超いい加減な三国志シリーズ 「闇の胡車児」(パイロット版)
董卓亡き後、張繡は涼州への帰還を許されず荊州に残る事になった。そこで張繡の軍師、賈詡が一計を案じて曹操を捕縛する事で自分たちの高く売り込むという策を講じる。しかし曹操の血族曹安民の機転で曹操は張繡の包囲網を脱出し、殿を務める典韋は青州兵と共に殿を務めたという設定。
建安二年、荊州は宛城。
巨獣が吼える。彼が両手に持った鉄檄を振るえば、如何なる勇士とて刃を彩る赤錆と為った。
闇の中、篝火に照らされながら男は迫り来る刺客たちを相手に一歩も退かない。
彼の名は典韋、曹操の親衛隊長を務める忠烈無双の戦士である。
だが敵も負けてはいない。
かつては涼州で屈強な異民族を相手に戦った生え抜きの戦士たちは仲間の死体を踏み越えて、豪勇典韋に挑み続けた。
「賈詡よ、話が違うではないか。曹操が無事に退散すればあの典韋はこちらに投降する算段では無かったのか?」
張繍は軍の人壁の裡で怯えながら軍師賈詡に尋ねる。
彼とて典韋の武勇は聞いてはいたがまさかここまで食い下がられるとは思っていなかったのである。
涼州から引き連れてきた兵士たちが巨獣の牙にかかる姿を見ては親指の爪を噛んだ。
(失策だ。曹操の配下の武将たちは基本利害でのみ繋がっていると考えてはいたが…)
鷹のような鋭い瞳で典韋を睨む。
典韋を包囲してから既に五十人近くの犠牲者を出している。
この戦いは最初から曹操を討つ為の戦いでは無く、張繡軍を高く売り込む算段だった。
「ご安心を張繡殿。如何に典韋が蛮勇の限りを尽くそうとも多勢に無勢、直に我らが軍門に下る事でしょう」
賈詡はいつも通りの平静さを装う。
「そうか。ではお前を信じるぞ」
張繡は己の軍師の言葉を信じて安堵を得る。
実際に張繡は賈詡を傍らに置くようになってからは風向きが良い。
呂布が敗れ、中元の各地で旧董卓軍が劣勢になっている最中でも張繡軍の武威が翳りを見せないのは賈文和の功績と言ってもいい。
「張繍‼」
鉄檄が舞い、ついに典韋が大将の目の前に現れた。
全身に浴びた返り血がここぞとばかりに月光に照らされ、典韋の異名”悪来”通りの姿となっていた。
「典韋」
怖気気味に、だが一軍の将に相応しい態度で張繍は兵たちを押し退けて典韋の前に立った。
心の中ではすぐにでもに逃げ出したい一心であったが涼州の武人としての誇りが彼を奮い立たせる。
(悪来典韋の何するものぞ)
腰の位置は低く、膝はガクガクと震えているが己の死に際というものを感じない。
張繡は一息飲み込んで鞘から剣を抜いた。
「典韋よ。既にお前の主君は子の戸を離れた。これ以上の抵抗は無意味だ。おとなしく捕まるなら命だけは保証してやる」
「黙れ、鼠族‼貴様らは一度、曹操軍に下っておきながら謀反を起こした虫けらにも劣る雑魚どもだ。そのような連中に情けをかけられて生きながらえては俺の身の置き所はない」
典韋は矢が刺さったままの足を引きずりながら武器を構えた。
その鬼気迫る様相に、張繍は思わず息を飲み込む。
「賈詡」
「既に四方には連弩を配置しております。心置きなく戦いくださいませ」
「うむっ」
全幅の信頼を寄せる賈詡に背中を押される形で張繡は典韋と相対した。
典韋は傷を受けた猛虎のように鉄檄を振るい、張繡を追い詰める。
張繡もまた馬上同様に巧みに剣を振って必殺の一撃をどうにか躱していた。
