蜘蛛
今朝、部屋に現れた蜘蛛をみて書きました。
暇つぶしにどうぞ。
八本の足を奇妙に使い壁を歩く蜘蛛はどこか物寂しげだった。
茜に照らされ遠くで騒ぐ烏の鳴き声が耳に届き、漂っていた思考が青年に戻ってくる。
何をするでもなく一日中ソファの上で寝転がっていた青年は立ち上がり伸びをした。
さっきまで歩いていた蜘蛛はもういない。
青年は机の上に放られた読みかけの本から栞を抜き取り、ゴミ箱へと放る。飲みかけの麦茶はそのままに、ざらつく髭をそり落とすために洗面台に向かう。
入る気はなかった浴槽に湯を溜め、青年は髭剃りを顔にあてがう。なにもつけていないためかやけに肌に引っ掛かるが、青年の肌が傷つけられることはなかった。
手持無沙汰になった青年は鏡に映る自分を見ている。
一度も染めたことのない純粋な黒い色の髪の毛。やや天然パーマ気味で前髪がうねっている。眉毛は均等に切りそろえられ、端に行くにつれて細くなっていく。意地悪く切れ長な目は二重のおかげか悪い印象は与えない。すうっと伸びる鼻筋は我ながら綺麗だと思う。
唇が薄く、どこか幸薄そうである。病的なまでに白い肌は昨晩の寝不足のせいで気持ち青白く光っている。
鏡に映る自分がこの世の物でない気がして青年は手を伸ばす。
五本の指は器用に重なり合い、掌は寸分なく同じ大きさのままだ。指先の爪だけは血色がよくそこだけ生きているみたいだ。
いつの間にか鏡の四隅が曇り始め、あけっぱなしの扉から中途半端に溜まった湯舟が忙しそうに蛇口から出るお湯を受け止めている。
青年は服を脱ぎ丁寧に畳んだあと、蛇口を止め湯舟に浸かる。
中途半端なお湯は青年の水下あたりまでしかなく、温かみはないような気がした。
膝を抱え丸くなる青年の間を水が通り、情けない音を立てる。
青年は立ち上がり、また一つ伸びをする。さっきまでとは違い伸びきった反動を受けた水たちは逃げるように湯舟の端を打ち青年の元へと帰ってくる。
水滴の一つも残さぬよう体をふいた青年は贈り物のように飾られた服を着始める。何年も繰り返して来た行為は体が覚えていて、滞りなく手足は穴を抜けていく。
さっきまでいた部屋に戻るとお風呂場ほどの喧騒はなく、ただ青年が一人いたことだけが未練がましく残っているのみだった。
青年はそれを取り払うように部屋を通り抜け、本の横にある鍵を手にした。
玄関には靴は一つしかなく、その役割を果たせないでいる玄関は用済みのように思えた。
青年は扉を開き、鍵穴に鍵をいれ、左に捻り、抜き取った。その際に出てくる音は青年を引き止めようとしていたが、青年は気付かないまま廊下を進んでいった。
やけに冷たい非常階段の扉は青年を拒むようだった。
底が見える螺旋状の非常階段は青年がどれだけ昇って来たかを告げている。
寂しく響く足音はさっきの蛇口から出る水のように、機械的に、途切れることなく揺れていいた。
屋上に通じる扉は思いのほか軽く、青年は押し出されるように屋上に飛び出た。
後ろからさす夕日に照らされ伸びる影は青年の背丈を超えていた。
青年は影が見えなくなるところまで歩き、フェンスを越える。
風呂場にはなかった靴を丁寧にそろえ、触れる足、フェンスから離れようとしない手、高鳴る鼓動に嘘をつき、青年は飛んだ。
上へと昇っていく壁をみて、青年は蜘蛛になった気でいた。




