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シール 防水工が異世界転生して世界の漏れを止めた話  作者: もしものべりすと


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第二十三章 帰還、夏の屋上

目を開けると、空が、青かった。


夏の青だった。


頬の横で、屋上のコンクリートが、まだ温かかった。


俺は、ゆっくり、起き上がった。


地球の屋上だった。


落雷で、転生する直前の、現場だった。


胸ポケットにノートが入っていた。


工具袋にコテが入っていた。


すべて、転生前と、同じ配置だった。


時計を、見ると、午後二時、三十二分。


落雷の、瞬間と、同じ時間だった。


二、三秒、しか、経っていなかった。


俺は、しばらく、屋上で立っていた。


異世界の一年が、地球の二、三秒に、圧縮されていた。


それが、本当にあったことなのか、夢だったのか、わからなくなった。


最初の数秒は、自分が誰なのかすらわからなかった。


地球の防水工なのか、異世界のシール屋なのか、両方の記憶が、頭の中で混じっていた。


ゆっくり、地球の感覚が戻ってきた。


工具袋の、革の、匂い。


屋上のコンクリートの、温度。


夏の湿った、空気。


それぞれが、地球の職人としての、自分を、思い出させた。


それでも、異世界の一年は、消えなかった。


俺は、胸ポケットから、ノートを出した。


開くと、千年前のコーデックスの写しが、ぎっしり書かれていた。


それから、リネットの銀の杯が、工具袋の、底に入っていた。


夢じゃ、なかった。


俺は、ゆっくり、屋上を、見渡した。


立ち上がりの、補修、まだ半分、残っていた。


俺はコテを握った。


そして、補修の続きを、始めた。


異世界で千か所の漏れを塞いだ後で、地球の屋上の補修を再開する。


その、感覚が、奇妙だった。


しかし、地球の立ち上がりの補修は、変わらず、地球の立ち上がりの補修だった。


職人の仕事というのは、規模が変わっても、本質は同じだった。


ふた時間、無言で、働いた。


立ち上がりの、補修が、完成した。


俺は屋上の隅で、汗を、拭った。


汗の、味が、地球の塩だった。


異世界の汗は、もう少し、淡い味だった。


地球に戻ってきた、と、改めて感じた。


携帯が、鳴った。


事務所からの、着信だった。


俺は出た。


「守、聞いたか」


事務所の、若い社員だった。


「黒田さん、警察に、連れて行かれた」


「黒田、が」


「不正経理が、発覚した。元請け会社、解体だ」


俺はしばらく何も言えなかった。


地球の黒田が、自分で、自分を、潰した。


異世界のクロウドと、同じ結末だった。


世界が変わっても、悪い人間は最後は、自分で自分を潰す。


それが、職人の世界の、真実だった。


「守、これから現場、増えるかもしれない。元請けの信頼、揺らいでる、新規依頼、いくつも来てる」


「ああ」


俺は、短く答えた。


「会社、頑張ろう」


「うん」


俺は、電話を、切った。


そして、屋上の青い空を見上げた。


岩木さんのノートが、胸ポケットに入っていた。


その、隣に、千年前の職人のコーデックスの写しと、リネットの声の思い出が入っていた。


俺は深く息を吸った。


地球の空気は、異世界の空気より、少し、重かった。


それでも、それが、俺の世界だった。


職人として、立ち続ける、世界だった。


俺はコテを工具袋に、戻した。


そして、屋上から、階段を降り始めた。


階段を、降りながら、俺はふとリネットの緑の瞳を、思い出した。


「親方、次の世界の漏れ、塞ぎに行ってください」


リネットの最後の言葉だった。


俺は、その言葉に応えるために、地球で、また現場に立ち続ける。


それが、リネットへの、最後の約束だった。


明日からも、現場は、続く。


漏れがあったら、塞ぐ。


それだけだった。


階段の踊り場で、俺はふと立ち止まった。


工具袋の、底から、銀の杯を、取り出した。


リネットの最後の贈り物だった。


その銀の杯の底に、わずかにリネットの血が乾いて残っていた。


俺はそれをしばらく、見ていた。


地球で、また漏れに出会ったとき、これを使う日が、来るかもしれない。


しれない。


来ないかも、しれない。


それでも、俺はそれを工具袋の、底に、戻した。


地球の職人として、必要なときに、使うためだった。


階段を、降り続けた。


降りるたびに、地球の現場の感覚が戻ってきた。


異世界の一年がゆっくり夢のように、薄れていった。


それでも、ノートが、胸ポケットに入っていた。


