不発パン④
汗だくになる今、どうしてこんな仕事を受けてしまったのだろうかと思う。
「おい、タダヒラァッ! 早くコンクリこっち運んでこい!!」
「わ、わかりました。すぐに運びます!」
コンクリを詰め込んだバケツを持って、主任の方へ急いで駆け寄る。バケツの重さに手の皮がねじ切りそうになるのを我慢し、主任の足元へとバケツをそっと置いた。一旦休憩とばかりに、ふぅ〜っと一息ついていると主任からぽかんとゲンコツを食らってしまった。
「アホ! 言われるから持ってこんかい!」
「すみません!」
「コンクリ運んだら、そこら辺にある破片集めてトラックに詰め込め!」
「了解です……」
工事で舞い散る粉塵に息を詰まらせながら、周りに落ちている道路の破片を一つ一つ拾い上げる。
(こんな仕事、受けなければよかった)
お金欲しさに割に合わない仕事を受けたことを今更悔いた。
朝一番に昨日のスタッフの電話で叩き起こされ、案内された仕事場に着いてもう3、4時間は経っている。夏だから分厚い作業服の中は汗だらけだし、力仕事も初めてだから身体中の筋肉がプルプルと痙攣していた。
喉の渇きも酷く、都会の中であるのにまるで砂漠でのたうち回っているような気分だ。
(金が貯まったら、すぐに辞表を殴り渡して消えてやる)
頭に血が上り、ギリっと下唇を噛むとほんのり血の味がした。形容し難い血の味で思考が冷静になり、夜逃げ計画について整理する。
(夜逃げと言ったら、高飛びが第一に浮かんだけど……)
そもそも、おれが高飛びを遂行するには問題が多すぎた。
海外に逃亡する場合、借金の時効のカウントが中断する上に、多大な資金が必要になってくる。それに加え、海外に逃げてからも、その国の言語と仕事を難なくこなすのだっておそらく不可能。空港で身柄確保される危険性だってある。
この時点で、おれはもうこの国から脱出できないのは確定していたのだった。
借金の差押まで残り23日と14時間ほど。今日から日給1万の仕事を10日働いて10万、それぐらいの資金が有れば、おおよその荷物と交通費を持って国の端までは行けるはず。
そして、この国の法律で借金の時効は5年と決まっているから、時効まで逃げ切ればおれの勝ちというわけだ。
つまり、日本全体を舞台にしたタイムリミット5年の大鬼ごっこの攻略方法を考えなければいけなかった。
手押し車に投げ入れた破片を、不安定な動作でトラックの荷台まで運び、ガラガラと荷台の中へ降ろしていく。一瞬、頭上にモノレールが通り、大きい影が工事現場一帯を包み込んだ。地獄の炎天下、ほんの数秒であっても太陽の光を遮断してくれるモノレールに感動する。
「モノレール……か」
「タダヒラどうしたぁ? 独り言か?」
「いえ! なんでもないです!」
思わず出た言葉に主任が反応し、手を左右に振ってうやむやに誤魔化した。
この国の路線は唯一、モノレールだけが全国の隅々まで開通している。昔、日本モノレール一周旅行という単語が流行っていたのが懐かしく感じる。電車だと開通していない路線もあるし、日本の端にスムーズに行こうとするにはモノレールに乗って向かうしかない。
数年前、オオイタの実家からオオサカの誇大市に向かう時もおれはモノレールを乗ってきたのだった。実際問題、おれが日本中を這いずり回って逃げるとき、どこにでも行けるモノレールが主な移動手段になるだろう。
(確かオオイタからここまでの交通費が3万ぐらいだから、日本の端まで逃げようとすると……えーと……)
「休憩〜ッ!!!!!」
夜逃げにかかる交通費の計算しようとする瞬間、耳をつんざくような主任の声量が工事現場全体に響き渡る。その声を聞いた他の作業員は各々の道具をほっぽり出して休憩場へと向かっていった。
(またネットで調べるか)
おれも手押し車を壁に立てかけ、その場に腰掛けて休憩することにした。持ってきたリュックサックの中からラップに包まれたカビた食パンを一切れ取り出し、ラップを剥いてもそりと齧り付く。
あいにく手持ちの飲み物が無いため、乾いたパンでひりついた喉の渇きがさらに悪化する。カビ特有の腐った臭味が胃の中で循環し、気分悪くなったおれは食べかけのパンをラップに包み直してリュックに戻した。
奥の休憩室の窓から主任とその取り巻きの姿が笑いながら飯食ってるのが見える。ぼーっとその光景を眺めていると、主任と取り巻きの顔がぐにゃっと歪んだ。どうやら眩暈を起こしたらしい。
