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五章:名を冠する者達

五章:名を冠する者達


「もうすぐキルシュとの約束の場所だ。さすが公爵家、アクアビット中に別荘を持っているみたいだね」

 ツェニートにほど近い山中を歩きながらトレスが呟くと、ヴェルヴェーヌがどこか感慨深い表情で顔を綻ばせる。

「ふふっ……キルシュか。久しく会っていないな。あのお転婆娘も相変わらずなのだろうな」

「ははっ。ご明察だよ、ヴェル。彼女は驚くくらい相変わらずさ」

 トレスが笑いながら肩を竦めてみせる。そんなトレス の様子にヴェルヴェーヌも小さく笑みをこぼす。

「そうか……それは楽しみだな」

「うん。それに彼女には聞きたいことがたくさんあるしね。ノチェロに行くにはヴィンサントを突っ切るのが一番近道なのだけど、さすがに戦争している国に飛び込む気にはなれないし、ついでに周辺諸国の情勢も知っておきたい」

「ノチェロか……かつての終焉の地。世界の答えはそこで出る、か」

 ヴェルヴェーヌが小さく呟き、トレスがおもむろにヴェルヴェーヌを抱きしめる。

「僕は信じてる。今度は人は間違えないと」

「ああ……私もそう信じているさ、トレス」

 二人の言葉は森に吸い込まれて消えた。


「もうすぐですわね……。ヴェル……私の大事なお友達。こうして再び会えることを女神に感謝しなければなりませんわね。……もっともその女神のせいでヴェルが苦労している訳ですが」

 キルシュが燃えるような美しい赤い髪をたなびかせながら街道を駆け抜ける。馬を駆ること数刻、キルシュは脇道に入り田園地帯にさしかかる。畑で作業していた領民と思しき男性達がキルシュの姿を見るや頭を下げ、キルシュも手を振ってそれに応えていく。

 広大な畑を抜けた先には遠目からでも分かる巨大な屋敷がそびえており、キルシュは屋敷に向かって真っ直ぐに馬を走らせる。景色の中に消えていく田園の風景にキルシュは思わず嬉しそうに瞳を細めた。

「ふふっ……昔、この畑で迷子になって、ナストロ様に見つけてもらったんでしたっけ。あの頃はまだ女神の加護なんて無くて、ただの小さな女の子でしたわね……」

 キルシュは楽しそうに口元を綻ばせると、馬を走らせる。

「キルシュお嬢様」

 屋敷に到着すると、キルシュの来訪を待っていたのか、門前で使用人達が一斉に並んでいた。執事と思しき初老の男性が一歩進み出てキルシュを出迎え、その後ろに侍女達が続く。キルシュは小さく微笑むと、初老の男性に手綱を預けて馬から降りる。

「みんな、お出迎えありがとう。それで……」

 キルシュは落ち着かない様子で門の奥にある屋敷の玄関に目をやる。

「ええ、お嬢様のご友人はすでに到着なさっております」

 その言葉を聞いたキルシュは真っ直ぐに屋敷に向かって駆け出した。

「ヴェル!」

 息を切らせながらキルシュが屋敷に駆け込むと、玄関先でキルシュを待っていたヴェルヴェーヌが驚いた表情で振り返り、キルシュを見るや顔を綻ばせる。

「キルシュ!」

 ヴェルヴェーヌは真っ直ぐにキルシュに向かって駆け寄り、キルシュは破顔してヴェルヴェーヌを抱きしめる。

「ヴェル! よくぞ無事で! 会いたかったですわ!」

 キルシュはその感触を確かめるようにヴェルの頬を何度も撫で、感極まったのかその頬を一筋の涙が伝う。一方のヴェルヴェーヌも同様にその瞳は潤んでいる。そんな二人を見ながらトレスが嬉しそうに語りかける。

「久し振り……という程でもないか、キルシュ。しばらくお世話になるよ」

「トレス……お疲れ様でした。教会から多くの聖堂騎士が派遣されたと聞いていたので正直心配しましたわよ?」

「ああ……こっちもいろいろ危なかったけどね」

「こんなところで立ち話もなんですから、まずはお茶でも飲みませんこと?」

 キルシュの言葉に二人は小さく頷き、いつの間にか追いついたのか、初老の男性が三人を部屋へと案内する。広い客間に通された三人はお互い笑みを浮かべ、キルシュが改めて挨拶をする。