杯が、工具袋の、底に入っていた。


それは、夢ではなかったと教えてくれていた。


俺は、マンションの、玄関を、出た。


夏の空気が、湿っていた。


蝉の、声が聞こえた。


それが、地球の夏だった。


異世界には蝉、いなかったと思い出した。


俺は深く息を吸った。


地球の夏の匂いだった。


工具袋を、肩にかけ直した。


そして、駐車場に向かって、歩き始めた。


軽トラックが俺を待っていた。


岩木さんから、引き継いだ、軽トラックだった。


運転席に座って、ハンドルを握ると、革の感触が馴染んでいた。


岩木さんの手の跡が、ハンドルに、残っていた、気が、した。


俺は、しばらく、ハンドルに、両手を置いて、目を閉じた。


岩木さんの軽トラ。


岩木さんのノート。


岩木さんのコテ。


そして、リネットの銀の杯。


それぞれが、俺の職人としての人生を、形作っていた。


俺は、運転席に、乗り込んだ。


エンジンを、かけた。


そして、次の現場に向かって、走り始めた。


軽トラックの窓を、半分、開けた。


夏の風が、吹き込んできた。


風の、中に、地球の雑多な、匂いが、混じっていた。


排気ガス。コンクリートの、粉塵。近所の、夕食の、匂い。


それぞれが、地球の生活の、匂いだった。


俺は深く息を吸った。


そして、ふと岩木さんの軽トラックの運転席で、岩木さんが、生前、よく、口ずさんでいた、鼻歌を、思い出した。


俺はその鼻歌を、口ずさんでみた。


異世界で、井戸を塞ぐとき、無意識に、口ずさんでいた、あの、鼻歌だった。


地球と、異世界、両方の、現場で、俺は、岩木さんの鼻歌を、ずっと口ずさんでいたのだ、と、いまになって、わかった。


岩木さんは、たぶんずっと俺の隣に、いた。


地球でも、異世界でも。


俺は、軽トラックのハンドルを握り直した。


次の現場に向かって、走り続けた。


街の、信号で、止まると、横の、車線に、子どもを、乗せた、自転車が、並んだ。


母親が、子どもの頭の、ヘルメットを軽く撫でていた。


子どもがふっとこちらを見て、笑った。


俺は思わず手を振った。


地球の子どもだった。


異世界の瘴気で、咳き込んでいた、子どものような、青ざめた顔は、していなかった。


健康な、地球の子ども、の、顔だった。


俺はその笑顔を、見ながら、心の中で、呟いた。


地球の子どもたちは、世界の壁の、漏れの、影響を、受けない。


それは、地球の屋上の職人たちが、毎日地道に、漏れを塞いでいるからだった。


千年前の、職人、と、地球の職人、と、異世界の職人。


それぞれが、それぞれの、現場で、漏れを塞ぐ。


そうやって、世界が、回っていく。


俺は、信号が、青になって、軽トラックを、発進させた。


そして、次の現場に向かって、走り続けた。


明日からも、現場は、続く。


漏れがあったら、塞ぐ。


それだけだった。


リネットの最後の声を心の中に、しまって、俺は、走り続けた。


「親方、次の世界の漏れ、塞ぎに行ってください」


その、言葉が、俺の地球での、毎日の、現場の合図だった。


軽トラックは、街道をゆっくり走り続けた。


夕陽が、街の、屋根の、上に、傾き始めていた。


その、夕陽の色が、異世界で、リネットと、別れた、あの、街道の、夕陽と、同じ色だった。


世界が、違っても、夕陽の色は、同じらしかった。


俺はその夕陽の向こうに、リネットの緑の瞳を、思い出した。


リネットは、たぶん今日も、向こうの、世界で、誰かの、井戸を塞いでいる。


教え子に、聖魔法を教えている。


俺の、ことを、ふと思い出して、ふっと笑っているかもしれない。


俺も、ふっと笑った。


そうやって、世界の、両側で、ふと笑い合う。


それで、十分だった。


軽トラックは、次の現場の入口で、止まった。


そこは、四階建ての、アパートの、屋上だった。


明日、また、コテを握る。


明日、また、漏れを塞ぐ。


それだけだった。


軽トラックのエンジンを、切った。


工具袋を、肩にかけ直して、車から、降りた。


アパートの、屋上の入口を見上げた。


階段が、まっすぐ上へと、続いていた。


俺はノートを胸ポケットから、出した。


明日の現場の最初のページに、こう、書いた。


「アパート屋上、点検。漏れ、見落とすな」


書きながら、俺はふっと笑った。


岩木さんの口癖が、頭に、響いた。


「ピンホール一つ見逃したら、ビル一棟が、腐るぞ」


俺は頷いた。


「岩木さん、わかってる」


ノートを閉じた。


そして、屋上への、階段をゆっくり上り始めた。


職人の仕事は、続く。

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