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黒雨去る  作者: 結城暁


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後編

「ねえさま」


 眼を潤ませ、わたくしを見上げる様子は本当に弟のようでした。


「どうして、ぼくがしんじゃったなんて、ひどいことをいうの?」


 わたくしは、大切な弟の姿形をした子どもを撫でました。

 頭を撫でて、背を撫でて、また頭を撫でました。


「どこのどなたかは存じませんが、あの子のふりがお上手ですね」


 ねえさまひどい、と泣き出しそうな顔でわたくしを見上げる顔は、やはり弟にそっくりでした。


「あの夜、夜天丸の指ではなく、わたくしの指を切るように言ったのです。下手人の方たちはそんなに切ってほしいなら切ってやると、苛立っていました。

 わたくしは夜天まるの指を切り落とされるよりは、自分の指を切られたほうがましだったのです」


 夜天丸はそれが許せなかったようで、下手人たちに向かっていきました。

 あの子はあんなに小さかったのに。怖い話を聞いた夜は、ひとりで眠れぬほどに泣き虫だったのに。

 大人相手に体当たりをして、手当たり次第に噛みついて。おかげでわたくしの指は切られずにすみました。


「けれど、その代わり、夜天丸が切られてしまいました――」


 苛立った下手人のひとりに、背中から、ばっさりと。


「抱き止めたあの子からは、どんどん体温が失われていって――」

「ちがうよ、ねえさま。ぼくはしんでなんかないよ」


 わたくしの言葉を遮って、子どもが主張します。


「たしかにぼくはあのとききられちゃったけど、ちゃんとせんせいがなおしてくれたんだよ。ほら!」


 着物を脱いで、諸肌(もろはだ)を晒した子どもが包帯の巻かれた腹を見せます。その腹をそっとなぞりました。子どもがくすぐったそうに身をよじります。小さく聞こえる含み笑いも弟そのものでした。


「もうすこしふかくきれてたら、あぶなかったんだって!」


 この子の言葉を信じることができたらどれほどよかったでしょうか。

 夜天丸は深手を負ったけれども、無事に生きていたのであれば、どれほど。


「……人は首と胴が分断されてしまえば生きてゆかれないでしょう?」

「ぼくが切られたのは胴だよ?」

「ええ、そうですね。けれども、同じように胴がふたつに分断されてしまっても生きてはゆかれないのです――」


 夜天丸は歳の割に小柄な子でした。

 同じ年頃の子たちよりも、小さい背を気にしている子でした。

 よく食べて、よく遊んで、よく眠れば、そのうちお父様のように大きくなれますよ、となんど慰めたでしょう。

 手足が大きいから、お父様の子どものころとそっくりだから、と父も母も笑っていました。きっと、あと何年かすればその通りになっていたのでしょう。


「なんだ、ちゃんと覚えていたのか。忘れておけばよかったものを」


 にい、と口の端を吊り上げて、目の前にいる誰かが笑います。弟は似ても似つかぬ笑い方でした。

 わたしはようやく、見知った弟に成った誰かの、まったく弟に似ていない部分を見つけられて安堵しました。

 夜天丸のふりをやめた目の前の子どもは不敵に笑って、翠色の眼の中の、瞳孔がきゅうと細まりました。

 猫の眼によく似ていましたけれど、どこが違うような気もします。


「あの晩に起こったことなど、今からでも忘れてしまえばどうだ?

