とある男の話
「結婚するということは、男が負ける時だ。」ある本で目にした言葉だ。
確かに、その通りかもしれないな、と思ったりもする。
今年で、結婚6年目になる。
最初に出会ってからは、9年くらいか。確かなことはよく覚えていない。
だけど、明らかに昔とは態度が変わった。面白いことだが、女性というものはそういうものなのだろう。きっとそうだ。
ふと、窓から外を見ると雪が降っていた。
僕達が住んでいるマンションは五階にあって、外の景色を遮るものはない。天気が良ければ、遠くの都心の灯りがとても綺麗に見える。
まとまりなく降る雪は、どこか寂しげに見えた。
それらをぼんやりと眺めるだけで、温かい部屋も寒く感じてくる。
「ちょっと。ご飯の用意を手伝ってくれない?」台所から声をかけられた。
僕の奥さんだ。
「わかった。今、行くから。」ソファから立ち上がりながら、返事をする。
外の景色への興味を消すために、カーテンをしめた。
揺れているカーテンは、本来の仕事にもどれて嬉しそうに見える。
料理を手伝うのは僕の日課に近い。仕事が遅くなければ手伝う。
僕が決めたのではなくて、もちろん、奥さんがきめたことだ。
結婚をしてから、仕事帰りの飲み屋への立ち寄りがなくなった。
他にも、いろんなことに制約がかかるようになった。
例えば、昼に食べていた定食屋のランチが食べられなくなったり、同僚の女性にも気を配るようになったりなど。
要は、少し動きづらくなったということだ。
「君は、僕と結婚してよかったと思っている?」と、前に聞いたことがある。
その時、彼女は満面の笑みで一言、「よかったわ。」と言った。
その顔が今でも忘れられない。
思い出すだけで気分が良くなる。
ジャガイモの皮を苦労して剥いている横顔を眺めながら、僕はニンジンの皮をむく。
顔のラインを目でなぞってみる。この近さでないと見えない。
たまに冷たいニンジンにも、目を向けてあげたりくらいはする。
「なに?」彼女は、僕の視線に気づいたようだ。
「あっ、いや、なんでもないよ。ニンジン剥き終わったけど、どうすればいいかな?」僕は慌てて言った。
「もう終わったの?だんだん上達してきたわね。そこに、置いといて。」
「わかった。で、次は何を?」僕は言った。
少し彼女は考えた顔をした。
「じゃ、もういいわ。休んでいて。ありがと。」考えた結果、調理の役割はもらえなかったようだ。
賢明な判断だと思う。僕はあまり料理が上手ではないからだ。
手伝うようになって、一般レベルの一歩手前になった。
仕事を失った僕は、またソファに戻った。
さっきとは違って、カーテンが閉められている。
寂しげな雪も、寒々しい夜の外も関係がない。
耳をすませば、彼女の包丁の音が聞こえる。
軽快なリズムが僕を心地よくさせる。
「結婚するということは、男が負ける時だ。」と書いた人は、きっと相手が悪かったのだろう。
結婚は確かに制約されることが多いが、その分素晴らしいこともある。
いつも、ささやかな時にそういったことを感じる。
例えば、台所で料理している音を聞いているときとか、満員電車の喧騒から帰宅して、玄関で迎えられるときとか。
誰かが自分のそばにいてくれる、いることの事実を感じる時にそう思うのだろう。
普段からずっとそう思うわけではない。
ふとした時にそう思うのだ。
世の既婚男性は、そのささやかな行動の会話を聞くことを忘れてはいけない。
これは昔、誰かに言われた言葉だ。
例え、ロック調の音楽が流れていたとしても。
そして、そばにいることが一番の会話であって、一番心地よいことだと僕は思う。
太陽にとっては月が、温暖前線には寒冷前線が、男には女が、といった具合に何かがそばにいる。
明るければ、月の存在を忘れかけて、暗ければ太陽が恋しくなる。全て、そんな関係なのだ。
僕なら、「結婚するということは、男が試される時だ。」と言うだろう。
そして、愛する人と食べるご飯は格段に美味いものだ。