あの子は世界が好きすぎる
■ ■
「ねぇ!空が蒼い理由って何か知ってるかな?」
彼女はある日の僕にそう言ってひっくり返った。
草の匂い、風の音。自転車。ある日の正午だった。
「それにね、空は『青い』ってブルーで表すよりも、『蒼い』って書いた方がかっこいいと思わない?『青』っていうと単純に色素的な話だけどさ、『蒼』って書くとなんだか透き通って感じるよね」
「そうかな。それを言うなら『碧』って書く場合もあるだろうし、青空なんかは『青』を使ってるけど。こんなのは使う人の好みじゃないか。というか、今の空の色は『青』だよ客観的に」
「そうだね、好みかもしれないけれど。でもどれかを使えるなら私は『蒼』を使いたいな。だってそっちの方が綺麗だし、楽しいから」
こんな風にしょうもない話を彼女とするのは僕達の日課だった。
何もかも忘れて、しがらみを解き放って、こんな風にどうでもいい事を話し合う事。単純に暇つぶしなのだけれど、僕はそんな時間を過ごす事が楽しみだった。
「そう考えると、ガガーリンの『地球は青かった』はちよっと物足りないし、事実じゃないのかもしれないね」
「それはどうして?客観的な事実だと思うけど」
「だって、宙から見た地球はさ多分『青くて、蒼くて、碧かった』だよ」
「……いや、彼の言葉は元々日本語じゃないから当然日本語のニュアンスなんて気にしていないよ」
「ううん。もし私が宙から地球を見たら絶対にそう言う。何語でもね。何なら『青くて、蒼くて、碧くて、あおくて、時々緑だった』って言うと思う」
「あおじゃ無いんだ……そこまで来たらもうやり過ぎだね」
彼女は時々意味不明だ。ピタリと本質を突く事もあれば、自分勝手な理論を組み立てては「やっぱり無理か~」だなんて自己完結をする。そんな自己中心的な謎の女なのだ。
「不思議だよね」
「何がさ」
時間が経つのも忘れて、僕達は町の至る所で話し合う。
この日ももう夕方だ。夕焼けがひっそりと空に浮かぶ。
「私達出会ってからもう随分と経ったよね?」
「そうだね。詳しく覚えてる訳じゃないけどさ、ええと二ヶ月位?あの日は雨だったかな」
彼女と出会った事を思い出す。記憶の中の彼女はずっと笑顔だけれど、あの日だけは暗い表情だった。けどそんな事を聞いたりはしない。それが僕達の暗黙の了解だからだ。
「こんなに長く付き合った友達は居なかったよ。特に男子でね。ほら私いい子ちゃんだからさ」
「そればっかりは何回聞いても信じられないけどね」
「感じるのは今この瞬間、飛び降りたらどうなるのかな?なんて、疑問だけ……」
「それは危険だからぜひとも止めて欲しいな!?」
■ ■
「横断歩道を歩く時にね、そっと横を向くの。そうしたらさ、まるでCDのジャケットみたいに自分に光が当たってるのを感じられる。とってもオススメなんだ」
「君がいつも横断歩道で車を見てるなって思ってたらそういう事だったんだ。危険だし変だから止めといた方が良いと思うよ。運転手さん、気にするでしょ」
「確かに、じゃあ車が居ない時にしよう。そうなると……真夜中かな?真夜中の町はまだ行った事が無かったよね。今度は深夜三時に集合って事にしようか」
「その時間は多少厳しそうだ」
お昼ご飯を食べて、そこからまた世界を歩く。
僕は自転車を押して、彼女はただ傍を歩く。
それだけだ、それだけだけれど僕達の間に話題が尽きる事は無い。彼女は何処に行っても、何時の時間でもこの世界の楽しみ方を僕に語ってくれる。
彼女が話して、気が付いて、傍にいて、僕がソレに少し考えて答える。これの繰り返し。
だから僕達はずっと話してる。
「後はバス。バスの窓際でね、車の回転する音を聞くの。ゴォ~ってね、凄く楽しい」
「珍しいね。君は徒歩至上主義者だと思ってたけど」
「うーん、確かに車とかはあんまり好きじゃないんだけどね。けどそれは移動手段として好きじゃないってだけで、存在は好きだよ。だからバスも好き」
「へぇ、それは初耳だったな。じゃあ今度からはバスを使ってどこかに行けそうだ?」
「それとこれとは話が別かも。まだ徒歩で行ける場所に行ききってないんだから」
まぁ彼女と出会ってからの三ヶ月、まだ公共交通機関を利用した事は無い。薄っすら察してはいたのだけれど彼女の散歩好きは異常な程だ。
