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六章:想いの果てに辿り着く景色

六章:想いの果てに辿り着く景色


 時は少し前に遡る。トレスとナストロが手合わせをすべく人気のない広場に辿り着いた時、突如として空に巨大な紅蓮の竜巻が出現した。

「なっ、なんだ! あの炎は!」

 ナストロが思わず叫び、トレスも驚いた表情でその竜巻を眺めていた。

 天を衝くような炎の竜巻は衰えを知らず、その周囲の一切を包み込みながら燃え続けていた。その光景にトレスが思わず瞳を細め、何かに気がついたかのように叫ぶ。

「あれは……炎と風の加護を使った複合術式! ……あれを使えるのは教会でも限られた者のみ。まさか……紅翼が動いたのか!」

 トレスが叫んだ瞬間、周囲に拍手の音が鳴り響く。その音にナストロとトレスが慌てて振り向くと、突然二人の目の前の地面が爆砕し粉塵が立ち上る。

「ご明察。その通りだ。あれは悪魔の墓標。そしてあんたもここで悪魔と共に朽ち果てるって訳だ。邪教に魂を売った裏切り者の墓にしちゃ、ちと豪華すぎるが、な!」

 突如、粉塵の中から巨大な斧がトレスに向かって飛来する。

「ぐっ!」

 トレスは飛来した斧を咄嗟に剣で受け止めるが、斧の勢いは凄まじく、そのままトレスを剣ごと吹き飛ばす。吹き飛ばされたトレスはそのまま家屋の壁に打ち付けられて、小さなうめき声を漏らす。

「何奴! まさかヴィンサントの兵か?」

 ナストロが咄嗟に剣を構え、斧が飛来した方向に向かって叫ぶ。ナストロの見据える先には砂埃が立ち上がり、視界は閉ざされている。ナストロは緊張気味に剣を構えると、左手を空に向かって掲げるや大きく叫んだ。

「焔雷!」

 ナストロが叫ぶと、雷がナストロに降り注ぎ、その身が雷を帯びる。その手に持つ剣は雷を放ちながら黄金色に輝き、その光はゆっくりとナストロの全身を包んでいく。次の瞬間、ナストロが土煙に向かって走りだした。

 ナストロの体から漏れ出る光が虚空に光の尾を刻み、その様はさながら雷光を彷彿とさせる。

「おおおおお!」

 神速の一撃がナストロから放たれ、剣より迸る雷が土煙ごと周囲の空間を切り裂いていく。

 次の瞬間、金属が打ち合う音が周囲に響き渡る。ナストロは目の前の光景に思わず瞳を細めて叫ぶ。

「……我が一撃を防ぐとは、貴様、ただの凡庸ではあるまい! 出てこい!」

 ナストロが小さく舌打ちをしてその場を大きく飛び退くと、土煙の中から低い声が響き渡る。

「へぇ……。さすが『剣聖』。俺の手を痺れさせたのはあんたで二人目だぜ」

 その声にナストロが驚いた表情で瞳を見開き、その後ろでは瓦礫の中から立ち上がったトレスが小さく呟いた。

「……そうか、やはり君が来たのか。ジオグラン……」

 突然周囲に強い風が吹き、土煙が晴れて視界が徐々に明らかになる。そこには純白の鎧に紅蓮のマントを身につけた少年――ノチェロ聖堂騎士団長、ジオグランが立っていた。


「久しぶりだな、トレス。あんたは死んだって聞かされてたんだけどな、気がついたら生きていて、しかも仲間を裏切って悪魔に頭を下げてやがる。これは一体どういう冗談なんだろうな?」

「違うんだ、ジオ! 僕は……」

 トレスが何かを言いかけるがジオグランが叫ぶ。

「何も違わねえ! あんたは悪魔に魂を売って、仲間を裏切り、そして世界も裏切った。あの悪魔がいると世界がどうなるか、知らねえとは言わせねえぞ!」

 凄まじい殺気がジオグランから放たれ、トレスは咄嗟に横に飛ぶ。その瞬間、トレスのいた空間を赤い光が通り過ぎる。光はそのままトレスの後ろの家屋に迫り――音もなく家屋を蒸発させた。

「なっ……!」

 その光景にナストロが思わず言葉を失い、トレスはジオグランに向かって叫ぶ。

「違う! 君はわかっていない。ヴェルが世界を滅ぼすんじゃない。人の意思が、世界の意思がアーテルを喚ぶんだ。あの子はただの天秤に過ぎない」

 トレスの言葉にジオグランは両肩を竦めておどけてみせる。

「はっ! そんなお伽話誰が信じると? それにストレガ様が視たんだ! あの女が世界を滅ぼすってな! それともあれか? あんたはあの餓鬼の為なら世界なんて滅んだって構わないって思ってる口か?」

「っ!」

 その瞬間、トレスから凄まじい殺気が解き放たれ空気を揺らす。

「……どうやら今ここで問答しても無駄のようだね。なら力ずくでも聞いてもらうよ」

 トレスの体から殺気にも似た闘気が高まっていく。研ぎ澄まされた闘争の気配がゆっくりとトレスの周囲を包み込み、その光景にジオグランが満足そうに剣を構えて笑みを浮かべる。そんな二人を前にナストロが思わず叫ぶ。

「ジオグラン殿! 何故貴方がここに! ここは戦地です! 教会の出る幕では無いはずだ! それに貴方がここで戦えば関係ない人も巻き込んでしまいます!」

 その言葉にジオグランはトレスに剣を向けながら大きな声で叫ぶ。

「そいつは問題ねえよ、剣聖。そこにいる教会の、聖堂騎士の裏切り者と右手の悪魔を屠るためにアクアビットは俺達に街一つまるまる提供してくれたぜ。今はこの街には俺と紅翼の騎士しかいねえ」

「そんな馬鹿な! そんな話は聞いていないぞ!」

 ジオグランの言葉にナストロが思わず声を荒らげ、一方のジオグランは肩をすくめておどけてみせる。

「何言ってんだ? 右手の悪魔の事を聞いたらコーディアル十四世陛下は快く協力してくれたぜ? もっとも王様はあんたらを使って別の思惑があったみたいだけどな、女神の前では悪いことはできねえな」

「まさか……異端審問を盾に陛下を脅したというのか!」

 ジオグランの言葉にナストロが声を荒らげ、一方のトレスはナストロを制して小さく首を横に振る。

「……教会のやりそうなことだ。だけどアクアビットの判断は間違えていない。流れ者の僕らに義理立てして国を危険に晒すようなことはないからね。しかしジオ……君の言葉が正しいなら、何故関係ない姫まで同行させた? ナストロ殿とキルシュもだ」

 トレスは剣を引き抜くと、ジオグランに向かって真っ直ぐに突きつける。一方のジオグランは嬉しそうにトレスを見つめ、小さく口元を綻ばせる。

「どうやら件の右手の悪魔とあのザフトリングの嬢ちゃんは知己らしいからな。姫はそのための枷ってことだ。ここが戦場になれば、嬢ちゃんは姫から離れられねえ。剣聖まで来ていたのは予想外だったけど、剣聖は俺らと戦う理由がねえ。つまり俺達とトレス――あんた達の戦いに水をさすものはいなくなるという訳だ。まぁ小難しいことは全部ストレガ様の考えだけどな」

「……トレス殿。申し訳ないが、王家が教会に協力した以上、私も彼らの意向に沿わねばなりません。貴方に剣を向けることはありませんが、貴方に加勢することも……」

 申し訳無さそうに語るナストロを前に、トレスが小さく首を縦にふる。

「それは当然の判断です。僕にとっては貴方が敵にならないというだけで十分助かりますよ」

「……申し訳ない。協力を申し入れたのはこのアクアビットだというのに、まさかあなた方を売ることになろうとは……」

 辛そうに語るナストロを前にトレスが小さく微笑み、ジオグランの前に立つ。

「ナストロ殿は姫を連れて疾くこの街より脱出を」

「……承知」

 トレスの言葉にナストロは小さく頷き、リンデンバウムの天幕に向けて走りだした。その背中を見つめていたジオグランが嬉しそうに語る。

「あんたと本気でやりあうのはこれが初めてか……。かの最後のトレス・クァレンタの実力、見せてもらうぜ」

「……もはや互いには引けない、か。なら受けて立つよ」

「行くぜ!」

 トレスの言葉にジオグランの足元の地面が爆砕し、次の瞬間、神速でトレスの目の前まで迫ったジオグランが大きく剣を振りかぶる。

「疾い!」

 トレスは咄嗟に剣で受けるが、ジオグランの剣は爆炎を纏い、トレスを剣ごと吹き飛ばす。轟音とともにトレスは凄まじい勢いで吹き飛ばされ、いくつかの家屋を貫いてまだ止まらない。その光景にジオグランが瞬時に左手に意識を集中させると、その手に持つ剣が赤い輝きを宿す。

「燃えつきろ! 終世の悪魔の意思と共に! 世界を混沌に飲み込ませはしねえ!」

 ジオグランが叫びながら大きく踏み込み、紅蓮の剣を振るう。剣は赤い尾を引きながら虚空に赤い光を刻んでいく。たった一振りでジオグランの前方にある空間に幾多の赤い線が刻まれ、次の瞬間、その線から凄まじい熱波が溢れだし、視界に入る全てを呑み込んだ。

 熱波の奔流は周囲の家屋を一瞬にして灰燼に変え、街の一角が一瞬にして消え去った。その光景を前にジオグランが大きく叫ぶ。

「この程度で死ぬトレス・クァレンタじゃねえだろ? さぁ、続きをしようぜ?」


 ナストロはリンデンバウムの下に向かって走っていた。ナストロにはこれから始まる戦いがどのようなものかは想像もつかなかったが、胸の奥にくすぶり続ける言いようのない不安が駆り立てるようにナストロを急かす。

