第三章 鼻歌で井戸を塞ぐ男
井戸の周りに、村人が円を描いて集まっていた。
老人が一人、女が四人、子どもが三人。みんな、痩せている。
俺は石畳の上に膝をついて、井戸の縁に金属のヘラを当てた。
ヘラの先で、石の継ぎ目をゆっくりとなぞる。
ひびの幅、深さ、漏出の勢い、瘴気の濃度。
頭の中で、現場ノートのフォーマット通りに、整理していく。
「リネットさん」
「はい」
「子どもを、もう少し離して。瘴気って、これだろ。吸い続けるのは良くない」
「は、はい」
リネットが子どもを抱えて、五歩下がった。
その動きを見て、村人たちも下がった。
老人が、リネットの隣に寄り添うように立った。村長らしい。
俺は井戸の縁を観察した。
漏れている場所は二か所ある。北側の石と石の継ぎ目に細いひびがあり、そこから黒い液体が滲んでいる。それから、底のほうで何かが噴き出している、その圧力が縁にも影響している。
「とりあえず、表面のひびを、シーリングで塞ぐ」
俺は呟いた。
「シーリング」
リネットが、小声で繰り返した。
ウレタン主材は、本来は屋上のための材料だ。だが、防水としての性能は変わらない。プライマーで密着を確保し、主材で塞ぎ、表面を均す。
俺はヘラでひびの中をかき出した。
黒い液体が指先に触れた。
ゴム手袋ごしに、冷たい。
冷たい、ではない。
冷たい、を通り越した、何かだった。
俺の指が、ほんの一瞬、痺れた。
「親方、それ」
リネットが声を上げた。
親方、と呼ばれたのは、いつぶりだろう。
岩木さんが死んでから、誰にもそう呼ばれていない。
「素手で触らないほうがいい。それは魔界の瘴気です」
「魔界」
俺は鸚鵡返しにつぶやいた。
リネットは小さく頷いた。
「世界の壁の、漏れです。聖女学院でしか教えていない、本当の意味は」
聞き慣れない単語の連続だった。
ただ、「漏れ」という言葉だけが、俺の中で意味を持った。
漏れ、なら、塞ぎ方は知っている。
俺は刷毛をプライマーに浸して、ひびの中に染み込ませた。
刷毛の毛先が、ひびの奥まで届く。粘度の低いプライマーは、ひびの奥まで自重で入っていく。
「親方、何をしているんですか」
リネットが、横から覗き込んだ。
「下塗りだ。これがないと、上の塗料が密着しない」
「下塗り」
「言葉でいうと、接着の架け橋」
俺は手を動かしながら答えた。
リネットが、息を飲んだ。
「魔法と、似ています」
「魔法」
「魔法を発動するには、魂を起動する儀式が要るんです。プライマー、と古い文献では呼ばれています」
俺は手を止めた。
プライマー。
そのまま、俺の世界の言葉だった。
「同じ言葉なんだな」
「同じなのです」
リネットの声が震えていた。
俺は気を取り直して、次の作業に移った。
プライマーが乾くのを、五分待つ。
その間に、ウレタン主材の缶を開ける。
主剤と硬化剤を、メジャーで計った重量比で混ぜる。
電動撹拌機はないから、ヘラで底から巻き上げるように、規定時間を超えて混ぜた。
撹拌、というのは、二つの薬剤をよく混ぜ合わせる作業だ。ウレタンは、主剤と硬化剤の二液を、決まった比率で正確に混ぜ合わせて初めて化学反応を起こし、固まる。混ぜ方が足りないと、半液状のまま固まらない部分が残る。混ぜすぎると気泡が入る。塩梅が、職人の感覚だ。
撹拌不足は、あらゆる失敗の母だ。
岩木さんが、最初に教えてくれた言葉だ。
「親方、何か、歌っていますか」
リネットが言った。
俺は気づかなかった。
鼻歌が出ていたらしい。岩木さんがよく歌っていた、古い何の曲かもわからない調子だった。
「鼻歌のほうが、手が動く」
俺は答えた。
リネットが、ふわりと笑った。
「不思議な人ですね」
俺は混ぜ終わったウレタンを、ひびの上に流し込んだ。
液状のウレタンは、ひびに沿って流れ、奥に染み込んでいった。表面が艶のあるグレーになっていく。
ヘラで表面を均す。
立ち上がりの処理と同じ要領だ。粘度の高い材料を、垂直の面に押し付ける。
「これで、表面の漏れは止まる。三十分待てば触っても問題ない」
「三十分」
「化学反応で硬化する。地球の常識じゃ、それくらいだ」
俺は次に、井戸の中を覗き込んだ。
黒い水が、下のほうで揺れている。
光を当てると、底に何か、亀裂のようなものが見えた。
岩盤の裂け目だ。そこから、黒い液体が湧き出している。
「下、潜らないと駄目か」
俺は一人で頷いた。
リネットが慌てた。