だからこそ、こんなにゆっくりと時間を過ごせるのかもしれないけれど。
「そうだ、今晩は行った事のない外国の料理が食べたいな!折角生きてるんだから色んな国の料理を食べておかないと損だよね?どこかいい店を知らない?」
「うぅん、ごめん。知らないや。調べようか?」
僕はスマホを取り出そうとポケットに手を伸ばすけれど、それを彼女の手に止められた。
「じゃあこれも折角だし、一緒に歩いて探そう。また色んな事が見つかるよ」
「……うん、そうしようか」
■ ■
ガタンゴトン。ガタンゴトン。
「ねぇ、君はこの音どう聞こえる?」
「ガタンゴトンかな。ていうか電車なんだからガタンゴトン以外思いつかないや」
「奇遇だね、私もそう聞こえる」
「一緒じゃないか」
なんだ。てっきりまた自分の理論を披露してくれるかと思ってたのに。
「でもガタンゴトンって凄いよね。というか初めてガタンゴトンって書いた人が凄い。だってさ、何年か、何十年か、何百年か分からないけど自分の感じた事と同じ事を皆が感じてくれてるんだよ?それてすっごく幸せだと思わない?」
「幸せ、なのかなぁ?結局その人が居なくても人間は電車に乗ったらガタンゴトンって聞こえるし感じるものかもしれないよ」
これだけガタンゴトンと聞こえるのだ。僕が初めて電車に乗ってもそう言える自信すらある。
「それでもだよ。自分の感じた事を、誰かに知ってもらうのは凄く嬉しいし、楽しい事だよ。今の私みたいにね」
「それは、ずるいな」
「ふふふ~、私は狡猾な女だからね。惚れるなよ?」
「どこが狡猾な女だよ、どちらかと言えば君は天然だよ」
指さしをする彼女の優美さ、真正面に座る彼女は微笑んで、僕を揶揄う。
本当に、本当に少しだけ。長さで言うのならミクロンメートル位だけ、心がドキッとしたのは彼女には内緒だ。ドキッという音は聞こえないから本当に良かった。
「あ!そういえば忘れてた!電車と言えばこれだよね、駅弁!」
手を叩き、思い出したように鞄から駅弁を取り出す。
その音に少し驚いて、奥の方に行った意識は戻って来た。
「————あ、うん。そうだね。もうお昼時だし食べてもいいかも」
「ジャジャジャジャーン!炭火焼鳥弁当特盛~!」
「何でベートーヴェン?」
「理由は無いけどさ。ジャーンっていうよりも壮大な感じがしない?こっちの方が楽しみが強調されてる気がするから好き」
「そりゃ運命の音なんだから壮大だろうよ」
お弁当で運命を感じるなんて、なんてまぁあるかも。僕は自分の鞄からタヌキ弁当なる謎の駅弁を取り出しつつ思う。狸の可愛いパッケージに惹かれて内容も見ずについて購入してしまったものだ。
衝動買い、これも一つの運命なのかも。
「駅弁の楽しい食べ方って知ってるかな?」
「え、景色を見ながら食べるとか?」
「甘いね、正解は……ないよ!好きに食べたらいいし、綺麗に食べてもお行儀悪くてもいいの。それが駅弁なんだからね!」
「いや、お行儀は良くしといた方が良いと思うけどな」
■ ■
「ねぇっ知ってっるっ?」
「何がさ!」
彼女はブランコを勢いよく漕ぎながら、僕に問いかけた。ブランコを立ち漕ぎするものだから声が近くなったり遠くなったり、そもそも彼女の声が飛び飛びだ。
危険だから近づけないし、聞き返す声も大きくなる。
「よっと!あのね、ネズミもゾウも人間も、一生の内で心臓が動く回数は一緒なんだって」
「ああなんだか聞いた事があるかも。具体的な回数は覚えてないけど、短命のネズミも長命のゾウも結局は同じだけの心拍数らしいね」
どこで知ったのか覚えてない雑学程度の知識だけれど、彼女と同じステージに立てたみたいで少し楽しい。まぁ僕のはそこに何の感傷もないのだから自慢にもならないんだけれど。
「うん。だからネズミもゾウも流れる時間は一緒で、ネズミは凄く速くてゾウは凄く遅いの。でも私達は全部の時間そうじゃないよね?速い時もあるし、遅い時もある」
「確かに、退屈な時間は凄くゆっくりに感じるね」
「そうなの。退屈な時って凄くゆっくり、楽しい時間は凄く速い。でも一時間なら一時間って同じだけの時間を生きてるんだよ?それならさ、じゃあ楽しい人生は凄く短いのかな。反対に、凄く辛い人生は凄く長く感じるのかな」