「ナストロ様! どうしてここに! トレスは?」

「キルシュ殿! 貴女も姫のところに!?」

 ナストロと同じくリンデンバウムの元に向かっていたキルシュがナストロに気がついて叫び、ナストロもキルシュに気がつくや大声で叫ぶ。

「ええ! 教会の手の者がいつの間にかこの街に……って、えっ?」

 通りを並走していた二人は目の前の光景に思わず言葉を失い立ち止まる。ナストロも同様に足を止め、キルシュの横に立つと思わず言葉を漏らした。

「なる程……ジオグラン殿の言っていたのはこういうことだったのか。初めからこの遠征そのものが茶番だったとは……」

「ジオグラン様が? やはりあの方はヴェルとトレスを追って……。しかしこれは一体どういうことですの?」

 立ち尽くす二人を前には、通りにひしめいていたはずの負傷兵達の姿が忽然と消え去り、代わりにそれぞれ光り輝く剣を手にした騎士達がヴェルヴェーヌのいる方向に向かって駆けていた。

「負傷兵は全て聖堂騎士? ……つまり全ては嘘だったと? この慰問は最初から仕組まれていた?」

 その光景を呆然と眺めるキルシュを前に、ナストロが複雑な表情で告げる。

「……そうみたいです。ジオグラン殿の言葉によると王家は教会と取引をしたと。全てはあの二人を葬るために……」

 ナストロの言葉に近くにいた騎士が二人に向かって告げる。

「お二人はアクアビットのナストロ・マラスキーノ殿とキルシュロッター・ザフトリング殿とお見受けする。この地は間もなく戦場となる。貴殿らは姫と共に疾くこの地を去るがいい。ここに留まるというのであれば命の保証はしかねる」

 騎士の言葉にキルシュが咄嗟に後ろを振り返る。トレスが戦っているのだろう、時折凄まじい轟音が鳴り響き大地を揺らす。その光景に騎士が語る。

「ジオグラン様と我ら紅翼が出た以上、この地は悪魔もろとも灰燼と化すだろう。闇の女神の意思はここに潰え、女神アルブスの意思の下、安寧の千年が約束されるのだ」

「だからって、ヴェルを、トレスを殺していい理由にはなりませんわ!」

 キルシュが叫ぶがナストロがそれを制する。

「止めないで下さい! このままではヴェルとトレスが!」

「しかし! キルシュ殿がここで教会に剣を向けたとあらば、貴方もアクアビットに戻れなくなります! ご家族はどうなさるおつもりですか! 戦争で疲弊しきっているこの時期にオレアデス殿がいなくなれば、アクアビットはどうなりますか!」

 その言葉にキルシュが一瞬動きを止め、俯きながら小さく肩を震わせる。

「……辛いでしょうが、これは彼らの戦いです。我々は見届けることしかできません」

 ナストロの言葉にキルシュが唇を噛み締めながら小さく頷き、その口元には血が滲んでいる。そんなキルシュの様子を見て、ナストロが肩に手を置き小さく首を横に振る。

「キルシュ殿、我らのすべきことは姫をお守りすることです。辛いでしょうがここは……」

「くっ……」

 ナストロとキルシュはお互い顔を見合わせると、真っ直ぐにリンデンバウムの下に駆け出した。



「……さすがは閃熱と謳われた男だな……ジオグラン」

 トレスは咄嗟に地面に伏せてジオグランの生み出した赤い光をやり過ごす。その頭上にあった家屋は跡形もなく灰塵へと変わり果てた。降り注ぐ灰の中でトレスが叫ぶ。

「だけど、僕もここで倒れる訳にはいかない! 人は……世界はまだ答えを出していない。無理やり天秤を動かすような真似はアーテルを喚ぶだけだというのに、どうして君達はそれが分からない!」

「あんたの言ってることを信じろって方がどうかしてるぜ! 本来『天秤』ってのはアルブスとアーテル、両方の可能性を指し示すもんだ。なのに無理やり天秤を動かすとどうしてアーテルだけが喚ばれることになってんだ? アルブスはどうした?」

 その言葉に一瞬トレスが言葉に詰まり、その様子を見たジオグランが叫ぶ。

「はっ、やっぱりな。結局はあの右手の悪魔に手出しをさせないための方便じゃねえか。あんたの言葉はいつからそんなに軽くなった!」

 ジオグランは叫ぶや、一瞬にしてトレスの懐に迫ると剣を大きく振りかぶる。剣は虚空に赤い光を刻みながら、真っ直ぐにトレスに迫る。

「違う!」

 トレスの剣がその一撃を真正面から受け止める。

「馬鹿な……。俺の”閃熱”で蒸発しない剣なんて……」

 その光景にジオグランが驚いた表情でつぶやき、一方のトレスはジオグランの剣を押し返しながらゆっくりと瞳を細めて呟く。

「……よく聞くんだ、ジオ。君達は勘違いをしている。彼に……教皇ストレガにそう教えられているだけなんだ!」

「くっ……風を纏ったか」

 ジオグランの剣はまるで何かに押し返されるように、トレスの剣に触れる寸前で止まっており、その光景にジオグランが眉をひそめる。トレスはジオグランの剣を押し返すとそのまま大きく剣を振りぬいた。

 その瞬間、周囲に凄まじい突風が吹き荒れ、ジオグランが大きく吹き飛ばされる。

「くぅっ……」

 ジオグランは剣を地面に突き立てて風を耐え、そんなジオグランを見つめながらトレスが続ける。

「いい加減目を覚ませ! さもないと、君たち自身の手で世界を滅ぼすことになるぞ!」

 トレスの言葉にジオグランが大きく叫ぶ。

「うるせえ! そんな言葉信じられるかよ! あんたの言葉は欺瞞そのものだ!」

「ジオ!」

「俺は、俺は……そんなあんたを見てられねえ。何よりも、そんなあんたに憧れ続けた俺が許せねえ! だから俺があんたを……親父をこの手で葬る。これは俺のけじめだ」

 ジオグランが剣を真っ直ぐに天に向かって掲げると、その刀身に赤い輝きが集まっていく。いつしか剣は煌々と輝き、熱で周囲の空気が大きく揺らめく。

「行くぜ!」

 ジオグランが叫んだその瞬間、その足元が大きくはじけ飛んだ。ジオグランは疾風の如くトレスに迫る。その体は淡い光に包まれ、神速の斬撃がトレスを襲う。

 ジオグランの剣がトレスの足元から胸元に向かって切り上げられ、トレスはそれを咄嗟に身をひねってかわす。その瞬間、ジオグランの剣から赤い光が天に向かって放たれ、光は空にあった雲を両断して消えていく。初撃がかわされた事を知ったジオグランは剣を逆手に持ち変えると、背を向けるように半身回転してトレスにより掛かるようにして剣を突き出した。

「くっ……」

 トレスが慌てて剣でその突きを反らすと、突き出した剣から光が迸り、その動線上にある全てを蒸発させていく。

「……正直、俺にとって右手の悪魔はどうでもいいんだ。教会が右手の悪魔を粛清するためにアクアビットの隠れ里に赴いた時、あんたは俺達を、いや、女神アルブスを裏切り、仲間を殺して右手の悪魔と共に逃げた。……どうしてあんたの部下を……仲間を裏切った!」

 ジオグランが振り向きざまにトレスの顔めがけて肘打ちを繰り出し、トレスはそれを片手で受け止める。二人の距離はお互いの息使いが聞こえる程に近づき、ジオグランがトレスの瞳を真っ直ぐに睨んで叫ぶ。

「違う! あれは……いきなり教会が村を焼いて、ヴェルが反撃しただけだ!」

「はっ! 今度は右手の悪魔に罪をなすりつけるってか? ストレガ様の予言は絶対だ。あんたが仲間を斬って悪魔と逃げたところをちゃんと『視て』るんだよ!」

 ジオグランがトレスから離れると左手を無造作に振るう。たったそれだけの動作でトレスの周囲に赤い光が迸り、次の瞬間、凄まじい熱風がトレスを襲う。

「それは違う! 彼は――教皇ストレガはヴェルを庇う僕を疎んでいた。彼はヴェルが世界崩壊の鍵だと信じていたからだ! だからそれに異を唱える僕が邪魔だったんだ。もう彼は変わらない。そう考えた僕はあの日、ヴェルを連れて逃げたんだ」

 トレスが叫びながら地面に剣を突き立てる。その瞬間、剣が金色に輝くと、トレスを中心に凄まじい風が吹き荒れ、周囲の熱気を巻き込みながら空へと消えていく。

「へぇ……? アクアビットに送り込まれた騎士は総勢百人を超える。その半数近くは意識が戻らず、死者は数十人にのぼる。……これをどう説明する?」

「あれは! 彼らが襲ってくるからヴェルも仕方なく……」

 その言葉にジオグランは口元を歪めて笑う。

「俺が言いたいことはさ……親父。どうしてあんたがかつての部下を殺した悪魔を守ってるかってことだ! さっきから聞いてりゃつまんねえ言い訳ばかりしやがる。もはや語るに落ちたな、トレス・クァレンタ!」

 言葉とともに、ジオグランが大きく踏み込み赤く輝く剣を横に薙ぐ。トレスはそれを風を纏った剣で受け止めると、ジオグランは小さく笑みを浮かべる。

「それ、やるよ」

「なんだと?」

 突然ジオグランは剣を手放し、空手となった左手で真っ直ぐにトレスの喉をめがけて手刀を放つ。突き出されたジオグランの手刀は赤く輝き、その一撃を紙一重でかわしたトレスの首筋が小さな煙をあげる。ジオグランはその隙を見逃さない。突きがかわされたとみるや、半身を回転させ赤い光を纏った蹴りを叩き込む。