(やべっ、意識が朦朧としてきた……流石に何か飲まないと)
目をこすりながら腰を上げて、工事現場付近の自販機におぼつかない足取りで向かう。こんな状態じゃ、休憩終わりの勤務は到底出来そうにない。唇が震えて右、左と勝手に視点がぐるぐると回る。
ようやく自販機の場所へ辿り着き、急いで財布を取り出すが、自分の財布にはレシートとクレカしか入っていないことをすっかり忘れていた。
「へっ……水すら買えねぇ……」
展示されている天然水の見本が輝いて見えてまぶしい。ゴクリと生唾を飲み込み、おれと見本を遮る自販機のプラスチック板を恨めしそうになぞる。プラスチック板に映る自分の顔は蒼白で、棺に入れられた死体のように無表情であった。
「タダヒラ君……? だ、大丈夫か!? 」
「あぇ?」
右の方から聞き覚えのある声がしたので、振り向くと自転車をひいた佐々木が立っていた。
「佐々木さん……」
「タダヒラ君、なんで自販機に寄りかかっているんだ……?」
「えっと、その……お金が無くて買えなくて」
自分の様子に少し引いている佐々木を見て、恥ずかしくなったおれは自販機から距離を取る。佐々木の自転車に目をやると、自転車のカゴには酒やらジュースの空き缶が山のように積まれていた。
「なるほど、ね」
「でも、すごい喉乾いてるんだろ? 何か口にした方が……」
「いやまぁ、朝からなんも飲んで無いから喉カラカラですけど」
「たぶん、これぐらい別に平気っすよ」
「そうか……」
彼は眉をひそめ、小さくため息を吐いて自転車にストッパーをかける。そしてベストのポケットから小銭を取り出し、自販機でオレンジジュースを購入した。
「タダヒラ君、ほらっ」
「冷たっ!? えっ? 佐々木さん、コレ……!」
佐々木は自販機から取り出したオレンジジュースをおれに投げ渡し、飛んできたペットボトルを反射的に受け取ってしまう。泥で汚れた手のひらに冷たい水滴が徐々に滲んでくる。
「今の時期だと、熱中症とか脱水が怖いからね」
「僕からの奢りだ。遠慮せずに飲みなさい」
「そ、そんな! 奢りなんて悪いですよ!」
「気にしないでいいよ」
「おれは大丈夫です! 別に飲まなくたって」
「君が脱水で倒れた時、誰かに迷惑がかかるとは思わないのかい?」
「…………」
「たかがペットボトル一つごときで、僕もしつこく見返りは求めないよ」
「180円で、『あの時、タダヒラ君に飲み物を渡しておけば良かった』ってなる事態を避けれるなら安いものさ」
「で、でも!」
「それともあれかい? 僕の自転車に積まれた空き缶を見て遠慮してるのかい?」
「そりゃまぁ……」
眉を顰める佐々木の様子からして、彼が少し怒っているのは明らかだった。おれはチラリとカゴにある大量の空き缶に視線を向ける。いくら無知なおれでもホームレスの人たちが空き缶を集めて生計を立てていることぐらいを知っている。そんな人から、簡単に奢られるほど俺も頓珍漢ではないのだ。
「気遣わなくても大丈夫だと何回も言っているだろう? こう見えてもお金の蓄えはまだまだある」
「はぁ、それほんとうすか……?」
「今の君よりかはお金を持ってるよ。ははっ」
佐々木はニヤニヤ笑うと、自転車のストッパーを外してサドルの上に跨った。
「あっ!ちょっと!」
「タダヒラ君、それ飲んで午後の仕事も頑張りなよ」
「ぜひ、自転車が通りやすい道路を作ってくれ」
佐々木はペダルを勢いよく踏み、ひらひらと手を振ってどこかへ行ってしまった。
「これどうすんだよ……」
一人取り残されたおれは先ほどよりも冷たさを失ったオレンジジュースを眺める。この一本のペットボトルのために、佐々木は一体どれほどの数の空き缶を集めたのだろう。彼が空き缶を集めている姿を想像すると、ペットボトルの重さがより増したような気がした。
「休憩終了〜ッ!!! 作業再開ッ!!!」
工事現場から離れているが、主任の大声がここまで聞こえてきた。俺はそれを聞き、ペットボトルのキャップを一気に開けて、オレンジジュースを口の中へと流し込む。
どれほどの時間が経っただろうか。ペットボトルから口を外すと、満タンに入っていたオレンジジュースはもう3分の一の量すら残っていなかった。
「…………くそうめぇ」
夏の日差しを浴びながら飲むオレンジジュースは酸っぱくて甘い、優しい味がした。




