第18話 星空の展望台
最終の撮影が終わり、現場を離れ、シャワーを浴びた。
撮影ではいつも、
監督や助監督から細かい指示を受ける。
立ち位置。
カメラの角度。
抱きしめるための距離や、腕の回し方。
指先の触れ方まで。
普段は、指示通り行動することで頭がいっぱいだ。
でも——
今日は、心臓の高鳴りと、手の震えが、まだ収まらなかった。
シン君という存在に、
血や細胞がざわついしまっていた。
仕方のないことだし、
もしかしたら、人生で一度きりの感覚かもしれない。
だったら——
この切なくて、苦しいほどの高鳴りを、
味わいきるしかない。
部屋で心配そうに待っていたミナコが明るく笑う。
「ノア君がね、すぐそこの展望台まで、
四人でドライブしないって?」
頷いて、ミナコの手を取った。
明日も朝から撮影がある。
それでも、今日わずかでも外の空気を吸いたかった。
パーカーとスウェットを羽織った。
浴室を出ると、
ミナコも似たようなセットアップ姿で立っていた。
「全員ジャージだったら、スタジオのダンス練習みたいだね」
鏡を見ながら、ミナコがニヤッと笑う。
———————
駐車場に降りると、
ミナコと並んで後部座席に座った。
すぐにエレベーターが開き、
ノア君とシン君が降りてくる。
ノア君の薄いグレーのウィンドブレーカー姿を見た瞬間、
ミナコが吹き出した。
「ちょっと、すごい。おんなじ服!」
「二人、ここまでして合わせてたの?」
運転席に乗り込んだノア君が、こちらを振り返って笑う。
「展望台の高台、ほんとすぐ近くなんだ!」
ノア君はスマホで調べた地図を見せながら、
軽やかにハンドルを切る。
助手席のシン君は、
いつものように穏やかに笑っていたけれど、
表情をうかがった、その一瞬で、
車はもう展望台に着いていた。
丘の上の展望台は、思っていた以上に開けていた。
海沿いに並ぶいくつものベンチ。
すぐ上がったところは真っ暗な海の方で
たくさんの星が見えた。
地図によると右奥に進むと、
街の明かりも見える場所があるようだった。
シン君が、左手側のベンチに向かおうとした時だった。
「俺たち、あっちで夜景見てきていい?」
ノア君がそう言って、ミナコと顔を見合わせる。
「奥まで行って、戻ってくるね!」
二人は大きく手を振って、右手の明るい方へ歩いていった。
背の高いミナコのジャージ姿は、
ノア君と並ぶと、双子みたいで可愛い。
結構暑いのに、
私はフードも帽子もかぶったまま、
シン君の隣に腰を下ろした。
遠くに、数人のカップルの影が見える。
それでも、海の音がはっきり聞こえるくらい、
辺りは静かだった。
シン君は、満点の星空を仰いだ。
そして、ふと目線を落とす。
「水筒にお茶、淹れてきたんだけど……飲む?」
「ありがとうございます」
ショルダーバッグから、
お菓子と水筒を取り出すシン君の手が、
少しだけぎこちない。
「……こんなこと言うの何だけど」
一度、言葉を探すように間が空く。
「俺、あのシーンの後で、ずっと緊張してて」
私もです、と言いかけた時、
シン君の言葉が続いた。
「女優さんって、毎回あんなシーン撮るんだよね。すごいなって」
「そうですか?」
「だって……ドキドキしたり、
自分の気持ちが揺さぶられたり、
不安定にならないの?」
「……え?」
「撮影のたびに、こんなことになったりするの?」
あまりにも真っ直ぐな問いかけに、
一瞬、言葉を失った。
子供みたいに、
不安をそのまま口にしている。
私は一度、ゆっくり深呼吸をして、素の気持ちを言葉にした。
「普段は、自分の感情が
役に引っ張られることは、全くないです」
そう、言い切った。
それは、本当のことだった。
今までは——。
「……そ、そうなんだ」
思っていた以上に、シン君はたじろいだ。
お茶の水筒の蓋を開けようとして、途中で手が止まっている。
「一応、私もプロとしてやっているので。
今まで、気持ちが揺さぶられたことはなかったです。
スタッフさんも、ちゃんといますから」
言葉を重ねるほど、
シン君は罰が悪そうな顔になっていった。
「……そ、そっか」
少し焦ったような、その表情を見て、
やっぱりこの人は普通じゃない、と思う。
すべての出来事に、まっすぐ心を差し出してしまう人。
「ごめんね。いつも変なこと言って」
そう言って、なぜか水筒を閉め、
シン君は立ち上がろうとした。
私は思わず、ほんの少しだけ手を上げて声を出す。
「いえ。そこが、シン君のすごいところなんです」
彼の目を見る。
逃げずに、ちゃんと伝えようと思った。
「……どうして?」
彼は座り直し、両手を膝に置いてこちらを見る。
「シン君は、他の人と、違うんだと思います。