「とにかく今日までよくぞ無事で……ヴェルヴェーヌ。また会えて……本当に嬉しいですわ」

「私もだ……またこうしてキルシュに会えて、その……嬉しい、ぞ」

 照れているのかヴェルヴェーヌは頬を赤く染め、消え入りそうな小さな声で呟く。そんなヴェルヴェーヌの様子にキルシュが再びヴェルヴェーヌの小さな体を抱きしめ、ヴェルヴェーヌもゆっくりとキルシュの背中に手を回す。その光景を見つめていたトレスは瞳を細めながらただほほえむばかりであった。

「それで……王宮の方はどうだい?」

「なんとも、ですわね。ただ、一部の者がヴェルの力に気がついたかもしれません。『教会が追っている悪魔』について知慧院が動いているという話も耳にしましたし」

 キルシュの言葉にトレスが一瞬眉をひそめて小さくため息をつく。

「仕方ないさ。ここはアクアビットだ。国内であれだけ派手に動けば、いつかはバレていただろう。正直君の手前、アクアビット王家とはこのまま何もないまま終わって欲しいけど、知慧院が動くとなれば、これは王家もそういうつもりと見て間違いなさそうだね」

「ええ……知慧院はアクアビット古くから伝わる護法機関。その歴史は古く、全容は代々アクアビット国王のみが知るとされています。私ですら事の仔細は分かりません。噂では暗殺者も抱えているとか。窮屈かもしれませんが、ほとぼりが冷めるまではここにいた方がいいと思います。そうすれば『悪魔』の話も所詮は噂話だと諦めるでしょうし。……それよりも問題なのは」

「教会……か」

 トレスの言葉にキルシュが小さく首を縦にふる。その言葉に一瞬ヴェルヴェーヌの瞳が細められ、キルシュはそんなヴェルヴェーヌを一瞥すると優しく抱きしめる。

「……ええ。相も変わらず騎士を送り込み続けているみたいですわ。それに……」

 キルシュは一瞬言いよどむと、ヴェルヴェーヌを抱きしめながらトレスを真っ直ぐ見つめて口を開く。

「……今度は『紅翼』が来ているようです」

「聖堂騎士団最強の三翼の一つ、紅翼か……。ついに来たか。となれば……」

 ヴェルヴェーヌがキルシュの腕の中でつぶやき、その言わんとしていることを理解したのかトレスは真剣な表情で小さく頷く。一方のキルシュは緊張気味に続ける。

「……それにもう一人。ノチェロ聖堂騎士団長、ジオグラン様がいらっしゃっていますわ」

 その言葉にトレスは眉をひそめ、ヴェルヴェーヌが悲しそうな表情を浮かべる。

「代々ノチェロ聖堂騎士団の頂点を統べる騎士は皆トレス・クァレンタを名乗る習わしでしたわね。でもその伝統もトレス、貴方の代で潰えた……」

 キルシュの言葉にトレス黙して語らない。キルシュは続ける。

「トレス……貴方はトレス・クァレンタの名を継いだ最後の騎士。そしてその名を継がなかった最初の騎士、それがジオグラン……ジオグラン・クァレンタ。私には教会の事情は分かりませんが、察するにあの方はトレスのお知り合いでは?」

 キルシュが心配そうにトレスに問いかけると、トレスが真っ直ぐにキルシュを見つめ、ゆっくりと口を開いた。

「彼は……ジオグランは僕の息子だ……」


「むっ……息子……ですか? トレス……貴方いつの間に結婚を? いや、奥様は? ジオグラン様の年を考えると……トレス、貴方……まさか!」

 慌てるキルシュを前にヴェルヴェーヌが苦笑しながら首を横に振る。

「勘違いしているようだが、あの小僧はトレスが拾い育てた孤児だ。まさか聖堂騎士団長になるほどの才覚を秘めているとは思わなんだが。それにトレスは私の物だ。誰にも譲ってやるつもりはない」

