総会発表 本番其の一
「シーシュポスの岩?」
それは、いつもの昼のことだった。学生控え室で壊れたソファーに寝転がった吟遊がよく分からない話を振ってくるというのは俺にとって日常茶飯事だ。
「ええっ! ギリシア神話でっ、神々に背いたシーシュポスは罰を受けますっ」
「聞いたことはあります。賽の河原的なやつですよね」
「シーシュポスは山に大岩を登らせるよう命ぜられっ、運んでいくのですがっ、山頂に着いたと思ったら岩は転げ落ちてしまいますっ」
「哲学者がなんか書いてますよね」
無意味で無価値な行為を繰り返す。実のところ人生の営みはこのシーシュポスの苦役に等しいのかもしれない。
「そうですっ! 私は読んでいませんがっ」
「いや読んでないんかい」
俺か? 俺も読んでいない。
「ここでシーシュポスが箱ぶのが岩ではなく猫チャンだったと仮定しますっ!」
「大胆な仮定を置きましたね」
「シーシュポスは猫チャンを山の上に運んでいきますがっ、猫チャンは頂上に近づくと逃げ出してしまいますっ」
ここまではさっきと変わらない。この仮定はどこで効いてくるのだろうか。
「しかし猫チャンを運ぶというのはっ、嬉しいことですっ」
「あーなんとなく分かってきました」
岩を運ぶような人生はつらい。猫を運ぶような人生は楽しいと。要は気の持ちようみたいな話だ。
「いえ、違いますねっ。気の持ちようみたいな話ではありませんっ……我々は自分が運んでいるのが大岩なのか猫チャンなのか知るすべがないっ、自分が歩んでいる人生が有意義なのかどうかは分からないっ」
「えっ、そういう話なの?」
「人生は最終的に何も残らないにしてもっ、意義があるかないかということは言うことができるっ、しかしそれは自分では分からないっ」
「じゃあ結局気の持ちようみたいな話になりません?」
「猫チャンを背負っている人が“奇跡”を見せてくれない限りはっ、そうですねっ」
「奇跡とやらを見せてくれたら気の持ちようじゃなくなるんですか」
「えっとっ、この間 Arhangel'skii って数学者の話をしてくれたじゃないですかっ」
「急に話が飛びますね」
吟遊の中では繋がっているのかもしれない。Arhangel'skii とは位相空間論研究の大家で、未解決問題をたくさん解いて新たな分野を切り開き未解決問題をたくさん出した人である。彼以降の位相空間論には、Arhangel'skii の問題意識を継承する方向性は研究の方向性として良いというような観念がある。それってどうなんだろうなという話をしたのだ。
「彼は“奇跡”を見せてくれたのでしょうっ! 研究の方向性にも大岩と猫チャンがありますがっ、彼は猫チャンを運ぶような方向性を示したのですっ」
「なんとなく分かるような分からないような感じですね」
「いづれ分かりますっ! 必要な時までこの会話は所木くんの記憶から消えるでしょうっ」
えっ何それ怖い。何の能力?
——そんな、何でもない日常の一コマがあったのだった。
唐突に、そんなことを思い出した。
今まで忘れていたが、いつだったか吟遊とこのような会話をしたものだった。
吟遊が言うことを信じるなら、今が必要な時なのだろうか。
まあ吟遊が言うことはだいたい戯言だからな。
「——それで、これが示したいことでした」
俺の直前の講演者が発表を締めくくった。万雷の拍手が鳴り響く。
そう、今日が帝数総会の日だ。
ここトキワの森大学で大教室を埋め尽くす聴衆に対して俺の数学を見せなければならない。
隣の席を見る。帝数には属していないが俺について来ていた吟遊がにこやかスマイルで小さく手を振ってくる。
「頑張ってくださいねっ」
「ええ、そちらも頑張って聴いてください」
小声の応援に小声で返答する。
「——それでは質疑応答はこの辺りで、今一度講演者に大きな拍手をお願いします」
全く耳に入っていなかったが質疑応答が終わり、再び万雷の拍手が轟く。
「では次はゲスト講演者ですね。今日二人いるうちの一人です。帝国大学から、所木さんお願いします」
もう一人ゲスト講演者がいるのか。初めて知った。
ともかく。
——出番だ。
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ご紹介ありがとうございます。帝国大学の所木由良です。
えー今回は発表題目を Tychonoff の板ということで、みなさん Tychonoff の板というのは聞いたことおありでしょうか。ちょっと挙手をお願いします。あ、何人かいる……。
えっと集合と位相で正則と正規ってやつが出てきますよね。環論でも正則と正規って出てきて正則の方が強いのに対し、位相空間だと正規の方が強いんですが。
どっちがどっちだか分からなくなりがちな上に、普通に扱う空間だと正規ぐらい普通にあるわけですね。集合と位相の授業では大してフォーカスされないんですが、空間のクラスとして正則と正規はだいぶ振る舞いが違います。