「ぐっ……」

 トレスがそれを空いた手で受けると、その瞬間、凄まじい熱波が蹴りより解き放たれた。しかし熱の波はトレスを焦がすこと無く、そのまま通り過ぎてトレスの背後にある家屋を焼きつくす。

「ちっ……また風の加護かよ……。面倒臭えな」

 その光景に顔をしかめるジオグランを前に、トレスが覚悟を決めたのか大きく息を吐く。

「……こうなっては是非もなし、か。説明は後でするとして、とりあえず今はジオ、君を黙らせる必要があるみたいだね」

 その言葉と共にトレスの纏う気配が一変する。トレスが一瞬瞳を閉じたかと思うと、トレスの体が淡い光を宿す。光は小さな明滅を繰り返しながら大きくなり、次第に大きな輝きとなる。

「……使わせてもらうよ、ヴェル!」

 トレスが叫んだ瞬間、その体から天に向かって一本の光柱が立ち上る。ゆっくりと見開かれたトレスの瞳に黄金色の光が宿った。


 そこから少し離れた場所で、空に立ち上る光柱を遠くで見たヴェルヴェーヌが小さく呟いた。

「あれは……そうか、トレス。ついに『その魂』を開放したか。……それ程の相手となったか、あの坊やは?」

 ヴェルヴェーヌはいつの間にか自分を取り囲むように集まった騎士達を見つめながら口元を釣り上げる。その右手には煌々と輝く銀の鎖が巻き付いている。

「さて、私の方も忙しくなりそうだな……」

「ヴェル!」

 ヴェルヴェーヌが呟いた瞬間、キルシュの叫び声が周囲に響き渡る。その声にヴェルヴェーヌが思わず驚いた表情で振り返る。

「馬鹿な! 何故戻って来た、キルシュ! 姫はどうした!」

「何故って……決まっているでしょう! ヴェル達が危ないから、心配だったから!」

 その言葉にヴェルヴェーヌは焦った表情で叫ぶ。

「この状況が見て分からないのか! 巻き添えを食らう前にここから離れろ! 早く! それにキルシュ、お前がこ奴らに剣を向ける意味を分かっているのか?」

「全て承知の上ですわ! それに……もう手は打ってありますもの」

 キルシュがヴェルヴェーヌに語りかけた瞬間、ヴェルヴェーヌの周囲を取り囲んでいた騎士達が一斉に斬りかかった。

「くっ……!」

 ヴェルヴェーヌは騎士の斬撃を小さく体を倒して避ける。騎士の剣は足元の地面に吸い込まれ、次の瞬間、その剣は地面を事も無げに深々と斬り裂いた。

「あれは……アルブスの加護の爪? 魔獣相手ならいざ知らず、まさか人に向かって使うなんて!」

 騎士の剣は淡い輝きを放っており、それを見たキルシュが思わず叫ぶ。

「はっ! 何をそこまで恐れる? 世界の選択は私ではなく、貴様らによって成されるというのに」

「黙れ! 終世の篝火、邪神の走狗が! かつてのノチェロの惨禍、あの悲劇は二度と起こさせん! それこそがアルブスの牙たる我らの使命!」

「……愚かな」

 ヴェルヴェーヌが叫ぶや、銀鎖が騎士の剣を巻き取ると根本から圧し折り、その分銅は別の騎士の肩を貫いた。同時にヴェルヴェーヌは右手を地面につくと大きく叫ぶ。

「キルシュ、飛べ!」

「っ!」

 その言葉にキルシュが大きく飛び退くと、ヴェルヴェーヌを中心に巨大な魔法陣が地面に出現する。魔法陣の上を光が凄まじい速度で迸り、複雑な文字を刻んでいく。文字が淡く輝いたかと思うと、突然魔法陣の中にいた騎士達の動きが一瞬にして止まる。

「かっ……体が動か……ん」

「貴様らの魂を縛った。しばらくは動けまいよ」

 ヴェルヴェーヌはそう言うや、魔法陣の外側にいる騎士達に視線を移す。その光景にキルシュが思わず小さく漏らす。

「すごい……」

 キルシュが小さく呟いた瞬間、ぱきりと何かが割れる音が響き、突如ヴェルヴェーヌの展開した魔法陣が消え去った。

「なにっ! 解呪持ちだと!?」

 ヴェルヴェーヌが思わず叫び、動けるようになった騎士達が一斉にヴェルヴェーヌに斬りかかる。ヴェルヴェーヌの喉に向かって繰り出された騎士の突きを銀鎖が絡め取り、足に向かって薙がれる斬撃を分銅が砕く。

 しかし騎士達の猛攻は止まらない。ヴェルヴェーヌは踊るように騎士達の攻撃をかわし続けるも、次第にその純白の肌に赤い線が刻まれる。

「ええい! 小賢しい! まとめて薙ぎ払ってくれる!」

 ヴェルヴェーヌは大きく後ろに飛び退くと、その右手に力を貯める。その瞬間、離れた場所で自分を見つめているキルシュと目が合った。

「くっ……これではキルシュも巻き込んでしまうか……」

 ヴェルヴェーヌは苦しそうに眉を潜めると、右手を横に振る。ヴェルヴェーヌの腕が黒く輝いたかと思うと、その眼前の空間に黒い線が刻まれる。次の瞬間、黒い線に沿って虚空が開き、その中から漆黒の槍が騎士達に向かって降り注ぐ。

「甘い!」

 騎士の一人が空に向かって手をかざすと、騎士達を守るように巨大な光の障壁が生まれ、飛来する闇の槍を全て弾き落とす。その光景にヴェルヴェーヌが小さく舌打ちをすると、再び力を練り始める。その刹那、ヴェルヴェーヌの頭上に雷雲が生まれ、おびただしい数の雷がヴェルヴェーヌに向かって降り注いだ。

「かっ……はっ……」

 雷はヴェルヴェーヌを真っ直ぐに打ち抜き、不意を突かれたヴェルヴェーヌが乾いた声を吐きながら地面に跪く。

「あれを受けて生きてるだと?」

 騎士達はヴェルヴェーヌが存命であることに思わず瞳を見開いて叫ぶ。しかし騎士達はヴェルヴェーヌの隙を見逃さなかった。一人の騎士が跪いたヴェルヴェーヌに向かって腰にさした短剣を投擲し、短剣はヴェルヴェーヌに届かずに目の前の地面に突き刺さる。

 その瞬間、短剣を中心に大地に巨大な氷筍が生まれ、周囲の全てを無造作に貫いていく。

「ヴェル!」

 キルシュは目の前のあまりにも壮絶な攻防に思わず言葉を失っていた。すると突然後ろから聞き慣れた声が響く。

「これが聖堂騎士三翼が一つ……紅翼か……」

「ナストロ様! どうしてここに! 姫は?」

 思わず叫ぶキルシュを前にナストロは小さく首を縦にふる。

「姫はもう街から出てツェニートに向かっております。教会が我らに牙を向かない以上、姫は安心かと。それよりもキルシュ殿……私は貴女が……」

 ナストロが呟いた瞬間、巨大な漆黒の光柱が天に向かって立ち上る。光に触れた氷塊は一瞬の内に音もなく砕け散り、その中心には肩で息をしたヴェルヴェーヌが佇んでいた。黒い光はヴェルヴェーヌを中心に同心円を描くように次々と現れ、触れた全てを瞬時に消し去っていく。

 光は騎士達に迫り、その足元が眩いばかりの輝きを放つが騎士達は瞬時のその場を飛び退いて難を逃れる。

「ぐっ……」

 数人の騎士が退避に間に合わず、腕を光に飲まれて消失した。しかし騎士達はその光景に怯むこと無く叫ぶ。

「怯むな! 奴は手負いだ! 人々の明日のために、世界の安寧の為に、なんとしてもここで悪魔を討て!」

 叫び声と共にヴェルヴェーヌの周囲に巨大な火柱が立ち上る。火柱は空気を巻き込みながらその規模を増し、いつしか凄まじい風の奔流を生み出す。荒れ狂う風は真空の刃を生み出し、その周囲の全てを切り刻みながら天へと上っていく。空に暗雲が立ち込め、天を衝くような風炎の柱めがけて雷が降り注ぐ。

「きゃあ!」

「くっ!」

 凄まじい轟音とともに周囲に衝撃波が走り、キルシュが吹き飛ばされる。それを慌ててナストロが受け止め、二人は眼前の光景をただ眺めていた。

 それはもはや人の戦いではなかった。天を衝くような巨大な紅蓮の竜巻が周囲の全てを切り刻み、燃やし尽くす。いつしか竜巻は雷を帯び、雷光がその風炎の中を飛び交っている。

「キルシュ殿!」

 離れた場所にいるキルシュ達に向かって熱波が放たれ、咄嗟にナストロがキルシュを庇うように抱きしめる。

「ナストロ様!」

 思わずキルシュが叫ぶが轟音は止まらない。爆散した地面が砂埃を舞い上げ、視界が失われても尚、騎士達の激しい攻撃は終わらない。まるで何かから逃げるように、人の明日への希望と絶望、恐怖と焦り、あらゆる感情を乗せて、騎士達は一心不乱にその力をヴェルヴェーヌに向けて解き放った。周囲は巨大な光に飲み込まれた。

 キルシュとナストロはまるで夢でも見ているかのような心持ちで呆然と目の前の光景を眺めていた。

 ふいに騎士達の動きが止まり、周囲に不気味な程の静寂が訪れる。大地は焼け焦げ、雷の残り香が周囲に帯電して乾いた音を立てている。かつてヴェルヴェーヌが立っていた場所は砂塵に覆われ、騎士達は固唾を飲んで眼前の光景を見つめていた。

 突如、強い風が吹き抜け、舞い上がった砂塵を流し去る。顕になった目の前の光景にキルシュが思わず口元に手を当てて叫ぶのを咄嗟に抑え、その隣にいたナストロも思わず顔をしかめる。

