第15話 夜の撮影と暗闇の体温
ドラマの中で、シンが演じる音楽家の陸は
二度目の手術を終えた。
メインではないので、尺はわずかだと聞いた。
それでもその日は一晩かけて、
シンとユキのみで撮影する事になっていた。
陸の右手は、まだ全く動かない。
リハビリも始まっていない。
ちょっとした理由で
陸のマネージャーが来られなくなって、二日目。
――思ったより、何もできない。
ファスナーや袋の開閉。
蛇口をひねって、両手を洗うこと。
どれも些細なはずなのに、
全部が、壁みたいだった。
いつもマネージャーが介護することを想定していた
診療所の人たちは、
彼が何もできないことに気づいていなかった。
支給された薬の袋を、左手だけでどうにか開けようとして――
うまくいかない。
その時だった。
「……開けますね」
顔を上げると、凛子がいた。
迷いなく袋を受け取って、
当たり前みたいに、開けて、差し出してくれた。
「……ありがとうございます」
それしか言えなかった。
昼食の前も、
うまく手が洗えなくて、蛇口の前で止まってしまった。
その隣に、凛子が立つ。
「少し、失礼しますね」
石鹸を泡立てる手。
自分の手を包み込む、小さくて柔らかい指。
腕が、触れる。
肩が、かすかに当たる。
――近い。
近すぎる。
でも、離れたら、
今度は自分が何もできない。
凛子は、何も言わない。
ただ、丁寧に。
指の間まで、泡を流していく。
泡が流れて、
残ったのは、触れられていた感触だけだった。
夕食前。
手を洗おうとしていると、
凛子が、ほとんど走ってくる勢いで現れた。
手を洗いながら、
ふと、彼女の視線が指先に止まる。「……夜、髪洗いましょう」
そう言って、すぐに去っていった。
夕食後。
配膳が下げられて、
少し静かになった頃。
ノックもそこそこに、
凛子が部屋に入ってくる。
少し息が上がっていて、
前髪が、変な方向に立っていた。
――走ってきたんだ。
そう思った瞬間、
胸の奥が、少しだけ痛くなる。
サイドテーブルのペットボトルとお菓子の袋を見て、
凛子が、固まった。
「……もしかして」
キャップに触れて、すぐに理解した顔をする。
「ずっと、水も飲めてなかったんですか?」
慌てて開けて、差し出される。
「大丈夫ですか。すぐ飲んで」
その声が、少しだけ震えていた。
「言ってくださればいいのに」
「……カウンセラーさんに、そんなこと、お願いできないです」
「看護師さんもいますよ?」
「皆さん、忙しいでしょう」
俯いた瞬間。
凛子は椅子を鏡の前に移動した。
洗面台に頭を乗せる体勢を整えられる。
肩に触れる手。
腕を支える指。
触れられるたび、体温が上がる。
気持ちがバレないか、そればかり気になる。
シャンプーの泡が、頭を包む。
「今まで、大変でしたね」
「もうすぐシャワー入れたら片腕でもできます」
「そうですけど」
凛子の華奢な腕が頭を支えている。
美容室と違う。
もっと、近い。
もっと、柔らかい。
目を開けた瞬間。
すぐ近くに、凛子の首と頬があった。
息が、止まりそうになる。
洗髪が終わると、凛子はドライヤーで
髪を綺麗に乾かしてくれた。
首筋。
頬。
髪の根元。
凛子に触れられる場所の全てが、
そこだけ熱を持つ。
「体も拭かなきゃ」
その一言で、全身が固まる。
「いやいやいや、それは無理です。
させられないです!」
思わず、タオルで鼻まで隠してしまった。
「……ごめんなさい。嫌でした?」
「いえ……」
「じゃあ、ホットタオル作りますね」
熱々のお湯に浸して絞ったタオル。
洗面器に出してくれた。
「一度外に出てますね」
凛子が出て行ったあと。
やっと、大きく息を吐く。
左手だけで、体を拭く。
届かない場所も多い。
でも--
さっきまで、
あの手に触れられていた場所だけ、
まだ、温度が残っていた。
すぐに戻ってきた凛子は、ふと何かに気づいたように手を止めた。
そして、迷う間もなく陸の服に手をかける。
「ごめんなさい。掛け違えてるし……
やっぱり、背中まで届かなかったでしょう?
