位相空間論しかできることがない主人公のもとに触手のあるかわいい少年が来て位相空間論を教えるよう頼んでくる
ここでは空集合を位相空間に含める
「じゃあまずは位相の定義書いてみて」
「わかった」
気持ちのいい音を立てて発表者が白墨を走らせ、数学記号を連ねていく。どこの数学科でも見られる、セミナーの光景である。少し違う点があるとすれば——
「こうだね。論理的には (1) は実は (2)(3) から導かれるから省くこともできる」
幼いながら自信に満ちた顔が俺の方を覗き込んでくる。発表者は第二次性徴前くらいの少年といった見た目である。大学の数学科の人間ではない。
というか多分人間ですらない。というのもさっきからチョークを手で握るのでなく闇の色をした海洋生物のような「触手」を使って板書を作っているのだ。ために黒板の前に立つ必要がなく、俺の隣に座っている。なんとなくやりづらい。
なぜこのようなことになったのか。昨晩のことである。帝国大学木霊寮の俺の自室をこの少年が訪ね、位相空間論を教えろと言ってきたのだ。位相空間論は俺の唯一の得意分野だし留年していて向こう半年はヒマだし断る理由も特にないので軽々しく受けてしまった。
この少年が何者なのかはよくわからない。本人は精霊みたいなものだと主張している。サイズが身体に比べてふた回りは大きい黒いパーカーを着てフードを目深に被っていたのが、動画サイトに素人が投稿するオリジナル曲の PV に出てきそうだと感じられた。動画サイトのオリジナル曲 PV なんて滅多に見ないが。
あと名前をくれと言われたので黒くて可愛らしいことから【しょこら】と名付けた。「犬みたいだ」「男だぞ」とは言われたが実際犬みたいな印象は受けたしあとフランス語では男性名詞なので問題ないと告げると納得した。しかし精霊みたいなものに名前をつけるのって簡単にやっていいものなのだろうか。
「『集合と位相』の授業を受けたことがあるって言っていたし今更語るまでもないかもしれないが、位相空間論は『位相』と呼ばれる構造を伴った集合という幾何学的概念を扱い、その諸性質の関係を調べる数学の分野なわけだな。幾何学的と言ってもあまり図に書いてわかりやすくなるような分野じゃなくて、数学を代数と幾何と解析とわけたときには解析に属するものだと個人的には思っている。極限や収束を扱うしな」
通常数学科のカリキュラムでは「集合と位相」といった題目の授業で数学における議論の仕方の基礎と合わせて位相空間論の初歩を扱う。ただし位相空間論は専門家が少ないため普通は他の分野の専門家が教えている。しょこらはこの授業にモグったことがあり、一応位相の基礎概念は身につけているということになる。さしあたってより深い理解のため位相空間論の観点からの俺の補足を挟みつつ内容を復習してみようということで、こうして数学セミナー——つまり板書と口述による発表をさせることにした。
「ところでこの定義だけど」
「うん」
板書を見る。
【集合 X と X の部分集合の集まり O で次の条件を満たすものの組 (X,O) を位相空間という。単に位相空間 X と書く。
(1) O には空集合 Ø と全体集合 X が属する。
(2) O の任意の有限部分集合について、その共通部分は O に属する。
(3) O の任意の部分集合について、その和集合は O に属する。】
「最初に見たときこれで位相空間がどういうものかわかったか?」
「わからなかった」
それはそうであろう。いきなりこんなことを言われてこれが図形です空間ですと言われて理解し納得することができるわけはない。ユークリッド空間をモデルケースとして、ユークリッド空間の開集合、つまり開円盤の合併(和集合)で書かれる集合全体がこの性質をもつことを導入とすることもあるようだが、それにしたって「なぜ開集合を考えるのか」「なぜ開集合のその性質を抜き出して公理とするのか」という点唐突という感を否めない。
「これは俺の見方だが、集合で遠いとか近いというのを考えるようにするとき、一番素朴なのが全ての二点の組に対してその二つが遠いか近いかを設定するというものだと思う、つまりこうだ」
黒板の前に出て板書する。
【f:X×X→{0,1} とする