正則は積とか部分空間取っても崩れないんですが、正規は二個直積とか開部分空間で簡単に壊れます。開部分空間で壊れる例を挙げます。その前にオメガワンって空間を導入します。
【Fact. 最小非可算順序数 ω1 は可算集合が有界であるような整列順序集合である。
以下、順序位相を入れる。】
順序数とか分からないって人は別に分からなくて大丈夫です。この性質しか使わないので。整列順序はいいですかね。任意の集合に最小元があるということで、減少列が有限で止まるのと同値です。
オメガワンの著しい性質として次を証明します。
【Thm. f:ω1→R を連続関数とする。α<ω1 が存在して、全ての β>α について f(β)=f(α) となる】
つまりあるところから先が定数ということです。これびっくりポイントです。
【prf. g(α)=f(α+1)-f(α) と定める。
Claim {α<ω1 : g(α)>1/n} は有限集合である
∵無限であるとして矛盾を導く。この集合の元の可算増大列 α0, α1,…… をとる。
α=sup{αn} とおく。αn は α に収束する】
この収束は一年生の数学で単調増大有界な実数列が収束するのと同じです。
+1 ですか? ああ、次のやつということです。次のやつというのはそれより大きいもの全体の集合の最小元です。
【よって f(α)=lim_m→∞ f(αm)=lim_m→∞ f(αm+1)>lim_m→∞ f(αm)+1/n=f(α)+1/n となり矛盾】
最初の等号は連続性により、次は αm+1 が α に収束するっていう、これはすぐわかるんですが、事実によります。次の不等号は定義からしたがって、最後の等号は最初と同じです。
【よって {α<ω1 : g(α)>0}=∪_n {α<ω1 : g(α)>1/n} は可算集合である。
同様にして {α<ω1 : g(α)<0} も可算集合である。
α を {α<ω1 : g(α)≠0} の上界の元とすると任意の β>α について f(β)=f(α)
∵超限帰納法による。β=γ+1 かつ f(γ)=f(α) とすると f(β)=f(γ)+g(γ)=f(α) である。
α≤γ<β なる任意の γ に対して γ+1<β かつ f(γ)=f(α) であるとすると連続性より任意の ε>0 に対して γ<β が存在して γ<δ<β+1 なる任意の δ に対して f(δ)-ε<f(β)<f(δ)+ε となる。ゆえに任意の ε>0 に対して f(α)-ε<f(β)<f(α)+ε なので f(β)=f(α) となる ////】
これで最初の定理は証明できました。ここでコンパクト Hausdorff から一点抜いて正規じゃなくなる例を挙げます。
【ex. Tychonoff の板 (ω1+1)×(ω+1)-{(ω1,ω)}】
えっと ω1+1 と ω というのは、あーー……それぞれ ω1 と自然数全体 ω に最大元 ω1 と ω を付け加えたものです。記号が同じなのは本当に紛らわしいんですがそういう習慣です。これは整列順序集合です。ここで、
【Prop. 最大元 m をもつ整列順序集合 X は順序位相でコンパクトとなる
prf. 開被覆をとる。その元で最大元を含むもの U0 をとる。ある X の元 x0 で (x0,m] が U0 に含まれるものがある。被覆の元で x0 を含むもの U1 をとる。ある X の元 x1 で (x1, x0] が U1 に含まれるものがある。これを繰り返すと xn は単調減少なので有限で止まる。つまり開被覆の有限部分被覆が存在する】
ちゃんとやるなら帰納法で書くんですが、帰納法の仮定を書くのが面倒なのでやりません。これにより Tychonoff の板の一点抜かないやつはコンパクトで、簡単に Hausdorff がわかって、正規となります。しかし、
【Prop. Tychonoff の板は正規でない
prf. ω1×{ω} と {ω1}×ω は交わらない閉集合である】
本当に紛らわしいんですが、一点集合の中のは最大元です。
【正規とすると Urysohn の補題より ω1×{ω} 上で 1 となり、{ω1}×ω 上で 0 となる連続関数が存在する。この関数を ω1×{n} に制限したものはある αn から先定数で、その定数は (ω1, n) での値、つまり 0 に一致する。α=sup αn とおくと {α}×ω 上への関数の制限は自然数に 0 を、最大元に 1 を与え、これは連続でない。これは矛盾である】
この交わらない二つの閉集合が開集合で分離できないことを示すこともできます。より一般的な状況でやってみます。
【Thm. X, Y を位相空間、A を X の可算個の開集合の交叉で書けない閉集合、B を Y の可算集合で y を B に含まれない B の集積点とする。このとき、X×Y の部分集合 Z=X×(B∪{y})-A×{y} において、二つの閉集合 A×B と (X-A)×{y} に対し、Z における A×B の近傍の閉包は (X-A)×{y} と交わる。特に Z は正規でない
