不発パン⑤
朝、昨日の仕事で疲労困憊のおれは椅子に身体を預けて、テレビを無心で眺めていた。テレビに映る女性アナウンサーは指示棒を使い、誇大市の治安を示すグラフを細かく詳述する。
「依然として誇大市の治安問題は例年悪化傾向にあり、近年では生活困窮者を狙うホームレス狩りなどが流行っている現状です。そして本日は、この治安問題に詳しい専門家をお呼びしました。」
「久瀬です。宜しくお願いします。」
カメラが移り変わり、しわひとつないスーツを着こなした眼鏡の男に焦点が合わさる。その眼差しは曇り無き正義感に満ち溢れており、准教授とテロップにある肩書から、専門家というのはあながち嘘ではなさそうにおもえた。
しかし、治安問題のスペシャリストやらが俺らと同じ底辺の立場ではなく、はるか上の手が届かないような立場の人間であるのに、おれは名状しがたい一抹の嫌いを感じる。
「さっそくですが久瀬さん、この問題に対してどうお考えで?」
「はい。私が独自に調査したデータから誇大市の治安を改善する仮説をいろいろと立てました」
「そうですね……現在の誇大市では暴行、誘拐などが横行していますが、この問題のキーポイントは『一人であるか』だと私は思っています」
「と言いますと?」
「誇大市で行われる犯罪の被害者の多くが、いつも一人で行動される方が多いのです。これは生活困窮者や幼児といった人がよく対象になりやすい理由ですね」
「なるほど、一人であると咄嗟に周りに助けを求めることが出来ないですからね」
「そういうことです。つまり、この問題を解決するために人はより他を意識するべきなのです」
「『一人ではない』、それだけで強い防衛要素になります」
「治安を良くするには、まず事件を起こさせないのが第一ですから」
「市民の皆様の意識が大切というわけですね」
「はい。1人が変われば周りも変わるので、誇大市の治安も徐々に良い方へと転じるでしょう」
「ぜひ、市民の皆様もこの考え方に共感して欲しいものです」
久瀬は手でジェスチャーしながら、自分の意見を自信満々にひけらかしていたが、おれには彼の意見に全く共感することができなかった。
「何言ってんだこいつ」
誇大市の治安問題に具体的な解決策を述べるかと思えば、『他人と繋がるべきだ』と至極当たり前なことを言い出すではないか。そんなことが出来るなら、誇大市の治安がここまで悪化することはなかったはずだ。彼の頭の中の誇大市の市民は全員が良心溢れる者ばかりらしい。
机上の空論もここまでいくと、もはや理論ではなく理想と言ってもいい。
「結局は他人頼りかよ、あほらし」
何かのことわざで見た、「人の痛みを解るには、その人と同じ痛みを味わなければならない」とはまさにこのことだろう。久瀬は他にも同じような薄っぺらい理論を全国に垂れ流し、気が立ったおれは途中でテレビのコンセントを引き抜く。
頭を落ち着かせるために、ブラックコーヒーでも入れようと椅子から立ち上がった時、滅多に鳴らないインターホンの音が部屋中に響き渡った。久方ぶりに聞いた音に自分を訪ねるような人は身近にいなかったはず、と首を傾げて玄関へと向かってドアを開ける。
「はぁ、どちら様?」
「最近隣に引っ越してきた沢城ですぅ」
「え? あ、あぁ~なるほど。自分はタダヒラっす!」
ドアを開けた先には白い紙袋とビジネスバックを抱えた男が立っており、ほこり一つない丸眼鏡から柔和な印象を覚える。まさかお隣さんが挨拶に来ると思わず、ぼさぼさの髪型とパジャマ姿で玄関に出たことを後悔した。咄嗟に寝ぐせが立っている部分を抑えるが、それは気紛らわせでしかない。
「挨拶が遅れて申し訳ない。ほんとは2日前から訪ねていたんですが、お家にいらっしゃらなかったので……」
「えぇ!? 2日前から!? それはすんません!」
「いえいえ、ようやく会えてよかったです。あ、これをどうぞ」
「これは……?」
「引っ越しそばです。賞味期限が近いので、早いうちにお召し上がりください」
沢城から白い紙袋を手渡され、中身を覗くと、大層な包み方をされた蕎麦が入っていた。もとより食べるものが無かったため、タイミングよく手に入れたご飯に得をした気分になる。これで買い出しのために、近くのスーパーまで筋肉痛の体を動かさずに済んだ。
「うおおっ! あざっす!」
「あ! それとですね……ほらっ、アリサ」