 そこには胸を鮮血に染めたヴェルヴェーヌが右手を掲げたまま佇んでいた。その体からは煙が立ち上り、左手は千切れかけ、その足には氷の槍が何本も突き刺さっていた。

「かはっ!」

 ヴェルヴェーヌが思わず血を吐き、大きく揺らめく。

「ヴェル!」

 その光景に慌ててキルシュが飛び出そうとするが、その手をナストロが摑んで首を横に振る。

「駄目です! 今キルシュ殿が出て行っても収まるものではない!」

「だけど! だけど、ヴェルが……ヴェルが! 今行きますわ!」

 暴れるキルシュをナストロが何とか抱きかかえ、キルシュはヴェルヴェーヌに向かって悲痛な叫び声を上げる。その声が届いたのか、ヴェルヴェーヌは苦しそうにキルシュを見つめると、キルシュにだけ聞こえる声ではっきりと告げた。<逃げろ――>と。


**


 その瞬間、ヴェルヴェーヌの纏う気配が一変した。その身は氷に貫かれ、風に切り刻まれ、炎で燃やされ、そして雷に焼かれた。片手は千切れかけ、片足は串刺しになりもはや歩くことすらままならない状態である。

 それでも騎士達はヴェルヴェーヌから感じる得体のしれない気配に思わず後ずさる。そんな騎士達を前に、ヴェルヴェーヌがゆっくりと口を開いた。

『……それ程まで天秤を進ませることを望みますか、人の子よ』

「ヴェル?」

 ヴェルヴェーヌの声はそれまで聞いたことのない調子で、思わずキルシュが首を傾げる。

『ならば天秤はここに傾き、我が祝福を、始原の混沌たる闇をあまねく届けましょう』

 その瞬間、おぞましい程の殺気と冷たい気配が周囲に迸る。それは寝入り端の心地よい安息、それは死んでいく者達の安らぎ。その瞬間、その場にいた誰もが「死」を感じた。


「なっ……!」

 その様子に騎士達が思わず体を小さく震わせて叫んだ。ヴェルヴェーヌの体からゆっくりと黒い霧が溢れ始める。ただ、黒い霧がそこにある。たったそれだけの事実に教会の最強を誇る三翼が一つ、紅翼の騎士達は恐怖した。

 それは人知を越えた抗いがたい理不尽な脅威を前に、誰しもが覚える恐怖。騎士達の目の前で、恐怖がゆっくりと胎動を繰り返す。その光景に騎士達が叫んだ。

「いかん! 奴め、アーテルを喚ぶというのか!」

 その言葉に我に返った騎士達が一斉にヴェルヴェーヌに向かって駆け出した。あるものは氷の槍を、あるものは雷の矢をその手に、騎士達はヴェルヴェーヌを目指して疾走する。

 騎士の氷の槍がヴェルヴェーヌを覆う黒い霧を貫き、炎の斧が霧を薙ぐ。しかしそこには何もなく、ただ黒い霧が広がるばかりであった。

「どこだ! 奴はどこに消えた!」

 騎士達が叫ぶがそこにヴェルヴェーヌの姿はない。その光景にキルシュが思わず目を見開き、小さく呟いた。

「どういうこと……それに逃げろって……? ヴェル……貴女は一体?」

「うぎゃあああ!」

 その瞬間、凄まじい絶叫が周囲に木霊した。騎士の一人が左手を抑えてのたうち回っている。騎士の左手は肩の部分から何かで押し潰されたかのようにひしゃげ、原型を留めていない。その光景に騎士達が緊張気味に剣を構えるが、依然としてヴェルヴェーヌの姿は見つからない。

「ぐぎゃっ」

 今度は短い悲鳴が響き、騎士の一人が全身を押し潰されて死んでいた。しかし周囲に人の気配もなければ力の脈動もない。そこにいた騎士がいきなり潰されて死んだ。その事実に気がついた騎士達は額に汗を浮かべながら小さく震えだす。

「どっ、どういうことだ! これがあの悪魔の力だというのか!」

「落ち着け! まずは結界を張れ!」

 その言葉に冷静さを取り戻したのか、騎士達の一人が手を振ると周囲に光の壁が出現する。その瞬間、結界を張った騎士が小刻みに震え出し、次の瞬間、全身から黒い煙を吐きながらみるみるうちに干からびていった。

 その光景にナストロが青ざめながら小さく呟いた。

「ど……どういうことでしょうか? 一体何が起きて……?」

「まさか……ヴェルの言っていたのは……」

 目の前の光景にヴェルヴェーヌの言葉を思い出したキルシュが呆然と呟いた。

「馬鹿な! 奴は! 奴はどこにいる!」

 騎士がうろたえながら叫ぶが、周囲には黒い霧が漂うばかりで人の姿は見当たらない。すると叫んでいた騎士が突然動きを止めた。その様子に他の騎士達が緊張気味に振り返る。次の瞬間、突然騎士の体が左右に引き裂かれた。

 血の雨を降らしながら二つに別れた騎士の骸が地面に崩れ落ちる。返り血を受けた騎士達は何が起きたのか理解できなかったのか一瞬呆けた後、大きく震えだす。

 その瞬間、騎士達はついに恐怖に包まれた。

『……なんと可愛らしい、そして愛しい我が子よ。天秤は傾いた。その選択、確かに受け取りました』

 どこからか声が響き、突然騎士達の死体から黒い煙が立ち上る。煙は空中の一点で渦を巻くように集まり、ゆっくりとその密度を増していく。やがてそれは黒い球形に収束し、眩いばかりの光を放つ。光は周囲全てを覆い尽くすほと煌々と輝き、その光景にキルシュ達は思わず瞳を閉じる。

「……なっ、なんですの?」

 光が消えた後、キルシュがゆっくりと瞳を開き、目の前の光景に思わず叫んだ。

「ヴェル! 無事でしたの! ……って、その髪にその瞳は……?」

 そこには漆黒の衣に身を包んだヴェルヴェーヌが騎士達を見下すように浮かんでいた。美しかった灰色の髪は黒く染まり、その瞳は赤く輝いている。その体には先ほど見られた傷はなく、服の合間から透き通るような純白の肌が見え隠れする。

 ヴェルヴェーヌは騎士達を見つめながら優しく微笑んだ。

『では、滅びを始めましょう。そして世界は再び蘇る』

 ヴェルヴェーヌがゆっくりと片手をあげると、突然空を暗雲が包み込む。暗雲は陽光を隠し、ゆっくりと世界が闇に包まれ始めた。その光景に騎士達とキルシュ達は言いようのない恐怖と不安に包まれ、これから何が起きるのかを直感的に理解した。

「まさか……あれが……悪魔? いや、創世の女神、混沌と破壊の女神アーテル……?」

 キルシュが小さく呟き、ナストロが驚いた表情で叫ぶ。

「馬鹿な! あんな小さな少女が破壊の女神とおっしゃるのか!」

「あの力……それにヴェルの変化。以前にヴェルが言っていた事が真実なら……今の彼女は……」

 キルシュの言葉に我に返ったのか、騎士達が鬼気迫る表情でヴェルヴェーヌに剣を向けて叫ぶ。

「させぬ! あの惨禍を――ノチェロの惨禍を二度と起こさせはせぬ! 人は、世界は貴様を望みはしない!」

 騎士達はそれぞれ武器を手に、ヴェルヴェーヌに向かって大きく叫ぶと、雄叫びを上げながら駆け出した。


 時は少し遡る。

「っ! なんだ!?」

 ジオグランとトレスは突然周囲を駆け抜けた冷たい気配に思わずお互いの剣を止めた。凄まじい負の気配に当てられたジオグランは小さく額に汗をかき、緊張気味に大きく息を吐く。そんなジオグランを前にトレスが何かを確信したように瞳を細めると歯を食いしばる。

「まさかヴェルが……。愚かな……ヴェルは天秤に過ぎない。彼女の人としての命を削りとったならば、その後に待ち受けるのは創世の女神の意志だ!」

 トレスはヴェルヴェーヌのいる方向を見つめて苦しそうに呟くとジオグランが叫びながら斬りかかる。

「おいおい、よそ見をしている暇があるのかよ。かのトレス・クァレンタがこの程度とは笑わせてくれるぜ!」

「待て! ジオグラン! 君はこの気配を感じないのか!? あれを――彼女を止めなければ大変なことになるぞ!」

「うるせえ! 今は俺とあんただけの戦いだ! そうだろう? トレス! 今更右手の悪魔が心配だから逃げますなんて許さねえ!」

 ジオグランはそう言うや神速の踏み込みで剣を打ち上げる。ジオグランの剣は虚空に赤い光を刻みながら真っ直ぐにトレスに迫り、爆炎が続く。その瞬間、トレスの瞳が淡い輝きを宿す。

「悪いが……ヴェルが、いや、『彼女』が顕現してしまった以上、君とこれ以上戦っている暇はない!」

 トレスが叫ぶや、風の障壁がジオグランの一撃を防ぐ。

「ぐっ!」

 その瞬間、ジオグラングランの瞳が大きく見開かれ、まるで信じられないものを見るような目つきでトレスを眺める。

 いつの間にかトレスの剣は雷を纏っており、ジオグランの体を焼いたのである。トレスはジオグランから飛び退くと剣を小さく横に振る。たったそれだけの動作でジオグランの足元から巨大な氷柱が生み出され、瞬く間にジオグランを取り込んでいく。