「親方、井戸の中は」
「縄、ある?」
「あります、けれど」
「よし、頼む」
村の老人が震える手で、太い縄を出してきた。
俺は縄の先を井戸の柱に結び、もう一方を腰に巻いた。これは、防水の現場で覚えた結び方だ。高所作業のとき、命綱の結び方を間違えると、本当に死ぬ。
縄の結び目を二度確認した。
「親方、危ないです」
「漏水診断は、現場に降りないと正確にできない」
俺は短く答えて、井戸に身を沈めた。
下に降りるにつれて、瘴気が濃くなる。
喉の奥がひりひりする。だが、視界はまだ保てる。
底に近づくと、岩盤の亀裂が見えた。
長さは、三十センチほどだ。
そこから、黒い液体が湧き出していた。
俺は腰の工具袋から、Uカット用の充填材代わりに使えるものを探した。
Uカット、というのは、コンクリートのひびを、専用の工具でU字型に削り広げてから補修する方法のことだ。ひびの中まで充填材を行き渡らせ、表面だけでなく深部から漏れを止める。井戸の岩盤に同じ工具を使うわけにはいかないが、考え方は応用が利く。
ウレタンの主材を、亀裂の中に押し込んだ。
亀裂の表面が、ゆっくりと閉じていく。
化学反応の熱で、瘴気が一瞬、強く立ち上がった。喉が焼ける。だが止まった。
漏れが止まった。
俺は深く息を吐いた。
井戸の底で、自分の呼吸の音だけが、ぐわんぐわんと反響していた。
岩盤の表面に手を当てた。ウレタンが固まっていく感触が、ゴム手袋ごしに伝わる。化学反応が、ちゃんと進んでいる。
これでいい。
これで、地下水脈に、瘴気が混じることはなくなる。
ただし、根本的な解決ではない。
これは、表面の応急処置だ。
この亀裂の、もっと向こう側、世界の壁とリネットが呼んだものの、本体に手を入れない限り、また漏れる。
俺は上に合図した。
縄が引き上げられて、俺は地面に戻った。
井戸を覗き込んだ村人たちが、一斉に声を失った。
黒い液体が消えていた。
底に、澄んだ水が見えた。
しばらく、誰も声を出さなかった。
老人が一番先に、地面に膝をついた。
両手を石畳について、額をその手の甲に押し付けた。
「五代、五代続いた呪いが」
老人の声が震えていた。
リネットが、俺の顔を見上げた。
緑の瞳が、いっぱいに濡れていた。
「親方」
俺は、目をそらした。
「礼ならいい。漏れがあったから、塞いだ。それだけだよ」
村人たちが、次々と地面に膝をついた。
俺は、自分の指先を見た。
ゴム手袋ごしに、まだ瘴気の冷たさが残っている気がした。
その夜、村の宿に泊まることになった。
宿屋の女将さんは、俺に部屋代を取ろうとしなかった。
「五代続いた呪いを解いてくださった方から、銅貨一枚も取れません」
そう言って、女将さんは泣いた。
俺は、何も言えずに、部屋に戻った。
噂は、隣の街道まで一気に駆け抜けたらしい。翌朝には、馬車が何台も村に向かって走ってきていた。
俺はそれを、知らないまま、宿のベッドで深く眠った。
久しぶりに、夢を見ない眠りだった。
地球にいたとき、俺はいつも岩木さんの夢を見ていた。
岩木さんが現場に立っていて、俺に何か言おうとして、声が聞こえなくて、目が覚める夢だった。
その夢を、十四年、繰り返してきた。
今日は、見なかった。
胸ポケットには、点検ノートが入っていた。
その表紙には、見覚えのない文字で、何かが書き加えられていた。
朝、それを見つけたとき、俺は珍しく、口の端をゆるめた。
リネットの声が、頭の中で蘇った。
「親方、ありがとうございました」
そう書いてあるのだろう、たぶん。
俺は、ノートを胸ポケットにしまった。
漏れがあるなら、塞ぐ。
それだけだ。
それだけで、人は、ここまで泣くのか。
俺は窓の外を見た。
二本の太陽が、雲の上に並んでいた。
地球の夕方なら、太陽は一つだ。一つの太陽が沈んで、夜になる。
ここでは、二つ並んだ太陽が、一緒に沈むのだろうか。
俺は、答えのわからない疑問を、ノートの隅に書きとめた。
そして、ノートを閉じた。
明日のことは、明日考える。
岩木さんが、よく言っていた。
「明日の現場のことを、今日のうちから心配するな。今日はきょうの仕事を、ちゃんと片付けろ」
俺は、岩木さんの言葉を、心の中で繰り返した。
今日のきょうの仕事は、井戸を塞ぐことだった。
それは、できた。
明日の仕事は、たぶんまた、別の漏れだ。
俺はベッドにもぐりこんで、目を閉じた。
久しぶりに、深い眠りが、すぐに来た。




