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黒雨去る  作者: 結城暁
1/2

前編

 ――おそろしい夜でした。


 誰かの声が聞こえました。


「おおい、こっちだ! こっちにいらっしゃったぞ!」

「姫様! 若様!」

「息があるぞ! 土をどかせ!」


 強かに打ち付ける雨音に紛れるように聞こえた声はきっとわたくしたちを見つけてくれた人の声なのでしょう。

 わたくしの目蓋は上がりません。腕も足も動きません。冷たい雨に打たれるがままです。

 腕に抱いた弟は、雨に濡れて冷えたわたくしにはあたたかく感じました。

 ああ、わたくしたち、帰れるのね――


 わたくしの目が覚めたのは自室でした。

 柔らかな布団のうえで、幾重(いくえ)にも夜着(よぎ)がかけられ、肌触りの良い木綿(もめん)肌小袖(はだこそで)を着ていました。小袖にはなんの汚れもありません。きれいなものです。

 蔀戸(しとみど)が上げられ、外は昼なのでしょう、明障子(あかりしょうじ)からは外の光が感じられ、シジュウカラでしょうか、鳥の鳴き声が聞こえます。

 意識を失う前の、暗い夜とはまったく違います。今までの、あの悪夢のような日々は、夜は、終わったのでしょうか? それとも、すべてわたくしが見ていた悪い夢だったのでしょうか?

 それを確かめるために、布団からから抜け出ようとしたわたくしは、肌小袖からのぞく自分の腕に包帯が巻かれていることに気付きました。

 ああ、あれらは夢ではなかったのだ――。

 絶望が染み入るようにじっとりと、わたくしに這い寄ります。足先からすうと冷えていくようでした。

 そんなわたくしの耳に部屋の戸が勢いよく開かれる音が響き、間髪入れずに子どもがわたくしに抱き着いてきました。


「ねえさま! めがさめたのですね!」

「……あなた…………夜天丸(やてんまる)……?」


 子どもはわたくしに抱き着いたまま笑いかけてきました。弟の笑顔でした。


「よかった、気がつかれたのですね、あさひな(ぎみ)

「……多治比(たじひ)医師(せんせい)、あの、わたくし……」

「まずは水分をお取りください。それから食事も用意してありますから、お食べ下さい。あなたは発見されてから二日間も眠り続けていたのですよ」

「二日も……」


 当家(とうけ)のかかりつけ医である多治比(たじひ)医師(せんせい)(かたわ)らに用意されていた水差しを示してくださり、わたくしはいまさらながら、喉の渇きと空腹に気付いたのでした。

 喉を水で潤し、食事が届くまでの間、多治比医師(せんせい)に脈などを計られ、軽い診察を受けました。

 奉公人(ほうこうにん)が運んでくれた(かゆ)をなんとか食べきり、相手が多治比医師(せんせい)であるとはいえ、いつまでも人前で肌小袖のままでは、と着替えもしてしまおうとしたのですが、それは医師(せんせい)に止められてしまいました。


「まだ無理はなさらぬほうがいい。しばらくは体を休めるのに専念することです」

医師(せんせい)……、いったいわたくしたちに、なにが起こったのです? おそろしいことが起きたのはわかっていますけれど、わたくし、なにがどうなったのか、さっぱりわからないのです……」