一度、拭きますね」
そう言うと、彼女は立ち上がり、部屋の電気を落とした。
「見られたくないかと思うので、電気、消しますね」
やわらかい暗闇が、部屋を包む。
凛子は洗面器にお湯を張り、タオルをゆっくり浸す。
丁寧に、温度を確かめるように指先で絞ってから――
そっと、背中に当てた。
優しく、ゆっくりタオルが滑る。
「……すみません」
「患者さんは、黙っててください」
少しだけ強い口調。
でも、不思議と優しい。
その言葉が、胸のどこかに引っかかった。
陸は、思わず聞いていた。
「患者なら……誰にでもするんですか?」
一瞬。
ほんの一瞬、空気が止まる。
凛子は、手を止めないまま、小さく息を吐いた。
「うーん……普通は、しないかもですね……」
その言葉に、思わず振り向いてしまう陸。
鼓動が、速くなる。
「すみません。陸さんとは……
結構……親しい友達になれた気がしてて……」
言い終わるより早く、凛子は手を離した。
そして、どこか慌てるように服を整え始める。
「なるほど。……確かに」
陸は、少しだけ笑った。
「俺も、結構親しくなれたかなって……思ってました」
凛子はタオルを洗面器に落とし、逃げるように立ち上がる。
バスルームへ向かいかけて――
一瞬だけ振り向いた。
「……よかったです」
それだけ言って、そそくさと部屋を出ていった。
その瞬間。
「はい! カットーーー!!」
大声が、空気を真っ二つに割った。
(やばいやばいやばいやばい……!!
シン君の、生背中、触っちゃったんだけど……!!)
頭が、真っ白になる。
監督や助監督たちと一緒に、モニターを確認しに行く。
(私、顔……真っ赤じゃなかった……?)
パニックのまま、いくつものカメラ映像を追う。
暗い画面の中。
それでも、シン君の半裸が、わずかに映っていた。
「このくらいならOK?」
監督が、マネージャーに声をかける。
「全然。どんどん出しちゃってください」
軽い調子のその言葉に――
胸の奥が、ざわつく。
(……やだな。シン君の身体が、地上波に流れるなんて)
さっき触れた、あの体温。
あの質感。
――誰にも、見せたくない。
そんな感情が、胸の奥に沈む。
モニターを囲むスタッフたちが、指を刺して首を傾げる。
「手もと、映像がブレてるな……」
「シン、ユキちゃん。もう一回いこうか」
暗所でスポットを当てたせいか、映像が安定していない。
(……私の手、震えてたせいなんじゃ……?)
「すみません。やり直します!」
頭を下げて、シン君を見る。
――シン君も、真っ赤だった。
(……あれ?)
なぜか。
胸の奥が、また熱くなる。
もう一度。
ベッドに座るシンの服に手をかける。
首元に触れた瞬間――
シン君の喉仏が、小さく上下したのが見えた。
何も言われていないのに。
それだけで、妙に意識してしまう。
タオルを絞り、身体を拭いていく。
できるだけ、丁寧に。
うまく届かなくて、
思わず左手で背中を支え、右手でタオルを滑らせる。
左手が、直接肌に触れる。
一瞬。シン君の呼吸が、止まった。
次の瞬間――
バッ、と振り向いたシン君が、私の左手首をぎゅっと掴んだ。
目が合う。
――彼の呼吸が、少しだけ乱れた気がした。
真っ赤な顔。
真剣な目。
思わず驚いて、私の身体が小さく跳ねる。
「カットーー!!」
「ちょっと待って、やり直し、やり直し!!」
監督と助監督の大声が、空気を裂いた。
「……ごめんなさい」
シンが、少しだけ気まずそうに謝る。
「なんだ? くすぐったかった?」
「……もう大丈夫です」
その短い返事だけで、胸がざわつく。
すぐさま次のアクションの声が響く。
もう一度、同じ動作を繰り返す。
そして――
もう一度、背中に触れた。
背中の筋肉が、
さっきより、少しだけ硬くなった気がした。
私も大きく深呼吸をする。
(神様!本当にありがとうございます。
シン君のお背中、
綺麗に拭かせていただきます。
この幸運に恵まれた感謝の気持ちで、
もっと一生懸命、生きていきます。
どうか、世界が平和になりますように)
もう、完全に。
お地蔵さんを洗っているような心境だった。
穏やかな空気のまま、撮影が進む。
「はい、カット〜!!」
「おお、一気に良くなったよ!」
「ユキちゃん、どうしたの?」
監督に聞かれて、正直に答える。
「観音様を洗ってる気持ちになってきたんです」
私が言い終わる前に。
ギャハハハハ!
