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ある夏の日

「夏、飽きたな」 


 壊れかけの網戸がはまった窓の外ではセミがやかましく鳴いているようだ。セミは元気だが、普段その辺を走り回る未就学児たちはこの暑い中ではエアコンの入った家にこもっていると見える。最近のガキは軟弱に……とは言えない。実のところ俺の子供時代よりも暑くなっているようだし、今だってエアコンの入った寮の自室にこもっている。ちなみに効きは悪い。


 ドンドドドンドドドンドンドンドンドンドドドンドン!! 

 扉が叩かれる。いやノック長いな。


「所木くんいますかー?」


 吟遊パイセンの声だ。いないということにしておこう。いません。


「いまーす」


 ところがしょこらが返事をしてしまう。仕方がないな。


「適当に身支度するので待っててください」


 適当に引っ張り出した短パンを履く。後ろ髪を結ぶ。前髪をヘアピンで留める。終わりだ。


「今日は何ですか」


「トン茶作りましょうっ」


 トン茶? 見ると吟遊が手から提げた袋には茶の入ったボトルと惣菜のトンカツが入っているようだ。


「トン茶ですか。作るというか炊いた白米と揚げたカツがあれば、大根おろしと水菜と梅干しを入れて茶漬けにするんですよね。たぶん茶が本質的だと思うんですけど、それも用意されているみたいですし」


「ええっ、枢さんから梅昆布茶を頂戴しましたっ」


 枢環希というとなんか帝数の幹部でメイド服着ている人だ。茶が趣味とは聞いていたが、渋いものを揃えている。


「残りの材料は共用スペースにありますっ」


 共用スペースに行くと、知っている顔があった。機巧狐耳の特徴的な、狐城さんだ。抽象画めいた柄のエプロンを着用している。


「こゃちわー」


「こんにちは、狐城さん」


 机の上には大根の輪切りと水菜と、冷凍した状態から自然解凍したのであろう白米入りのタッパーがある。


「では調理を始めますっ! 所木くんは製氷庫から氷を持ってきて、しょこらくんは大根をおろして、狐城さんは盛り付けてくださいっ!」


 そのようにした。


「ではお茶を注いで……できあがりですっ!」


 早い。三分クッキングでも尺が余るレベルだ。


「いただきまーす」


「一生懸命調理してから食べるとおいしいコャ。苦労が報われるコャ〜」


「俺は全く苦労していないんですけどね」


 生協のものとは異なる味だが、これはこれで美味しい。


「所木クン! 唐突コャけど」


 狐城さんが話しかけてくる。何だろう。今ちょっとご飯が口に入っているから返事できない。


「商写像の直積が商写像にならない例って簡単に作れるコャ?」


 本当に唐突な話題だった。まあ最近は位相空間相談室みたいになっている気がする。このように位相の問題を投げかけられることはそう珍しくないのだ。


「えっと、ある空間 X に対して、ある二つの空間とその間の商写像が存在して X の恒等写像(アイデンティティ)との直積が商写像でないようにできることと、X が局所コンパクトでないことが同値ですね」


「つまり、なんでもいいから局所コンパクトでない空間があれば例が作れるコャ?」


「ちょっと持ち帰って考えますね。ノンメトライザブルうにさんを使ったと思います」


「それ第五話ぐらいでやんなかった? ノンメトライザブルうにさんは知らないけどさ」


 しょこらが口を挟んだ。第五話? 商写像を扱ったとき部分や積と交換しないことに言及した気はする。


「確か証明はしなかったな。じゃあ三時間でなんとか準備できると思うから」


「数理でやるコャ? 別にこのラウンジのホワイトボード使うのでもいいコャけど」


 ホワイトボードよりは黒板の方が好きかな。


「じゃあ数理でやりましょう」


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「では位相空間 X, Y, Z と Y から Z への商写像 f で X の恒等写像との直積が商写像でないものを構成します」


【X:=R\{1, 1/2, 1/4, 1/8, 1/16……}, Y:=[0, 1]×ω, Z を Y の (0, n), n∈ω を全て同一視してできる空間でその商写像を f とする】


「オメガはゼロ入り自然数です。Z をノンメトライザブルうにさんと呼んでいます」


【id_X×f : X×Y→X×Z は商写像ではない】


「これを示すために、X×Z の閉じゃない集合で逆像が閉なものを構成します」


「それ前挙げた例と違わないかい」


 しょこらが文句をつけてきたが、正直以前どういう例を挙げたか覚えていない。多分これと同様にできるだろう。


【X×Y の部分集合 P={(x, t, n) : x≤2^-n, x+t≥2^-n} は閉集合である 

f(P) の逆像は P に一致する】


「一致するのはそもそも同一視する点を完全に避けているからだな。P は t が 0 の点を含まない。で商の側で閉でないことだが、つまりその外に集積点を持つということで、お察しの通りゼロゼロゼロがそれだな」