 我が身に起こったことですから、わたくしと弟の身になにがあったかはうっすらと予想はついていましたが、それでも第三者(ひと)の口からききたいと思ってしまいました。

 すべてわたくしの勘違いであればいいのに、と願っていました。


「大丈夫、ここは貴女(あなた)の屋敷で、安全です。警備は厳重にしたと(うかが)いましたし、不届な輩が入り込むことは、もうありませんよ」

「不届な輩……」


 わたくしは自分を抱きしめました。体の震えが止まりません。そうです、わたくしは、わたくしたちは、


「ねえさま、だいじょうぶ?」


 わたくしに抱き着いたままだったあたたかな存在が震えを止めるためなのか、抱きつく力を強めました。ゆっくりと体温がわたくしに移ってきます。

 医師(せんせい)が恐縮したふうに、頭を下げました。


「すみません、不用意な発言でした」

「い、いえ……。大丈夫ですから……。

 ごめんなさいね、わたくしは平気だから、少し腕の力を弱めてね……」

「はい、ねえさま」


 わたくしに抱き着き、体温を分けてくれる存在はあたたかで、わずかなりとも心が安らぎました。深呼吸をくり返し、心と体を落ち着かせます。


「先程の診察は軽くしただけですが、体に明らかな異状は見られませんでした。貴女が運び込まれたときに処置した擦過傷や、打撲以外に新たな傷は見受けられません。

 私の名前も、(おとうと)(ぎみ)のことも分かるのですから、心配はいらぬものとは思いますが、念のために確認させていただきますね」

「はい……」


 わたくしは神妙に肯きました。


「ご自分の名前は言えますか?」

「ええ……。わたくしは疋巴畏(そばえの)昊天丸(こうてんまる)疋巴畏(そばえの)かざはなの娘、弟の夜天丸(やてんまる)の姉の、疋巴畏(そばえの)あさひなです……」

「その通りです。私のことも分かりますか?」

「ええ、もちろん……。あなたは当家のかかりつけ医の、多治比(たじひの)緒元(おもと)医師(せんせい)ですわ」

「おっしゃる通りです。ご両親が今どこにおられるか覚えていらっしゃいますか?」

「父と母は帝都に行って、今ごろは他家の方々と親交を深めているはずですわ」

「そうですね。例年通りなら、雪の降る前にお戻りになるでしょうが、今回ばかりはもうお戻りになられるでしょう。早馬(はやうま)を出したそうですから。

 ……とりあえず、今のところ記憶の欠落などは認められませぬな。

 ……では、今から七日前、この屋敷から出る前のことは覚えていらっしゃいますか?」

「……ええ…………、覚えて……おります……」


 思い出したくない記憶に、わたくしの体は再び震え始めました。それに気付いて、宥めるつもりでしょうか、小さな手が私の手を握りました。

 わたくしの手を握る、その小さな手の持ち主の、小さくまるい頭に手を伸ばしました。絹糸のように細く柔く、陽の光のように眩しい髪を撫で()けば、まだ弟が生まれたばかりのころ、静かに寝息をたてる弟の頭を撫でたことを思い出しました。


「長く降っていた雨が久方ぶりにやんで、穏やかな、天気の良い、晴れた日でした。……もうすぐ剣術の稽古の時間だと、庭で遊んでいた夜天丸を呼びに行ったのです……」

「ええ、そう聞きました。

 ……若君、今からあなたの姉上様と二人で話さなくてはならないことがあるのです。若君はつまらないでしょうから、ねえやたちと遊んできてはくれませんか?」


 まだ小さい夜天丸を気遣う医師(せんせい)の言葉に、言われたほうはわたくしにしがみついたままいやいやと首をふります。


「えー、イヤです。ぼくはねえさまといっしょにいます」


 頑是(がんぜ)ない子の様子に少しだけ笑んで、わたくしはそっと小さな体を抱き寄せました。


医師(せんせい)、わたくしがこの子の耳をふさいでおきますわ……」


 どうすればいいかわかったのでしょう、わたくしの腹にぴったりと耳をよせてしがみついてきました。わたくしは残された片耳をそっと塞ぎます。


「まあ、いいでしょう。まだ若君も心細いのでしょうし……。

 あななたちは(かどわか)しにあったのです。若君はまだ幼いですから、言葉巧みに誘い出されたのではないか、と」

「ええ、そうだったのかもしれません……」

「そして、若君を盾にされた貴女もまた、拐しの下手人たちに従う他なかった」

「ええ……。わたくしたちを拐した方たちは身代金を要求するのだと言っていました……」

「ええ、投げ(ぶみ)があったそうですよ。この屋敷は蜂の巣をつついたような騒ぎだったと。お父上がいらっしゃったなら、投げ文が見つかったその日のうちに問題は解決していたことでしょう」

