『手取り二十二万の男が異世界で一人になる夜、二千八百円の先生に手紙を書いた』 ~先生、俺はここで、ちゃんとやっています~ ep-15
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本作は【異世界定食】〜とんかつ屋「揚太郎」に集う、ワケありな人々〜シリーズ読み切りです。
閉店後の厨房は、静かだ。
リーネは二階に上がった。アル爺は帰った。ハンスは孤児院に戻った。
油の温度が下がっていく音だけが、厨房に残っている。
俺は鍋を洗い終えて、カウンターに腰を下ろした。
棚の一番奥から、折り畳んだ羊皮紙を取り出した。
この世界に来てから買った紙だ。送り先はない。届かないとわかっている。それでも俺は、定期的にこれを書く。
魔導インクのペンを取って、一行目を書いた。
先生へ。
「北里栄三郎先生へ。千円札の顔。俺が最後まで食えなかった、二千八百円のロースかつ定食の話をしてくる男。今夜は全部、話します」
◇
転移したのは、スーパーで半額パン粉を握りしめた瞬間でした。
袋が黄金色に光って、気づいたら石畳の路地に立っていました。
最初に言った言葉は「あ゛ー……どこだここ……」でした。
情けない第一声です。先生に笑われそうですが、本当にそれしか出なかった。
空気が違いました。湿度が違いました。夕暮れの色が、日本より少し濃くて、琥珀みたいでした。
そして、揚げ油の匂いが、どこにもしなかった。
それが一番こたえました。
手の中のパン粉の袋だけが、さっきまでの俺と繋がっている唯一のものでした。
◇
すぐに王宮に連行されました。
連行した魔術師が、冷たい声の女でした。後でエルザという名前だとわかりました。
身元確認の部屋で、俺はこの国の料理が茹でる、煮る、蒸すだけだということに気づきました。
揚げ油の匂いがしなかった理由が、そこでわかりました。
この国には、揚げるという調理法が存在しなかったんです。
先生、俺は本気で絶望しました。
帰れないことじゃなかったです。
とんかつが作れないかもしれないことが、怖かった。
自分でも呆れますが、本当にそうでした。
◇
翌日、王宮の厨房でとんかつを作りました。
貴族が五人、料理人が十数人、見ていました。
肉を油に沈めた瞬間、厨房の空気が止まりました。
この世界の人間が、一度も嗅いだことのない匂いが広がっていきました。
エルザが一口食べて、泣きました。
「お母様の作った料理と、同じ匂いがします」と言いました。
先生、俺はそのとき確信しました。
この世界でも、とんかつは人間を泣かせられる。
◇
王宮直属の料理人の話を断って、路地裏に店を出しました。
最初は客が来ませんでした。
当然です。この国に揚げ物を食べる習慣がない。看板を見ても何の店かわからない。
それでも毎日、開けました。
問題は出汁でした。
この国には出汁という概念が存在しなかったんです。魚を茹でて、その湯を捨てる。
先生、俺は半年かけて出汁を作りました。
市場で小魚を見つけて、塩水で茹でて、天井から吊るした。
最初の二回は腐りました。
腐った魚を捨てながら、俺は一言も言いませんでした。次の魚を買いに市場に戻るだけでした。
三回目の朝、倉庫に入った瞬間、空気が違いました。
表面に白い粉が吹いた干し魚を煮出すと、淡い黄金色のスープが取れました。
一口すすって、床に座り込みました。
やっとスタートラインに立てた。
それだけの話でしたが、半年かかりました。
◇
そこにリーネが来ました。
追放された聖女で、革袋から味噌と醤油と米を出してきました。
先生、米です。白い米です。
この世界に米がないことが、もう一つの絶望でしたが、リーネの袋から出てきました。
「美味しいものを作れる人のそばに、この子たちを置いてあげたかったんです」と言いました。
俺はその日から、とんかつ定食が完成しました。
◇
それから、いろんな人間が来ました。
先生に順番に話します。
不当解雇されて銀貨三枚しか持っていなかった元騎士、カトリーヌが来ました。泥水が顔に跳ね返る雨の夜でした。一口食べて、「負けっぱなしで終われるか」と言いました。
六年間、職場に期待という名の鎖で繋がれた魔導師、エルザが来ました。七日分のとんかつを閉じ込める弁当箱を作るために、歯を折りながら研究室に籠もった女です。
十七年間泣けなかった食評家、オスカーが来ました。泣きながら、翌日から毎日来るようになりました。
大陸中の物価を動かしてきた大商人、グスタフが来ました。金貨千枚を断ったら、翌週から銀貨三枚を握りしめて一人で来るようになりました。
王宮を追われた七十二歳の老料理人、アルベルトが来ました。弟子入りを三日間断り続けたら、気づいたら出汁担当になっていました。今は毎朝一番に来て、蒸籠を磨いています。
十歳の孤児、ハンスが来ました。銀貨三枚を稼ぐために皿洗いをしに来た子供です。三年間泣かなかった子が、定食を食べて泣きました。今は毎朝来て皿を洗っています。
酔った騎士団長が来ました。二十年間部下の前で泣いたことがない男が、エルザの話をしながら泣いて帰りました。
先生、みんな何かを失った人間です。
そして全員、銀貨三枚で来ました。
◇
一つだけ正直に言います。
今でも日本に帰りたいと思う夜があります。
コンビニのサンドイッチが食べたい夜があります。
自動販売機の缶コーヒーが飲みたい夜があります。
満員電車が嫌いだったくせに、あの雑踏が懐かしい夜があります。
先生の顔の千円札で、先生の名前がついた店のとんかつ定食を食べたい夜があります。
でも先生、今日ハンスが定食を一口食べた顔を見たとき、思いました。
あの顔を作りたくて、俺はここにいるんだと。
銀貨三枚で、あの顔が作れる。
それだけで、十分です。
◇
ペンを置いた。
カウンターに魔導インクの染みができていた。
俺は窓の外を見た。
路地裏の夜空に、星が出ている。
日本の星とは少し違う並びだ。最初は気になったが、今はもう慣れた。
二階から足音がした。
リーネが階段を降りてきた。
「お兄さん、まだ起きてたんですか」
「少しやることがあった」
リーネが厨房を覗いた。
「手紙、書いてるんですか」
「そうだ」
「誰に?」
「日本にいる人間だ」
「届くんですか」
「届かない」
リーネはしばらく黙った。
それから、隣に座った。
「……私も、追放された夜に手紙を書きました。誰に宛てるかわからないまま、ただ書きました」
「届いたか」
「届きませんでした。でも書いてよかったです」
「なぜ」
「書いたら、続きが生まれた気がしたんです。あの夜の続きに、ここがあるって」
俺は手紙に目を戻した。
最後の一行を書いた。
「先生、俺はここで、ちゃんとやっています」
紙を折りたたんで、棚の一番奥に戻した。
「お兄さん」
「なんだ」
「明日の仕込み、一緒にやりますか」
「お前は寝ていい」
「眠れないんです」
「……しょうがないな」
俺は立ち上がって、鍋に水を入れた。
明日の出汁の仕込みを始めた。
リーネが隣に立って、味噌の確認を始めた。
路地裏の夜が、静かに続いている。
先生、俺は今日も、ここで揚げています。
ジュワァァァ……。
鍋の中で、水が温まり始めた。
(完)
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