翼
翼
「ねえパパ、僕もあれが欲しいよ。」
息子は口を尖らせて言った。
「だから駄目だって言ってるだろう。」
私はため息をつくように答えた。
「なんでよ。クラスのみんなも持ってるんだよ。」
「よそはよそだ。大体、あんなもの持ってたって何になるんだ。」
「何って、空を飛べるんだよ。ほらあれ見てよ。」
そう言うと息子は遠くの方を指差した。
夕焼けの空を三人の子供が慌ただしく飛び回っていた。背中には人口の翼を背負っている。
翼が広まったのは数年前のことだった。初めは一部の富裕層の特権だったが、最近では庶民にも手の届くものになった。それでも私の稼ぎでは到底買えるものではなかった。
「とにかく、今日はもう帰るぞ。」
そう言うと私は息子の手を掴み、無理矢理引っ張った。
「やだよ。帰りたくないよ。」
私だって息子の願いを叶えてやりたいのが本心だった。それでも、どうしようもなかった。
息子は私の手を振り解くと、地面に寝転がって泣き出してしまった。
最近は公園に来ても、いつもこの調子だった。
かつてはサッカーをする子供達やピクニックをする家族で溢れていたこの場所も、今は空を飛ぶ人々ばかりだった。整備されていた芝生はもう伸び放題で、公園の中に敷かれた歩道もヒビだらけになっていた。
私は駄駄を捏ねる息子を無理矢理抱きかかえると、帰路に就いた。
その時、空から何か生温かい液体が降ってきた。
見上げると、羽根を背負った子供が三人、こちらを指差して笑っていた。
私が睨むと、彼らはズボンを上げて飛び去っていった。
沈んでゆく夕日が見えた。
「お帰りなさい。」
キッチンの方から妻の声が聞こえた。
「ただいま。」
私は薄汚れたコートを脱ぎながら姿の見えない妻に返事をした。
息子は不貞腐れた様子で、玄関に棒立ちのまま動かなかった。
「今日の夕飯、何にする?」
「何って、何があるんだ。」
「パンの残りくらいしかないけど。」
「そうか。俺はいいや。」
そう言うと私は逃げるように書斎へと入った。
ドアを閉めると、心臓が高鳴っているのが分かった。
部屋を見回しても、空っぽの本棚と傾いた椅子があるだけだった。
床に溜まった埃を靴で部屋の隅に追いやると、私はドアにもたれ掛かった。
背後からは、尖った声が聞こえてきた。
私は恐る恐るドアを少し開けると、その隙間から二人の様子を覗いた。
「いつまでそうやってるの。」
妻が怒鳴るように言った。胸が締め付けられた。
しばらくの沈黙の後、また妻の声が口を開いた。
「黙ってたってわからないでしょ。」
「翼が欲しいんだよ。」
そう言うと息子は両手を後ろに組んで、いじけた様子で体を横に揺らした。
「そんなこと言ったって、家にそんな余裕はないの。」
妻は淡々とそう言った。
また胸が締め付けられた。
それを聞いた息子は小さな体で玄関のドアを開けると、外に飛び出していった。
妻は諦めたようにキッチンへ戻ると、気怠そうにいつ使ったか分からない皿を洗い始めた。
私は音を立てないようにドアを開けると、軋む床を歩いてキッチンに向かった。
シンクを見つめていた妻がゆっくりと顔を上げた。
目の下には隈が出来ていた。後ろで結んだ髪は箒のようだった。
「はあ。買ってあげたらどうなの。」
妻は疲れた表情で言った。
「そりゃ俺だってそうしたいけどさ。」
私は妻の目を見ずに答えた。
「そう。」
妻はため息をついた。そしてボロボロのタオルで手を拭くと、玄関に向かった。
「あの子を探してくるわ。」
妻はすれ違いざまにそう言った。
私は妻について行くべきか迷ったが、結局玄関に背を向けたまま動けなかった。
そしてドアを閉める音がして、静かになった。
私は大きく息を吐いた。そして食器棚を開けた。
中にはほとんど何も入ってなかったが、奥の方に古い瓶が入っていた。
私は棚の奥の方に手を突っ込むと、その瓶を取り出した。
硬い蓋をなんとか開けると、鼻を刺すような臭いが広がった。
中を覗くとピクルスが少し入っていた。
私は椅子に座りそれを皿の上に出すと、水垢のついたフォークを突き刺した。
柔らかいピクルスに硬いフォークが埋まった。
それを口の中に押しやると、ゆっくり噛み砕いた。
生温かい液体が口の中に広がった。
私はフォークを皿に放り投げると、椅子の背にもたれて天井を見上げた。
平家にしては高すぎる天井は、確かに翼があるくらいがちょうどよかった。
軋む音がしてドアが開いた。
「おかえり。」
私は真っ赤な目をした息子に言った。
息子は私と目を合わせることもなく自分の部屋へと入っていった。
「どこまで行ってたんだい。」
私は妻に聞いた。
「すぐそこよ。」
妻は答えた。
「そうか。」
私は返す言葉が見当たらなかった。
妻は何も言わず、パンを取ってくると少し齧った。
そしてパンを置くと、ぼうっと遠くを見つめていた。
そして小さな声で言った。
「じゃあ私は寝るわね。」
「そうか。おやすみ。」
私は食べかけのパンを一口齧った。
眼が覚めると、太陽はもう高いところにいた。
リビングに行くと、誰もいなかった。
妻は出かけたらしかった。
私は眠い目をこすりながら息子の部屋に行き、ノックをした。
「入るぞ。」
そしてドアを開けた。
部屋に息子はいなかった。
私は辺りを見回したが、どこにも息子の姿はなかった。
その時、外で何かが落ちる音がした。私は何の物音か気になって外に出た。
玄関の周りには何もなかった。
私は家の角の方へ行くと、その向こうを覗き込んだ。
家の壁には梯子が立て掛けてあった。
「ああ、片付け忘れてた。いつ使ったんだっけ。」
そう呟くと私は梯子のそばに行った。
その時、そばに何かが見えた。
よく見るとそれは息子だった。
小さな体が地面にうつ伏せに横たわっていた。
「おい、どうした。」
そう言うと私は息子の体を揺すった。息子は小さく呻き声をあげた。
私は息子を仰向けに抱きかかえると、怒鳴るように言った。
「何があったんだ。」
「梯子で…屋根…。」
「屋根に登って、落ちたのか。」
「落ちたんじゃないよ。」
「じゃあどうしたんだ。」
「そこからなら飛べるかと思って…。」
それきり息子は返事をしなかった。