ニアミス。
嫌な気分だった。かんなを頼りにして、勝手に呼び出し、傷つけて返してしまった。お礼をいう事はあっても、傷つける理由はない。つい、おばさんと言ってしまったのは、母親に疑われるのが嫌だったせいと言っても、傷付けた事にかわりはなかった。
「はぁ・・。」
授業に、身が入らなかった。かんなの事が気になってしまって、仕方がない。今日は、かんながくる日ではない。家庭教師として、入る日まで、まだ、日があった。
「はぁ・・。」
どんどん。気が重くなる。気遣って、咲桜里が、何回か、顔を出しにきたが、気持ちは飛んでいた。今の自分に、咲桜里は、疎ましいだけだった。かんなの大学へは、電車で、駅3つの所にある。今から言って、逢えるだろうか?そういえば、かんなは、絵を書くと言っていた。かんなに逢えないとしても、かんなのアトリエに顔をだし、こっそり、かんなの絵を見るのも、いいのではないか・・。頭は、目まぐるしく回っていた。
「何、悩んでんだよ・・。」
隣が、話しかけてきた。
「いや・・。もう、悩んでない。」
大翔は、答えた。ふっきれた。
「ちょっと、俺。帰るわ。」
「何で?」
「急用。」
かんなに逢いたい。逢って、謝りたい。本当は、そんな事思っていないって。かんなに逢えなくても、一度でいい。かんなの絵をみてみたい。そう思ったら、体が動いていた。教室を飛び出し、靴を履きかえるのも、もどかしく、外へ飛び出していた。今なら、すぐの電車がある。大翔の心は、跳んでいた。
* * *
キャンパスの隅っこに、そのアトリエはあった。古い杉の木立がうっそうと茂り、怪しげな雰囲気を醸し出していた。校舎自体は、陽に光を浴びて、明るいのに、アトリエは、木立の陰にあるせいか、じめっとして、そこだけ、別世界のようだった。空気までもが、油絵の具の染み込んだ思い香りがしていた。
「なかなか・・。上手くいかない。」
そこに、居たのは、かんなではなく、秀香の姿だった。思うように、筆が運ばない。もともと、勝気の秀香は、妥協を許さず、時として、自分自身を苦しめる結果となる事が多かった。
「全然・・。ダメ。」
かんなにああ言った手前、自分は、完成させなければならない。なのに、納得した色が出せない。イメージが湧かないのであった。秀香の絵は、南国を思わせる花々と、働く女たちの絵であった。黄色とオレンジがあふれんばかりの色彩を華っていた。が、その色使いは、華やかであるのに、透明感がなかった。ただ、色を重ねているだけで、秀香の持つ、生命力に溢れた画風とは、離れていた。
「どうしたら、いいの。」
働く女たちの顔も、ただの、無表情にしか、見えない。かんなの絵が、完成できない事を言ったげ、かんなの絵は、ある意味、完成している。書きかけではあるが、表現力は十分あった。秀香の絵が夏なら、かんなの絵は、春の日差しのようだった。
「これ以上、かさねても・・。」
かんなが、うらやましい。透明感のある画風。自分は、かんなに負けている。自分は、かんなになれない。あの繊細さは、自分には、ない。
「もう、あきらめよう。」
あきらめるって?絵の事?それと・・。
書いてしまった絵を、破いてしまおうか。そう、手をかけようとした時、正面のドアが開いた。
「かんな?」
やっと、続ける気になったんだ。顔をあげても、ちょうど、逆光になっていて、よく、見えなかった。でも、背格好が、かんなのものではない事を物語っていた。
「誰?」
「あの・・。」
おずおずと、室内に入ってきた。ドアが閉まって、そのシルエットが、秀香の知っている誰でもない事がわかった。
「ここの人ではないようね・・。」
「すみません。」
静かにお辞儀し、あげた顔を見て、秀香は、筆をとめた。
「あなたは?」