「なるほど……私はてっきりトレスが子供の時に過ちをおかしてしまったのかと……。道理で年が然程離れていないのですね。まるで兄弟の様ですし」

 思わず赤くなるキルシュを前に、トレスが小さくため息をつく。ようやく落ち着いたのかキルシュが二人を見つめて首をかしげた。

「……この際、ジオグラン様がトレスの息子という話は置いておくとして、教会が三翼の一つ、紅翼だけでなく聖堂騎士団長もアクアビットに遣わすとは尋常ではありませんわ。もはや軍事侵攻と見なされてもおかしくない兵力です。ならば、どうして彼らはそこまでしてヴェルを目の敵にするのでしょうか? ヴェルが単に闇の女神アーテルの加護を宿す異端というだけでは説明がつきませんわ」

 キルシュがそう呟くと鋭い瞳を二人に向かってに投げかける。それを受けてトレスは一瞬ヴェルヴェーヌを見つめ、ヴェルヴェーヌはゆっくりと口を開く。

「なに、簡単な話だ。私の存在によって世界が滅びるかもしれない……。ただそれだけだ」


「……ごめんなさい。今なんて?」

 ヴェルヴェーヌの言葉にキルシュが思わず問い直す。

「ノチェロの惨禍……キルシュも聞いたことはあるだろう?」

「大破壊ですわね。混沌の女神アーテルにより世界から光が消えた。子供でも知っているお伽話ですわ。それとヴェルとの間にどんな関係が」

「『アルブスは光を産み、アーテルは混沌を紡ぐ。天秤が傾く時、神の鎖は天倫を紡ぎ、世界を選び取る』。世界は常に破壊と再生を繰り返してきた」

「今度は神話の一節ですか……。それとヴェルとどういう関係が?」

 ヴェルヴェーヌの言葉にキルシュが困惑した様子で首を傾げ、そんなキルシュを横目にヴェルヴェーヌは続ける。

「かつて世界は、いや……人は破壊と混乱を選び、世界はアーテルによって闇に包まれた。それがノチェロの惨禍。ノチェロにその傷跡とされる巨大な大地の裂け目があるのは知っているな?」

「えっ……ええ。底が見えないくらいの巨大な亀裂でしたわ。でもあれは……」

 ヴェルヴェーヌの声が先程より低く、そして力強くなったことを感じ取ったキルシュが思わず緊張気味に答える。そんなキルシュの様子にヴェルヴェーヌが悲しそうに語りだす。

「……かつての天秤は彼の地で世界の声を聞き、そして選択が成された。あれこそがアーテルの引き起こした惨禍の始まりの地。人々の終焉の墓標だ」

 ヴェルヴェーヌの言葉にキルシュが思わず声を荒げる。

「ちょっ、ちょっと待って下さい! それではまるでノチェロの惨禍が本当にあったかのように聞こえますわよ? そもそもあれは教皇庁が権威付けの為に勝手に史跡にしているだけで……」

 慌てて語るキルシュを前に、それまで黙っていたトレスが口を開く。

「……残念ながらノチェロの惨禍は実際に起きたんだ。そして今再び選択の時が迫っている。かつてそうであったように、世界は――人は再び選ばねばならない。アルブスの左手かアーテルの右手かを。そしてその選択を見定め、女神に届けるのが『天秤』つまり……」

「私という訳だ」

「ヴェル?」

 トレスの言葉にヴェルヴェーヌが答え、キルシュが驚いた様子で問いかける。一方のヴェルヴェーヌは真っ直ぐにキルシュを見つめたままゆっくりと口を開いた。

「我が名はヴェルヴェーヌ・デュ・ベレイ。世界を測る『天秤』にして、始まりと終わりを告げる者だ」



「……つまりその『天秤』の針を動かすのは、ヴェルの意思ではなく、人々の魂の在り方が天秤を動かすのだと?」

「そうなるな。私はそれを見届けるだけに過ぎん。しかし、ノチェロ教皇庁……いや、教皇ストレガはそうは思っていないようだがな。トレスが言うには奴はその身に持つ先見の加護で世界が再びアーテルによって滅ぼされる様を見たらしいな。故にその鍵となる私さえいなければ世界は守られると信じているようだ」