沢城は首を下げ、彼の後ろで身を隠す少女の肩を軽く叩く。肩を叩かれた少女はちらりと顔だけを覗かせ、またすぐに顔を引っ込めてしまった。「アリサ」という名に一瞬誰だと思ったが、顔を見せた少女は一昨日の夜に自分が助けた少女だった。
「うちの娘の、アリサから話を聞きました。あなたが家の鍵を走り回って探してくれたと」
「それで、アリサからも一言を言わせようと思ったのですが……アリサ、お礼を言いなさい」
「いやまぁ、別に大丈夫っすよ。その子から既にお礼言われてますから」
「すみません。この子結構人見知りで……」
沢城は気まずそうに腰を折って謝るので、おれもなんだか悪いことをしたように気持ちがへこむ。
一昨日の夜、聞き間違いでなければアリサはお礼を言っていた。おれだって、人見知りの奴から無理してお礼を言われても気分に影が差すだけだ。
しかしまぁ、このまま何も言わなかったら沢城にはばかれるので、腰を下ろしてアリサと顔を合わせる。
「カレッジくんと鍵、失くすんじゃねーぞ?」
「…………」
「(こいつどこ見てんだ……?)」
自分なりの作り笑顔でアリサに話しかけて見たが、初めて会った時と同じで彼女からの返答はなかった。
それどころかおれと目を合わさず、部屋の中を睨むように凝視していた。合わさることがない目線に釈然としない空気になり、言おうと思っていた次の言葉に詰まってしまう。
「では僕は仕事があるので、もうすぐ行きますね」
「あ、そうっすね。じゃあ俺もこれで………」
変な空気に勘づいたであろう沢城がそれらしい理由で離れようとするので、おれもドアストッパーを取り外してこの伝統的な習慣に終止符をつける。沢城はドアが閉まりきるまで、おれに手を振って朗らかな表情を浮かべていたが、
眼下に映るアリサはおれに鋭いナイフのような刺さる視線を送っていた。
沢城一家と別れた後は特に何もなく、夜逃げのために断捨離をしていたら14時過ぎになっていた。昼に食べた蕎麦は贈り物だけあって、大変美味であった。今はこうして蕎麦湯の残りに醤油を加えてチビチビと啜っている。そば粉の風味と塩っ気のある湯が身体全身に巡り渡っていく感覚が心地よい。
「あれも、どうにかしないとな~」
おれはキッチンのスペースの半分を無駄に占めているオーブンに目を見やり、一体どう処分するべきかと頭を悩ました。あのオーブンは実家から母が送ってきたものだった。
「……なんだかんだ、一回も使ってないな」
オーブンを見ると、実家でパンを作らされていたことがフラッシュバックするから、嫌悪が故に意識しないようにしていたのだ。どういう意図で母がおれにこいつを送り付けてきたのか相も変わらずわからない。
(どうせ、遠回しに実家に帰ってこいっていうメッセージだろうな)
次の粗大ゴミに出して、さっさと忘れてしまおうとオーブンを持ち上げたとき、はらりとオーブンの下から何かが落ちる。
「ん? なんだ?」
オーブンをキッチンに置き直して、落ちたものを拾い上げるとソレは定型サイズの白い封筒だった。封筒の表紙には「タダヒラへ」と一言だけ書きなぞられており、字が少し水滴で湿って滲んだような跡があった。
ふと、中が気になったので封を切ったとき、本日二回目のインターホンの音が部屋の静寂を揺らした。
おれは咄嗟にその白い封筒を戸棚の中へとしまい、せわしない足取りで玄関へと向かう。
「はい、今度はどちらさ……ありゃ?」
勢いよくドアを開けたが、そこには誰もいなかった。溜まっていた夏の熱気を含んだ風が身体の脇を通っていく。夏だから、幽霊のピンポンダッシュにでもあったのだろうか。
「全く、勘弁してほしいぜ」
「なに言ってるの?」
「おわぁっ!?」
首の下から聞こえた鈴の音のような声に驚いて、しりもちをつきそうなほど体を思い切りのけぞらせる。
見ると、ボウルを抱えた三つ編みの少女が立っているではないか。少女の身長が小さいので、ドアを開けたときに立っていることに気づかなかった。
「えーっと……確かアリサ、だよな?」
「…………」
「どうしたんだ急に? お父さんは?」
「パパはおしごと」
「あぁ、そういえばそうだったな」
「いや、そうじゃなくてだな。なんで、俺の部屋に?」
「オーブンを貨してほしいから」
「は? え? オーブン???」
何を言い出すのかと身構えていたら、アリサの口から出たのは「オーブン」のただ一言だけだった。
「なんで俺がオーブンが持ってんの知ってんだ?」
「さっき、オーブンが置いてあるのを見たから」
「さっき……ああっ~、なるほど。そういうことか」