「ですが、父たちは……」

「ええ、間が悪かった。この時期はどこの当主も帝都に行っているというのに、ものを知らぬ奴らには困ったものです」


 憤慨する医師(せんせい)に、わたくしも弟も、両親もけして悪くはないと、言ってくださっているのだと、心遣いを感じてわたくしは少しだけ笑ってしまいました。

 茶をちびちびと飲む医師も、そんなわたくしを見て目尻を下げました。


「身代金の額が高すぎたのもよくなかった。勘定方(かんじょうかた)の一存ではとても動かせぬ額でしたからな。私も額を聞いたときは腰を抜かすかと思いましたよ。

 いくら冬備えのために蓄えているといっても、食料に薪に、防寒着に変えているに決まっているじゃないですか。いくらお(ぜぜ)があったところで、食べられないし、あったかくもないんですから。

 そもそも、金百(かん)なんて、物々交換ばかりのこの土地にあるわけもなし!」

「ええ、本当に……」


 拳を振り上げた医師(せんせい)は、こほんと空咳をひとつして座り直しました。


「お父上のいる帝都まで、片道だけでも徒歩(かち)で半月以上かかりますからな、指示を仰ごうにも時間がかかる。ですから下手人たちに待ってくれるよう交渉を持ち掛けたが、上手くいかなかったようですな」

「そんな気はしていました……。日が経つにつれ、あの方達は焦っていましたから……」


 わたくしは心の平穏を保つために、ひたすら手元の金糸を梳き続けました。極上の絹糸のようなそれはもつれることなく指の間を滑ります。


「あの方達は……、血走った眼で……嫡男の……夜天丸の指の一本も送りつければ払う気になるだろうと……」

「……貴女の髪が届いたと聞いています」

「夜天丸は剣術が好きでしたから、指を失くすのは辛かろうと……」


 わたくしは指でなくとも、みなが褒めてくれるわたくしの髪を送ればいい、と提案して自分の髪を切らせました。三度切られて、ずいぶんと短くなってしまいましたが、軽くなって良かったくらいです。


「日延べの交渉むなしく、届いた四度目の投げ文には、血に染まった貴女の着物の端切れが届いたと」

「ええ、夜天丸が指を失うくらいなら、わたくしが少し指を切るくらいなんてことはなかったのです」


 切ったときはじくじくと痛みましたが、医師(せんせい)の手当のおかげでもう痛みはわずかしか感じません。

 医師(せんせい)がどうしてだか息を大きく吐きました。お疲れなのかもしれません。


「けして少なくない量の血に染まった端切れを送りつけられて、疋巴畏(そばえ)に仕える家臣一同、腹に据えかねたそうです。ちょうど、血眼になって探していた下手人どもの居場所も見つかったそうで、話し合おう、穏便に済ませてやろう、という気は無くなったそうで、腕に覚えのある者たちで夜襲することに決めたそうで。

 そのときに、怪我人が出るからと私も呼ばれたのですが。いやあ、皆さますごい迫力でしたよ。戦でもおっぱじめるのかと思ったくらいです」

「まあ、そんなことになっていたのですね……」

「治療の準備を万端にしまして、長く待っていたような気がします。まんじりともせず、皆さまの帰りを待っていたのですが、ようやく戻った皆さまがびしょ濡れだろうとは思っていましたが、貴女も、若君も泥だらけで運び込まれて、いったい何があったのかとたいそう驚きました」