【f((0,0,0)) の任意の近傍は f(P) と交わる

証明. そのような近傍は正の実数 r と Z のある 0 の開近傍 U で ((-r, r)\{2^-n: n∈ω})×U という形をしている開近傍を含む 

2^-n<r となるような n をとる】


「ここで、ノンメトライザブルうにさんの n 番目のとげに対応する P×[0, 1] を見るんだ」


【f は P×[0, 1]×{n} 上で同相写像となる 

これによる U の逆像 f^-1(U) は無理数 p によって (-r, r)×[0, p)×{n} という形の集合を含む 

f((2^-n-p/2, p/2, n)) は f(P) と ((-r, r)\{2^-n: n∈ω})×U の両方に属する ////】


「そこで無理数というのはっ?!」


「深い意味はなくて、2^-n-p/2 が除外点である 2 の負べきにならないためです」


「はーなるほど近傍が一定の区間を含まないといけないわけコャね、これ局所コンパクトじゃないってどこで使っているんだコャ?」


「……長考します」


 考えていなかった。そりゃ当然聞かれるよな。


「局所コンパクトだとしてどこで破綻するか考えるとっ初手じゃないですかっ」


「あー R だと抜けた点に向かって縮む閉集合がないコャって? 区間縮小法だコャ。あっても無限遠に消えていく感じで使えそうにないコャ」


「それですね。局所コンパクトが壊れる点で基本近傍系をとるとその元はどれもコンパクトではなく、よって閉部分集合族で有限交叉だけど交叉が空なものが取れて、この場合基本近傍系が可算に取れて閉集合を連続的に縮められたのでうにさんでできました」


「はー、一般の場合はもう少し工夫が必要コャね。可算じゃない場合は難しそうコャ。有理数とかだと単位閉区間からの連続写像がなくてこのやり方は使えそうにないコャ」


「そういう時は可算離散の一点コンパクト化を集めて無限遠点を同一視するといけます」


「うーん、難しいな」


 しょこらもついていけていないようだし、この辺にしておくか。


「もう一ついいコャ?」


 刑事コロンボかな? 


「これって Z は距離化可能じゃないコャけど、全部距離化可能でこういう例って作れるコャ?」


「うーーん」


 つらい質問だ。第一可算だと厳しい気がする。閉写像を使う場合、終域が第一可算だとだいたい完全写像になってしまい、恒等写像も完全写像なのでその直積も商写像になってしまう。この手法は使えない。


「えーーどうなんだ」


「えっとっ、なんか全然詳しくないんですけどっコンパクト生成空間ってやつが距離空間全部含んでっ商に関していい振る舞いをするって言いませんっ?」


「ちょっとカンニングします」


 コンパクト生成とは、「コンパクト集合からの包含写像を全て連続にするもっとも強い位相を入れ直したとき、もとの位相と一致する」という空間のクラスだ。確か局所コンパクト空間の商として現れうる空間全てと一致する。鞄から位相空間論の辞書的な書物を取り出す。索引を引くと目当ての命題が見つかった。


「位相空間 A, B, S, T と A から S への商写像 f, B からT への商写像 g について、A と S×T がコンパクト生成ならば f×g は商写像となる。第一可算ならばコンパクト生成で、第一可算は直積で保たれるから、第一可算の間の商写像は積をとっても商写像で、そういう例は無理ですね」


「なるコャ」


 納得してもらったので、今日はお開きにしようか。しょこらも眠そうにしている。


「あ、最後にもう一ついいコャ?」


 刑事コロンボか? 


「局所コンパクト二つの直積は局所コンパクトで、第一可算二つの直積は第一可算コャ。コンパクト生成は直積で保たれないコャ?」


「保たれないそうです」


「簡単にはわからないコャ?」


「えーと……あっそうか、さっきの例! さっきの商が積で崩れる例がコンパクト生成を直積で崩しています!」


「局所コンパクトな Y の商の Z はコンパクト生成で、X の方は第一可算だからコンパクト生成、もし積がコンパクト生成なら商写像の積が商写像にならないとおかしい。多分さっきの閉じゃない集合もコンパクトとの交叉は閉とかなのコャね」


「あー、それっぽい」


 さて、では解散と


「もう一つだけ聞いていいコャ?」


 刑事コロンボか!? 


「刑事コロンボですか?」


「第一可算と局所コンパクトはどちらがどちらを含意することもないコャ。第一可算と局所コンパクトを含んでコンパクト生成に含まれ、直積で閉じるクラスってあるコャ?」


 あるのかな。ない気がする。辞書的な本を見てみる。


「……あるんだ」


 あった。


「Hausdorff 空間が点可算型であるとは、各点に対しそれを含むコンパクト部分集合と、そのコンパクト集合の可算個の近傍が存在し、そのコンパクト集合の任意の近傍に対しその可算個のどれかが含まれること」


「第一可算ならその点自体を取ればいいコャ。局所コンパクトはどうコャ?」


「えっと、閉包がコンパクトな近傍をとると、点で 1 近傍の外で 0 な連続関数があって、1 の逆像というコンパクト集合が条件を満たします。多分」


 多分。カンだ。


「1-1/n より上、って開集合の可算個の交叉コャね。この開集合たちが基本近傍系みたいになるコャ?」


 狐城さんがそれっぽい線を引いてくれた。これで絵がかけそうだ。


「1 の逆像を含む開集合があるとすると、その補集合と最初にとった近傍の閉包の交叉はコンパクトで、1-1/n 未満って開集合は開被覆をなす。しかも増大列だから有限番目で止まって、ある n が存在して 1-1/n 未満って開集合は 1 の逆像を含む目当ての開集合の補集合を含む。つまり目当ての開集合は 1-1/n 以上って集合を、特に 1-1/n 未満って開集合を含む。できた!」


「直積はコンパクトの直積コンパクトとかでいけそうコャね。知らんコャけど」


「なんか可算直積までいけるそうです」


「へー! それはすごいコャ。すごいなーってことでじゃあ今日はこの辺で」


 やっと終わったか。実は点可算型ならばコンパクト生成であることを示していないのだが、気づいていないようなので放っておこう。


「あっ、終わりですねっ?」


「やっと終わったのかい」


 二人ともかなり疲れた様子だ。付き合わせてしまってすまない。俺も疲れた。


 でも、今日はいい日だったな。

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