目に入るすべての現象に敏感でしょう?」
「……?」
私は言葉を選びながら、続けた。
「歌詞にも現れてますけど、
どんな小さなものにも全部に、
息遣いや心や血が通っていることを感じる方ですよね」
私の視線を、
シン君は驚くほど静かな表情で受け止めていた。
「……そう、かな?」
「今から私が話すとこと、
引かれるかもしれませんが」
彼の喉仏が、こくりと動く。
「背中を拭いた時も、指先の動きも。
シン君は、他の人と全然違いました」「……そうなの?」「はい。台詞合わせの時から、そうです。
シン君の身体には、役の陸さんの心や息遣いが、
そのまま宿ってしまう感じがして」
「……みんな、そうじゃないの?」
私は一度息を吸って、正直に答えた。
「レベルが、少し違います。
細胞レベルというか……」
一瞬迷って、言葉を続ける。
「背中に触れた時も、さっきのシーンも、
肌から伝わってくるものが強すぎて。
私、ドキドキしすぎて、心臓が飛び出るかと思いました」
「……え……?!」
「私の手、震えてたの、気づきませんでした?」
自分の手を押さえると、
シン君も慌てて自分の手を見つめる。
「……わかんなかった。俺も、震えてたかも」
顔を見合わせて、
思わず二人で笑ってしまった。
「なんなんでしょうね、この感じ。
繊細な感覚が、そのまま伝わってきちゃって」
「……ごめん」
「本当に、普段はこんなことないんですよ。私もプロなので」
「うん」
シン君は、さっきとは違って、安心したように笑った。
「……なんかさ。ほんと、ごめん。
ユキちゃんに、いつも、助けてほしいって騒いで」
「全然……」
「撮影の後、気持ちが変だとか、
追いつかないとか……
メンタル弱いの、全部晒しちゃって」
「そんなこと、ありません」
俯くシン君の肩。
そこに、精霊みたいな何かが、
全ての物事や思いを、
たくさん背負わせてしまうんだろう、と思った。
——この言葉を聞ける立場にいる私は、
きっと幸せ者だ。
私は気づけば、彼に近づいていた。
「こんなふうに、創造主の苦悩を間近で見られて、
私は本当に幸せです」
気づくと、両手で彼の手を握っていた。
驚いたように、シン君が顔を上げる。
「本当に、尊敬しています。
その感覚の素晴らしさが、
きっと、また素敵な曲や歌詞になると思っています」
そう言いながら、
私は無意識に、彼の手をゆっくり撫でていた。
(……本当は、私自身を落ち着かせているのかもしれない。
彼だけじゃなく、
私の感情も、かなり危うい)
近距離で、見つめ合う。
シン君が、真っ赤な顔で目を細めてこちらを見ていた。
はっとして、私は手を離す。
「ご、ごめんなさい。急に、偉そうなこと言って」
「いや。……すごく、救われた。ありがとう」
「……嫌じゃ、なかったですか?」
「すごく嬉しいよ。
MUSEはただのアイドルで、
俺の曲なんてお飾りとしか言われないのに」
「……絶対に違います」
「本当に、ありがとう。ユキちゃん」
赤い顔の彼が、にっこりこちらを見る。
照れくさくなって、私はお茶の水筒に手を伸ばした。
「私、淹れます」
「もう大丈夫だよ。ちょっと待っててね」
「ありがとうございます」
ぎこちない空気で、少し恥ずかしいのに、
なぜか胸の奥は、じんわりと温かかった。
(……もっと、シン君の側にいたい)
手を握ったとき、
そのまま肩にも手を回したかった。
思いきり、抱きしめたかった。
もちろん、そんなことはできない。
それでも——
あの瞬間の私を、責めずに受け止めてくれた。
柔らかい手と、穏やかな目の表情。
お菓子を食べて、
お茶を飲んで、
顔を見合わせて、また笑う。
海からの風が、ふわりと髪を撫でた。
全身が、言葉にできない幸福感に包まれる。
「明日はキスシーンだし大変だー」
「ふふ。大丈夫ですよ」
「……また、手を握りに来てくれたらいいのにな」
「お安いご用です」
心の奥が、くすぐったくなる。
(……本当は、お安いご用なんかじゃない。
私の心臓は、もう限界なくらいドキドキしている)
シン君が、どう思っているのかはわからない。
彼の立場で、簡単に気持ちを向けられないことも、わかっている。
それでもいい。
彼のためにできることがあるなら、それだけで幸せだった。
(……今日も、シン君が眠れますように)
遠くのノア君はミナコに軽く体当たりしたり、
パーカーの裾を引っ張ったりして、
わざと笑わせている。
その拍子に、ミナコがよろけた。
すぐにノア君が彼女の腰を抱き止める。
――ああ、こういう距離。
遠目にも伝わってくる、
迷いのない親密さが、どこか眩しかった。
やがて、私たちはまた車に乗り込んだ。
夜の海と星を背に、
それぞれの気持ちを胸にしまったまま。




