第5話 夢が始まる海辺
「十一時まで休憩を挟ませてくださーい!」
ADの声が、海辺に響いた。
都内のスタジオで、多くのシーン撮影を終えた後。
本当に海辺にある古い診療所と海でのロケ合宿が始まった。
この集中撮影は、三泊四日のスケジュール。
その初日、しかも午前中からの中断に、現場の空気がざわつく。
「え、もう休憩?」
「初日からこれはキツいな……」
そんな声があちこちから上がる中、
マネージャーが私の顔を覗き込んだ。
「ユキ、先にご飯と買い出し行く?」
「行ってきてください」
「ユキは?」
「私、お腹空いてなくて。それに…… ちょっと状況を聞いてこようかなって」
一瞬迷ったあと、マネージャーは頷いた。
「わかった。時間に戻るね。必要なものがあったら連絡して」
「ありがとう」
彼女と別れ、私は一人で撮影現場の奥へ向かった。
「本当に、申し訳ありません……!」
「撮影中にこれは困るわよ。どうしてこうなったの……」
視界の先で、
脇役の看護師役を務める新人女優が、
主演のリカに深く頭を下げていた。
その周囲を囲むように、
監督、美術スタッフ二人、ADたちが集まっている。
——原因は、すぐにわかった。
セットの壁。
その一部が、はっきりと“穴”になっている。
「……どうしようか」
「美術監督、明日からなんですよね」
「木と石膏で、応急的に直すことはできると思うんですが……」
「ちゃんと綺麗に戻るのか? ここ、物で隠すわけにもいかないし」
「時間は、かかります……」
全員の視線が、穴と、時計とを行き来していた。
——気づいたら、声が出ていた。
「……私も、手伝えます!」
「え?」
一斉に視線が集まる。
「ずっと美術のバイトをしてきたんです。
壁の補修、ちゃんと綺麗に直せます」
「……本当に?」
「はい。今まで関わったセットや、修復の写真もあります」
スマホを取り出し、
これまでの現場写真を見せると、
美術スタッフさんが小さく息を呑んだ。
「……これ、プロレベルだね」
「役者さんなのに?」
監督が顎に手を当て、少し考える。
「……時間分、ギャラ出すから」
「ありがとうございます」
思わず、笑みがこぼれた。
「じゃあ……頼んだよ」
そう言い残し、
監督とキャストたちは別の打ち合わせへと散っていった。
残されたのは、壁の穴。
久しぶりに胸の奥が少し熱くなる。
「じゃあ、分担して一気にやりましょうか!」
「はい!」
美術のお二人と手順を確認し、
ペンキ作り、塗り直し、
そして最後に“傷や古い痕をつける仕上げ”。
三人で無駄のない動きで、それぞれの工程を回していく。
体が、勝手に覚えている。
ローラーを動かしながら、
無意識に、いつもの曲を歌っていた。--
♪
隣にいてくれるだけで勇気が出る
君がいるから力が湧く
気持ちを全部、残らず聞かせて
僕の宝物にするから
♪
「わあ……それ、誰の曲ですか?」
「飯島ユキが生で歌ってくれるなんて! 可愛い声が聴けて嬉しいですー!!」
思いがけない反応に、手が止まる。
そんなふうに言ってもらえるなんて。
「……アルバム曲なので、あまり知られていないかもです」
思わず照れて、笑ってしまう。
「へー!誰のだろう?」
「ふふ」
みんなで笑いながら手を動かしていると--
「じゃあ、なんでその曲知ってるの?」
不意に、低い男性の声が割り込んだ。
——え?
三人同時に顔を上げる。
そこに立っていたのは、
いつの間にか現場入りしていたシン君だった。
「わっ……!
シンさん、もう到着してたんですか?」
「連絡、行ってませんでした?今、現場、押してて……」
美術スタッフの二人が、慌てて立ち上がる。
(……まずい。作者に聞かれるとは……)
胸が一瞬、きゅっと縮む。
(ファンだって、できればバレたくなかったのに……)
シン君は、柔らかく首を振った。
「連絡はいただいてたんだけど。
ちょうど、美味しそうなカフェオレとパン見つけて」
そう言って、手にしていた紙袋を持ち上げる。
「頑張ってるお三方にどうかなって思って」
「ええっ……!?なんてお気遣い!!」
「良いんですか?」
「作業が終わる頃に食べてくださいね」
「わざわざ……本当にありがとうございます!」
「さすがトップアイドル!!」
美術スタッフの二人は、すっかり感激していた。
私もお礼を言って、心の中で、そっと祈る。
(……さっきの歌のこと、どうか、深掘りされませんように……)
それからは、とにかく集中した。
ペースを上げて、最後の仕上げへ。
少しだけ汚れた感じ。
年月が経った壁の“味”。
三人で微調整を終え、監督を呼ぶ。
「……うん。いいね」
OKの声が出た瞬間、
思わず三人で、ぱっと手を合わせた。
「よかったね……!」
「一番メインの診察室だったから」
「これなら、十一時から撮影再開できるね」
顔を見合わせて、笑う。
いつの間にか、すっかり打ち解けていた。
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「ユキさん、急いでメイクとセットしないと!」
「わあ、ご飯食べる時間なくなっちゃったね。大丈夫?」
「カフェオレとパン、いただきます!
