第十章 辺境伯領、剣聖ヴァレリア
関所の門は、固く閉ざされていた。
門番の革鎧の兵士が、俺たちの馬車を、警戒した目で、見ていた。
「どちらから」
「王都から、特命で」
御者が、王の紋章入りの書状を見せた。
兵士の目が、見開かれた。
「お、お通りください」
門がゆっくり開いた。
関所の向こうに、辺境伯領が、広がっていた。
地球で見たどんな景色とも、違っていた。
遠くに、巨大な防壁が見えた。
高さが、五十メートル、いや、もっとあるだろう。
その防壁の上に、黒い亀裂が、走っていた。
亀裂の中から、薄い瘴気が、立ちのぼっていた。
それは、空に向かって、上がり、空の半分を、ねっとりと、染めていた。
「あれが、世界の壁ですか」
俺は、御者に聞いた。
「あれは、一部、です」
御者が答えた。
「世界の壁は、もっと、大きい。あれは、大陸の縁に作られた、防衛壁。世界の壁の、一段、内側にある、人間の、防壁です」
「あれは、防衛壁、なのか」
「はい。世界の壁が、漏れたとき、瘴気を、最終的に止めるための、二重壁、です」
「で、その二重壁にも、亀裂が」
「あの亀裂は、ここ三年で、できたものです」
御者の声が、低くなった。
「世界の壁の漏れが、深刻になり、防衛壁にも、瘴気が、染み込んできた、のです」
俺はノートに防衛壁の、亀裂の位置を書きとめた。
辺境伯邸は、関所から、馬車で、半日のところにあった。
石造りの、立派な城だった。
城の門の前で、銀の鎧を着た、若い女性が、待っていた。
赤毛を、後ろで、きつく、束ねていた。
腰に、長い剣を佩いていた。
その目に、強い光があった。
馬車から降りた俺たちを、女性は、じっと、見据えた。
俺、ガイ、リネット、御者の魔術師団員。
その四人の中で、女性の目が、最後に俺の上で、止まった。
「あなたが、和泉殿、と」
女性は、低い声で、聞いた。
「そうだ」
俺は答えた。
女性は、しばらく、俺の顔を見ていた。
それから、ゆっくり、片膝を、地面に、ついた。
俺たち全員が、息を止めた。
女性は、頭を下げた。
「ヴァレリア・グラウベルと、申します。この辺境を預かる、グラウベル家の、長女です」
俺は、何と返していいか、わからなかった。
ガイが横で、口笛を、吹くのを、こらえた気配がした。
ヴァレリアが、頭を上げた。
「父上から、お聞きしました。あなたが、地下水路を、直されたお方、と」
「そう」
「父上、ハインリヒ・グラウベルは、半月前から、瘴気の影響で、伏せっております」
ヴァレリアの声が、低くなった。
「あの防壁、見えましたか」
「見た」
「あの亀裂が、深刻化したのは、半年前。父上が伏せったのは、ひと月前。世界の壁の、本格的な漏れが、辺境を、襲っております」
俺はノートを開いた。
ノートの中の、王から渡された地図を、ヴァレリアに、見せた。
ヴァレリアが、それを見た瞬間、息を飲んだ。
「これは」
「世界の漏れの、分布図だ」
「五百か所、ですか」
「王様の調査では、そうなる」
「これだけの、数」
ヴァレリアが剣の柄を握りしめた。
「我ら辺境伯家は、知りませんでした。教会は、これを、隠していたのですか」
「隠してた」
俺は、短く言った。
ヴァレリアは、しばらく、何も言わなかった。
それから、ゆっくり立ち上がった。
「和泉殿」
「うん」
「私は、この国の、剣聖、と呼ばれております。剣の腕では、誰にも、負けない自信があります。ですが、剣では、世界の壁を、塞げません」
ヴァレリアの目が、強く燃えた。
「あなたの、コテに、私の剣を預けたく、ございます。私の剣は、あなたの足場を、守ります」
俺はしばらく何も言わなかった。
ヴァレリアの剣が、空を、横切る場面を、想像した。
たぶん強い。
たぶんガイより、ずっと強い。
そんな相手が、片膝を、ついている。
俺の、足場を、守る、と言っている。
俺は深く息を吐いた。
「よろしく、頼む」
俺は、短く答えた。
ヴァレリアがふっと頬を緩めた。
その笑顔が、子どものように、嬉しそうだった。
ヴァレリアに案内されて、辺境伯邸の中に入った。
石造りの広間は、思っていたよりも、質素だった。
王宮の応接室のような、金細工も、フレスコ画も、なかった。
壁には、過去の戦の絵が、何枚か、掛かっていた。