x,y は f(x,y) が 0 のとき近いといい 1 のとき遠いという】
「その f って X×X の部分集合を考えるっていうのと——」
「同じだな。集合と位相の教科書とかにも書いてあるように。さてこの f だがなんでもいいという訳にもいかなくて、二点間の遠近関係というものを表すなら持っていてもらわなければならなそうな性質がある」
【・x と x は近い
・x と y が近ければ y と x は近い
・x と y が近く y と z が近ければ x と z は近い】
「同値関係——」
「そう、これだと同値関係になって、集合の元が類別される。つまり近い同士で固まって敵か味方かに別れてしまう。これを空間と呼ぶには近い遠いの情報がとぼしすぎる」
「だからゼロかイチかじゃなくて実数に値をとる距離の入った空間を考えるってことかい」
「そうだな、距離もそうだ。実は位相もこれの情報を増やしたものとみなせる。つまり」
【集合 X について元と部分集合の関係 δ:X×2^X→{0,1} を考える
x∈X と A⊂X について f(x,A)=0 のとき x は A の触点であるという】
「Kuratowski の公理系って覚えてるか」
「えー、なんだっけ、閉包作用子だっけ。各集合について閉包、つまりそれを含む最小の閉集合が与えられれば開集合族が与えられたのと同じことになるって」
「そういうやつだな。ここで言っているのはあれの言い換えだ」
【・x∈X について δ(x,Ø)=1
・x∈A について δ(x,A)=0
・δ(x, A∪B)=0 ⇔ δ(x,A)=0 または δ(x,B)=0
・δ(x,B)=0 かつ全ての y∈B について δ(y,A)=0 ならば δ(x,A)=0】
「この書き方だと最後のやつが特に何を言いたいのかぱっと見わかりづらいが部分集合を取って部分集合を返す作用子で書き直すと Kuratowski の公理系になる」
【このとき A⊂X に対して Cl A={x∈X:δ(x,A)=0} とすると Cl:2^X→2^X は次の性質をもつ
・Cl Ø=Ø
・A⊂Cl A
・Cl(A∪B)=Cl A∪Cl B
・Cl(Cl A)=Cl A】
「逆にこういう Cl があったとき触点関係を定めるのは容易なので演習問題とする」
「うわー出た読者の演習問題として残すやつ」
読者への演習問題とする、というのは数学書でよくある、著者にとって書くのが面倒な部分を書かないことへの言い訳である。まあ実際そういう箇所を埋めるのが実力をつけるのは事実だろうが。
「さてそれで、閉包が自身に一致する部分集合が閉集合、閉集合の補集合が開集合、点 x と部分集合 A に対して x を含む開集合が全て A と交わるとき x は A の触点、という風にして閉包から閉集合系が、閉集合系から開集合系が、開集合系から触点関係が作れる。そして行って戻ってきたら一致するわけだ」
「ええと、閉包から作った閉集合系からまた閉包を作るとそれは元のやつと一致とかそういうやつ」
「ああ、そういうやつ。じゃあ次行こうか」
「ええと、内点外点境界点集積点——」
「あ、その辺はやらなくていいや」
「えぇ——」
内点とか外点とか境界点とかは閉包がわかっていればわかる概念なので別に詳しくやらなくていい。導集合もたまにしか出てくることはない。閉包の理解を深める上でやっておくといいというのはまあそうかもしれないが。
「連続写像の方がよっぽど大事なやつだからそっちをやろう」
「——わかった」
【位相空間の間の写像がある点 x で連続であるとは】
「あっ、近傍定義してない」
「じゃあ書いといて」
【位相空間 X の部分集合 N が点 x における近傍であるとは x∈U⊂N なる開集合 U が存在すること】
近傍を使っても位相を定式化することはできる。まあ適当な教科書とかに書いてあることである。
【位相空間の間の写像 f:X→Y がある点 x で連続であるとは、f(x) の近傍 N に対し f^-1(N) が x の近傍であることである。全ての点で連続な写像を連続写像という】
「じゃあそれと開集合の引き戻しが開と触点を触点に写すの三つの同値を。他はやらなくていいから」
