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『手取り二十二万の男が異世界で一人になる夜、二千八百円の先生に手紙を書いた』 ~先生、俺はここで、ちゃんとやっています~ ep-15

掲載日:2026/05/20

数ある作品の中から見つけてくださりありがとうございます!

本作は【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜シリーズ読み切りです。

 閉店後の厨房は、静かだ。

 リーネは二階に上がった。アル爺は帰った。ハンスは孤児院に戻った。

 油の温度が下がっていく音だけが、厨房に残っている。

 俺は鍋を洗い終えて、カウンターに腰を下ろした。

 棚の一番奥から、折り畳んだ羊皮紙を取り出した。

 この世界に来てから買った紙だ。送り先はない。届かないとわかっている。それでも俺は、定期的にこれを書く。


 魔導インクのペンを取って、一行目を書いた。

 先生へ。

「北里栄三郎先生へ。千円札の顔。俺が最後まで食えなかった、二千八百円のロースかつ定食の話をしてくる男。今夜は全部、話します」


 ◇


 転移したのは、スーパーで半額パン粉を握りしめた瞬間でした。

 袋が黄金色に光って、気づいたら石畳の路地に立っていました。

 最初に言った言葉は「あ゛ー……どこだここ……」でした。

 情けない第一声です。先生に笑われそうですが、本当にそれしか出なかった。

 空気が違いました。湿度が違いました。夕暮れの色が、日本より少し濃くて、琥珀みたいでした。

 そして、揚げ油の匂いが、どこにもしなかった。

 それが一番こたえました。

 手の中のパン粉の袋だけが、さっきまでの俺と繋がっている唯一のものでした。


 ◇


 すぐに王宮に連行されました。

 連行した魔術師が、冷たい声の女でした。後でエルザという名前だとわかりました。

 身元確認の部屋で、俺はこの国の料理が茹でる、煮る、蒸すだけだということに気づきました。

 揚げ油の匂いがしなかった理由が、そこでわかりました。

 この国には、揚げるという調理法が存在しなかったんです。

 先生、俺は本気で絶望しました。

 帰れないことじゃなかったです。

 とんかつが作れないかもしれないことが、怖かった。

 自分でも呆れますが、本当にそうでした。


 ◇


 翌日、王宮の厨房でとんかつを作りました。

 貴族が五人、料理人が十数人、見ていました。

 肉を油に沈めた瞬間、厨房の空気が止まりました。

 この世界の人間が、一度も嗅いだことのない匂いが広がっていきました。

 エルザが一口食べて、泣きました。

「お母様の作った料理と、同じ匂いがします」と言いました。

 先生、俺はそのとき確信しました。

 この世界でも、とんかつは人間を泣かせられる。


 ◇


 王宮直属の料理人の話を断って、路地裏に店を出しました。

 最初は客が来ませんでした。

 当然です。この国に揚げ物を食べる習慣がない。看板を見ても何の店かわからない。

 それでも毎日、開けました。

 問題は出汁でした。

 この国には出汁という概念が存在しなかったんです。魚を茹でて、その湯を捨てる。

 先生、俺は半年かけて出汁を作りました。

 市場で小魚を見つけて、塩水で茹でて、天井から吊るした。

 最初の二回は腐りました。

 腐った魚を捨てながら、俺は一言も言いませんでした。次の魚を買いに市場に戻るだけでした。

 三回目の朝、倉庫に入った瞬間、空気が違いました。

 表面に白い粉が吹いた干し魚を煮出すと、淡い黄金色のスープが取れました。

 一口すすって、床に座り込みました。

 やっとスタートラインに立てた。

 それだけの話でしたが、半年かかりました。


 ◇


 そこにリーネが来ました。

 追放された聖女で、革袋から味噌と醤油と米を出してきました。

 先生、米です。白い米です。

 この世界に米がないことが、もう一つの絶望でしたが、リーネの袋から出てきました。

「美味しいものを作れる人のそばに、この子たちを置いてあげたかったんです」と言いました。

 俺はその日から、とんかつ定食が完成しました。


 ◇


 それから、いろんな人間が来ました。

 先生に順番に話します。

 不当解雇されて銀貨三枚しか持っていなかった元騎士、カトリーヌが来ました。泥水が顔に跳ね返る雨の夜でした。一口食べて、「負けっぱなしで終われるか」と言いました。

 六年間、職場に期待という名の鎖で繋がれた魔導師、エルザが来ました。七日分のとんかつを閉じ込める弁当箱を作るために、歯を折りながら研究室に籠もった女です。

 十七年間泣けなかった食評家、オスカーが来ました。泣きながら、翌日から毎日来るようになりました。

 大陸中の物価を動かしてきた大商人、グスタフが来ました。金貨千枚を断ったら、翌週から銀貨三枚を握りしめて一人で来るようになりました。

 王宮を追われた七十二歳の老料理人、アルベルトが来ました。弟子入りを三日間断り続けたら、気づいたら出汁担当になっていました。今は毎朝一番に来て、蒸籠を磨いています。

 十歳の孤児、ハンスが来ました。銀貨三枚を稼ぐために皿洗いをしに来た子供です。三年間泣かなかった子が、定食を食べて泣きました。今は毎朝来て皿を洗っています。

 酔った騎士団長が来ました。二十年間部下の前で泣いたことがない男が、エルザの話をしながら泣いて帰りました。

 先生、みんな何かを失った人間です。

 そして全員、銀貨三枚で来ました。


 ◇


 一つだけ正直に言います。

 今でも日本に帰りたいと思う夜があります。

 コンビニのサンドイッチが食べたい夜があります。

 自動販売機の缶コーヒーが飲みたい夜があります。

 満員電車が嫌いだったくせに、あの雑踏が懐かしい夜があります。

 先生の顔の千円札で、先生の名前がついた店のとんかつ定食を食べたい夜があります。

 でも先生、今日ハンスが定食を一口食べた顔を見たとき、思いました。

 あの顔を作りたくて、俺はここにいるんだと。

 銀貨三枚で、あの顔が作れる。

 それだけで、十分です。


 ◇


 ペンを置いた。

 カウンターに魔導インクの染みができていた。

 俺は窓の外を見た。

 路地裏の夜空に、星が出ている。

 日本の星とは少し違う並びだ。最初は気になったが、今はもう慣れた。

 二階から足音がした。

 リーネが階段を降りてきた。

「お兄さん、まだ起きてたんですか」


「少しやることがあった」


 リーネが厨房を覗いた。

「手紙、書いてるんですか」


「そうだ」


「誰に?」


「日本にいる人間だ」


「届くんですか」


「届かない」


 リーネはしばらく黙った。

 それから、隣に座った。


「……私も、追放された夜に手紙を書きました。誰に宛てるかわからないまま、ただ書きました」


「届いたか」


「届きませんでした。でも書いてよかったです」


「なぜ」


「書いたら、続きが生まれた気がしたんです。あの夜の続きに、ここがあるって」


 俺は手紙に目を戻した。

 最後の一行を書いた。


「先生、俺はここで、ちゃんとやっています」

 紙を折りたたんで、棚の一番奥に戻した。


「お兄さん」


「なんだ」


「明日の仕込み、一緒にやりますか」


「お前は寝ていい」


「眠れないんです」


「……しょうがないな」


 俺は立ち上がって、鍋に水を入れた。

 明日の出汁の仕込みを始めた。

 リーネが隣に立って、味噌の確認を始めた。

 路地裏の夜が、静かに続いている。

 先生、俺は今日も、ここで揚げています。


 ジュワァァァ……。

 鍋の中で、水が温まり始めた。


(完)


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