 怪しい笑みを浮かべる

ヴェルヴェーヌを前に、キルシュは思わず頭に手をあてて椅子に寄りかかる。

「……頭が痛くなってきましたわ。子供の頃から聞かされたお伽話が真実で、ヴェルが女神様達に言葉を届ける巫女だったなんて……」

「いや、私は……」

 そんなキルシュを前にヴェルヴェーヌが何かを言いかけるが、トレスがヴェルヴェーヌの肩に手を置いて小さく首を横にふる。

「まぁ、仕方ないさ。真実を知らない人にとっては突拍子もない話だろうし」

「なるほど。でもお陰で大体事情が読めてきましたわ。教会はノチェロの惨禍が史実であることを知っている。そしてそれはヴェルが引き起こすものだと考えている。だからこそなんとしてもヴェルを亡き者にしたい、と」

 キルシュの言葉にヴェルヴェーヌが腕を組んだまま小さく首を縦にふる。

「ああ……本来であれば、聖堂騎士ごとき私の敵では無いのだが、無知とはいえ、世界を守るべく私の前に立つ奴らの気持ちは本物だ。ならばむやみに殺すわけにもいかん。適当にあしらっていたのだが、それでもかなり殺したがな」

 その言葉に一瞬トレスが顔をしかめ、キルシュが思わず口を開く。

「ヴェルはその特別な天秤という存在だから闇の女神の力を使えるのでしょうか? では女神アルブスの力は使えないのですか? アルブスの力ならば相手を殺さずとも……」

 そんなキルシュの言葉にヴェルヴェーヌは一瞬複雑そうな表情をすると小さく首を横に振る。

「……のだ」

「はい?」

 思わず聞き返すキルシュを前にヴェルヴェーヌが小さな声で呟いた。

「少し事情があってな、本来であれば私はアルブスとアーテル、両方の加護を使えるのだが、今の私はアルブスの力を使う事はできぬのだ。いや……今の私はアーテルに近いと言った方がいいか。詳しい理由は言えんが、この『私』が眠るほどの怪我を追った場合、天秤は世界の選択を待たずして傾き、アーテルが呼び覚まされる。キルシュも何度かその片鱗を見たはずだ。アーテルに魂を喰われた哀れな騎士共のなれの果てを」

 その言葉にキルシュが思わず息を飲む。苦しそうに語るヴェルヴェーヌをトレスが後ろから優しく抱きしめ、代わりに続ける。

「だからこそ、僕がヴェルを守っているんだ。ヴェルが起きているうちは大丈夫だけど、ヴェルが深く眠るような場合――例えばヴェルという存在が死に瀕するような重篤な怪我を追ってしまった場合、アーテルの意思が呼び覚まされる。そうなれば世界は再び無に還される」

「……そしてそのことを知らずに教会はヴェルを狙い続けると?」

 キルシュの言葉にトレスが真剣な表情で小さくうなずいてみせる。

「トレスの言うとおりだ。……私の意識が完全に沈めば、その時は世界は選択の時を待たずして終わることになる。それだけは避けねばならん」

「ヴェル……」

 キルシュが心配そうにヴェルヴェーヌを見つめ、一方のヴェルヴェーヌもその視線を受けて小さくほほえむ。

「私とてこの世界が気に入っている。人が生きようと望むのであらば、その行く末を見届けよう。なに案ずるな、聖堂騎士ごときには遅れはとらんよ。それに私にはトレスもいる」

 その言葉にトレスが小さくうなずき、おもむろに外を見つめて小さく呟いた。

「ところで、外の方々は君のお客さんかい? キルシュ?」

「えっ? お客様ですか? この別荘に私達がいることは誰も知らないはずですが……」

 キルシュは慌てて屋敷の大きな窓から外を眺め、次の瞬間、思わず大きく叫ぶ。

「そんな……。どうして……どうしてアクアビットの兵がここにいるんですの!」

 窓の外にはアクアビットの旗を掲げた兵士達が屋敷を囲むように整列しており、その光景に思わずキルシュが叫ぶ。

「やれやれ、今度はアクアビット王家か……キルシュの話から察するに狙いは恐らく私達だろうな」

「大丈夫ですわ……ザフトリングの名にかけて、ヴェルには指一本触れさせません!」

 キルシュが窓の外を睨みながら声を荒げる。窓の外には執事の男性が屋敷を取り囲む兵士達に向かって歩いて行くのが見える。すると兵達の中から全身に甲冑を纏った騎士が歩み出た。

 その騎士を見た瞬間、キルシュが慌てて部屋を飛び出し玄関へと走りだした。残ったヴェルヴェーヌとトレスは一瞬驚いた表情でお互いの顔を見つめると、小さく頷き足早にキルシュの後を追う。