「こうかな」
【定理 位相空間の間の写像 f:X→Y について次の三条件は同値である
・連続である
・開集合 U⊂Y について f^-1 (U) は開である
・x∈X, A⊂X について x が A の触点ならば f(x) は f(A) の触点である】
「えっと、どれからどれをやるのが一番早いだろう」
「一番上から最後、最後から真ん中、真ん中から一番上かな」
「以下の n 個の条件は同値である」系の命題を見たら全通り試してどの順に示せば一番短いか確かめておけという数学者もいる。この場合のように三つとか四つぐらいならそれでいいだろうが、たまに「以下の 11 個の条件は同値である」みたいなやたら多い命題も出てくるので、そういう時は全通りやる必要はないと思う。
【証明: f を連続写像とする。f(x) を含む開集合 U を任意に取って f(A) と交わることを示せばよい。連続性より U の逆像は x の近傍なので X の開集合 V が存在して x∈V⊂f^-1(U) で x は A の触点なので V は A と交わる。x'∈V∩A とすると f(x')∈U∩f(A) である /
x∈X, A⊂X について x が A の触点ならば f(x) は f(A) の触点であるとする。U⊂Y を開集合とする。x を X-f^-1(U) の触点とし、x∈X-f^-1(U) を示せばよい。x∈f^-1(U) と仮定する。U は f(x) を含む開集合で f(X-f^-1(U)) と交わらないので f(x) は f(X-f^-1(U)) の触点ではない。これは矛盾 /
開集合 U⊂Y について f^-1 (U) は開であるとする。N を f(x) の近傍とする。f(x)∈U⊂N なる開集合 U が存在する。f^-1(U) は開集合で x∈f^-1(U)⊂f^-1(N) となり、f^-1(N) は x の近傍である ///】
「で、やっていなかったけれど教科書だと書いてあるのが部分集合に相対位相を入れるやつ」
【位相空間 X の部分集合 A について、A の部分集合で U を X の開集合として U∩A の形をしているものすべてを開集合とすると位相が定まる。これを A の相対位相という】
「これはすごいことだな。代数構造なんかだと任意の部分集合が演算で閉じたりしないし多様体も任意の部分集合が多様体になったりしないし」
「代数構造? 多様体?」
これはわからないか。
「ええと、線型空間の任意の部分集合が線型空間になるわけではないみたいな」
「距離空間は任意の部分集合は制限で距離空間になるけど」
「そうだな。位相空間とか距離空間は任意の部分集合に位相とか距離が入ってしまうが故に、あまりにも多様すぎ、行儀のいい空間だけでなく異常な空間も考える必要が出ることがある」
「うーん、そんなものかなあ」
そんなものなのだ。さて、ここで休憩してタコスでも買いに行こうか。
演習問題
次の命題について、正しければ証明し、誤っているならば反例を挙げよ。
・X,Y,Z を位相空間、f:X→Y, g:Y→Z を連続写像とするとき g○f:X→Z は連続である。
・X,Y,Z を位相空間、f:X→Y を連続写像とするとき写像 g:Y→Z について g○f:X→Z が連続ならば g は連続である。
・X,Y,Z を位相空間、g:Y→Z を連続写像とするとき写像 f:X→Y について g○f:X→Z が連続ならば f は連続である。
・f:X→Y を位相空間 X から位相空間 Y への連続写像、A を X の部分集合とする。A に相対位相を入れたとき f の A への制限は連続である。
・X,Y を位相空間 f:X→Y を写像、(U_λ)_λ∈Λ をその開集合族で X=∪_λ∈Λ U_λ が成り立つとする。f:X→Y が連続であることと全ての λ∈Λ について f の U_λ への制限が連続であることは同値である。
・X,Y を位相空間 f:X→Y を写像、(F_λ)_λ∈Λ をその有限閉集合族で X=∪_λ∈Λ F_λ が成り立つとする。f:X→Y が連続であることと全ての λ∈Λ について f の F_λ への制限が連続であることは同値である。