「ばっ……馬鹿な。アルブスの加護は魂ごとに一つと決まっているはずだ! 何故……何故あんたが風以外の力を使える! 複数の加護を持つ人間などいる訳がない!」

 その言葉にトレスが小さく首を横に振ると剣を収め、ヴェルヴェーヌのいる方向を見つめて大きく叫ぶ。

「詳しい話は後だ。それに問答している時間も惜しい!」

「まっ、待て! トレス! 逃げる気か!」

 トレスはそう叫ぶとヴェルヴェーヌの下に向かって駆け出し、その光景を前にジオグランが叫ぶ。

「この程度の氷で!」

 叫び声と共にジオグランの体が赤く輝き、その体を拘束していた氷柱が一瞬にして蒸発する。

「どういうことだ……あんたが複数の加護の力を使えるなんて聞いたことねえぞ……。親父……あんた一体……なんなんだ?」

 ジオグランはトレスの背中を追ってヴェルヴェーヌのいる広場へと駆け出した。


***


「遅かったか……まさかヴェルの人としての殻を削るとは、聖堂騎士の……いや、紅翼の力を侮っていた」

「……何だ、この有り様は? 何が起きた? 一体どうなってやがる?」

 空に浮かぶヴェルヴェーヌを前にトレスが呟き、騎士達の死体を見つめてジオグランが緊張気味にヴェルヴェーヌを睨む。

「トレス! ヴェルが! ヴェルが!!」

「ジオグラン様! 闇の女神が!」

 それぞれが駆けつけた二人を見て口々に叫び、トレスが周囲に聞こえるように大声で叫ぶ。

「天秤が傾きアーテルの魂が喚ばれた! だが、これは世界の意思によってなされた選択ではない。ならばまだ遅くはない!」

 トレスは力強く叫ぶと、左手を大きく空に向かって掲げる。その瞬間、トレスの腕が眩いばかりの輝きを宿し、光はゆっくりとトレスの体を包み込む。その光景に何かに気がついたのかキルシュが小さく叫ぶ。

「ト……トレス? 貴方……その左腕は」

 トレスの左手には銀色の鎖が巻き付いており、それを見た騎士達が驚嘆の声をあげる。

「あれは! 何故トレス・クァレンタの左手に右手の悪魔と同じ銀鎖が? あれは悪魔の象徴ではなかったのか!?」

「すまないが少しだけ、おとなしくしていてくれ! ヴェル!」

 トレスが叫んだ瞬間、空を覆い尽くすほど巨大な魔法陣が現れ、眩いばかりの光の洪水が大地に向かって放たれる。光はヴェルヴェーヌの体を一瞬にして覆い尽くし、次の瞬間、ヴェルヴェーヌの姿が忽然と消えた。

 その光景に誰もが言葉を失いただ呆然とトレスを眺めていた。ジオグランも思わず言葉を失ってその光景を見つめていたが、トレスは周囲に集まった騎士達とキルシュ達を見つめてゆっくりと口を開いた。

「……みんな、今から僕が言うことを聞くんだ」


「ノチェロの災禍がここに再び引こ起こされようとしている。君達も見ただろう、闇の女神の胎動を。今ヴェルヴェーヌの中でアーテルが目覚めた。いや、目覚めさせてしまったと言うべきか」

「何を馬鹿な……」

 一瞬にしてトレスの纏う気配が一変し、その様子にジオグランが困惑気味に呟く。

「ジオグラン様! あれを!」

 騎士の一人が空を見上げて叫び、その光景にジオグランが大きく瞳を見開いた。トレス達の上空では、光の波に飲まれて消え去った黒い霧が再びゆっくりと集い始めていた。その瞬間、周囲におぞましい程の冷たい気配が充満し、思わずジオグラン達は言葉を失う。そんな騎士達を眺めながらトレスは続ける。

「……世界の選択がなされた事によって天秤が傾いたわけではない。あれはヴェルヴェーヌという人としての殻が破られ、その裡にいるアーテルの魂が表に出てきただけにすぎない」

「馬鹿な! あの悪魔の右手の中に闇の女神アーテルそのものがいるとでもいうのか!」

 叫ぶ騎士を前にトレスは小さく首を縦にふる。

「……その通り。十全ではないものの、アーテルの意思がそこにはある。彼女は――ヴェルヴェーヌは世界を選び取る天秤。世界が希望を、安寧を願ったのであれば彼女の中のアルブスが世界にその光を届け、世界が混沌を望むならアーテルが目覚め、世界を無に返す」

「ちょっ、ちょっと待って下さい、トレス。『天秤』が世界の意思を聞く役割というのは前に聞きましたが、まるで貴方の言い方だとヴェル自身が……」

 言いよどむキルシュを前に、トレスが小さくうなずく。

「……ああ、ヴェルの魂は創世の女神そのものだ」

「創世の女神だと! 馬鹿な! それは女神アルブスだ!」

 騎士が叫ぶがトレスは首を横にふる。

「それは違うんだ。創世の女神は表裏一体、再生と秩序の裏には破壊と混乱がある。ヴェルはアルブスにしてアーテルでもある」

「……俄には信じらんねえが、とりあえず一つ聞きたい。仮に右手の悪魔が世界を選ぶ天秤で、その正体が女神そのものだとして、だとしたらなんであいつは闇の女神アーテルの魂しかねえんだ? 人間の殻が破れて中の魂が出てくるなら別にアルブスだっていいじゃねえか? まぁ、さっきと同じ問答だがな」

 ジオグランの言葉に騎士達が頷き、キルシュも心配そうにトレスを見つめている。その様子にトレスは一瞬悲しい表情を浮かべるとゆっくりと口を開く。

「女神アルブスの魂は……ここだ」

 トレスの言葉にいつの間にか消えていた銀鎖がその左手に出現する。

「……さっきは聞けませんでしたが……何故トレスまでもがそれを?」

 キルシュの言葉に騎士達も緊張気味にトレスの言葉を待ち、トレスは一瞬ジオグラングランに視線を送る。

「ジオ……そして騎士達よ。何故、我ら人はアルブスの加護を使えるのだと思う?」

「それは女神アルブスは世界を作り、その世界と一つになった。言わば俺達の魂はアルブスの破片って訳だ。だからその魂を濃く持つものは加護を得ることができる。あんたが教えてくれたことだ」

 ジオグランが答えるとトレスは小さく首を縦にふる。

「じゃあこれをどう思う?」

 トレスはおもむろに手を空に向かって掲げると、次の瞬間、凄まじい豪雷が周囲に降り注いだ。その威力や凄まじく、雷が当たった地面が大きく爆ぜる。そして次の瞬間、その地面から巨大な火柱が立ち上り、周囲を赤く染める。

「なっ!」

 その光景に騎士達が思わず言葉を失い、キルシュとナストロも驚愕に瞳を大きく見開いた。トレスが手を小さく振るや、火柱は一瞬にして氷柱に姿を変え、突然吹いた突風がそれを粉々に切り刻む。

 その光景にジオグランも思わず言葉を失い、トレスは周囲に向かってゆっくりと口を開く。

「さっきの質問に答えようか。僕はね……ジオ。既に死んでいるんだ」

「はっ? 何を馬鹿な事を言ってんだ? あんたは生きていて、こうしてここにいるだろ?」

「そっ、そうですわ。申し訳ありませんが、トレスの仰りたいことが分かりませんわ」

 キルシュも混乱気味に首を傾げる。一方のトレスはそんなキルシュ達をよそにゆっくりと語りだす。

「ヴェルヴェーヌは創世の女神の化身。そして世界を選びとる天秤でもある。彼女は世界を見て回り、そこに生きる命の意思を汲み取り、天秤を動かす。そして彼女の中にいる創世の女神の意思が呼び覚まされる。世界はその理の環の中で破壊と再生を繰り返しながら続いてきた」

 ジオグラン達は黙ってトレスの言葉に耳を傾けている。トレスは続ける。

「君達は知っているはずだ。ノチェロにある惨禍の傷跡を。あの大地が引き裂かれた巨大な爪痕を」

 トレスの言葉に騎士達が小さく頷き、ジオグランも首を縦にふる。

「……ノチェロの惨禍は実際に起こった。つまりその時、世界は破壊と混乱を――アーテルを選んだんだ。そしてあの傷跡の中心にはヴェルヴェーヌがいた。……この意味はもはや語る必要はないだろう」

 トレスの言葉にキルシュが思わず息を飲み、ナストロも驚いた様子でトレスの言葉に聞き入っていた。

「……そして、彼女の隣には僕がいた」

 その言葉に思わずキルシュが叫ぶ。

「冗談を言わないで! 仮にノチェロの惨禍が実際にあったとして、それは遥か昔、それこそ神話の世界の出来事ですわ! それにノチェロの惨禍で地上の命は死に絶える。そう言ったのはトレスですわよ!」

「……君の言うとおりだ、キルシュ。大破壊に巻き込まれて、アーテルに命を喰われない生き物はいない。何故なら世界はそういう風に作られているからね。だからこそ、ヴェルは自身の半身である女神アルブスの魂を僕の体に入れたんだ。全ては大破壊から僕を生かすために。さっき見せた力はその証さ。僕の中のトレス・クァレンタという魂はとうの昔にアルブスの下に還ったんだ」

「そんな馬鹿な……」

 キルシュがトレスの言葉に蒼白な表情でつぶやき、話を聞いていたジオグランが何かに気がついたかのように語りかける。

「待てよ……じゃあまさか、代々聖堂騎士団長がトレス・クァレンタを名乗っていたのは……。そしてそのトレス・クァレンタはいつも仮面を被っていたのは……」

「その通りだ、ジオ。代々教会の聖堂騎士を束ねていたのは他でもない、この僕――『トレス・クァレンタ』だ。君は養子だったから僕の顔を知っているけれど、僕の素顔を知るのは他には歴代の教皇しかいない」