話の整合性が通じたおれは左手に拳を当てて、腑に落ちたことをジェスチャーでアリサに伝える。
引っ越し祝いでアリサと彼女の父親が訪ねてきたときに、アリサはずっとキッチンに居座っているオーブンを眺めていたのかと納得がいく。そりゃ、おれとは全然目が合わないわけだ。
「別に貸してやってもいいけど、ただ1つ条件がある」
「なに?」
「子供が使うには危ないから、おれも横につくぞ」
「…………」
「おいっ、露骨に嫌そうな顔すんなよ」
アリサは目と口を細め、おれに対する敵対感情をこれでもかと露にした。
しかし電化製品とは言え、オーブンを子供に簡単に使わせちゃ、何かあったときに責任を問われるのはおれだ。そこらにあるおもちゃとはわけが違う。それにしても子供一人で、大人の部屋を訪ねるなんて肝が据わっているというか、世間知らずと言うべきか。
「そういや、お前のママは? ママも仕事か?」
「ママと話を通した方が早いんだけど」
「ママは今はいないの、わたしはお留守番」
「つまり、家にいるのはお前一人ってわけか」
「大体の事情はわかったけどよぉ、そもそもオーブンを何に使うんだ?」
「クッキーを焼きたいの」
「くっきぃ~~???」
飛び出るチャーミングな言葉に眉間にしわを寄せるが、目の前の少女ぐらいの歳ならばそういうものに興味が出始める頃だろう。となると、彼女が抱えているボウルの中身はクッキーの生地といった所か。
道理で胃がもたれるような甘い匂いが玄関中に広がるわけだ。
「おい、そのボウル貸してみな」
「いいけど、たべないでよ?」
「バカ、生地だけ食べる奴がいるわけないだろ」
アリサからボウルを受け取り、ラップを剥がして生地の状態を確認する。しかし、材料の分量を間違えているのか、おれが知っているクッキーの生地からはだいぶん離れていた。一見すると、牛乳に卵を混ぜただけのように思える。
「なぁ、これじゃたぶんクッキーは作れないぜ」
「どうして?」
「どうしてって……生地はシャバシャバだから型作れないし、焼いたとしてもサクサクにはならないだろうな」
「お前これどうやって作ったんだ?」
「レシピに書いてあるとおりにつくったよ。牛乳にバターと卵をよく混ぜたら生地はできあがり……って」
「(薄力粉を忘れてんじゃねーか……)」
おそらくだが、彼女は漢字が読めないから薄力粉は無視したのだろう。アリサの抜けた天然ぶりに少し頭を悩ませたが、彼女も悪気はなさそうなのでどう言えばいいか迷ってしまう。それに本題はこのクッキーもどきの処理だった。こちらを見つめるアリサの瞳は黒曜石のように輝いており、どうにも生地ごと見捨てることは出来なかった。
「アリサはホットケーキって知ってるか?」
「絵本でならみたことあるけど……」
「じゃあ今からこれ使って、おれがうまいホットケーキ焼いてやるよ」
「クッキーは焼かないの?」
「実は今日はホットケーキの日でな、国民全員がホットケーキを食べる祝日なんだ」
「へんな日」
「まぁそんな残念そうにするなって。そうだ! 明日は8月19日でクッキーの日だから、明日はクッキー焼いてやるよ」
「ふ~ん……」
即興で思いついた嘘で、アリサを無理やり納得させようと試みる。本人の顔からは不満が漏れているが、どうあがいてもこの生地じゃクッキーは作れないのだ。幸い、アリサはホットケーキを知らないそうなので、もしかしたらそれで満足してくれるかもしれない。
「とりあえず部屋入れよ。暑いだろ?」
「うん、お邪魔しまぁす」
「そこらの椅子でも座っててくれ、すぐに作ってやる」
アリサを部屋に招き入れ、戸棚の中から奇跡的に余っていたホットケーキミックスを取り出す。シャバシャバになったクッキーの生地に、こいつを合わせてホットケーキになるかは賭けだったが、少なくとも形にはなるだろう。キッチンから見えるアリサは顔を左右に動かし、部屋全体を見渡しているようだった。
「おじさんの部屋、暑いし、臭い」
「うるせー、こちとら金無いからクーラーつけれないんだよ! 臭いはまぁ……季節的にほら湿度とかあるし……」
「おじさん、まだ?」
「おいおい待て、今生地を混ぜ合わせたとこだ。せわしい奴だな」
「おじさん、テレビつけていい?」
「もう勝手にしろ」
次から次へと切り替わるアリサに、おれはもう反応することを諦めた。ホットケーキミックスとクッキーの生地を混ぜ合わせると、フライパンを中火で温める。フライパンを温めている間に、ケトルに水を入れて湯を沸かす。おれがこんな汗流して頑張っているのに、アリサはアニメの再放送を無言で見ていた。