「典韋よ。そろそろ刃を収めてはどうだ?お前は十分に奮戦した。曹操もお前を責める事はあるまい」
典韋は左右の鉄檄を使って張繡の剣を弾き飛ばし、腹に蹴りを入れた。
張繡は後ろに吹き飛ばされながらも転がっていた湾刀を拾い、典韋の鉄檄を受け止めた。
戦局は薄氷一枚で張繡は己の命を保っている。
呼気には血の気が混じり、勇気は萎えて今にも降伏してしまいそうな心持だったが張繡は未だに己が死の気配を感じない。
拾い上げた刀を振るって典韋を元の位置まで押し返した。
「鼠族、貴様も武人の端くれならばわかろう。ここが俺の死に場所だ」
典韋は鉄檄を振り上げ、張繡の湾刀を切った。
「ッ‼」
典韋の度を越えた気迫をいち早く感じ取った張繡は剣を手放して大きく離れていた。
そして代わりの武器はないものかと地面を見るが何も残されてはいない。
張繍は芋虫のように地面を這って典韋の檄から逃れようとする。
「弩兵、典韋を射よ‼張繡殿を守るのだ‼」
主の苦境を察した賈詡は手勢に典韋を射るように命じた。
弩兵たちも張繡を救う為に典韋に向って弩弓を放つが、典韋はその尽く檄で撃ち落とす。
そればかりか腰にさした剣を投げつけて弩兵を殺してしまった。
「かくなる上は…」
賈詡は剣を抜いて典韋の元に向かう。
ここで張繍を失う事は彼の思い描く覇業の頓挫であり、何よりも自分のような曲者を受け入れてくれた張繍という男への忠義立てに他ならない。
(まさかこの俺が単独で敵将の前に立つことになるとは…)
豪傑、典韋の威容を前にして賈詡の瘦身は震えあがる。
今この梟雄を鬼神の如き猛将の前に立たせているのは、乱世を生きる野心家としてのちっぽけな矜持だけだった。
「か、賈詡⁉下がれ、下がれ‼お前如きの出る幕ではない。ワシが何とかするから、お前は兵をまとめて…」
「次の主を探せと?張繡殿、私を見くびってもらっては困る。私とて生涯の主と見定めた御方を守る権利はあるのだ」
賈詡はもう一本の剣を張繍に渡した。
張繍は部下の献身と己の至らなさに感極まって、思わず泣いてしまった。
「悔しい。ワシに曹操ほどの器量が備わっていれば西方の張良と呼ばれたお前をこのような形で戦場に立たせる事も無かったというのに…」
「西方の張良とはまた大袈裟な。私はせいぜい詐欺師程度の小物でござるよ」
賈詡と張繡は剣を持って典韋の前に立った。
「猿芝居は終わったか、鼠族どもめら。我が命脈はここで尽きようとも曹公は必ずや、戦乱の世を終わらせる」
典韋は全身に刺さった矢を全て抜いた。
次の瞬間、間欠泉のように典韋の全身から血が噴き出した。
典韋は眩暈を覚えながらも気力で出血を止めて張繡らの前に立つ。
実のところ彼の血走った目には張繍たちの姿は映ってはいない。
味方の陣営まで運よく辿り着いた曹操の無事だけを祈っていたのである。
「典韋‼」
「覚悟‼」
そして張繡と賈詡は典韋に向って斬りかかった。
二人の剣の技量は並の兵士より少しマシなくらいだったが、意を決していた為に実力以上の気迫が宿っている。
数合も刃を交えている間に勝利の片鱗らしきものを感じた。
だが相手は飛将軍”呂布”に匹敵する力量を備えた典韋である。
死力を尽くした檄の一振りは剣を砕き、勝利への道は瞬く間に消え失せた。
「典韋、降参だ。曹操はもう追わぬ。我が軍は降伏する」
張繡は大地に膝をついて助命を懇願した。
だがそれを許す典韋ではない。
無言で張繍の頭に向って檄を振り下ろした。