 その言葉に騎士達の間に動揺が湧き起こり、ジオグランも到底信じられないといった表情でトレスを見つめている。そんなジオグラン前に、トレスがゆっくりと瞳を細める。

「だから、ジオ。君は本当の意味で、初めてトレス・クァレンタの後を継いだ男になるんだ」

「親父……」

 ジオグランが小さく呟き、トレスは無言で頷いた。

「でも……それだとおかしくありませんか? 代々教皇様はトレスの秘密を知っている。ならばヴェルの秘密を知っているも同義。なのに何故教会をあげてヴェルを討つような真似を?」

「我々もストレガ様から世界を救うべく右手の悪魔を討つようにと言われております。仮にトレス殿の言葉が真実であれば何故ストレガ様は嘘を……?」

 キルシュの言葉に騎士達が頷く。するとトレスが苦しそうに顔を歪めて絞りだすように呟いた。

「……彼は……教皇ストレガは信じられなかったんだ。そして見てしまった。人が選び取る最悪の可能性を……」

「……ストレガ様の加護は予見。最悪の可能性って……まさか!」

 トレスの言葉にジオグランが思わず聞き返し、トレスは悲しそうな表情で首を縦にふる。

「ああ……彼は見たそうだ。世界が再び混沌の闇に飲まれる様を……アーテルに喰われる様を。世界の選択は彼では、いや、教会では変えることは出来ない。それにノチェロの惨禍の真実を各国に伝えた所で誰も信じないと考えたのだろう。表向きは教会に従っているように見えても、語られることのない周辺諸国の底意が彼には見えていたみたいだからね」

「それで……教皇様はヴェルを……」

「ああ……。彼は……教皇ストレガはそれに全てを賭けようとした。天秤の存在そのものさえなくなってしまえば世界は安寧を、平穏を奪われずに済むと。だけどそれは結果として世界の破滅を早めてしまうと何度も彼に伝えた。だけど最後まで彼は僕の言葉を信じようとはしなかった。挙句ヴェルの住んでいた村を襲い、ヴェルを屠ろうとした。だから僕が教会を抜けてヴェルを守ることにしたんだ」

「……馬鹿な。それでは我々は今まで何のために……」

 その言葉に騎士達が愕然としながら膝を付き、ジオグランも苦しそうに顔をしかめている。

「無理もない……あの災禍をその目で見てしまったんだ。彼は今、恐怖に捕らわれている。全てはそんな彼を納得させられなかった僕の責任だ」

「でっ、でも。教皇様の予見が正しいなら私達は座して滅びを待つだけということになりますわね……」

 キルシュは目の前に集まりつつある黒い霧を見つめながら呟き、その言葉に周囲に緊張が走る。その光景にそれぞれの瞳に恐怖の色がはっきりと浮かぶ。しかしトレスは小さく首を横に振る。

「僕とヴェルは世界が滅ぶなんて思ってはいない。彼の予見は人が辿り着く一つの可能性に過ぎない。そうならないために、人々に笑顔を、明日への希望を持ってもらわないといけない。幸いここにはアクアビットの未来を担う騎士と、三翼が一つ、紅翼の諸君が、そしてジオがいる。ストレガが……彼ができなかったことを、君たちが、僕達が、皆がやるしかない」

 トレスの言葉にジオグランが突然深く頭を下げる。

「……俺は、トレス……親父に拾われてから必死であんたの背中ばかり追い続けてきた。でも俺は結局親父のことは何も見てなかったってことが分かった……。初めは親父が教会を裏切ったって聞いて許せなかった……」

「ジオ……」

 ジオグランは俯きながらとつとつと語る。

「だけど……結局親父は一人で世界を守るために戦ってたんだな……。あんたは……やっぱり俺の自慢の親父だ。だから……」

 ジオグランが何かを言おうと顔をあげるが、トレスが指を立てて小さく首を横に振る。そしておもむろに空に集まりつつある黒い霧を見つめて大きく叫ぶ。

「……僕はヴェルヴェーヌの半身として、この世界をずっと見続けてきた。世界がアルブスとアーテル、果たしてどちらを選びとるか。確かに選択の時は近い。だけどまだ早いんだ! だから、ヴェル!」

 トレスが叫ぶと共に左手を大きく天に向かって掲げる。その瞬間、トレスを中心に光の柱が立ち上り、柱は次第にその大きさを広げながら周囲を包み込む。その瞬間、まるでトレスの動きに呼応するかのようにトレス達の目の前に黒い霧が立ち込め、ゆっくりとヴェルヴェーヌの姿が顕になる。

「ここで世界を決めてはいけない! 僕らはまだ世界の声を聴いていない!」

 トレスがジオグランと騎士達を一瞥すると大きく叫ぶ。

「この結界の中であれば、アーテルの持つ『喰魂』の類の力は防げる! ヴェルを戻すために、世界を破壊から救うために力を貸してくれ!」

 その言葉に騎士達がゆっくりとうなずき、それぞれが武器を構えてトレスの後ろに整列する。一方のジオグランは剣を構えてトレスの傍らに立つと、響く声ではっきりと告げた。

「トレス……トレス・クァレンタ。聖堂騎士の長にして我が師、そして我が誇り高き父よ。このジオグラン及びノチェロ聖堂騎士三翼が一つ、紅翼、我らは貴方の剣となる」

 整列する騎士達を横目に、トレスは剣をヴェルヴェーヌに向けて大きく叫ぶ。

「行くぞ! ヴェル! 君に……人々の生きようとする意思を、明日への渇望を、魂の輝きを、アルブスの光を見せてやる! だから……だから目を覚ませ!」

「おおお!!」

 その言葉に騎士達が叫び、一斉にヴェルヴェーヌに向かって駆け出していく。ヴェルヴェーヌに向かって疾走するトレスの左手が淡く輝いたかと思うと、次の瞬間、騎士達の剣が金色の光に包まれていく。

「アーテルの魂を少し、ほんの少しでいいから削ってくれ。そうすれば僕の――アルブスの力が届く!」

 トレスは叫びながらヴェルヴェーヌに向かって突きを繰り出す。

「すまない、ヴェル! だが今はこれしか方法がない!」

 トレスの剣は真っ直ぐにヴェルヴェーヌに向かって吸い込まれ、その切っ先がヴェルヴェーヌの肩に触れた瞬間、トレスの体が轟音と共に大きく後ろに吹き飛ばされる。

「なんだと?」

 その後ろに続いていたジオグランがその光景に思わず声を漏らす。ヴェルヴェーヌの足元には巨大な影が広がり、影がまるで意思を持つかのように形をもってトレス達の前に立ちはだかっていた。それを見たジオグランが気合と共に影を薙ぎ払う。

「ちっ! 影を操るというのか! さすが女神様、何でもありだな!」

 ジオグランの剣で一閃された影は崩れるようにゆっくりと地面に戻っていく。その光景にジオグランが叫ぶ。

「行くぞ! 騎士達よ! 世界はここで終わらせるな!」

 騎士が放つ雷の矢がヴェルヴェーヌに迫る。それと同時に氷の槍が、真空の刃が、紅蓮の炎が、一斉にヴェルヴェーヌに襲いかかる。その光景を前にヴェルヴェーヌは小さく手を横に振った。たったそれだけの動作でヴェルヴェーヌに迫っていた加護の力が消え失せる。

「……やはり。アーテルは魂を還す力を持つ。半端なアルブスの加護の力では届かないか。ならば……」

 その瞬間、体制を立て直したトレスが全身に雷を纏い、神速でヴェルヴェーヌに迫る。トレスは光の尾を虚空に刻みながら、一条の光となった。

「おおおおお!」

 凄まじい衝撃と轟音が周囲に響き渡り、ジオグラン達は爆風によってその場から大きく吹き飛ばされた。眩いばかりの閃光が周囲を包み込み、思わずジオグランは瞳を細めて叫ぶ!

「どうだ!?」

 光が収まり、ジオグラン達の瞳に映ったのは、剣を鎖に絡め取られ、手刀で肩を貫かれたトレスの姿であった。

「ぐっ……」

『何故抗うのですか? 世界は滅びを選んだのです。選択は既になされました』

 抑揚のないヴェルヴェーヌの声が鳴り響く。その声にトレスが叫ぶ。

「違う! 世界はまだ何も選んではいない! 君はヴェルの魂の隙間から漏れ出た木漏れ日だ。あるべき場所に戻れ! アーテルよ!」

 その言葉にヴェルヴェーヌが表情一つ変えずに、トレスの肩を貫いている手刀を小さく横に動かす。その瞬間ヴェルヴェーヌの手刀はトレスの右腕を――音もなく切り落とした。

「ぐっ!」

「トレス!」

 キルシュが思わず叫び、トレスはその場に膝を付く。そして次の瞬間、その場にいた全員が眼前の光景に思わず言葉を失った。

「トレス……貴方……その体……」

 トレスの肩からは血が流れることはなく、代わりに眩いばかりの光が傷口から漏れ出ていた。光は切り落とされた腕につながり、腕はゆっくりとトレスの肩に戻っていく。その光景にジオグランも思わず声を漏らす……。

「親父……あんた……」

 トレスは咄嗟にヴェルヴェーヌから離れ、剣を構え直すと小さく首を縦にふる。

「……言っただろう? 僕は既に生きていない。今の僕の体はアルブスの魂で繋ぎとめられている破片に過ぎない。いわば世界に散らばる女神の加護そのものだ」

「そんな……!」

 キルシュの言葉に思わずキルシュが叫び、騎士達も驚愕の表情でトレスを見つめている。トレスは真っ直ぐにヴェルヴェーヌを睨んで叫ぶ。

「ついて来れるか! ジオグラン!」

「愚問だぜ!」

 トレスの言葉にジオグランが小さくうなずくと、二人は疾風のごとくヴェルヴェーヌに向かって駈け出した。トレスの剣がヴェルヴェーヌの纏う闇を切り裂き、ジオグラングランの剣がヴェルヴェーヌに迫る。