それは、それは少し違うのではないか。結局は心拍数の話なのだから、興奮が多い人生は短くなるけれど、楽しい時間が全部寿命を縮める事は無い筈だと思う。
「アインシュタインはさ、ストーブの上に掌を置いたら凄く長く感じるけど、可愛い女の子と一緒に過ごす時間は凄く短いって言ったんだって。天才だよね」
ドキリ、とする。まるで自分の事を言及されているかの様に感じて。
勿論これは彼女の例えの一部分であって、僕の事を言っているのではないのだろう。けれど、まぁ正直に言えば、彼女と過ごす時間は凄く短く感じるのだ。
この感情は、なんというのだろうか。アインシュタインなら知っているのだろうか。
「ねぇ………今のこの胸のドキドキは何だと思う?」
「………ブランコで思いっきり漕いだドキドキなんじゃない?」
「正解!」
■ ■
「階段だとどっちが好き?」
不意に彼女が振り返る。
スカートなのだから、目に悪い行動は謹んで欲しいのだけれど。彼女はそんな事なんて一ミリも気にしていないみたいだ。そういう天真爛漫な所が彼女の魅力なのだろうけど。
「急にどうしたの?」
「階段の上と下、どっちが好きなのか聞いてるんだよ。聞こえなかった?」
「いや本当に考えた事が無い質問だから、少し答えるのが難しいだけ。そうだな……強いて言うなら、下かもしれない」
「それはどうして?」
どうして、と問われても直感だ。
でも理由を聞かれているのだから、その直感の訳を考えなくてはいけない。
「これから上る事が出来るからかな。ほら、なんか始まる気もするし」
「へぇ。じゃあ私とは反対なんだね。私は上が好きなんだ」
「それはどうして?」
「階段ってさ、ふつう上るものじゃない?って事は階段の上って事は何かを達成したって事だと思うの。そう思って振り返って世界を見ると、なんだか輝いて見える気がするんだ」
「確かに、それは真逆だね」
階段に始まりを見出す僕と、達成を見出す彼女。驚く事でもないかもしれないけど、彼女と僕の意見がぴったり合う事は滅多に無い。電車に乗った時の様に、同じ答えしかないみたいな質問は別にしてだ。
けれど、考える事は違うし気が付く事も違うけれど、それでも彼女と話をする事は凄く楽しかった。
「うん、真逆。けど階段ってそもそも真逆だから丁度いいのかも。だってさ階段を上ってる時に反対を向いたら、もうそれは下りだもんね」
「ちょっと屁理屈じゃない?」
「そうかも。けどさ、そうやって思えば階段を上るっていう事も凄く楽しい事の様に感じないかな?例えば……『私は今、階段をマイナスに下っているのだ』!なんて言葉遊びも楽しいかも」
変な理系じゃあるまいし、なんてツッコミが心の中だけで響く。
本当の所を言えば、僕が下が好きと言ったのは彼女が上に居るから、なんて俗な理由なのだけれど。それは別に言わなくてもいいだろう。彼女は上、僕が下、好みは逆だった。それでいい。
「うん、そういうのは面白いね。ネガティブな事を『マイナスに前向きなのだ』って言うみたいな」
「おおー!君も中々やるね。私ほどじゃないけどね」
「いやいや僕の方が分かりやすいでしょ」
■ ■
「ねぇ!海っていいよね!」
彼女は海辺で僕に笑った。
「でも今は夜だよ?海ならやっぱり昼に来た方が綺麗じゃないかな」
「勿論昼間の海も大好きだよ。蒼い空、白い雲、そして光り輝く太陽!海に光がキラキラ、明るい世界って感じで凄く好き」
「だから『蒼い』は青空の色とは少し違うんだけどな………。じゃあなんで夜の海が良いのさ」
「それはね。太陽以外が凄く綺麗に見えるから!」
バシャバシャと彼女は夜の海に入っていく。
入るとは言っても膝下位まで。水着も着ていないし妥当だ。そもぞも夜の海は危険だから。けど折角だから彼女の水着姿が見たかったというのも真実。
段々と僕達の行動範囲は広がって、段々と色んな事を知っていく。季節外れ、時期外れ、時間外れのトリプル外れの海に来たのも彼女の提案だった。
「太陽って凄く大きくて、綺麗。色んな物や人を照らしてくれるし、凄く暖かい。けどさ、自分から輝かないものはじゃあ太陽より暖かくないのかな?」