 キルシュは慌てた様子で玄関の扉を開くや、大きな声で叫んだ。

「ナストロ様! どうして……どうしてナストロ様がここに?」

 そこには執事と共に屋敷に向かって歩いてくる騎士――ナストロの姿があった。

「キルシュ殿……」

 ナストロは玄関前で立ち止まると、苦しそうな表情を浮かべる。

「陛下より……これを預かっております」

 ナストロは懐から一枚の手紙を取り出してキルシュに差し出した。キルシュは緊張気味にそれを受け取り、次の瞬間、顔を青ざめさせて小さく肩を震わせる。

「これは……? まさか……陛下からの親書……?」

 キルシュは思わず顔をあげてナストロを見つめる。一方のナストロはキルシュの視線を受けて小さく首を縦にふる。キルシュは大きく息を吐き出すと、先程のうろたえぶりが嘘のように落ち着き払った様子で、淡々と語りだす。

「……私と……どなたかは存じませんが、聞いたことの無い方二人を王宮の昼食会に招待したいとありますわ。それもアクアビット国王、コーディアル十四世陛下のお名前で」

「……はい。陛下が是非そのお二人とキルシュ殿の三人と食事を取りたいと仰られまして……」

「陛下の招待とあれば断る理由はありませんわ。ただ、残りの二人は存じません。何故私に?」

 キルシュが首を傾げながらナストロに問いかける。一方のナストロは苦しそうに顔をしかめて絞りだすように小声で話しかける。

「……キルシュ殿。何故私がここに遣わされたのか……そして何故親書を渡すのに兵士を引き連れねばならなかったのか。どうかお察しください……」

 キルシュはナストロを真っ直ぐに見つめて沈黙を保っている。ナストロは続ける。

「この屋敷にいらっしゃるトレス・クァレンタ殿と右手の悪魔――ディアテロスと呼ばれる少女を招待するよう言い遣っております」

「何のことか私には理解しかねますわ……ナストロ様」

 キルシュの言葉にナストロは困った表情で立ち尽くし、キルシュも譲らない。すると突然玄関の扉が開き、透き通る声が朗々と響く。

「無駄だ、キルシュ。このタイミングでアクアビットの兵がここに遣わされた。ならば隠し立てをしても無駄だろう。それにキルシュが首を縦に振らねばここは戦場となろう。そのための兵なのだろう?」

「ヴェル!」

 開かれた扉からヴェルヴェーヌが姿を現し、その後ろにトレスが続く。

「この私とトレスがここにいると知った上で真正面から来るか。ならば私と斬り結ぶつもりはないと考えるが?」

 ヴェルヴェーヌはそう言うや、真っ直ぐにナストロを見つめて視線を離さない。その言葉にナストロは緊張気味に頷いた。

「とりあえず中に……」


 もはやヴェルヴェーヌ達を隠すことを諦めたキルシュはナストロを屋敷に迎え入れ、四人は客間で向き合っていた。

「改めて名乗らせてもらおうか。我が名はヴェルヴェーヌ・デュ・ベレイ。教会には右手の悪魔と呼ばれているがな」

「貴女が……」

「聖堂騎士を数多屠った悪魔がこのような年端のいかぬ少女では不服か?」

「いっ……いえ。ヴェルヴェーヌ殿の噂はかねてより存じておりましたが、こうして目の当たりにすると、あの噂は俄には信じがたいと思いまして……」

 言いよどむナストロを前に、ヴェルヴェーヌが怪しく口元を釣り上げる。そんな二人を見つめながら、それまで黙っていたキルシュが口を開いた。

「それで……ナストロ様。何故陛下はヴェル達の事を、いや、私達がここにいることを知っているのですか?」

 キルシュが動揺した様子でナストロに問いかけるが、ナストロは小さく首を横に振る。

「私にはなんとも……」

 その言葉にトレスが思わず顔をしかめる。

「経緯はどうであれ、アクアビット王は僕とヴェルの事を知っているということか……。無いとは思うけど、ノチェロからアクアビット王に協力するように要請があった可能性も否めないね」

「ふむ……正面から切り結ぶつもりはないらしいが、会食とは一体どういうことだ? 教会に私達を売る算段ならそのような面倒な事をせずとも良かろうに。それにわざわざキルシュの屋敷を兵で囲んでいるところを見ると、恐らく返答は首を縦に振る以外にはなさそうだな」