シン君が堪えきれず、大笑いした。
思っているより、ずっと大きな笑い声。
「まさか仏像みたいに洗われてたとは……」
その言葉に、周りもつられて笑う。
「ちょっともおー、ユキちゃんてば!! 一応これでもラブシーンだよー……」
監督は、笑いながら、少しだけ拗ねていた。
夜の暗い撮影所の一角で、
私もホッと一息ついた。
Side episode
(いくらなんでも、ドラマの中だからって、
こういうシーンがあるなんて)
シンは、どうにも気持ちが落ち着かなかった。
今日の背中を拭ってもらう場面。
物語の中で、登場人物の距離を縮めるために必要な演出だ。
それは、頭では理解している。
それでも——。
帰宅してから、ソファに腰を下ろしては立ち上がり、
意味もなく部屋を歩き回った。
(……もしかして、ユキちゃんは、こういうの慣れてるのかな)
女優業って、どこまでやるんだろう。
今回のドラマで共演するようになって、
ユキとずいぶん親しくなった気がしていた。
友達ともみんなで飲んで、笑って、
温泉に行く約束までしている。
仲のいい友達として、
すごく、いい感じだと思っていた。
自分が望んでいた通りの、楽しい状況だ。
——それなのに。
この胸の奥に引っかかる感じは、なんだろう。
頭の中が、少し変な感覚だった。
生成系AIに相談しようか、と一瞬本気で考える。
この正体不明の焦燥感と、
どこか強烈な寂しさの理由を。
……実を言うと。
ユキが出演しているドラマや映画を殆ど見た。
心を病んだ役、夢遊病の少女、科学者の犯人。
脇役で出ている作品のほとんどがミステリーだった。
正直、心の底から安心した。
王道の恋愛モノに出ていなくて、本当によかったと。
(おかっぱにした方がいいって言った、過去の自分を褒めたい)
けれど——
今作で共演が決まる直前、
彼女が主演した映画だけ、恋愛モノだった。
サブスクで観られることは知っている。
それでも、怖すぎて手を出せなかった。
(……今日みたいなことが普通なのか、確認したほうがいいんじゃ……)
台本を読む限り、
今作のドラマではサブカップルなのに、
この先、ボディタッチやキスシーンまである。
顔が青ざめる。
(映画が、もっと凄いことになってたらどうしよう)
感情を持っていかれないように、
飛ばし飛ばしで観ようと決める。
大きく深呼吸してから、パソコンを開く。
物語は、サイコパスと呼ばれる女子の、ふとした優しい表情に、
青年が少しずつ惹かれていく、キャンパスラブストーリーだった。
ラブシーンは、大きく三つ。
距離が縮まる場面。
肩に頭を預けて眠る場面。
告白後のキスは、途中で見えなくなる演出。
精神的なダメージは、確かに大きかった。
それなのに——
画面の中の彼女が、あまりにも可愛くて。
気づけば倍速にできず、普通に観てしまっていた。
(どうしよう……普通に、いい話だった)
思っていた以上に、物語に引き込まれていた。
まるでその女の子と過ごしたような気分になった。
女優の仕事って、すごい。
キスの直前、
彼女がふっと見せた横顔が、脳裏に焼きついて離れない。
……自分の感覚が、敏感すぎるのかもしれない。
どうして多くの俳優や女優は、
こういうことを何度も繰り返して、
平然としていられるんだろう。
メンバーの俳優達は、周りに人がいるから全然、とか、
スタッフの言う通りにしてるだけと言っていたが。
全然、という気持ちがわからない。
精神統一。
そういう類のことは、昔から得意じゃない。
ユキが話していた通り、ベッドでツボを押してみた。
頭に浮かぶのは別の光景だった。
背中に触れた手の感触。
柔らかな手で、洗われる感覚。
結局、何をしても、彼女のことが頭から離れなかった。
気づけば、深夜三時を回っている。
いつもの不眠とは、どこか違う。
音楽の作業も、映画も、
どれも始める気になれなかった。
絶対に手につかないことがわかっていた。
ただ、耐えているだけの時間。
仕方なくベッドに横になる。
布団の中で何度も寝返りを打つ。
ふと、時間を確認しようとしてスマホを見る。
——メッセージが届いていた。
(ユキちゃんからだ)
思わず、飛び起きる。
午後十時ごろのものだった。
(気づけばよかった……!)
『今日もお疲れ様です。
いいツボ画像見つけたので送ります
足の後ろの〈失眠〉押してみてください』
添付されていたのは、
商店街の接骨院の看板にありそうな、
古めかしいツボの図。
(じいさんかよ……)
ふっと、笑いがこぼれた。
……面白い子。
朝、ちゃんと連絡できるように、
試しにツボ押しをしてみる。
合っているかは、正直わからない。
前にホテルで、
「押してあげますよ!」と言ってくれたことを思い出す。
あの時、やってもらえばよかったな、と。
気づくと、気持ちがふっと軽くなっていた。
そのまま倒れ込むように、
白い枕を抱きしめて、頭を乗せる。
柔らかなシーツの感触。
——次に目を開けたとき、
部屋には明るい光が差し込んでいた。
時計は、午前十時を指していた。