「ちぃ! あの鎖が厄介だな!」

 ジオグランの斬撃はヴェルヴェーヌの鎖と時折地面から出現する影によって阻まれ、一進一退を繰り返していた。

 その光景を黙って見続けていたキルシュがおもむろに地面に落ちていた剣を拾うとナストロに語りかける。

「……友達が困っているんですもの。私も行かねばなりませんわね」

「……そうですね。もはや国の為、教会の為、という話でもなさそうですし」

 ナストロはキルシュに向かって微笑み、二人はゆっくりと歩み出す。その瞬間、地面に巨大な魔法陣が出現した。

「まずい! 跳ぶんだ!」

 その光景にトレスが叫び、キルシュとナストロもその場から大きく飛び退いた。次の瞬間、魔法陣の中から凄まじい勢いで黒い槍が飛来する。

 騎士達は咄嗟に剣でそれを凌ぐが、それでも漆黒の槍は数人の騎士を貫いていく。槍に貫かれた騎士達の体が一瞬小さく震えたかと思うと、次の瞬間、全身から煙を上げながら干からびていく。その光景にトレスが叫ぶ。

「光の結界から出るな! アーテルの本質は魂を『還す』ことだ! アルブスの結界から出れば君達の魂はたちまち喰われるぞ!」

 騎士達は戦いの余波で吹き飛ばされ、いつの間にかトレスの張った結界の外に出てており、難を逃れた残った騎士達は慌てて結界の中に移動する。その光景にキルシュとナストロは小さく頷くと、ヴェルヴェーヌに向かって真っ直ぐに駆け出した。

「……私を絶望から救ってくれた。私に世界の色を教えてくれた。私に羽ばたく翼を与えてくれた貴方達の為に! このキルシュロッター・ザフトリング、お力になりますわ!」

「ならば、このナストロ・マラスキーノ。キルシュ殿に助力いたす。世界存亡の危機なれば、それに立ち向かうは騎士の勤め。王も認めて下さるでしょう!」

 二人はそのまま真っ直ぐにヴェルヴェーヌに向かって駆け出した。その瞬間、周囲に凄まじい風が吹き荒れたかと思うと、周囲の家屋が大きく巻き上げられ、空を埋め尽くすほどの巨大な轢が二人に向かって降り注ぐ。

「ここは私が!」

 その光景を前にナストロの手が一瞬輝いたかと思うと、次の瞬間、人が知覚できる速度を遥かに凌駕した神速の斬撃が迫り来る轢を切り刻み砂塵へと変えていく。一瞬にして降り注いだ家屋の破片は塵へと還り、その傍らをキルシュが駆け抜ける。

「行きますわよ! ヴェル!」

 その瞬間、キルシュの腕が小さく輝き、うっすらと複雑な光の紋様が浮かび上がる。紋様は手から肩に、肩から胸と首に、ゆっくりと広がりながらキルシュの全身を包み込む。その瞬間――キルシュの姿が忽然と消えた。

 音を置き去りにしたキルシュの踏み込みは虚空に光の尾を刻み、次の瞬間、ヴェルヴェーヌの胸元にキルシュの拳が深々と突き刺さる。凄まじい衝撃が空気を揺らし、キルシュとヴェルヴェーヌの足元が爆砕した。

 キルシュの一撃を受けたヴェルヴェーヌは凄まじい勢いで吹き飛ばされ、その動線上にある家屋を貫いてまだ止まらない。吹き飛ばされたヴェルヴェーヌは通りの先にある教会の中へと消えていく。 

「キルシュ!」

 突然のキルシュの参戦に思わずトレスが叫び、その尋常ならざる力にジオグランが思わず目を見開いた。

「……これがあの『アルブスの祝福』か。噂には聞きいたがまさかこれほどまでとはな。やるじゃねえか、嬢ちゃん」

 その光景に周囲にいた騎士達も感嘆の声を漏らす。

「あれが……かのキルシュロッターの力……。それにあの剣聖も凄まじい」

 その光景にトレスが真剣な表情で語りかける。

「キルシュ……君を巻き込んでしまってすまない。僕らの加護と違ってキルシュの加護はアーテルの『喰魂』に対して相性がいい。少しだけでいい、少しだけ、ヴェルヴェーヌの動きを止めてくれ。そうすれば僕は彼女を止められる」

「……承知しました。トレスもご武運を」

 その言葉にキルシュが答え、騎士達も首を縦にふる。

「では行くぞ! 騎士達よ!」

 トレスが叫び、その言葉に呼応するかのようにその場にいた全ての人々が教会に向かって駆け出した。その瞬間、教会の屋根が吹き飛び、ヴェルヴェーヌがトレス達を見下ろすように浮きあがる。その右手には黒い光が集結し、ヴェルヴェーヌはゆっくりとその右手を振り下ろす。それに呼応するかのように、突然空と地面に巨大な魔法陣が浮かび上がり、魔法陣から巨大な影でできた顎が出現しトレス達に襲いかかる。

「させるか!」

 トレスの左手が小さく輝くと、騎士達の体を翡翠色の光が包む。漆黒の牙が翡翠色の光に触れた瞬間、跡形もなく消え去った。

「今度はこっちから行くぜ!」

 ジオグランが教会の壁を蹴って大きく跳躍すると、ヴェルヴェーヌに向かって剣を切り上げる。刹那、剣が赤く輝き、虚空に一筋の赤い光が刻まれる。光は真っ直ぐにヴェルヴェーヌに迫るが、ヴェルヴェーヌは手をかざしてそれを事も無げに受け止める。その光景にジオグランが小さく笑う。

「俺の”閃熱”はそんなに簡単じゃねえぞ?」

 その瞬間、ヴェルヴェーヌの周囲を赤い光が縦横無尽に駆け巡る。光は徐々に、しかし確実にヴェルヴェーヌの纏う影を削り、ヴェルヴェーヌはそのまま虚空を迸る光の檻に絡め取られた。

「嬢ちゃん、狙えるか?」

 地面に着地したジオグランがキルシュに向かって叫ぶ。

「承知しましたわ!」

「キルシュ殿、これを」

 キルシュが叫び、ナストロが剣に雷を乗せてキルシュに手渡す。剣を受け取ったキルシュは静かに、そして確実に力を剣に乗せる。狙うは空でジオグランの熱閃に絡め取られて動けないヴェルヴェーヌ。

「……ヴェル! 貴方は私に世界の色を教えてくれた! ……だから今度は私が貴方に教えてあげますわ! 世界はまだ美しいって!」

 キルシュは渾身の力を込めて手に持つ剣をヴェルヴェーヌに向かって投擲した。

 暗い夜空に一瞬の閃光が迸り、光はヴェルヴェーヌを貫き、そのまま空を覆う暗雲を切り裂いた。次の瞬間、ヴェルヴェーヌの体を凄まじい雷撃が襲う。

 声にならない悲鳴をあげてゆっくりとヴェルヴェーヌが地上に降りてくる。それを見た騎士達が一斉にヴェルヴェーヌに向かって駆け出した。

「闇の女神よ……この世界は、人は貴様を必要としない。大人しく混沌に還れ!」

 騎士は全身に風を纏い、その斬撃は真空の刃を生み出した。次の瞬間、ヴェルヴェーヌの周囲が凄まじい暴風に包まれ、その中を真空の刃が無作為に切り刻んでいく。風に絡め取られたヴェルヴェーヌには真空の刃は届いていない様子であったが、暴風で視界が閉ざされたのか一瞬ヴェルヴェーヌの動きが止まる。騎士達はその隙を逃さない。

 騎士が剣を振るうと小さな火の粉が暴風に向かって吸い込まれ、次の瞬間、火の粉は凄まじい火流となって風の中を蹂躙する。

「まだだ!」

 今度はその傍らにいた騎士が剣を高く天に向かって掲げ雷雲を呼び出し、轟雷が暴風に絡め取られたヴェルヴェーヌに向かって降り注ぐ。轟音が鳴り響き、大地は大きく抉られ、周囲は凄まじい熱と光に埋め尽くされる。その光景を見ていたトレス突然大声で叫ぶ。

「駄目だ! 退け!」

 その言葉に騎士達が咄嗟に飛び退くと、騎士達の足元に漆黒の槍が生み出されていた。反応が遅れた騎士は槍に串刺しにされ、程なくして絶命する。同時に空から漆黒の槍が降り注ぐ。

「させるか!」

 その光景を前にナストロが絶命した騎士の剣を拾うと、大きく叫ぶ。

 一瞬ナストロが手元が光ったかと思うと、降り注ぐ槍は尽く切り払われた。

「ここは私が!」

 ナストロが叫び、その光景にトレスは小さく頷くと剣を逆手に持って大きく叫ぶ。

「キルシュ、ジオグラン!」

「ええ!」

「承知!」

 三人は全身を淡い光に包まれながら、ヴェルヴェーヌに向かって疾走する。

「ヴェルヴェーヌ! いつまで寝ているつもりだ! 君の望んだ人の輝かしい明日はすごそこにある。こんな形で世界を無に返すのは君の望みではないだろう!」

 突如三人の目の前の地面が爆ぜ、黒い槍がトレス達に向かって迫る。しかし三人は止まらない。槍がトレス達を串刺しにするその直前、一瞬の閃光と共に槍が全て圧し折られた。

「キルシュ!」

「お先に行かせて頂きますわ!」

 トレスとジオグランの眼前には手刀を構えたキルシュの姿があり、キルシュは二人に短く告げるとその姿が忽然と消えた。次の瞬間、音すらも置き去りにした神速の踏み込みでキルシュがヴェルヴェーヌに迫り掌底を放つ。

