苑の何を見て、感じていたの?紫苑が、かっていたのは、私の絵。わたしは、彼の為に書いていたようなもの。あなたが、彼を一番支えて、行かなければならなかったのに・・。どうして・・。光樹なんかと・・。」
言ってしまってはっとした。
「ごめんなさい。言いすぎたわ。」
秀香は、光樹を嫌っていた。
「彼が居なければ、描く気がしない。」
「描いてほしい・・。」
かんなは、ポツリと言った。
「わたしの為に描いて・・。」
今、紫苑を感じるのは、秀香の絵だ。
「描けないわよ・・。」
秀香は、笑った。
「見てよ・・。」
秀香が指したのは、大翔の絵だった。
「もう・・。よすわ。」
がらん・・。と、床のキャンバスの落ちる音がした。
「もう・・。若い世代に、譲るわ。」
自分の、絵を、軽く蹴った。
「あなたも・・。」
秀香は、かんなに言った。
「自分の絵を仕上げなさい。あなたこそ・・。紫苑と同じ絵を描くの。もう、一人の紫苑なの。あなた達は、似たもの同志だもの。」
いつも、秀香は、光の向こうにいる。大切な人は、かんなを思ったいた。自分以上に、大切にしていてくれると信じていたのに、ほんの行き違いで、この世を去った。
「私は、あの人が、亡くなった時に終わったの。もう・・。宣告された時から、決めていたけど。」
「宣告?」
かんなは、きょとんとした。
「あぁ・・。」
気づいて、かんなの顔を見た。
「あなたを少し、苦しめようと思って、黙っていた事がある。」
秀香は、言う覚悟を決めた。
「紫苑は知っていたの・・。」
初めて聞く話だった。
「もう・・。長くないって、あなたに話をするつもりでいた・・。」
「どういう事?」
あの喧嘩した夜の事。紫苑は、かんなを待ち続けた。
「私も行った。」
「えぇ?」
自分が、第一発見者だと思っていた。
「帰ろうって言ったわ。」
瞳は、細く遠い日を思い出していた。
「雪が、降り始まっていたの。」
少しづつ、あの日が蘇ってくる。
「もう、かんなは、来ないから。一緒に行こうって。でも・・。紫苑は、待ってるって・・。」
紫苑は、雪の振り始まるその、アトリエ前のベンチで、待っていた。
「一緒に、飲まないかって・・。」
差し出したお酒。
「何度帰ろうって言っても・・。あの人は、帰らなかった。」
どうしても、かんなに伝えたいと言っていた。
「私が、紫苑の伝えたい事が何かわかったの。」
それで・・。
「ここにいっちゃ・・。いけないって。」
秀香は、帰ろうとした。
「紫苑が、待ってと。」
ベンチに座る膝に出した小さなケース。
「これを、かんなに、渡すつもりだって言ったの。」
紫苑は、優しい顔をしていた。
「ばかね。そい言ったの。そんなの渡して、自分がいなくなったら、かんなの気持ちはどうするんだって・・。一生、傷を負わせるのかって。」
かんなは、目をみはった。あの日、行けばよかった。
「自分の思いだけ、ぶつけて。置き去りにされたかんなは、どうするのって。」
紫苑は、笑った。そして、そのケースを、ベンチ脇の茂みの放る投げた。
「帰れよ・・。」
紫苑は言った。
「俺は、ここにいる。」
「紫苑。帰ろう。」
秀香は、言った。
「もう少し、ここにいる。」
紫苑の瞳は秀香を拒絶した。
「じゃ・・。帰るから。」
「行けよ。」
紫苑は、決して、秀香の顔を見ようとしなかった。遠く、宙を見ていた。
「勝手すぎるか?俺。」
「勝手よ。かんなを、縛らないで。」
ふ・・。と、紫苑が、笑った気がした。
「そんな・・。」
秀香から、聞いた話に、かんなは、力が抜けて行った。
「わかった?」
秀香は、かんなを見据えていた。
「もう・・。描けない」
言葉はなかった。目の前に、大翔の絵だけが、生き生きと輝いていた。
「あの日・・。止めた私も悪い。」
背に話しかけた。
「そして・・。彼との約束を破ったあなたが、一番悪い」
ぞっと、する秀香の声だった。
「だから・・。もう、描かない。」
何かが、頬を伝わって落ちた。今まで、心の奥にしまっていたものだった。
「大翔・・。」
大翔の絵が懐かしかった。
「綺麗だよ・・。」
涙が、幾筋も流れ落ちて行った。