築地・歌舞伎・枢
築地——それは帝都有数の魚介の街である。築地という名はもとは埋立地のことを意味したという。本願寺が焼けたとき代替地として作られ、以降寺が多く建てられた寺町としても知られる。また行政施設やかつては海軍施設などもここに集中していた。築地市場は近々放棄されることが決定しているのだが、現在のこの地の活気はそのことを伺わせない。
「しかるにその地下に広がる迷宮は人を飲み込めば二度と脱出を許すことがないと言われそこには殺人マグロやズンビーらが跳梁跋扈」
「うん、タマゴ焼きはうまいな」
俺たちはその築地をほっつき歩いていた。俺たちというのは俺と枢環希さんである。しょこらは大学の敷地から出られないらしいのでお留守番だ。
あれは先週のことだった。
「森羅万象を感じてみたら? 外側に手がかりがあるかもよ。手始めに普段行かない場所に行ってみるとか。適当なところを枢さんか狐城さんあたりに案内してもらったら」
留値愛さんに助言をもらった後、妹の真理愛さんにそのように言われたのだ。そして枢さんに話を通してもらってこうして築地のあたりを案内してもらうこととなったのだ。
「殺人マグロの話より食べ物ですか。花より団子とはこのことですね」
「殺人マグロは花ではないと思うんですけれどもね」
「食べ物といえばそこの海鮮丼は安くて分量も適度で味もいいのですよ」
そんなこんなで築地を楽しみ——
「そしてここが歌舞伎座ですか。築地からかなり近いんですね」
歌舞伎座とは歌舞伎の劇場である。その歴史は深く、四度の建て替えを経ている。五度だっけ。
「ええ。築地からかなり近いんですよ」
まあ今日は事前にチケットを買ったりしていないので劇場に入ることはできない。
「では少し観ていきましょうか」
と思ったら枢さんは普通に入るつもりらしい。なんでも一幕限りであれば安く当日券を購入することができるそうなのだ。
「なるほど、そうは言っても高いんだろうと思ったら映画ぐらいの値段で映画ぐらいの時間の観劇ができるわけですね。こういう伝統的な劇って鑑賞の上で演目に関する前提知識とかいるもんですかね」
「それならあらすじや見所を解説した冊子があります」
「入口のところの受付ですか。公式パンフレットってとこですね」
「そして通して観る券を買った場合奥で弁当を買えるのですが、休憩時間に食べるこれが——」
「幕の内弁当というわけですか」
そういう風にしながら入場し、劇を観た——
「なかなか面白かったですね」
「ええ、今月のは分かりやすく面白い話ですね」
それから役者の体の鍛え方がすごいのだろうという話や、出典不明だと思っていた漫画の効果音のいくつかは歌舞伎など伝統芸能に元ネタがあるのではないかという話をしながら帰っていった。
「今日はどうでしたか」
「おかげさまでとても楽しめましたよ」
「講演のヒントは掴めましたか」
「え?」
——そういえば今回のはただのお出かけではなく、講演をより良いものにするための手がかりを見つけようという話だった。すっかり忘れていた。
「忘れていたのですか……」
枢さんも呆れているに違いない——
「良いことです。常に気を張っているよりはよほど」
と思いきやその表情はいつになく優しげだった。俺はそのことに小さな引っかかりを覚えたが、言葉にする前に消えていった。
——帝都数学科学生会議総会まで、あと 21 日。