それから、各地の地図。詳細に書き込まれた、辺境の地図だった。
ヴァレリアが、地図の前で、足を止めた。
「これは、私が、辺境の防壁を、十年、観察して、つけた記録です」
「君が、書いたのか」
「父上は、ずっと現場にも、立たれてきました。私は、父上について、その下で、現場を、覚えました」
ヴァレリアの指が、地図の、ある場所で、止まった。
「ここ、二週間前、新しい亀裂が、発生しました」
俺は、地図を覗き込んだ。
「ここから、十里、離れた場所に、また、新しい亀裂」
ヴァレリアの指が、地図の上を、移動する。
「この、丘の村、半月前から、住人が、咳き込み始めた」
俺は息を吐いた。
「リアルタイムで、増えてるな」
「リアルタイム」
「現在進行形、と、言い直す」
「はい。日に、日に、増えております」
俺は、ノートを開いて、ヴァレリアの地図を、書き写し始めた。
王から、もらった大陸全土の地図と、辺境の細部の地図を、突き合わせる。
数字が、合わない。
王の地図では、辺境の漏れは、五十か所、と記録されていた。
ヴァレリアの地図では、八十か所、近く、ある。
「王様の地図、足りないな」
「父上は、王様に、定期的に、報告を、上げています。ですが、教会経由で、王様に、届くまでに、数字が、書き換えられているようです」
「クロウドか」
「おそらく」
俺はノートに新しい数字を書きとめた。
書きながら、俺は、ヴァレリアの顔を見上げた。
「ヴァレリア」
「はい」
「本当の、漏れの数、たぶん千を、超えてるな」
ヴァレリアが剣の柄を握りしめた。
「私は、そう、見ております」
「これは」
俺は、しばらく、地図の前で、立っていた。
千か所。
それを、地球の感覚で、考えると、東京、二十三区の、すべての建物の、屋上を塞ぐ、くらいの規模、いや、もっと、大きい。
人間ひとりで、できる仕事じゃない。
「ヴァレリア、辺境伯領の、職人は、何人くらい、雇える」
「現場の補修工なら、五十人」
「魔術師は」
「私の、預かる魔術師は、二十人。それから、各村に散らばる、見習いが、百人ほど」
「冒険者は」
「父上が、これまで信頼関係を、築いてきた者が、二百人。あとは、ギルド経由で、千人は、集められます」
俺は、計算した。
合計、一千人を超える。
それなら、できる。
地球の大規模補修工事の、現場規模だ。
「やるか」
俺は、短く呟いた。
「親方、本当に千か所、塞ぐつもりですか」
ガイが、横から、聞いた。
「塞ぐ」
俺は答えた。
「それしか、ない」
ガイがふっと笑った。
「やっぱ、本物だな、あんた」
ヴァレリアが、地図の前で、深く頭を下げた。
「父上の、寝室に、ご案内します」
辺境伯ハインリヒは、ベッドの上で、目を閉じていた。
痩せていた。頬がこけていた。
それでも、俺の顔を見たとき、ハインリヒは、ゆっくり、目を開けた。
「あなたが、和泉殿、か」
声が、かすれていた。
「そう」
「娘の、ヴァレリアを、よろしく頼む」
ハインリヒは、それだけ、言った。
それから、また、目を閉じた。
俺は、ハインリヒのベッドの脇に、しばらく、立っていた。
リネットが、ハインリヒの額に、手を当てた。
掌の下から、薄い緑の光が、漏れた。
ハインリヒの呼吸が、わずかに、楽になった。
「下級の治癒では、これが、限界です」
リネットが、低い声で言った。
「瘴気の毒は、上級の聖女でないと、本格的には、抜けません」
「上級の聖女、ってのは」
「教会で、認定された、四人だけです」
「四人」
俺はしばらく考えた。
そして、ヴァレリアを、振り返った。
「ヴァレリア、世界の壁を、本格的に塞ぐ前に、まず防壁の亀裂を塞ぐ。そっちの方が、急ぎだ」
「はい」
「明日から、防壁を、調査する。一番、危ない亀裂から、塞ぐ」
「畏まりました」
ヴァレリアが深く頭を下げた。
その夜、辺境伯邸の最上階の窓から、防壁が見えた。
その防壁の上の、黒い亀裂の奥に、夜の闇とは、別の、もっと、深い何かの影が、蠢いていた。
俺は、長い間、その影を見ていた。
やるべき仕事の、輪郭が、見えてきた、気がした。
それは、地球の現場で、最初に屋上に上がったとき、屋上の隅々を、目で測る、あの感覚に、似ていた。
仕事の、最初の感覚だった。




