第17話 加速する夏と乙女心
今回はマネージャーが他の仕事で行けなくなってしまった。
そこで――
なんとミナコが仕事を休んで
マネージャー代行として合宿へ来ることになった。
事務所の了承は出た。
ミナコは運転まで引き受けてくれた。
……そして、驚いたのはその後だった。
高速に乗る前、
近所のスーパーに寄って、水とお菓子を少し買い込む。
車に戻ると――
「ジャアアアン!!!」
ミナコが声を上げた。
「わあ……!!
どうして……?」
助手席にノア君。
後部座席に、シン君。
「うちのマネージャー明日合流なんだ。
俺たちはタクシーで行く予定だったんだけど」
「ミナコちゃんが乗せてくれるって言うから、来ちゃった」
三人とも、満面の笑みだった。
「こんな小さな車で、大丈夫ですか?」
「もちろん」
シン君が、柔らかい笑顔で答える。
それだけで、胸の奥が少し揺れた。
助手席のノア君が振り返る。
「一台で行った方がエコだし、地球にもいいでしょ?
みんなで楽しく行こ〜!」
そのまま、車は走り出す。
ミナコのUSBが繋がったままで、
スピーカーからMUSEの曲が流れた。
ノア君はノリノリで歌い出す。
(ミナコ、嬉しいだろうな……)
運転席の彼女は、
いつもなら大きな声で歌うのに、
今日は静かに、ノア君の声に耳を澄ませていた。
横を見ると、
シン君も、小さな声で一緒に歌っている。
(贅沢な時間……)
窓の向こう、
キラキラ光る波と、真っ青な水面。
少しだけ窓を開けると、
夏の風と、潮の匂いが流れ込んできた。
「こんな時こそ、『夜明けの温度』じゃない?」
「夏の定番だね〜」
ノア君とミナコが盛り上がる。
その会話を聞いて、
シン君がこちらを見て、にっこり笑った。
「海と山のコントラスト、綺麗だね」
「……でも、シン君の方が綺麗ですけど」
思わず零れた言葉に、
シン君は本当におかしそうに笑った。
「いつもなにそれ。
ナンパ師なの? 軽すぎ。ウケるんだけど」
楽しそうな声につられて、私も笑う。
細くて優しい目。
風に少し乱れた髪。
白くて、ふんわりした腕と指。
海の反射で、全部がきらきらしていた。
――私になかった青春って、これなのかな。
もしかしたら、
「今」のことかもしれない。
埃まみれで、木屑の中で、
重い荷物を運び続けた毎日。
その先に、
こんな眩しい時間が待っているなんて。
車は、あっという間にホテルへ着いた。
フロント前ではなく、
地下駐車場の暗がりで荷物を下ろす。
エレベーターも分かれて、集合場所へ。
誰とも鉢合わせることなく、
無事に合流できた。
撮影は午前十時から。
部屋に荷物を置き、
急いで準備をして、メイクルームへ向かう。
――ここから、合宿が始まる。
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全体の撮影が一度区切りを迎えた。
メインカップル、各グループの撮影もすべて終了し、
夜はメインとセカンドユニットに分かれて進行した。
サブカップルのシーンは、助監督と少人数で撮る予定だ。
劇中で、音楽家の陸は二度目の手術を終え、
ようやく少しずつ体を動かせるようになっていた。
事故のあと、三か月もの間、診療所で過ごしながら、
彼は「これからどう生きていくのか」という
大きな壁にぶつかっている。
主治医と看護師は、
手術と回復のために奔走していたが、
陸の未来には、まだ何の見通しも立っていなかった。
ノートパソコン一台で、音楽制作を再開する陸。
知り合い、レーベル、関係各所へ、
片っ端から音源を送って営業をかける。
けれど、結果は出ない。
これから先を考えると、
マネージャーを雇い続ける余裕もなく、
事務所との話し合いも深刻になっていく。
自分の人生が、
音を立てて形を変えていく。
その焦りと不安に、
陸はすっかり余裕を失っていた。
そんな様子を、凛子は遠くから見ていた。
マニュアル通りに声をかけるべきか。
それとも、
もっと個人的に近づくべきか。
迷いながらも、
凛子はまっすぐ、彼のもとへ歩いていく。
朝、七時半。
病室のドアを開け、
窓を開けて、カーテンを勢いよく引いた。
「おはようございます!」
一気に差し込む光に、
陸が思わず目を細める。
「起きてください。
あと、ご飯、一緒に食べたいので。 待っててくださいね」
そう言って、凛子は一度部屋を出ていった。
八時の朝食の配膳。
歯を磨き、顔を拭き終えた頃、
彼女はぴたりと戻ってくる。
「私はこれなんで」