その問いは、常識外れと言うかなんというか。少なくとも的外れな事は分かる。その理屈で言うと電球だって凄い事になるし、何なら光源の全部が凄いって事になる。そもそも熱を持っていないなら全部暖かくはないけれど。
「どうだろう。けど夜空に見える星も、結局は恒星だから光ってるんだし、この宇宙には太陽よりも大きくて熱い星なんて幾らでもあるよ」
「違うよ、そういう事じゃない。この世界の話だよ」
くるりと彼女は僕に背を向けて、バシャン。そのまま海に仰向けで倒れ込んだ。
「ちょッ!?」
突然の行動に何もすることが出来ず、僕は珍妙な声だけ挙げて彼女の元へ。
どうするんだ、着替えは持って来ていないというのに。
「太陽は皆に平等だし、照らしてくれる。けど夜に太陽は居ない。という事はね、こんなに夜が魅力的なのは、元々の世界がこれだけ美しくて綺麗だからって事じゃない?」
「………暖かさの話は?」
「そう、暖かさ。夜は冷たいけれど、皆が休まる時間。眠る時間。心が休まる美しさって、凄く暖かいって思わない?そう思うとさ、こうやって波に揺られているのも………凄く暖かい」
夜行性の生き物もいるよ、なんて野暮な事は言わない。言わずとも彼女が僕に伝えたい事は理解出来たから。これは僕達の、或いは人の話なのだ。
「明るいだけが世界じゃない、夜だって世界の一部。夜の寂しさも、静かさも、全部。そういう口下手な暖かさがあるんだよ」
「………風邪、引くよ」
気恥ずかしくて、そうぶっきらぼうに彼女に言った。
僕は夜だというのに頬が熱くなる。いや熱いよりも相応しい言葉がある。
凄く頬が、暖かい。
「うん、そうだね。………へくちゅっ!」
「ほら見た事か」
■ ■
「ハッピーバースデー!」
「え、え、え」
余りにも突然言われたから、僕は反応が出来なかった。
「ほら、一回目の誕生日は祝えなかったからね!ちゃんと言おうと思って」
「あぁそうか、確かに今日は僕の誕生日だった」
そういえば彼女に誕生日の話をした事があった気がする。
「どう、嬉しい?」
「嬉しいけど、まぁあんまり人に誕生日を祝ってもらった記憶が無いからさ。なんていうか、こう難しい気持ちかもしれない」
よく考えれば他人の誕生日も自分の誕生日にも無頓着な人間、それが僕だった。実際彼女に言われるまで今日が自分の誕生日だという事も忘れていた。
「でも、誕生日は重要だと思うよ。節目になるし、それだけ生きていられたっていう事だしね。うんうん、めでたいね!」
一人で腕を組みつつ納得する彼女。
まぁ僕も、難しいとは言いつつ嬉しいのは嬉しいと思う。自分の誕生日が訪れた事自体がじゃなくて、それを誰かに祝ってもらったのだという事実を得た事が。
「確かにそういう考え方も出来るな。節目っていうのはそうかもしれない。だって去年の今日には君とは出会ってなかったんだから。そう思えば凄い変化だ」
去年の誕生日の記憶なんてものは既にないけれど、少なくともその時点の僕には彼女の存在はない。
今当たり前になった彼女と共に話す生活はそう考えるとここ一年の間に形成されたものなのだ。それは僕の人生にとって大きな変化と言えるんじゃないだろうか。
「多分、去年の僕に今こうなってるなんて言ったって信じないと思う」
「あはは、それは私もだよ。うん、今こんなになってるなんて去年の私は想像もしてないだろうね」
「お互い様って感じか」
「うん、お互い様」
お互い様か。それはなんて面白い関係性なのだろう。
彼女も今僕と過ごすこの時間と関係を、楽しいものだと感じている。そしてその関係性は僕からの一方的なものじゃなくて、双方的なものなのだ。
そうお互いに感じていること、それがどうしてか嬉しかった。
「じゃあ君の誕生日も教えてよ。次は絶対に祝うから」
「え~秘密主義なんだけどな~」
「もったいぶらないでさ」
■ ■
「いてて………」
「どうしたのさ」
「いや、別に大した事は無いよ。少し腕を怪我したんだ」
僕は痛む右腕をさすりつつ、彼女と歩いていた。
「えっ!?大丈夫なの!?」
「うん、大丈夫。言っても骨が折れてる訳じゃないし、事故って程でもないから。君と話が出来ない位深刻じゃないから」
「………そっか、気を付けなよ」
「うん、気を付ける。じゃあ今日は僕から聞いてもいいかな?」
