第9話 眠れない夜の処方箋
「おお、今日もイケメン君だね」
「私だって、すぐわかるって言ってませんでしたっけ?」
「俺はね」
ドアの向こうに立っていたのは、やっぱりシン君だった。
思わず、胸の奥が小さく跳ねる。
他の人に見られたらまずい。
辺りをさっと見渡してから、急いで中に入ってもらった。
「今日もどうかな?」
一瞬、私は言葉に詰まる。
シン君はすぐに察して、少し困ったように笑う。
「ごめん。無理させたかったわけじゃないんだ」
そう言って、踵を返しかける。
私は反射的に、その背中を呼び止めていた。
「行きたいです!」
言ってしまってから、胸の奥が少しだけ熱くなる。
大胆すぎたかもしれない。
けれど、シン君の表情はぱっと明るくなった。
「もちろん」
その一言に、こわばっていた肩の力が抜ける。
ほっと、小さく息がこぼれた。
シン君の部屋へ向かう前に、
私はキャップを深く被り、メガネとマスクをつける。
さらにパーカーを上げ、厚底スニーカーを履いた。
並んで歩きながら、シン君がちらりとこちらを見る。
「俺、175cmだけど……ほんと、少ししか変わらないね」
「厚底が8センチなので。今、私たぶん172cmです」
そう答えると、シン君は「ククク」と息を漏らして笑った。
「確かに、防犯カメラには若い男の子にしか映らないかも」
「こういう時、ちょうどいい変装だと思いませんか?」
「うん。服装も身長も……うちのメンバーのノアみたい」
「そ、そうですか?」
「うん。かなり似てる」
(やっぱり……)
私がMUSEのシンガー、ノア君を意識していることは、
すぐに見抜かれてしまう。
でも、不思議と恥ずかしさより、嬉しさのほうが勝つ。
真似する歩幅が、ほんの少し軽くなる。
他の人に見つからないよう気を配りながら、
エレベーターで最上階へ。
昨日と同じように、スタッフを呼ぼうとしてくれたけれど、
私は首を振った。
「ドアを開けておくだけで、大丈夫です」
両隣のマネージャーさんたちの部屋から、
人の気配や声が聞こえていたからだ。
大きなソファに腰を下ろした瞬間、
視界いっぱいに、海と街の灯りが広がる。
やっぱり――息をのむほど、幻想的だった。
「わあ……」
思わず、ため息が漏れる。
「景色の写真、撮ってもいいですか?」
「どうぞ」
シン君はポットでお湯を沸かし、
温かいお茶と、小さな茶菓子を用意してくれた。
そして彼は、少し離れた一人用の席に、ちょこんと腰掛ける。
その距離感に、胸が静かに落ち着いていく。
私はカップを両手で包んだ。
大きな海。
静かに浮かぶ、綺麗なお月様。
きっと夕暮れ時は、もっと息をのむほど美しいのだろう。
そんなことを思いながら、私はもう一度、夜景に目を向けた。
シン君は、カップに口をつけてから、ぽつりと言った。
「こういう撮影、初めてだけど
……なんだか、ライブの後に似てる感じがして」
「ライブ、ですか?」
「うん。すごい体験をしてさ。
たくさんの人の前で、ライトを浴びて、
感動とか興奮とか、全部を一気に受け取るでしょ」
そう言いながら、少しだけ首を傾げる。
「……なのに、そのあと、布団に入ったら、
ただ……無になって寝るしかない。
俺、この時間が、結構モヤモヤして、きつくて」
「ああ……」
思わず、声が漏れた。
(私たちファンは、友達と語り合ったり、
余韻に浸ったりできる時間)
でも、彼らにはそれが許されないのだ。
すごいことをやり遂げても、
誰かと喜び合えず、静かにしなければならない時間。
表彰されても、毎回祝賀会があるわけじゃない。
「俺、本当に寝るの下手なんだ」
「特大ホームラン打ったあとに、
何事もなかったみたいに眠れる選手とか、すごいですよね」
「うん。スポーツ選手って、
平常心が大事ってよく言うよね。
興奮が冷めやらない気持ちをどうやり過ごしたらいいのやら……」
シン君は照れたように笑った。
「ごめん、急にこんな話をペラペラと」
「むしろ、こんなすごい方の感性豊かなお話聞けて嬉しいです」
彼は、少し間を置いて、こちらを見る。
「お酒を飲む人や、サウナで整える人の話も聞くけど……
ユキさんも、何かしてることある?」
まさか、そんなふうに聞かれるとは思わなかった。
何万人も入るライブ会場を支配する人だ。
きっと普通では想像もできないほど、
とてつもなく大きなものを抱えてるのだろう。
一度カップを置いて、私はスマホの画面を差し出した。
「私も、色々試しますけど、 この<失眠>というツボを押してます」
「ええ?!」
「私も全然、眠れない方なので、調べたんです。
足のかかとの真ん中にあるツボを、思いきり押すといいって!」
私のスマホの画面を見て、シン君はボソッと
「……え。どうして“眠るを失う”って書くんだろ……」
と呟いた。
(天才って、こういう細かいところに引っかかるんだな……)
「それは謎ですけど!