くわえながら、なんとか……」
「ははは。“くわえる”って」
「言い方〜!」
笑いながら二人に挨拶し、私は急いでメイク室へ戻った。
まずはペンキと塗料を落とし、
スキンケアをしながらパンをかき込んだ。
ドラマの専属メイクさんが他で手いっぱいになることも多いため、
自分で仕上げられる準備は、いつもしていた。
カフェオレを一口。
下地、ハイライト。
落ち着いて、順番通り。
カウンセラー役用のアイラインは、
事前にもらっていた指示書通りに薄めだった。
しっかり目尻まで引こうと、
片腕でまぶたを持ち上げ、
鏡にぐっと近づいた。
その時——
隣に、誰かが座った気配。ブラックベリーの香りがした。
「うわああ!」
思わず声が出た。
「ふふふ。君、自分でアイライン引くんだね」
——出た!!シン君。
慌てて、不格好に上げていた右腕を下ろす。
(どうして、こういうところばっかり見られちゃうんだろ……)
「美術もできて、メイクもできて。
みんなの仕事奪っちゃダメだよー」
「担当さんがいる時は、ちゃんとお任せしてます……」
「手先、器用なんだね」
くくっと息を漏らして笑う。
彼についているメイクさんまで、こちらを見て吹き出した。
「それとさ」
鏡越しに、シン君が言う。
「さっき、俺の曲、歌ってなかった?」
「……え?」
「『教室時代』っていう、昔のアルバム曲だけど」
「ええっと……」
「え、もしかして、知らなかったの?」
「友達がよく歌ってて……あの部分、すごく好きなんです」
その言葉に引っかかったのか、
彼はメイク中なのも忘れたように、
大きく身を引いてこちらを見た。
「え?あれ、カラオケにも入ってないよ?」
「ずっと大道具のバイトしながら、
親友二人と一緒に歌ってました」
「……作業中に?」
「はい。セット設営しながら歌う、
私たちの“労働歌”です」
(本当のことだから……いいよね?)
すると、シン君は一瞬言葉を失ったように、
口元を手で押さえた。
「“隣にいてくれるだけで勇気が出る”とか、
“話を聞かせて”って歌詞が。
私の、友達への気持ちそのもので。
作業しながら、力が湧いてくるようなフレーズです」
彼は黙って聞いていたけれど、
やがて、じっとこちらを見つめてきた。
「……まさかそれを労働歌にしてくれるなんて。
すごく光栄で、なんて言ったらいいのか」
「あんな歌を作られているなんて本当にすごいです!
私たちの気持ちを、代弁してくれて……
あの曲は、私の心の支えです。
本当に、ありがとうございます」
そう言った瞬間。
ぎゅっと、
彼の手が、私の手を掴んだ。
「……ありがとう」
熱のこもった、真っ直ぐな握手。
「君が、僕の曲を歌ってくれてたなんて……感動だよ!」
「え、え……?」
戸惑う私をよそに、彼はぶんぶんと手を振りながら続ける。
「ねえ!ご友人二人には何がいいかな?
サイン? 私物? どっちがいい?」
「……え?」
「財布とか手帳?」
(待って待って……!
二人とも、MUSEでも別のメンバー推しだけど……
でも、もらえたら嬉しいよね……?
というか、私が一番欲しい……)
頭が追いつかず、黙り込んでいると、
シン君は少し屈んで、私の顔を覗き込んだ。
「どうする?」
その瞬間。
「——まもなく撮影でーす!皆さん、準備できましたか?」
ADさんの大きな声が響く。
「はい!」
私は反射的に返事をしてしまったが、
ADさんがこちらを見て、ぴたりと止まった。
そこへ、シン君が笑いながら口を挟む。
「ねえ、ユキさん。まだ唇、真っ白だよ」
「——っ!」
「あははは!」
(恥ずかしすぎる……)
「す、すぐ準備します!」
「じゃあ、五分でお願いします!」
ADさんは駆け足で戻っていく。
「話は、後でね」
彼は楽しそうに笑った。
(本当に、彼には道化だと思われてるだろうな)
そう思いながら、横目で彼を伺ってしまう。
目を閉じて、メイクさんにアイメイクを直されていた。
私は慌ててリップを探し、
凛子に合わせた
薄めのレッドを、そっと唇にのせた。
さっき、ぎゅっと握られた手が少しだけ震えているのを
誰にも気づかれないように隠しながら。