「お、凄く珍しいね?今までの中で初めてじゃないかな」
そんな事はない………とは言い切れないかもしれない。会話の中で聞き返す事はあっても、僕から会話の内容を決めに行ったのは今回が初めてかもしれなかった。なんせ記憶が無いのだから。
「君は怪我をした事はある?」
「うーん怪我………はした事ないかもね」
なんだか意味深な言い方だ。
「怪我はないんだけど、病気になった事ならあるよ」
「なんの病気?って聞かない方がいいかな、プライベートとかもあるし」
「ううむ、別に言ってもいいんだけどね。ただ私自身もあんまり理解してないんだ。どっかの臓器がうんたらかんたら………って感じだったとは思うんだけど」
彼女はいかにも考えていますと言った仕草で話してくれる。その動作は探偵物のドラマやマンガにそっくりだけれど、彼等程記憶力が良い訳でも無いらしい。
「まだ小さかったしね。今は気にしなくてもよくなったし、どうでもいいかなって思ってた。今が十分幸せって事もあるけどね」
「………そっか」
それ以上は聞かない。深堀する意味もないし、そもそお気にしなくていいのなら病気なんて気にしない方が良いのだから。今が幸せならいいだろう。
今が幸せっていうのも、自意識過剰だけれど僕の存在が影響しているのなら、少し嬉しい。
「………」
まぁここで僕に『僕のおかげかな?』なんて聞く勇気が僕に在る筈もない。彼女と過ごして長いのに、今日が初めての僕の話題提供だったのはこういう不甲斐なさが原因なのだろう。
その話題提供も、若干地雷臭のするものだったのだけども。
「今日は、美味しいものを食べに行こう」
「ええー………いいね!私、新作のケーキを食べに行きたいな!」
「うん、行こう。あ………自転車じゃないんだった」
「………」
■ ■
「夕日って凄く終わり感があって、感傷的で凄く好き」
「珍しいね。いつも君はポジティブなのに」
いつもの帰り道。彼女は沈む夕日を見ながらぽつりと呟いた。
「今もポジティブだよ。ただこういう景色を見ると、凄く写真に残したくならない?なんでもいいんだけど、携帯電話とかカメラとか。そっと写真を撮って、どこかで見返すの。思い出に浸っている感じがしておすすめだよ」
「そうかな、写真に残らない美しさ、みたいなものもあるんじゃない?ていうか本当に意外。もう随分と前だけど、夜景を見に行った時写真なんて撮ってなかったから」
あの時の彼女は本当に楽しそうだった。今みたいな感傷的な感じじゃなくて、純粋に光り輝く夜の街を見て楽しんでいた。その時の横顔の方が、僕にとっては記憶に残っているんだけれど。
ともかく、彼女の口から写真についての言及があったのは今日が初めてだった。
「そりゃあ人だもん、好きな物が増える事だってあるよ。あの時は写真の楽しさを知らなかっただけ。君と過ごしている間に、私はどんどんと変わっているのだよー」
「博士かよ」
「ふふん、世界博士と呼んでくれたまえ」
自信ありげに胸を張る彼女。
幼稚な仕草で、彼女の言う博士らしい威厳というものは感じられない。どちらかと言うとおままごとで必死に大人役を演じている子供みたいな、そんなほほえましさがある。
「でもどうして、写真を好きになったのさ。何かきっかけがあったの?」
「きっかけっていう程じゃないんだけどね。昔電車に乗った時の事、覚えてる?」
「あぁ、もう一年以上前だよね。初めての電車移動だったから覚えてる」
「うん、その時に『自分の感じた事と同じ事を誰かも感じてくれる』みたいな話したじゃない?」
あぁ、そういえばそんな話をした。それがきっかけで僕は擬音というものが好きになったんだ。初めての電車移動に重なった話題だったから余計に印象深い。
「写真もね、ある意味では同じものだと思ったの。ほら見て!」
そう言って彼女は鞄から一冊の写真集を取り出し、表紙を見せつけた。
「何これ………昔の、この町?よくこんなの見つけたね」
「そう、五十年位前の、この町の写真。今もそんなに都会じゃないけどさ、百年前はもっともっと田舎だったんだよ」
「そりゃ五十年も経ったら町は変わるよ。半世紀だよ、僕達の親が生まれた位の時なんだからさ」