 さすればおぬしは弟を失うことなく生きていけるのだぞ?」

「いいえ」


 わたくしははっきりと首を振りました。


「悲しいことですが、あの夜、わたくしの弟は死んでしまったのです。わたくしは弟を失ってしまったのです」


 わたくしが守らねばならなかったのに、わたくしの力が足りなかったばっかりに、死なせてしまったわたくしのかわいい、たったひとりの弟。

 あの子が生きて戻ってくるのなら、わたくしはなんだってするでしょう。けれど、そんなことはありえないのです。


「ですからどうか、夜天丸の姿をとるのはおやめください」

「いいのか? 弟が生きていると屋敷の者たち誰もが信じているのに」

「何度も申しあげました通り、夜天丸は死んでしまいました。それが事実なのです。嘘偽りはいつか露呈するものですから。伝えるならなるべく早いほうが良いと思います。

 ――それに、あなたが夜天丸に成り代わってしまったら、あの子は誰にも知られず、ひとりぼっちで骨になってしまうのです」


 山の中、土砂の下で、あの暗くてさみしくて、恐ろしい思いをした場所で、夜天丸をひとりきりにさせておくわけにはいきません。

 泣き虫のあの子のことですから、今もきっと泣いているに違いないのです。


「わたくしはあの子を見つけて、せめて弔ってやりたいのです」


 ただの自己満足でしかないけれど。

 わたくしも夜天丸も無事に、生きて戻ってきたと思っている家人のみんなには悪いけれど。

 わたくしは布団の上でしたけれど、正座して、頭を下げました。

 その拍子にわたくしの眼から涙がこぼれ落ちて、止まらなくなってしまいました。

 ああ、夜天丸。かわいいわたくしの弟。もう会えない。


(おもて)を上げよ、あさひな」


 その声は夜天丸のものではありませんでした。

 聞き馴染みはないけれど、聞いたことのある声でした。

 頭を上げるともう夜天丸の姿はなく、代わりに黒い大蛇(おろち)がそこにおわしました。

 紫水晶のようにうつくしい眼がわたくしを見ていました。


「よかれと思ってしたことが、逆におぬしを傷つけたのだな。すまぬ」


 大蛇は頬擦りをするようにわたくしの涙を拭ってくださいました。


 ひんやりとしたぬくもりに、我に返ったわたくしは、慌てて手拭いで濡れた大蛇の鱗を拭いました。

 おそらくは、神に連なる方でしょう。わたくしの涙を拭わせてしまうなんて、畏れ多いことです。


「よい、よい。気など使うな。今は万事、己のことだけを考えよ」

「あ、ありがとう存じます……。あのう、もしや御身(おんみ)黒雨(こくう)様でいらっしゃいますか?」

「うむ、いかにも我が名は黒雨である」


 お姿を拝見するのは初めてですが、黒雨様といえば、我が疋巴畏(そばえ)家の祭神で、土砂崩れが起きるときには必ず周囲に知らせてくださる有り難いお方です。


「嗚呼、本当に申し訳のないことをした。あの夜だとて、我がもうわずかなりとも早くお主たちに気付いておればよかったものを」

「いいえ、いいえ。けしてそのようなことは、ございません。黒雨様のせいではないのです。わたくしはあの()、黒雨様のお声がけのおかげで、九死に一生を得たのでございます」

「それくらいしか取り柄がないからな。土に埋もれても平気なだけの我を丁寧に祀ってくれる者どもに報いてやらねば、祭神として祀り甲斐がないだろう」

「そんな、だけだなんてご謙遜を。声をかけて回ってくださる黒雨様のおかげでどれだけの民が救われたことか。みな、黒雨さまの心遣いに感謝しております」


 そう言って、笑えたはずのわたくしの眼からは、涙が再び溢れてしまいました。

 狼狽(うろた)える黒雨様に、違うのです、と顔に手拭いを押し付けながら手を、首を振ります。


「あの子も、夜天丸も、黒雨様に会いたがっていたことを思い出してしまって……。申し訳ありません」

「良い、謝るな。存分に泣けば良い。

 我は雨乞いもできねば、晴れ乞いもできぬ、所詮は蚯蚓(みみず)(もど)きだからな。人の子の涙も当然、止める術も持たぬ役立たずであるからして。

 ふふふ……初代にはよく『土を豊かにするだけ蚯蚓のほうが役に立つのでは?』と言われたものよ」

「まあ、ご先祖様ったら……!」


 黒雨様に対してあまりにも不敬がすぎるのでは?

 わたくしはほとほと落ちる涙を拭いながら、黒雨様に聞きました。


「それで、夜天丸の遺体は何処(いずこ)にあるのでしょうか」

「うむ、おぬしたちのいた小屋近くにな。人は(むくろ)を埋めるのだろう? 鳥獣に食われぬよう、深く埋めておいた」

「お気遣い、ありがとう存じます」


 黒雨様が深くと仰るのなら、おそらく人の手では掘り返すのが難しい深さでしょう。

 いっそ、そこへ碑を立ててしまったほうが良いかもしれません。

 そんなことを考えていますと、黒雨様がまるで天日干しされた蛞蝓(なめくじ)のごとくしおしおとした

様子で、近く掘り出す、と約束してくださいました。


「我はまた余計なことをしたのだな……。要らぬ心配をさせたようで、すまぬ。二代目にも言われておったのを今、思い出した。

 人の子と我は、違うことがそれはもうたくさんあるのだから、人の子に何かするときは逐一確認をとれと言われておったのだ……」

「思いだせたのならようございました」


 わたくしは心からそう申し上げたのですが、黒雨様はどこか傷付いたように眼を細めました。なにか気に障ることを言ってしまったのでしょうか。


「いかん、いかんぞ、あさひな」


 ぐるうり、と黒雨様がわたくしを中心にしてとぐろを巻きました。


「お主はどうにも人が善すぎる。もっと(いか)れ。

 弟を守れなかったこの畜生め、役立たずめと罵り、我の目玉を抉り出したとて文句は言わぬぞ」

「まあ、人が善すぎるだなんて」


 人であれば胸と腹の境目でしょうか。蛇腹というくらいですから、ここも腹なのかもしれません。

 黒雨様のそこ、包帯の巻かれた箇所へ、そっと手のひらを這わせました。

 多治比(たじひ)医師(せんせい)がよくお使いになる、塗り薬の匂いがわずかにします。


「下手人たちの間を通って逃げたわたくしが無傷であったのは黒雨様が庇ってくださったからでしょう?

 黒雨様こそ、人の、いえ、蛇の善い、おやさしい方ですわ。

 傷が治るまで、どうぞ当家にてご静養くださいまし」


 ほとり、ほとり、と大粒の雨が黒雨様の眼からこぼれ落ちました。

 しばらくはわたくしも、黒雨様も、黙って泣いていたのでした。


 夕餉を持ってきてくださった多治比医師と、奉公人たちが揃って腰を抜かしたのはそれからしばらく後、夕陽が山の向こうに沈みかけた刻限のことでした。


 その後、約束通り、黒雨様は傷が塞がるまで養生いただきました。

 それから夜天丸を掘り出していただき、わたくしたちは無事に夜天丸を弔うことができたのでした。

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