一回、試してみてもいいですか?」
私は一瞬立ち上がった。
「いやいや、俺の足、汚いって!」
シン君は、身体を斜め後ろに引いた。
「汚くないです!」
「そんな、お手を汚すわけには……」
「親指の第二関節とか、肘でやります!」
「ひ、肘?!」
そんなやりとりをしているうちに、
気づけば、二人とも声が大きくなっていた。
その時。
「おい、シン!」
背後から、まさかの声がかかる。
二人の身体が固まった。
「寝るって言ってたのに、なんだ?ノア呼んだのか?」
——マネージャーさんが、通路に立っていた。
(メガネもフードも被ったままでよかった……!)
通路はソファの背後で、こちらの顔は見えていない。
私は外の黒いガラス越しに、マネージャーさんに軽く会釈した。
パーカーの中の顔は映っていないはずだ。
「びっくりしたよ。
部屋のドア、開いてたからさ」
「ごめんごめん」
「ちゃんと戸締まりしないと〜!」
「うん」
シン君は動じることなく答えながら、
こちらに一瞬だけ目配せをした。
「明日早いんだから、シンはさっさと寝ろよー!
ノアも、すぐ帰れよ!」
そう言い残して、マネージャーさんはドアを閉めて去っていった。
ガチャン。
その音を聞いた瞬間、
二人で顔を見合わせて、無音で笑う。
「……うちのマネージャーまで騙せるとは」
「すごいですね……」
「声、聞かれてたような気もするけど……」
二人で笑いながら、ほっと一息つく。
「ほんと、ユキさんといると、色々起きて笑っちゃう」
「普段はこんなじゃないですからね!本当に!」
「ほんと?」
シン君は目を細めて続けた。
「でもさ、昨日もすぐ寝れたんだ。
おかしくて笑ってて、気づいたら寝てた」
その無邪気な笑顔を見て、胸の奥が、少しだけ軽くなる。
「……それならよかったですけど……
でも本当に、普段はもっとまともですから!」
「わかった、わかった」
シン君は笑って言った。
「でも、今日もよく眠れそうな気がする」
「その言葉を聞いて安心しました。
……だからといって、
毎回こんなこと期待されても困りますけど……」
「はは。大丈夫だよ」
他愛ない会話。
そして、彼の大好きな笑顔。
この温かい時間に、心から感謝した。
「ノアにも、口裏合わせるよう言っとく」
「えっ……そんな、いいんですか?」
笑い合って、シン君は目線を落とした。
「なんか……俺が落ち着きたいからって
お茶に誘って、ごめん。
今の話の通り、毎回、頼るようなことしちゃいけないよね」
「す、すみません!生意気なこと言って!
……私で何かできるなら、何でも言ってください!」
(こんなにずっと支えてくれた、
大好きな推しが困ってるのに、何もしてあげられないなんて)
胸の奥が、少しだけ痛む。
「他にも思いついたら、絶対連絡しますね!」
「はは。連絡先、知らないでしょ?」
「……そうでした」
そうして、思いがけず、連絡先を交換することになった。
(MUSEのシン君の連絡先を知ってしまった!!!
……だからって、何かが変わるわけじゃないけど)
それでも、
この夜が、すごく特別になった気がしていた。
少し時間を置いて、彼に見張ってもらいながら
そっと、自分の部屋へ降りた。