一つの時代が終わって、今になる。五十年というのは変化を齎すには十分な時間じゃないだろうか。赤ん坊が中年に、子供が老人に、あの頃の大人はもういない。五十年は丁度いい昔の感覚かもしれない。
「うん。でもさ、この写真だって誰かが撮ってなきゃ残ってないでしょ?」
「そりゃ写真だからね」
「それって凄いと思わない?写真を撮れば、今私の感じている事、見ている景色、住んでる世界をさ、何十年も先の人に伝える事が出来るんだよ?残せるんだよ!」
「そう考えると、確かに凄いかもしれない」
にひひ、と彼女はインスタントカメラを懐から取り出してパシャリ。僕が止める暇も無く、フラッシュは焚かれて光が僕に照射される。
「ちょっ」
「こうやって、私が君と歩いている景色も写真に残せばいつか思いだすかもしれないでしょ?写真って忘れたものを思い出させてくれる道具でもあるから」
そんなもの、そんなもの………。
彼女は現像された写真を僕に手渡した。そこに映っているのは間抜けにカメラを見る僕の姿。正確にはカメラを見てるのではないのだけれど、そんな事は分からない。
「………理屈は分かるけど、今度から撮るなら一言いって欲しいな」
「あはは!ごめんごめん」
「………僕も、僕も撮ってあげようか?」
「お、いいね。綺麗に撮ってね、夕焼けもちゃんと入れてさ!」
■ ■
それから………。
■ ■
どうしても………。
■ ■
「あはは、ごめんねー。もっと早く言おうと思ってたんだけどさ」
「………」
それは、彼女と出会ってからもうすぐ二年になる時だった。
彼女と過ごす、二回目の季節の時だった。
「いつから………だったんだ?」
「うーん、君と出会った時にはもう、って感じだったよ」
じゃあ彼女は、彼女は僕と過ごす日々の中でずっと耐えていたという事なのか。
あの雨の日に出会ってからずっと、彼女は内の中で一人、この圧倒的な事実を抱えていたのだろうか。それは、余りにもじゃないか。
「どうにもならないし、手遅れみたいだし、手の付けようがないらしいし………うん、君が言おうとしてる事は分かるよ」
「手術は、意味が、ない感じ?」
「意味ない感じ」
どうにも出来ない自分が歯がゆい。自分が無力だという事を痛感させられる。
痛感。その言葉が本当い痛みの伴うものだなんて、知りたくも無かった。
「余命宣言って初めて受けたよ」
「………何度もあってたまるか」
「はは、だね。………君と初めて出会った時にはさ、もう二年位だって言われてたんだよね。だからちょーっと柄にもなく暗くなってた訳です」
今にして思えば、あの時の彼女の表情は異質だった。過ごした日常の中では決して見た事のない、心が曇っているみたいな表情。
野暮だと思って聞かなかった事を、後悔しても意味はないのだろう。
「じゃああの時の、あの時の病気について知らないって言ってたのは嘘だったんだ」
「ううん、嘘じゃないよ。本当に詳しくは知らなかったんだ。詳しく知った所でどうにかなる訳でもなかったし、ちっちゃい頃からで、それがようやく………って感じだったからね」
あの時、彼女は『今は気にしなくてもよくなったし、どうでもいいかなって思ってた』と言っていた。これは病気が治ったという意味では無かったのだ。
寧ろその逆、考えても仕方なくなったという事だったのだ。考えても仕方なくなった、つもり治る見込みは無くなって………今に至ったという事だったんだ。
僕は恥ずかしい。それを当時の僕は自分のおかげだなんて、思いあがった事が。
「でも今回みたいに急に倒れる事になるとはねー。もうちょっとだけ君と散歩出来ると思ってたんだけど、そろそろ限界なのかも」
「後、後どれ位なんだ」
「うーん。何とも言えないね。薬とか、手術は意味ないらしいけどさ、あるし。完治は無理だけどもう少し、後一、二ヶ月もってくれたらいい方かも」
一、二ヶ月。それは今までの僕達からすれば余りにも短い時間。
貴重な時間、けれどその全てを使える訳でも無い。
「これからは時々入院するだろうし、今までみたいに殆ど毎日は無理だね。うん、とっても、とっても残念だけど残りの時間を大切にする為にも病院は行かなきゃだからさ」
「………」
我儘なのだろう。