「張繡殿‼」
賈詡は折れた剣を投げ捨て張繍のもとへと走った。
そして張繡に覆いかぶさって彼を守ろうとする。
(この俺が他人の盾になって死ぬ事になるとはな…)
迫り来る典韋の檄は一刀ごとに賈詡の剣を削る。
二手、三手の頃には完全に砕かれ柄のみとなっていた。
「チィッ」
己の武勇の至らなさを呪いながら賈詡は剣の柄を典韋にぶつけた。
当然のように典韋は是を両断し、尻もちをついた張繡とボロボロになった賈詡を睥睨する。
「典韋よ。ワシはどうなっても構わん。だがこの賈詡の智謀は計り知れず必ずや曹操の役に立つ。お願いだ、どうか賈詡を殺さないでくれ」
張繡は典韋の下半身にすがりついて助命嘆願をする始末だった。
だが典韋は張繍を睨むと彼の身体をぶん投げる。
「往生際が悪いな、鼠族。おとなしく俺に討たれろ」
典韋は張繡の懇願など最初から相手にせずただ冷たい鉄檄の先端を向けた。
その時だった。、――彼”がこの場に現れたのは。
「典韋、典韋よ。もう良かろう。お前は我が同胞を殺し尽くした。この期に及んで私の主の首まで欲するとは、欲張りが過ぎるぞ」
男は一歩、また一歩と頼りない足取りで典韋の元にやって来た。
青き月の輝きを宿す双眸、褐色の肌。
狼のような容貌は涼やかな夜気を纏い、魔物を思わせる。
「おおっ‼胡車児か‼」
突如として現れた武将の姿に張繡は希望の光を見出す。
しかし、それもつかの間の出来事。
胡車児の姿を見た張繡と賈詡の瞳には絶望の色に染まる。
胡車児の右腕は肘のあたりから失われていた。
「貴様か、すばしっこいの。まだ生きていたとはな…」
典韋は張繡と賈詡には目もくれず胡車児のもとに向って歩き出す。
「貴様はさながら人界の猛獣よ。主君と軍師殿の為、ここで討たせてもらう」
胡車児は鞘から剣を引き抜いて典韋に向った。
次の刹那、胡車児の背後から黒衣の戦士たちが典韋を取り囲む。
胡車児の私兵、”黒獅子旗”らであった。
「やはり鼠族か。群れていなければ何も出来ないと見える」
典韋は張繡は鉄檄を振りかざし、黒獅子旗たちを蹴散らす。
彼らもよく見れば身体に重傷を負っており、十全の状態とは程遠い。
「そうだ。我らはか弱きゆえに群れを為さなければ何も出来ん‼」
胡車児は機を計ると飛びかかり、典韋に斬りかかった。
典韋はこれを正面から受け止めるも背後から別の黒獅子旗が殺到して彼の背中を串刺しにした。
されど相手は豪勇無双の典韋。
背後の黒獅子旗らの何人かを捕まえてすぐに絞殺する。
桁外れの膂力に兵たちは一瞬、怯むが胡車児の奮戦する姿を見て彼を死なせまいとすぐに各々の役割を遂行した。
即ち典韋を倒す為だけの捨て身の特攻。
如何に典韋の武勇が優れていても雪崩かかる死兵を相手にしてはわずかな綻びを見せざるを得ない。
「胡車児ッ‼」
全身を剣と矢で貫かれ、満身創痍の血みどろと為った典韋がついに吠えた。
己の末路を悟った断末魔だったのだろう。
胡車児も相応の覚悟を決めて難敵の声を聞く。
「その類稀なる武で、この世に何を為すか⁉」
「我が武片は天下の礎よ。語るほどの物でも無い」
典韋は口の端を歪ませて大いに笑った。
武人として最期に望み通りの答えが返って来たのだ。これほど嬉しい事は無い。
「先に逝っているぞ」
「ああ。あの世で待っていろ。俺も直にそこへ逝く」
典韋は裂帛の気合と共に鉄檄を交互に振るう。