何処かで、見たような気がした。顔だろうか?いや・・。この雰囲気。空気だ。入ってきた彼の顔は、今まで、見た事はなかった。だが・・。この、彼の周りの空気が、遠い記憶を呼び覚ました。
「紫苑?」
まさか・・。全然違う。紫苑の洗練されたラインとは、まだ、違う。まだ、粗雑で、未熟な若い男。それでも、何故か、ゆっくりと、あたりを見渡す彼の横顔と紫苑の横顔が重なった。
「ここの人では、ないみたいだけど・・。」
「ちょっと、知り合いを探して・・。迷ってしまったようです。」
男は、ふっと、笑みを浮かべた。少しだけ、前歯が、大きく目立って見える。
「絵を書いているんですか?」
興味深そうに、秀香を覗き込んだ。
「見せてもらっていいですか?」
「どうぞ。」
無関心を装い、秀香は、少し離れた。
「わぁ・・。」
男は、秀香の絵に感嘆の声をあげた。
「綺麗だ。」
何度も、何度も、秀香の絵を、覗き込む。
「どのくらい・・。書くのに、かかるんですか。」
「気分によるみたい。」
「気分に?」
初対面なのに、秀香は、会話をしてしまった事を恥じた。
「まだ・・。子供みたいだけど。何処から、きたの?」
子供と言われて、男は、むっとした。
「そんなに、変わらないですよ。俺。」
「まだ、高校生でしょ。」
秀香は、自分の絵を、傍に引き寄せた。
「これ・・。本当にお姉さんが書いたの?」
「そうだけど。」
むっとしながら、答えた。
「初対面なのに、失礼ね。」
「すみません。あんまり、絵が綺麗だったから。」
「お世辞はよして。」
初めて会った男に、いろいろ言われて気分は、悪くなりつつあったが、綺麗との一言で、少し、機嫌がよくなった。しかし、秀香は、素直になれない。
「上手く、いかなくて、悩んでいたの。もう、やめるわ。だから、あなたも、帰って。」
「この絵は・・。あなたみたいだ。」
「何言ってるのか、わからないわ。」
「何ていうか・・。華やかなのに、寂しそうだ。」
男は、秀香の顔を見た。灰色の大きな瞳が、秀香の真近にあった。
「寂しい?私が?」
笑い飛ばしてやる。秀香は、思った。
「そう・・。言われませんか?」
男にそう言われて、秀香は、反論できなくなった。
「そう・・。」
前にも、言われた事がある。忘れもしない人。強がって、忘れたと言っても、心に染みついた人。
「あるかもね・・。」
秀香は、自分の絵を棚に押し込んだ。
「もう、書かないんですか?」
終おうとする秀香に、男は言った。
「後、少しなのに。」
「書けないの。どうしたら、いいか。わからないの。」
ため息が出た。
「なんか、もう限界なんだと思う。」
「限界?」
「もう少ししたら、書いてみるわ。あなたも、帰ったら?」
男は、じっと、秀香を見ていた。
「また・・。来ても、いいですか?」
「え?」
「この絵の続き・・。みてみたいから。」
「いつ書くか、わからないわよ。」
「だったら、時々・・。」
男は、秀香の書く絵の続きが見たいと思った。
「誰かが、見たいと言ったら書く気がおこるかもしれないでしょ。」
「・・・」
秀香は、はっとして、男の顔をみた。
「あなたは?」
その時、部屋に入ってきた姿があった。かんなだった。
「かんな?」
男は、ふりかえった。
「大翔君・・。」
どうしてといった顔だった。
「あなた達、知り合いなの?」
秀香の胸に、チリっと、焦げたものがあった。
「いいえ・・。」
そういって、大翔と呼ばれた男は、部屋を出て行こうとした。
「どうして・・。そうなの?」
かんなは、声をあげた。
「用があったから、来たのよね?どうして、肝心な事から、逃げるの?」
大翔は、振り返らなかった。
「かんな。彼は?」
見ていた秀香が、声をかけた。
「ただの・・。知り合い。」
「知り合い?」
「そう。」
かんなの答えに、秀香の心は、揺れていた。