彼女にとっての残り時間は、多分僕以外の人にとっても重要で大切で貴重なものの筈なのだから。それを僕だけの為に使って欲しいと望むのは、本当に、自己中心的としか言えないのだろう。
ヒトの死。寿命、時間。
彼女とも話した事があったけれど、その時とは全く異なる価値観を僕は持ってしまっている。
こんなどうしようもない僕が、こんあ事を言うのは、我儘以外の何物でもない。
けれど。
「お願いが、あるんだ」
「ん、珍しいね。こんな私に出来る事がまだあるのかな?」
にひひ、と笑う彼女。その笑顔を見るだけで、僕は押しとどめていた涙が溢れかえりそうになる。
けれど、ダメなんだ。彼女が泣いて居ないのに、僕は泣けない。涙を流す時間はもったいない事なのだから、絶対に無駄には出来ない。
「これから毎日………毎日、君に会いに来てもいいかな。それで、それで………君の残りの人生を、僕と過ごして欲しいんだ、けど」
あぁ。こんな時に迄僕は不甲斐ない。自信をもって我儘を言う事すら出来ない。
罪悪感があるから、彼女に悪いから、それも理由ではあるのだろう。けれど、一番大きいのは僕自身に度胸が無いからだ。
「………ううん、過ごして欲しい。僕は、君ともっと世界を見て回りたいんだよ」
自信を持て、今まで自分が過ごしてきた時間は何だったんだ。
誰よりも彼女と話しただろう。誰よりも彼女と歩いたんだろう。誰よりも彼女と見たんだろう。
自分が一番なんだって、驕ったっていい筈だ。それ位慕っていたって良い筈だろう。
「………うん。いいよ」
「ほ、本当に!?本当にいいの!?」
「いいよっていうか、私もね、同じ事考えてたんだよ。残りの時間を、君と過ごしたいって」
「え………?」
「今までずっと、私の我儘に付き合わせて、君の時間を奪ってしまってごめん。けどね、やっぱり君と残りの後少し、世界を見てみたい。そうしたいの。………ダメかな?」
断る理由は存在しない。僕からも頼んだんだ、望んだんだ。だから決まってる。
「うん、よろしく」
■ ■
■ ■
それから、本当に短い時間を過ごした。
彼女との最後の四十七日間は、これまでの人生の中で一番短く、速い時間だった。
今にして思えば、彼女がした話というのは全部意味があったんだ。勿論、今まで意味が無いと思っていた訳じゃないけれど、そこには彼女自身の事が隠れていたんだ。
色んな思い出、記憶。そこに映る彼女が笑顔で教えてくれる。
けれど。
「もう、この世界には居ないんだ」
彼女の墓石の前で、僕は立っている。
葬式が終わって、彼女の両親と出会って、少しだけ話して。
本当に終わった事を実感する。
僕は懐から、二枚の写真を取り出した。それはあの日彼女が撮った僕の写真、そして四十七日の時間に撮った彼女の写真。
彼女が本格的に動けなくなってしまう前の一番元気な時に撮った写真だから、写真の中の彼女は一番笑っている。他ならない彼女自身の希望で撮った唯一の彼女の痕跡。
そしてもう一つ。鞄から封筒を取り出す。
『君へ』
単にそう書かれただけの封筒、そう彼女の遺書だった。
誰も居ない場所で読んでね、とだけ言われて僕は彼女の墓石の前を選んだ。自宅ではなく、ここで読みたかったから。彼女には少し悪いけれど、読んだ感想を、すぐにでも伝えたかったから。
◇ ◇
君へ。
こんな風に文字で会話した事は、この二年の中で無かったかも。
私達の間では、いつも声があって、空気があったからね。
最初に、ごめんね。
病気の事、君を残してしまった事。諸々の事全部。
あの時も言ったんだけどね、本当はもっと早く言おうかなって思ってたんだ。けど結局名残惜しくて、というか辛くて。あはは、ごめん文章がまとまってないや。
誕生日について聞いてくれた時、言いたくなかったのは君にこれから背負って欲しく無かったからなんだよね。だってもし誕生日について知っちゃたらさ、これからずっと私の誕生日が来るたびに思い出しちゃうよね。出来るだけ辛い記憶の日は少ない方が良いよね。
ああでも、忘れて欲しい訳じゃないんだよ。寧ろ、出来るならだけど忘れないで欲しいなかも。時々思い出して欲しいかも。我儘だよね。
君に色んな呪いをかけてしまった事、本当にごめん。私と出会ってしまったから、辛い思いもしたと思う。けどね、私は凄く楽しかったよ。君は?