胡車児は檄の間をすり抜けて典韋を肩口から切り裂いた。
「総員、典韋を討てえええっ‼」
張繡の怒号と共にあたりにいた兵士たちが全員で典韋に殺到した。
胴を切られても、手足を切られても典韋はひたすら暴れ回る。
やがて夜が明けた頃、典韋は動かなくなった。
両腕を失い、口に檄を咥えながら戦い続けたのである。
犠牲者は百人を超えていた。
典韋の圧倒的な武を前にしてはその場にいた誰もが言葉を失った。
(典韋よ。お前はなぜ戦った?お前一人ならこの場から逃げる事も容易かったはず…)
膝を屈しても尚敵の前に立ちふさがる典韋の下を前にして胡車児は訝しむ。
彼は賈詡の計略を聞かされていたので最初から曹操だけは逃がすつもりだったのだ。
「胡車児、見事だった。さっさと休め。後はワシらで何とかしておく」
気がつくと張繡が足を引きずりながら胡車児の前に来ていた。
彼の傍らに立つ賈詡の表情は優れない。
それもそのはず典韋を殺してしまっては曹操との輪獏もかなり難しいものになってしまった。
(息子どもはともかくお気に入りの典韋を殺されては曹操は黙ってはいまい。いっそ袁尚に下るか?)
賈詡が険しい顔で今後の進退について考えていると黒獅子旗の一人が縄で縛られた青年を連行してきた。
「軍師殿。この者が向こうの蔵に隠れていました」
賈詡は虎狼のごとき視線を青年に向ける。
整った顔立ち、上等な鎧と武器。
そして敵陣の真っただ中でも可が精気を失わない瞳に曹操の面影を見出した。
「小僧、名を名乗れ」
「俺には名乗るべき名など無い。さっさと殺せ」
青年は膝立ちのまま死んでいる典韋を見て、号泣していた。
己の功名心からこの場に残って戦う事を選んだがゆえに結末である。
どれほど泣いても涙が尽きることは無かった。
「貴様、曹操の長子曹昂だな?」
「だったら何だ。俺は悔しい。俺が父上についてこなければ安民も、典韋殿も死ぬことは無かったのだ…」
曹昂は歯を食いしばり、泣き咽ぶ。
弟たちに手柄を誇りたかった。
父親に認められたかった。
その幼稚な願望を押し通してしまったが故の結末だ。
「これも戦場の習わしだ。恨むなよ」
賈詡は己が頭上に剣を掲げる。
曹昂に人質としての価値は無い。
むしろ曹昂を手元に置いては曹操と敵対する他の勢力につけ狙われる口実を作るようなものだった。
もはや張繡軍は涼州に帰還する事さえままならない。
足手まといは無用だった。
「待て、賈詡。彼奴はまだ子供ではないか」
「張繍殿、戦場の習わしでござる。ひと度、戦場に出て敗れた者は例外なく首を刈られる。ましてこの若者は曹操の長子。おかしい事などござらん」
あくまで賈詡は聞き耳を持たない。
張繡は捕縛された曹昂の前から動かなかった。
「後生じゃ、賈詡。今日はもうワシは目の前で誰かが死ぬのを見たくはない」
そう言って張繍は曹昂の前を離れなかった。
切られた方の腕を抑えながら胡車児もその場で膝を屈する。
「軍師殿。私からもお願いします」
「興が醒めました。私は帷幕に戻ります」
それだけ言い残して賈詡は引き上げる。
後に残った張繡と胡車児は曹昂を見たが、彼は気絶していた。
「ワシらも引き上げるぞ。まずはお前の腕の治療だ」
「御意」
かくして正史の上ではなくなった曹昂は数奇な星の巡りにより、生き延びた。
この先彼は黒獅子旗の兵として戦乱の世を駆け巡ることになる。(続く)
誤字報告、ありがとうございます。マジ感謝。