幕間 三田留値愛と枢環希
マンションの呼び鈴を鳴らす。すぐにエントランスが開錠された。エレベーターに入り、「6」のボタンを押す。彼女はエレベーターのような閉所が苦手だ。だがそれしか手段がないということであれば耐えられないことはない。それに今日のように自分の他に誰も乗っていない場合は幾分か楽だった。
飾り気のない内装の廊下を歩き、目的の部屋の前に立つ。ここにも呼び鈴があるが、鳴らすことなく、扉をノックすらせずにノブを回す。必要がないからだ。
「ただいま帰りました」
「いやあなたの家じゃないんですけど」
冗談と、それに対する対応。この相手とは互いに敬語で話すが、気安い仲だ。むしろ普段の喋り方の方が彼女にとってはよそ行きの口調で、敬体で話す方が気楽なのだった。
実際の狭さに対して広く感じられる部屋で、ソファに座った部屋の主と目が合う。眠そうな目だ。外で会う時の印象とは違うが、彼女にとっては見慣れたものだった。
「お久しぶりです、環希さん」
「昨日会ったばかりでしょう、留値愛さん」
「お茶でもお淹れしましょうか」
「あなたが淹れてどうするんですか。私がします」
気の抜けたやり取りはお決まりのものだ。彼女——三田留値愛が枢環希のもとに遊びにくる時はいつもこのようなのだった。
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三田留値愛は茶を啜る。啜る——そう、彼女が飲んでいるのは緑茶だ。枢環希が紅茶に明るいというのはメイド服を好んで着る彼女のイメージに合致していて帝数内でも知られたことだったが、実は世界の他の地方の茶も部屋には常備している。これを知るのは帝数では一握りだ。ちなみに三田留値愛は今緑茶に砂糖を入れて飲んでいる。枢環希もこれに何か言うことはない。そもそも緑茶に砂糖を入れるのを教えたのは他ならぬ彼女だった。
「さて、次は何の音楽をかけますか。今のようなクラシックでも、北欧メタルでもビデオゲーム音楽でも」
「東欧の民族っぽい音楽ありますか? 変拍子だと嬉しいのですが」
スピーカーから流れていた、緑茶にはミスマッチ気味な長いクラシック音楽が終わり、次の曲を探す枢環希に、やや無茶な要求をする。
「ああ、それならこの間買ったチェコのフォークロックバンドの新譜がありますね」
「あるんですか」
「ないと思いながら要求したんですか」
そして、音楽が始まる。テンポの速い、何拍子なのかわからないような曲だ。しかし不思議なノりやすさがあった。
「環希さんは行きますか? Stone-Čech のコンパクト化の話を聴きに」
「どうでしょうね。留値愛さんは?」
「私は行きます」
Stone-Čech のコンパクト化。コンパクト Hausdorff 空間の圏から位相空間の圏への忘却函手の左随伴、つまりは位相空間から生える一番大きなコンパクト化だということは彼女は知っていた。しかしその先は知らない。興味がないでもないし、所木由良が話すならまあ聞いてもいいだろう、と思っている。
「……ところで留値愛さん」
「何でしょうか」
「その敬語で喋るの、他の人にもやっているんでしょうか」
「心配しなくても環希さんだけですよ。家族内では砕けた会話ですし、それ以外とはあの受けのいい朴訥な感じです」
「心配してはいませんが。というか心配って何のですか」
「自分だけが特別じゃなかったらどうしよう、というような」
「留値愛さんの中で私は何なんですか……」
「何といっても私は環希さんのこと特別視していますからね」
「——喜んでおきますね」
「はい、どうぞ」
三田留値愛は両手を広げた。
「そのポーズは何ですか」
「喜びの抱擁を受け入れるポーズです」
はあ、と枢環希はわざとらしくため息をついて——
「特別ですよ」
三田留値愛を抱きしめた。
——ちなみにこの「特別」は三回に二回ぐらいあるというのが留値愛調べである。