prf. U を A×B の近傍とする。B の各元 b に対し V_b×{b} が U に含まれるような X における A の近傍 V_b が存在する。V_b 全ての交叉は A と一致しない。よって V_b 全てに含まれ A に含まれない X の元 x が取れる。{x}×B は U に含まれ (x,y) に集積する。ゆえに (x,y) は U と (X-A)×{y} に含まれる】
こんなの示してどうするんだと言うと、次の定理が示せます。
【Thm. X をコンパクト Hausdorff 空間で X^3 の全ての部分空間が正規であるとすると X は距離化可能である】
空間の三乗というのはなかなかお目にかかることがないと思います。その意味で目を引く定理ですね。
【X が有限集合ならば離散位相で、距離化可能である。無限集合の場合、コンパクト性より可算無限部分集合 B とそれに含まれない集積点 x が存在する】
これはなぜかと言うと可算部分集合をなんでもいいから取れば集積点があって、含まれていればそれを除外すればオーケーです。
【ゆえに上の定理より X^2 の全ての部分集合は Gδ である。特に対角線 Δ={(x,x)} は Gδ である】
Gδ ってのは可算個の開集合の交叉で書けるということです。
【U_n (n=1,2,……) を X^2 の開集合として Δ=∩U_n とおく。連続関数 f_n:X^2→R を f(Δ)=0, f(X^2-U_n)=2^-n となるようにとる。f=Σf_n は連続で、f^-1(0)=Δとなる】
これを使って距離を作ります。
【d(x,y)=sup_z∈X |f(x,z)-f(y,z)| とおく。これは距離の公理を満たす。】
距離ゼロな二点の一致を言うところで Δ でのみ f が消えることを使っています。これで言えたかというとまだ終わりではなくて、これはもとの位相とどういう関係にあるか何も言っていないわけです。
【Claim x∈X の d に関する ε 近傍は x の近傍である
∵ x∈X とする。X^2 の点 (x,y) に対し、W_x,y=f^-1((f(x,y)-ε/3, f(x,y)+ε/3)) は開集合なので、x の X における近傍 U_y と y の X における近傍 V_y が存在して U_y × V_y は W_x,y に含まれる。V_y はコンパクト集合 {x}×X の被覆をなすので有限部分集合 y_1,……,y_n があって ∪V_y_i={x}×X となる。U=∩ U_y_i は x の開近傍で、y∈U, z∈X とするとある i に対して z∈V_y_i で U×{z}∈W_(x,y_i) となる。よって |f(x,z)-f(y,z)|≤|f(x,z)-f(x,y_i)|+|f(x,y_i)-f(y,z)|<2ε/3 である。以上から U は d に関する x のε 近傍に含まれる】
これで Claim は言えて、より弱い距離位相が存在することが分かりました。
【X から、X に距離 d による位相をいれた空間への集合としての全単射は連続である。コンパクトから Hausdorff への連続全単射は同相なので、X は距離化可能である ////】
コンパクトなのでより弱い距離位相というのは実は同相になっていて、終了です。このびっくり定理が示せたあたりで一区切りがついて、ここから具体的な空間を見ていきます。
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教室の最後列に、スーツを来た三人組がいた。
「——ドウ思ウ?」
巨体にドレッドヘアーの男が問いかける。金属装飾をいくつもつけた銀髪パンクファッションの男が答えた。
「かわいい男ですね。仕草が小動物ッぽい」
「そーじゃねーよ、数学面だ数学面。いわばお前の対戦相手なワケだろ?」
ピンク髪を逆立てた女がツッコミを入れる。
「ああ、そッちですか——」
銀髪パンクは目を細める。
「プレゼンはいいけど。大したことねェように見えます。位相ッてのも、偏見だけど集合と位相で感動してそこで止まッてンのかなって感じだし、けど——」
「ケド?」
「『何か』ある——あいつは伸びる、可能性がある」
「それで? SSSS 四天王としてどう対応する?」
「何もしなくていいンじゃねッすか」
「アイツハ近々旧都ヘ来ルソウダ」
「それ、どこ情報?」
「【冬】ノ託宣ダ」
「あー、俺はあいつ信用してませンので」
「まーいーよ、それより講演の準備は大丈夫なんだろーな?」
「こないだリハーサルして見せたッしょ」
「ナラヨシ。我々ハココデ楽シマセテ貰ウ」
いったい何者なのか——?