「なっ!」

 しかしその一撃はヴェルヴェーヌの銀鎖で事も無げに受け止められた。驚くキルシュをよそにヴェルヴェーヌはおもむろにキルシュに向かって手を伸ばす。キルシュは咄嗟に退こうとするが腕を鎖に絡めとられ動けない。そしてヴェルヴェーヌの手がキルシュの肩に触れた。

「きゃああ!!」

 その瞬間、キルシュの肩から黒い煙が立ち上り、キルシュは苦しそうにその場に崩れ落ちる。ヴェルヴェーヌはうずくまるキルシュの頭に向かって手を伸ばす。

「させはしない!」

 追いついたトレスが背後からヴェルヴェーヌの腕を切り飛ばし、キルシュを抱えて大きく後ろに飛び退いた。

「助かりました……。しかしあの力は一体……腕が、腕が動きませんわ」

 トレスの腕の中でキルシュが苦しそうに呟き、トレスが顔をしかめて首を横に振る。

「アーテルの本質は魂を喰う事だ。君の右手は存在そのものを喰われた。もはやその手は使い物にならないだろう」

 いつの間にかその傍らに立っていたジオグランが緊張気味に呟く。

「つまり、奴に触れられたら喰われるということか……」

「そうなるね。だけど……」

 トレスはそう言うとキルシュの肩に手を置き意識を集中させる。するとキルシュが驚いた様子で立ち上がり、腕を動かしながら首をかしげる。

「アーテルの本質が『還す』ことならアルブスの本質は『生み出す』ことだ。喰われた魂を今一度生み出した。さあ、行こう」

 トレスの言葉に二人は小さく頷き、ヴェルヴェーヌに向かって駆け出した。一方のヴェルヴェーヌのトレスによって切断された腕はいつの間にか元通りに戻っており、その光景にキルシュが叫ぶ。

「ところで勝算はありますの!?」

「ああ! 今のヴェルはアーテルの魂が漏れだしているに過ぎない。彼女が完全に覚醒したなら今頃僕らは全員生きてはいないだろうからね。それでも……僕らが彼女を殺す気でかかってギリギリ届くかどうかだ」

 その言葉の意味を理解したキルシュが小さく笑みを浮かべると、ゆっくりとヴェルヴェーヌの前に立つ。次の瞬間、その姿は一瞬にして消え去り、いつの間にかキルシュはヴェルヴェーヌの背後に立っていた。キルシュは真っ直ぐにヴェルヴェーヌを見つめながら叫んだ。

「我が全身全霊をかけて……貴方をここで止めて差し上げますわ! 女神様!」

 その言葉と共に、知覚で追い切れない一撃がヴェルヴェーヌに叩き込まれる。しかしヴェルヴェーヌの鎖がキルシュの手刀を防ぎ、分銅がキルシュの顔めがけて飛来する。一方のキルシュは身をひねりながらそれをかわし、ヴェルヴェーヌの肩を蹴りぬいた。

 キルシュは更に半身回転すると、そのまま手刀を逆手に構えながらヴェルヴェーヌの左腕を切り飛ばす。その全てを刹那の内に終わらせたキルシュはヴェルヴェーヌの横を駆け抜ける。

 血しぶきが立ち上り、ヴェルヴェーヌの左腕が空高く舞う。その隙をジオグランは見逃さない。両手で握りしめた剣に渾身の力を込めて大きく振りかぶり、その両足に貯められた力が爆発する。

「おおおおおおお!」

 雄叫びと共にジオグランの足元が爆ぜ、神速の踏み込みでその剣がヴェルヴェーヌに向かって振り下ろされる。ヴェルヴェーヌは無表情でそれを鎖で受けるが、剣の勢いは止まらない。ジオグランの剣はゆっくりとヴェルヴェーヌの鎖を押し返し始める。

「それならこれもお付けいたしましょう!」

 その刹那、いつの間にかナストロがジオグランの背後に構えており、ジオグランの剣に向かって自身の剣を叩き込む。凄まじい衝撃と帯電した雷がジオグランの剣に乗せられ、ついにその剣が振り下ろされる。その一撃は周囲を巻き込みながら凄まじい衝撃を生み、その余波で大地は大きく抉り取られた。

 その瞬間、ヴェルヴェーヌの右腕がゆっくりと中を舞う。それを見たトレスが、両手を切り落とされたヴェルヴェーヌを抱きしめて叫ぶ。

「ヴェル! 今ここにアルブスの、君の魂を返そう!」

 トレスがそう叫んだ瞬間、ヴェルヴェーヌを抱きかかえたトレスの背中をヴェルヴェーヌの髪が貫き、思わずトレスが苦痛に顔をしかめる。

「くっ……」

「トレス!」

 その光景にキルシュが叫ぶがトレスはヴェルヴェーヌを抱きしめながら続ける。

「こんな形で世界を選んでは駄目だ。僕らが夢見た人の明日をまだ僕らは見ていない。……だからヴェル。もう一度……戻ろう。一緒にその選択を見届けるために!」

 その言葉と共にトレスの右腕がはじけ飛ぶ。ヴェルヴェーヌの背中から黒い翼が生えており、それがトレスの抱擁から逃れるべくその腕を切り刻んでいた。切り飛ばされたトレスの腕はそのまま小さな光の粒となって風に乗って消えていく。その光景にジオグランが思わず呟く。

「トレス……。あんた……まさか……」

 その言葉にトレスは小さく頷くとヴェルヴェーヌを抱きしめたままジオグラン達に向かって告げる。

「教皇はノチェロの惨禍の恐怖に絡め取られその本質を見失った。彼は恐怖に囚われてしまった。この僕の言葉を信じられなくなる程に。だからジオグラン……そしてキルシュ……これからは君の、君達の仕事だ」

「お待ちなさい! トレス! 魂を返すって……」

 叫ぶキルシュに向かってトレスは小さく首を横に振る。

「今のヴェルヴェーヌは人という殻が割れ、その裡にあるアーテルの魂が表に出てきている。本来持つべきアルブスの魂が戻れば、その均衡は保たれ、再び人としての魂が再生される。それがアルブスの力」

「でもそうしたら貴方の命が!」

 トレスは微笑みながらキルシュに向かって小さく呟いた。

「キルシュ……後は頼むよ。ヴェルを、世界を守ってやってくれ」

 トレスが呟いた瞬間、その胸を背中からヴェルヴェーヌの翼が貫いた。トレスの体から光が零れ落ち、トレスはジオグランに向かって告げる。

「ジオグラン……立派になったな。君は自慢の息子だ。後は……頼んだよ……」

「親父!」

 その言葉と共にトレスの体が眩く輝き、さらさらと小さな光の粒となって崩れ始める。トレスの腕の中でヴェルヴェーヌが身をよじって何とか抜けだそうとするが、トレスの銀鎖がヴェルヴェーヌを絡めとり、それを許さない。トレスはヴェルヴェーヌを抱きしめながら大きく叫んだ。

「……あの日、あの時より僕は君の為に生きると誓った! ならば僕はいつも君と一緒にいるよ。それと……約束を守れなくて……ごめん……」

「トレス! 駄目!!」

 その言葉にキルシュが叫ぶ。しかしトレスは小さく笑みを浮かべると、次の瞬間、その体は一瞬にして小さな光の粒へと変わる。光はゆっくりとヴェルヴェーヌに吸い込まれるように消えていく。

『あ……あああぁ……』

 その光に触れた瞬間、ヴェルヴェーヌは目を見開き大きく震え出す。その声に呼応するかのように大地が大きく揺れ、空を覆う暗雲に雷鳴がほとばしる。世界が大きく揺れ、アルブスの魂がゆっくりとヴェルヴェーヌの中に戻っていく。

 天を闇が覆ったかと思えば、突如、眩いばかりの光柱が空に向かって立ち上る。光柱は徐々にその大きさを増し、空を覆っていた暗雲はゆっくりと消えていく。周囲を覆っていたおぞましい程の暗く冷たい気配はいつの間にか霧散していた。

「空が戻った……? アーテルは再び眠りについた?」

 空を覆っていた暗雲は跡形もなく消え去り、大地は静寂を取り戻した。その光景に騎士達は歓声をあげ、ジオグランはただその光景を呆然と眺めていた。するとキルシュが慌ててヴェルヴェーヌに駆け寄る。

「そうだ、ヴェルは? ヴェルヴェーヌ?」

 キルシュが地面に倒れているヴェルヴェーヌを見つけると、慌てて抱きかかえて叫ぶ。

「ヴェル! しっかしなさい! ヴェル!」

 服こそ破れているものの、その体には目立った傷は見られず、切り落とされた腕も元通りになっていた。その様子にキルシュが小さく安堵の溜息を漏らす。そして同時に、トレスが消えたことを実感した。

「トレス……貴方が愛したヴェルは……無事ですわ……。うっ……うう……」

 ヴェルヴェーヌが助かり、その代わりにトレスが消えた。その事実にキルシュの慟哭が周囲に響き渡る。ジオグランはヴェルヴェーヌを抱きかかえて大粒の涙を流すキルシュを見つめながら瞳を細め、握る拳に力を籠める。

「親父……あんたはたった一人でこの少女を、世界を守り続けていたんだな……」

 その言葉に生き残った騎士達が思わず涙を流す。

「トレス様……裏切り者の汚名を着せられながらもあの方は最後まで高潔な騎士でありました。我々はあの方と共に戦いを誇りに思います……」

「ああ……親父が守ろうとしたことは俺達が引き継ぐんだ。……まずは教皇の説得からだな。こりゃ骨が折れるぜ……」

 ジオグランが呟いた瞬間、ヴェルヴェーヌがゆっくりと瞳を開いた。赤かった瞳は美しい銀色に戻り、黒かった髪は灰色に戻っていた。その様子にキルシュが安堵の溜息を付く。

 ヴェルヴェーヌは心配そうに覗きこむキルシュを見つめて小さく呟いた。

「おねえちゃんだあれ?」


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