コンビニのおにぎり二つと、お惣菜にゆで卵、味噌汁。
「……結構、食べるんですね」
「朝ごはん食べるかどうかで、
一日の動き、全然変わっちゃうんで」
深い話があるのかと思えば、
彼女はただ、
「今日も暑くなりそうですね」と、
どうでもいいことだけ話して帰っていった。
あとで知ったが、
朝光を浴びること、
食事を一緒に摂ることは、
行動療法として有名らしい。
――ああ、医者として接しているんだな。
陸は、そう受け止めていた。
それなのに、
夕方になると、また現れる。
「私のごはん買いに行くの、付き合ってください」
そう言って、外へ連れ出される。
風の通るベンチに座ると、
彼女は牛丼を一気にかきこむ。
そのあまりの勢いに、
陸は思わず笑ってしまう。
――そんな日々が、しばらく続いていた。
夕方の散歩のいくつかを撮り終えたあと、
いよいよ、海辺のベンチで二人きりになるシーンが始まった。
事務所との契約が終わること。
マネージャーと別れる決意。
フリーとして、どう音楽を続けていくのか。
考えることが多すぎて、
陸の心は、ずっと宙に浮いていた。
隣で凛子が、
相変わらず牛丼を食べている。
ため息が、漏れた。
――ブルル。
スマホが震える。
画面に映ったメッセージを見て、
陸の呼吸が止まった。
『陸、久しぶり。
ネットドラマの担当になった。
送ってくれた音源、ちょうどよかったよ。
挿入曲、お願いできないか
今度話そう』
膝に肘をつき、
そのまま、頭を垂れる。
安堵が、一気に押し寄せてきて、
気づいた時には、涙がこぼれていた。
隣で、凛子が牛丼をがっつく音がする。
「……どうしたの?」
声を出そうとしても、
喉が詰まって、何も言えない。
凛子が、そっと右袖を引いた。
「大丈夫?」
大丈夫だと伝えたくて、
思わず、彼女の小さな手を
左手で、ぎゅっと握りしめた。
「……大丈夫。
いいこと、あって」
次の瞬間、凛子の腕が、彼の頭を包み込む。
優しく、ためらいなく、胸ごと抱きしめられる。
「よかったね」
その手が、ゆっくりと、肩をさすった。
堰を切ったように、涙が溢れ出す。
役のはずなのに。
演技のはずなのに。
それでも、この温もりが、あまりにも本物だった。
「はーい!! カットーーーー!!!」
涙のシーンで、
シンは思っていた以上に、感情が溢れてしまっていた。
理由は、よくわからない。
陸という役に感情移入しすぎたのかもしれないし、
張り詰めていたものが、ちょうど切れただけかもしれない。
「ちょっとごめんね、涙出すぎかな」
そう言って、苦笑いを浮かべると、
周囲から小さな笑い声が起きた。
「ちょっと取り直し必要そうなので、説明しますね」
現場の空気は温かくて、誰も責める人はいなかった。
それでも、胸の奥のざわつきは収まらない。
向こう側で撮影を見ていたノアと、
ミナコがこちらへ駆け寄ってこようとするのが視界に入る。
――その時だった。
横にいたユキが、
そっとシンの手を取った。
何も言わずに、
ただ、ゆっくりと。
何度も、何度も、
指先で手の甲をさすってくる。
(……大丈夫)
言葉はなかったけれど、
そう言われている気がした。
(この人は、
僕がアイドルじゃなくても、
こうやって背中をさすってくれるんだろうな……)
その考えが浮かんだ瞬間、
胸の奥が、また熱くなる。
何に泣いていたのか、
自分でもはっきりしなかった。
陸に感情移入しすぎたのか。
凛子を演じるユキの体温のせいなのか。
それとも、
もっと別の理由なのか。
ユキにさすられている手を見つめ、
助監督の声を聞いているうちに、
少しずつ、呼吸が落ち着いていった。
結局このシーンは、何度もリテイクした。
繰り返される抱擁の中で、
シンは自分の心の傷が癒えていくのを感じた。
同時に、自分の中にある感情の輪郭も、
見えてきてしまう。
集中しきれなかったのは、
きっと、そのせいだ。
撮影が終わる頃には、
ユキもシンも、すっかり汗と涙まみれだった。
しっとりした空気の中、
ユキの前髪が、変な方向に跳ねている。
「……ユキさん、髪、めっちゃはねてる」
「ええ?!」
ユキは慌てて前髪を手ですき、
シンがそっと、指先で直してあげた。
「なんか俺たち、ぐじゃぐじゃだったね」
「ふふ。
シンさん、鼻水も出てますよ」
その言葉で、鼻を拭う
「え、やば……」
「大丈夫です。
シンさんは、鼻水も綺麗なんで」
二人で、思わず笑った。
生ぬるかった風が、
少しだけ涼しくなってきた頃。
時計は、もう午後九時を回っていた。




