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第1話 一億分の一の奇跡

(……おなか、すいたな)

最後にまともなご飯を食べたのは、いつだっただろう。

大道具のアシスタントのバイトでもらった、ケータリングのお弁当。

それなら、昨日の昼かな。

水とコーヒーだけでごまかした胃が、きゅっと音を立てた。

私、飯島ユキは、中学の時に母を亡くした。

その後、父もほとんど家に帰らなくなった。

とにかくお金がなかった。

高校で給食がなくなって以降、本当に食べるものがなくて

毎日、お腹が減って苦しかった。


 十六歳の頃、近所の撮影スタジオでやっと日雇いバイトを見つけた。

大道具や美術のアシスタントとして、

現場でもらえるお弁当で、どうにか食いつないできた。

気づけば、そんな生活も八年目に入っていた。

――でも、運だけは、ほんの少しだけ残っていた。

その撮影所で、芸能事務所の人に声をかけられたのだ。

それがきっかけで、事務所の劇団に所属し、

オーディションを受ける日々が始まった。

今日も、その一日だった。


 大きなテレビ局のビルでの、ドラマのオーディション。

面接会場を出て、私はそっとお腹を押さえる。

(演技中に鳴らなくて、よかった……)

昨日の夜から、ほとんど何も口にしていない。

会場の周りを見渡せば、

華やかな服に身を包んだ「未来のスター」たちが、

自信たっぷりに笑っている。

比べるまでもない。

地味で、痩せっぽちで、

どこにいても背景に溶け込んでしまう自分。

――まるで、透明人間だ。

(……私、何やってるんだろう)


 それでも、挫けそうになる心を支えてくれるものがあった。

先日、親友のサキとミナコと一緒に撮った写真。

アイドルグループ『MUSE』のライブ前。

三人それぞれ推しの写真とアクスタを持って、

はしゃぎながら撮った一枚だ。

二人は、大道具のバイトの仲間だった。

全員がMUSEのファンで仲良くなった。

私の人生で、たった二人だけの親友。

(二人が応援してくれてる……

 MUSEのシン君も、歌で応援してくれてるはず!)


 私の推しは、MUSEのシン君。

塩顔で、アイドルっぽくないし地味だなんてミナコは言うけれど。

指先から心の奥底まで、すごく綺麗な人だと思う。

それに彼は、いくつかの作詞作曲も手がける天才プロデューサーだ。

彼の書く言葉は、いつも不思議だった。

ただの歌詞なのに、胸の奥、いちばん柔らかいところに触れてくる。

「大丈夫だよ」そう言われている気がして、

何度も救われてきた。

スマホの中の写真を見て、心を落ち着ける。

――そのとき。背後から、聞き覚えのある声がした。


「ねえ、あのおばちゃん見て。また落ちに来たのかな」

「死神みたい。縁起悪ーい」

振り返らなくても、誰だかわかる。

同じ事務所の西村リカと、その取り巻きたち。

私より4つ下で、若手の中でも事務所のホープだった。

彼女が体調を崩したとき、たまたま私が劇団の主役に選ばれた。

それが、すべての始まりだった。


 最初はいびり程度だった。

でも、私が劇団の主役が続いた時、

いじめが次第にエスカレートしていった。

「顔に傷がつけば、役も来なくなるでしょ?」

そう言って、物を投げられ、殴られるようになった。

リカは、私の存在そのものを「消すべきバグ」だと思っている。

その執念は、もやは狂気だった。


 人目のある場所では、彼女たちは何もしない。

でも、このテレビ局付近は、

人通りの少ない場所が多くて、正直、怖かった。

全員の演技テストが終わり、

「結果は後日メールでお知らせします」という案内が流れる。


――まずい。

彼女たちに捕まる前に、逃げないと。

ここは、少し前に大道具のアシスタントとして出入りしたことがある。

確か、七階の掃除用具室は普段、鍵がかかっていなかったはず。

人がはけるまでそこで隠れていよう。

終了の合図と同時に、私は階段へ向かって走り出した。

背後から、追いかけてくる足音。

笑い声。

間に合うだろうか。

九階で一度階段を降り、別の部屋に入ったように見せかける。

そこから、もう一つ奥の階段を使って七階へ。

息が切れるのも構わず、廊下の奥へ、さらに走った。

小さな掃除用具室。扉を開けて、滑り込む。

――よかった。やっぱりここだけは、鍵がかかっていない。

十月の終わりだというのに、汗だくだった。

荒くなった呼吸を、必死に抑える。


 すると、すりガラスの向こうに、金色の短髪が見えた。

ガチャガチャ、とドアノブが鳴る。

「すみません!ファンに追われてまして、入れてください」

低くて、落ち着いた声。

――聞き覚えが、ある。


反射的に鍵を開けると、青年は身体を滑り込ませ、すぐに扉を閉めた。

埃っぽい空気の中に、ブラックベリーのやさしい香りが広がる。

倉庫の隙間で、私たちは並んでしゃがみこむ。

わずかな光を受けて、きらきらと輝く髪。

抑えきれない彼の息遣いが、すぐ耳元で聞こえる。


恐る恐る視線を上げた。

細い切れ長の目。

雪のように白い頬。

暗がりの中でもはっきりと分かった。

(……やっぱり、MUSEのシン君だ)