 二人の言葉にキルシュが一瞬小さく震え、ナストロに向かってはっきりと告げる。

「……仮に陛下がこの二人を害するおつもりならば、このキルシュロッター、ザフトリングの名を捨てても彼らを助けますわ! それが例えナストロ様に剣を向けることになったとしても!」

 キルシュの鋭い視線がナストロを居抜き、ナストロは苦しそうに瞳を伏せる。するとトレスがおもむろにキルシュの肩に手を置き、小さく首を横に振る。

「王家が教会とつながっていると決めつけることはないよ。アクアビットも教会には表向きは迎合しているけど一枚岩ではないと聞くからね。陛下がこうしてわざわざ僕達に会いたいと言っているんだ。何か別の思惑があるのだろうさ」

 その言葉にキルシュが突然何かに気がついたのかナストロを見つめながら呟いた。

「……戦ですわ。そうですわね、ナストロ様。知慧院……いえ、開戦派は右手の悪魔の力に興味を持っていた。そして彼らはヴェルに辿り着いた……」

「おそらくは……。開戦派は聖堂騎士を退けたと噂されていた右手の悪魔――ヴェルヴェーヌ殿に並々ならぬ興味を持っていました。」

 キルシュの言葉にナストロが顔をしかめながら頷く。

「……アクアビットは……いえ、開戦派は数多騎士を退けたヴェルの力をヴィンサントと戦うための戦力として欲していますわ。私という重石を二人に背負わせて、従わせるつもりでしょう……。私のせいでお二人が……」

 キルシュは止まらない。

「私の……私のせいで……ヴェルを巻き込んでしまいました……。私のせいで大切な友が危険にさらされる……」

 キルシュは肩を震わせると絞りだすように続ける。

「今からでも遅くないですわ! 私は自分の事はなんとかできます。だからヴェルとトレスはアクアビットから逃げて! 二人を戦争の道具になんてさせませんわ!」

「キルシュ殿……」

 叫ぶキルシュを前にナストロが辛そうな表情で声をかけるがキルシュには届かない。すると突然ヴェルヴェーヌがキルシュの傍らにしゃがみ、優しくその頬に手を添える。

「私はキルシュを――友を犠牲にしてまで逃げようとは思わない。私の為に泣いてくれてありがとう……優しい私の友よ」

「ヴェル……私は……」

「構わない。行こうじゃないか、アクアビット王、コーディアル十四世に会いに」

 ヴェルヴェーヌの瞳に強い光が宿る。


「おいっ! 出てきたぞ!」

 屋敷の玄関が開き、キルシュとナストロが姿を現した。その傍らにはトレスとヴェルヴェーヌが続き、それを見た兵士達からはざわめきが湧き起こる。

「まさか……あのような可憐な少女が教会の聖堂騎士を葬った悪魔だというのか?」

「ああ……さっき一瞬姿を見ただけだったが、とても聖堂騎士を屠った悪魔とは思えん」

「その横にいるのが聖堂騎士の頂点に立っていた男、トレス・クァレンタか……」

「あれがトレス・クァレンタ……」

 様々な声が飛び交う中、ヴェルヴェーヌとトレスはまるでそれを意に介した様子もなく真っ直ぐに進む。一行を前に兵が左右に割れ、その先には一台の豪華な装飾が施してある馬車が止まっていた。

 馬車を前にキルシュが自嘲気味につぶやいた。

「ふふっ……私のお迎えにナストロ様を使うあたり、知慧院は本当に全てお見通しなのですね」

「キルシュ殿……自分は……」

 ナストロが絞り出すように呟くが、キルシュは小さく首を横に振る。

「何も言わないで下さいませ。ナストロ様には近衛騎士としての立場というものがございますわ。ですから、ナストロ様は何も気になさらずとも良いのです」

 拳を握りしめるナストロを前にキルシュが朗らかに笑い、馬車の御者に声をかける。

「……それでは騎士様方、お願いしますわ」

 キルシュがそう呟くと馬車に乗り込み、ヴェルヴェーヌとトレスがそれに続く。それを見届けたナストロが馬に跨がり、号令と共に騎士達はゆっくりと馬を走らせた。

 馬車に揺られながら三人は黙して語らない。馬車の中を沈黙が支配すること数刻、突然トレスが小さな声でキルシュに語りかける。

「キルシュ……君の家はツェニートだったね。僕は極力ヴェルの意向に従うつもりだけど、何があるか分からない。最悪の時は君は家に戻って家族を守れ。君の力なら造作も無いだろう。地位と財産は失うかもしれないが、命あっての物種だ」