「えーっと、生地の3分の1を高めから流してっと……よし、上手く出来た」
温まったフライパンに生地を流し、ぷつぷつと泡が出てきたらひっくり返す。コップにココアパウダーと氷を入れてお湯を入れ、出来上がったホットケーキの上にバターを乗せたら完成だ。我ながら完璧なおやつをリビングの机に運ぶ。
「おーい、ホットケーキ出来たぞ」
「これが、ホットケーキ……」
「そうだ。美味そうだろ?」
「ちょっと黒いとこあるけど、食べれるの?」
「ふっ、わかってねぇなぁ最近の子供は。こーいう少し焦げた部分が美味いんだよ」
「あっそ」
アリサはおれの話に全く興味が無いらしく、焦げ付いてない部分を綺麗に切り分けて口に運んだ。彼女からの感想は特に無かった。誰かのためにホットケーキを作るのは初めてだったので、もしや不味かったのかと心が仄かに曇る。
「美味いか?」
「……まぁまぁ」
「あのなぁ、まぁまぁってどれくらいだよ」
「まぁまぁはまぁまぁだよ、おじさん」
おれは「そうか」と言って、エプロンを脱いで椅子に掛ける。感想を得ることは叶わなかったが、おれは徐々にアリサの性格と距離感を掴み始めていた。まぁまぁと言いつつも、ホットケーキとココアを半分以上食べているあたり、俺の不安が当たることは無いだろう。
「アリサは今何歳なんだ?」
「9さい」
「9歳だと……小学4年生くらいか。小学校は夏休みで無い感じ?」
「うん、8/31まで休み」
「そうかぁ~、夏休みいいなぁ」
「おじさんは?」
「えっ、おれ?」
「おじさんも、おしごと無いの?」
何気ない会話だった。だからこそ、おれの状況を聞かれるとは思ってもみなかった。「仕事無いの?」という言葉の部分に、昔の就活の記憶を思い出して、どきりと胸が痛くなる。アリサに悟られ無いように、無理やり頬を上げて笑顔を作った。
「いや、今日と明日は……たまたま休みなんだよ」
「ふーん、大人になっても夏休みあったらいいのになー」
「わたし、ずっとしんどいのは嫌だもん」
「そりゃあ、おれだってそう思うさ」
誰だって休み続けたいのに決まってる。
一日中手押し車を押しまくって、マメだらけになった手のひらを見つめる。この先自分がどうなっていくのか不安になった時、おれはマメだらけになった手のひらを見ると、なぜか安心する癖が出来ていた。
短い期間であっても、おれが頑張って仕事したことをソレが証明してくれていたからだ。
「でも、休みがずっとあるってのも案外嫌なもんだぜ?」
「なんで?」
「なんか、休み続けると人生が止まった気分になるんだよ。周りの奴らが働いてるなら、なおさらな」
「そんな止まった人生に慣れちまうと、次はなんで生き続けてるのかわかんなくなっちまう」
「そうして、だんだん自分が腐っていくんだ」
「って、こんなくさいポエムみたいなこと小学生に言ってもわかんねーか。ははっ、今のは忘れてくれ」
「むずかしくてよくわかんない」
「まぁ、人生そう簡単じゃないってこったな。食べ終わったなら皿下げるぞー」
空っぽになったコップと皿を下げ、テーブルを軽く拭く。再び椅子に座ってベランダに目をやると、大きい夕焼けがおれたちを赤く照らしていた。今日がもうすぐ終わってしまうのが部屋の色だけでわかってしまう。
「おじさん、あしたはクッキー作ってくれるんだよね?」
「んー、どうすっかな」
「気が変わって、もしかしたら作らないかもな」
「作るって言ったじゃん!」
「お前、お菓子のことになるとうるさくなるタイプか……」
「ま、いいけど。しっかりパパに言っとけよ、じゃないとおれが誘拐犯とかになるからな」
「うん。わかった」
「あしたはクッキー、そのつぎはケーキ、そのつぎつぎはフィナンシェ作ってもらうって言っとく」
「は? え? 今なんて?」
「じゃあ、わたし帰るね」
「おい! おれが言ってないことも入ってなかったか!?」
帰るアリサをバタバタと急いで追いかけるも、アリサは玄関を出て、おれに向けてあっかんべーをしていた。
「バイバイ、おじさん」
ドアが閉じる瞬間、さよならの言葉が聞こえた気がした。さっきまで赤色に染まっていた部屋は黒色で埋め尽くされてしまい、少し肌寒くなり始める。
いろいろと流れる時間にあっけに取られた俺は、溜息を吐いて自分の手のひらを見ようとするも、
「粗大ゴミの日にオーブン捨てられねーじゃん……」
部屋が暗くて手のひらのマメは見えなかった。