「……泥だらけで……」


 わたくしはあの夜の、気を失う前のことを思い返しました。

 ひどい雨に、ひどい風に、わたくしたちが閉じ込められていた小屋はひっきりなしに軋んで、甲高い音が聞こえていました。

 血染めの端切れを送っても満足のいく結果にはならなかった下手人たちは、明日には指を切ってやるからな、と怒鳴りました。

 だから、わたくしは夜天丸ではなく、どうかわたくしの指を切ってくれと言ったのです。それから、それから――


「長雨と、あの夜の暴風雨で土砂崩れが起きて、下手人たちは小屋ごと生き埋めになったようですな。掘り返してはいるが、まだ何も見つかっていないと。

 貴女と若君が巻き込まれずに済んだのは幸いでした」

「……運が良かったのです。誰かが逃げろと言って、咄嗟に夜天丸を抱き上げて小屋の外へ……」


 そうです。わたくしは夜天丸を抱き上げて、大人たちの横をすり抜けて、小屋の外へ出たのです。そのすぐあとになにかが押し潰される音を背後で聞いたのです。

 思わず顔を伏せれば、耳を塞がれたまま静かにしている、ともすれば寝てしまっているような様子が目に入りました。眼が合うと、にこり、と人好きのする笑顔を返されました。


「そうだったのですね」


 医師(せんせい)は大きく息を吐いて、それから畳の上に大の字になりました。

 いつも背筋を伸ばして、しゃっきりとしていらっしゃる方なのに、珍しいこともあるものです。


「いやあ、良かった。お二人が無事で、本当に良かった。おおきな怪我もないし、本当に良かった……。

 お二人が拐されたと聞かされたときは生きた心地がしませんでしたよ」

「すみません、ご心配をおかけいたしました……」

「なんのなんの、お二人が生きていてくださるならそれで良いのです。

 それより、思い出したくもないことを話させてしまい、申し訳なかった。警邏(けいら)の者たちには私から報告しておきますから、ゆっくりと休んでいてください。

 夕餉(ゆうげ)のころにまた伺います。

 さ、若君、私といっしょに行きましょう」


 医師(せんせい)に手を差し伸べられても、わたしに抱き着いたまま頬を膨らませ、いやいやと首を振りました。


「ぼく、あねうえといっしょにいるもん!」

「若君……」


 困ったように笑む医師(せんせい)につられてわたくしも笑いました。


医師(せんせい)、この子がいても休めますから大丈夫ですわ。医師こそ、ゆっくり休んでくださいましね」


 わたくし自身の目元を指さして、(くま)がひどいですよ、と指摘すれば、医師(せんせい)はバツが悪そうに眉尻を下げました。

 常日頃から人の健康を気にしている方ですが、医者の不養生とはよく言ったもので、患者のことを気にするあまり、無理や徹夜をよくしてしまう方でもあります。


「まったく、君は弟に甘いのだから。きちんと休むのですよ。若君も、ちゃんと休んでくださいね?」

「はーい」

医師(せんせい)も、隈が取れるくらいには休んでくださいまし」


 再びの指摘にはにっこりと笑うだけで医師(せんせい)は部屋から出て行ってしまいました。

 あれはきっと、また無茶をなさるつもりに違いありません。わたくしは思わずため息をつきした。

 医師(せんせい)がきっちりと閉めていった戸を見ます。誰かが入ってくる様子はありません。庭から聞こえてくるのは遠く聞こえる鳥と虫の鳴き声だけでした。

 未だわたくしに抱き着いている男の子を見ました。

 明るい、陽の光を凝縮したような色の、小さな子ども特有の細い髪。

 毎日日差しの下に出て、元気いっぱいに遊んでいたものだからよく灼けた肌。

 夏になれば家族みんなで泳ぎに行く川のような深い(みどり)色の眼。

 やんちゃをして、木から落ちたときに作った額の傷もうっすらと確認できました。

 この子はどこからどう見ても弟の夜天丸のようでした。とてもよく似ています。まるで、本人を目の前にしているかのよう。


「ねえ、あなたはいったい誰なのですか? どうしてわたくしの弟と瓜二つの姿をしているのです? どうしてわたくしの弟のふりをしているのです?」

「ねえさま、なにをいってるの? ぼくは夜天丸だよ?」


 本当に、本当に、夜天丸のようでした。

 でも違うのです。

 あの子のはずがないのです。


「いいえ、あなたが夜天丸であるはずがないのです。だって、あの子は死んでしまったのですから」


 わたくしの目の前で、切り殺されてしまったのですから。

評価、ブクマ、感想に誤字報告ありがとうございます。

とても嬉しいです。励みになります。

今後ともよろしくお願いいたします!


ホラーのつもりで書いてないですが、これホラーだろ! と思ったら教えてください。

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