「その件については詫びさせて欲しい、キルシュ。私達のせいで迷惑をかけてしまったな。だがアクアビットがキルシュとその家族を害するというのであれば、私は私の全てを以ってキルシュとその家族を守ると誓おう」

 その言葉にキルシュは思わず瞳に涙をたたえ、小さく首を横にふる。

「ありがとう……二人とも。本当は私が貴方達に謝らないといけないというのに……逆に励まされてしまいましたわね。でも大丈夫ですわ。私も、剣を抜く覚悟を決めねばならないかもしれませんね……」

 キルシュは腰に帯刀した剣をさすりながら小さく呟いた。


**


 一行は程なくして王都ツェニートに到着し、王宮へと案内された。三人が通されたのは豪華な客間の一つであり、給仕が恭しく茶器を運ぶ。

「しかし……この手の服はいつ着ても慣れんな。動きにくくてかなわん」

 別室で既に着替えを終えたヴェルヴェーヌがドレス姿で文句を言うと、トレスが満面の笑みで語りかける。

「ヴェル……世辞を抜きに言うが、すごくきれいだ。まるでお姫様のようだ」

「ふふっ、そうか……トレスにそう言われるのは悪い気はしないな……」

 トレスの言葉にヴェルヴェーヌは頬を赤らめながら、まんざらでもなさそうに笑みを浮かべていた。そんな二人を前に同じようにドレスに身を包んだキルシュが小さくほほえんだ。

「用意が整いましたので、どうぞこちらへ」

 突然部屋の扉が開き、侍女と思しき女性が一礼とともに入室する。

 一行は促されるまま侍女の後ろに続く。長い廊下を進むと、侍女はその突き当りにある大きな扉の前で突然立ち止まる。扉の前には鎧に身を包んだ兵士が立っており、侍女は小さな会釈とともに扉をノックをする。一瞬の静寂の後、重厚な扉がゆっくりと開き、入室を促された三人は緊張した面持ちで中に進む。

 部屋の中は質素な、しかし品の良い装飾が施されており、落ち着きのある調度品が部屋を美しく飾り立てていた。部屋の中心には豪華な椅子が置かれ、そこには金色の衣装に身を包んだ初老の男性――アクアビット国王コーディアル十四世が鎮座していた。

 その脇には光り輝く鎧を身にまとった近衛騎士団長――ナストロが控えている。部屋に入ったキルシュは王を見るや、その場に跪き挨拶の口上を述べる。

「キルシュヴァッサー・ザフトリング及びにトレス・クァレンタ、ヴェルヴェーヌ・デュ・ベレイ。招致により馳せ参じた次第にございます」

 キルシュの言葉にコーディアル十四世は低い、よく通る声で返す。

「久しぶりだな……キルシュよ。最近は家を飛び出して諸国を遊行していると聞いているぞ。しかしそれではちと、ナストロが不憫だのう。それにオレアデスも若くない。そろそろ落ち着いたらどうだ?」

 コーディアル十四世はキルシュをよく知っている口ぶりで微笑み、一方のキルシュも多少緊張が解けたのか跪きながら小さく苦笑する。王の傍らで控えているナストロは羞恥のためか、鎧の上からでも上気している様子が見て取れ、コーディアル十四世はいたずらっぽく笑みを浮かべる。