君と出会ってからの毎日は、凄く、凄く楽しくて面白くて一瞬だった。色んな所に行ったし、色んなものを食べたし、色んな事をした。殆ど毎日、こんな事って絶対普通じゃ出来ない経験だよね。
君と出会う迄の私は、死ぬって知って凄く恐ろしかったから。うん、強がってはいたんだけどやっぱり怖かったんだよね。凄く、辛かった。
あの日、雨の日に君と出会ったよね。
あの日の私はさ、特別ネガティブだった。君には私はいつでもポジティブだって言ってたけど、実はそんな事は無くて、時々ネガティブになる事もあるんだ。
誰だってそうだと思うんだけど、自分が死ぬって知ってたらさ毎日が凄く辛くなるんだ。私の場合は残り二年って言われて、あーどうしようかなって。
だから、君と出会った時、ちょっと話かけてみたくなったんだよね。
ずぶぬれで、二年後には死ぬ私よりも暗い顔で雨宿りしてるんだもん。気になるよね、自分と同じ人かもって感じちゃうよね。
そして、運命だって思ったんだよね。
自己紹介をしようって言った時、君は凄く嫌そうだったのに私と話してくれて嬉しかった。君は人の話を聞く天才だったのかもね。そして名前を聞いた。
『愛世』、凄くいい名前。世界を愛するだって、とってもとっても素敵な名前。
恥ずかしくて一緒に過ごしてる間は名前で呼べなかったけど、実は君の名前は私のお気に入りランキングに入ってました。二位ね、一位は内緒。
なのに、そんな君がさすっごく暗い顔してるんだもの。退屈で退屈で仕方ない、もう何にもしたくないって顔をしてるんだもの。そりゃあがぜん興味も湧いてくるよね。
だからね、私決めたの。
君にこの世界を好きになってもらおうって。
結果はどうだったかな。世界は好きになってくれた?
私はね、君と一緒に過ごす時間の中で色んなものを好きになって、君に知って欲しくなった。
私の感じた事、全部知って欲しくなっちゃった。
結局君に世界を好きになってもらう筈が、私の方が君との時間を楽しんで、もっと世界を好きになってしまうようになった。でもそれって凄く素敵だよね。
君は凄く静かで、話しかけない限りなーんにも無いみたいな人だけどさ、さっきも書いた通り君は聞き上手だよ。君にはなんでも教えてくなるんだ。いつだって真面目に聞いてくれるから。
君は夜みたいな人。太陽みたいに明るい優しさじゃないけれど、君はいつも静かに私の傍にいてくれた。安らぎを与えてくれた。病気の事を忘れさせてくれた。
前にも話したよね、夜の海で。あの時みたいな感じ。
だから、ありがとう。
君のお陰で私はもっと世界を好きになれた。好きすぎる位にね。
私は居なくなっちゃうけどさ、この世界は多分もっともっと綺麗だし、楽しくなるよ。君がもっと世界を見てくれたら、その分だけもっとね。
でもごめん。
これから書く事はさ、直接言えなくて、だからここで言っちゃう事なんだよね。
君にもう一つだけ、呪いをかけさせて欲しいの。
最期のワガママ、許して欲しい。
君はどうだったのか知らないんだけど。
私ね、愛世君の事が好きだった。
一緒に過ごせて、話せて、あーこれが恋なのかなって思ってた。
けど多分、恋なんか通り過ぎちゃってたかな。
愛してた。うん、しっくりくるね。
今こうして書いている瞬間も恥ずかしくて死にそうだからさ、ここで遺書は終わりにするんだけど最後の最後に一つだけ。
これから先、君は絶対に大丈夫!もっと世界の事を好きになってね!
バイバイ!
◇ ◇
「うっ、うぅうう………」
僕は涙が止まらなかった。
必死に我慢してきた涙が零れて止まらない。
僕もだ。僕も好きだった。
愛していた、恋なんか通り過ぎて、愛していたんだ。
お礼を言うのはこっちの方だ。謝らなければいけないのはこっちの方だ。
君のお陰でで僕は世界を好きになれた、君のお陰で人生を楽しく思えた。
なのに僕は君に呪いをかけた。君に僕の心配をさせて、貴重な時間を奪って、最期に君を泣かせてしまったんだ。
僕は涙の後の残る遺書を擦る。
最後のその部分だけ、丸いしわが点々と残っていた。
僕の前ではずっと笑ってくれていた彼女、話続けていた彼女。その全てが愛しくてたまらない。けどもう、君はこの世界には居ないんだ。
でも。
僕は涙を拭って空を仰ぎ見る。
天国が何処にあるのか分からない。空にあるのだろうか、それとももっと先の宙にあるのだろうか。宗教の話はよく分からない。そもそも天国なんてものがあるのかも。
ああけれど。
ガガーリン、確かに貴方のセリフは物足りない。
折角宙からこの世界を眺められたのに、たったのそれだけだなんて。
僕は空を見る。
気づいた事を、知った事を、分かった事を改めて言おう。
彼女の前で、僕は笑う。
「うん、空は確かに青くて蒼くて碧かったよ!!」
さようなら、愛しかった君。
さようなら、愛した人。
世界が好きすぎた君を、僕は大好きだった。
■■
The END