分かった瞬間、心臓が跳ね上がる。

口から飛び出しそうなほど、鼓動が速い。

至近距離で目が合った。

お互いに見つめ合ったまま、瞳の中の鋭い光だけを見つめた。


そこへ、複数の足音が近づいてくる。

(……ファン? それとも、リカたち?)

ドアの外から、声が漏れてきた。

「シン君、絶対こっち来たと思うんだけど」

「どこだろー?シンくーん!」

隣にいる彼が、そっと顔を上げる。

私は彼の目を見て、

人差し指を口元に当て、頷く。

「さっき、後ろ姿しか撮れなかったから。やっぱ見つけたいな!」

「下の階も見てみる?」

ファンたちの足音が、遠ざかっていく。

彼が、ほっと息を吐いた。

張りつめていた肩が、ふっと落ちる。


――その直後。

「飯島ユキー!」

「隠れても無駄だよー」

「あなたの代わりなんていくらでもいるんだから」

「消してあげるよー」

今度は、聞き慣れすぎた声。

リカたちだ。

シン君は目を見開いたが、すぐにこちらを見て頷いた。

「シー。大丈夫だから」

口元がそう動いて見えた。


「いるんでしょ?」

鋭い声が通り過ぎていき、反対側へ向かったとき――


ぐううう。


……鳴った。

盛大に。

私のお腹が。

(あぁ……神様……)


「キャハハ!ウケる!」

「きもっ!そこにいるの?」

足音が、ぴたりと止まる。

そして、こちらへ戻ってくる気配。

(まずい……!)

身体を縮こめ、頭が真っ白になった、そのとき。

「グフッ……ゴホン。ゴホン!」


突然、ひどくしゃがれた咳払い。

「こらー!君たち!許可取ってここにいるのか?」

野太い、年配のおじさんみたいな声。

(……わあ、今のシン君の声だよね……さすが声の魔術師)

彼の方を見ると、にっこりと頷いてくれた。

「やば」

「なに、警備?」

「なんだ、おじさんか。行こ行こ」

バタバタと足音が遠ざかる。

完全に、三人はいなくなった。


今度こそ、二人そろって大きく息を吐いた。

「……もう行ったかな」

彼が小さく呟き、私をじっと見る。

そして、少しだけ声を落として、優しく聞いてきた。

「さっき、君がここに逃げてきたように見えたんだけど。

 ……もしかして、いじめられてる?」

胸が、ぎくりと鳴った。

美しく澄んだ瞳を前にして、どう答えればいいのか、分からない。

「い、いえ……走るのが趣味で」

「ええ!?」

「ランニングしてただけです。

 ちょっと疲れたので、鍵の空いてるところで休んでただけで……」


咄嗟の嘘。


彼は一瞬きょとんとして――次の瞬間、声を立てて笑った。

「ハハハ!さっきのお腹といい……おかしな子だな」

思っていたより、ずっと優しい笑い声だった。

「事情があるんだね。無理して言わなくていいよ」

そう言って、ポケットから財布を取り出す。

千円札を一枚。

「ごめん、俺、スマホ置いてきちゃってさ。

 よかったら、これで、ちょっと貸してもらえないかな?」

いつものクールなイメージとは違う、甘くてゆったりした声。

「い、いえ……お金はいらないです。スマホはどうぞ」

「じゃあ、これでおにぎりでも買って食べてよ」

「本当に大丈夫です」

千円を押し返しながら、スマホを差し出す。

「いいの?ありがとう」


彼は慣れた手つきで番号を押した。

「もしもし、俺。今、七階の奥にいる。

 ……そこじゃなくて、もっと奥。

 楽屋の先、ずっと行った角を曲がって……そう、そこ」

(いつもの声だ……ラップしてる時と同じ低い声)

耳に届くだけで、身体が痺れる。


短い通話を終え、彼は小さく息をついた。

「助かった。本当にありがとう」

「い、いえ……!」

すぐに、マネージャーさんと護衛さんが現れた。

「探してたんだぞ!」

「ごめん、追いかけられちゃって逃げてた」

「今日は護衛さんに送ってもらって。俺、他の現場あるから」

シン君は、彼らの視線からも私を隠すように、

そっと倉庫を出ていった。


――夢みたい。


私は、その場から動けなかった。

ファンです、なんて、口が裂けても言えなかった。

……すごい人に、会ってしまった。

それだけで、もう十分だった。


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