 コーディアル十四世はおもむろに立ち上がると、ヴェルヴェーヌとトレスの前に歩み寄る。

「貴君があの『トレス・クァレンタ』……いや、『最後の男』と呼ぶべきか」

「……お初にお目にかかります、陛下。私はトレス。トレス・クァレンタ。かつてはアルブスの聖堂騎士として剣を振っていた凡俗にございます」

 その言葉にコーディアル十四世は大きく笑う。

「はははっ、聖堂騎士の頂点を極めた男が凡俗を語るか。女神の意思の代行者とまで言われている教皇庁の牙が凡俗か。これは愉快」

 コーディアル十四世はトレスの言葉に楽しそうに笑うと、ヴェルヴェーヌに視線を移す。二人の視線が交差した瞬間、王はヴェルヴェーヌをまっすぐ見つめて語りかける。

「……お初にお目にかかる。混沌の女神アーテルの加護を持つ少女よ」

 その言葉にヴェルヴェーヌの口元がわずかに釣り上がる。

「ほう……? やはり私を知っているか。私をわざわざここに呼んだということは、教会とは必ずしも同じ道を歩まぬと理解してよいのだろうな」

 ヴェルヴェーヌの外見とは似つかわしくないその口調に、一瞬コーディアル十四世は驚いた表情を見せるが、その言葉の意味を理解したのか大きく頷く。

「単刀直入に言おう。聖堂騎士の頂点たるトレス・クァレンタとそれが守る右手の悪魔、お主らの力を借りたい。貴君らには怨敵ヴィンサントを誅する剣となってもらいたい」

 その言葉に一瞬トレスが瞳を小さく細め、ヴェルヴェーヌは予想通りと言わんばかりに口元に笑みを浮かべる。そんな二人をよそに、キルシュが思わず声を荒げる。

「陛下! いくら彼らが腕が立つとはいえ、一人や二人が加わった所で戦況を覆せるようなものではありませんわ。それにヴェルのような年端のいかぬ少女に戰場に立てとは、あまりに無体にございます!」

 キルシュの言葉を受けて、コーディアル十四世は小さく首を横に振る。

「聖堂騎士といえば、いずれも強力な女神の加護を宿す騎士。一人で百の兵士に優るとも言われている精鋭達よ。その二人はその聖堂騎士達を事も無げに葬り続けていると聞く。ならばその者達はまさに一騎当千と言えよう」

「しかし……」

 コーディアル十四世は続ける。

「それにキルシュよ。その二人は教皇庁の追う異端。アルブスの加護を仰ぐアクアビットとしては教会の意向に背くわけにはいかん。まして宰相家が教会に背き、アルブスの威光を貶めたとあらば、このアクアビットも無事では済まん」

「つまりは……見逃す代わりに協力しろと仰るのですか?」

 キルシュが絞り出すように呟き、コーディアル十四世は静かに首を縦にふる。そのやりとりにそれまで沈黙を守っていたヴェルヴェーヌが口を開く。

「実に分かりやすい提案だな。素直な人間は嫌いではないが、キルシュを人質にしておきながら言うセリフでは無いのではないか、アクアビット王よ」

 ヴェルヴェーヌの言葉にコーディアル十四世は笑いながら返す。

「まさに正鵠。確かにお主の言い分はもっともだ。だが我々にもこの戦には引けぬ理由がある。例えそれが悪魔の手を借りることになったとしてもな」

「ちなみにここで僕達が断ったらどうなるのでしょうか? 正直あまり聞きたくはありませんが……一応」

 トレスが遠慮がちに問いかけると、王が小さく手を鳴らす。その瞬間、部屋の扉が開き、武器を手にした衛士達が部屋になだれ込むや三人を取り囲む。そして遅れて一人の初老の男性が姿を現した。

「お父様!」

「キルシュ……」

 そこには困惑した表情のキルシュの父親――宰相オレアデスの姿があった。

「アクアビットの宰相家から背教者が出たとあっては教皇庁はおろか、周辺諸国は黙っておるまい。特にヴィンサントと戦っている今、後ろから攻められればアクアビットは生き残れまい。わしは王として民を守る義務がある」

「ふん……ならばどうする?」

 ヴェルヴェーヌの言葉に騎士が一斉にヴェルヴェーヌ達に向かって剣を構える。

「断るのであれば、お前達の首を教皇庁に捧げよう。多くの聖堂騎士を退けた悪魔を葬ったとあらば教皇庁も喜ぶだろう。その功をもって教会の協力を仰ぎ、ヴィンサントとの戦いに臨むだけよ」

「陛下!」

 その言葉にキルシュが大きく叫ぶ。一同の視線がキルシュに集中する。キルシュはゆっくりと左手を顔の高さに持ち上げてはっきりと告げる。

「アクアビットの行く末を、この国とは無関係の人間に託したとあっては、いやしくも王家の傍流たるザフトリング侯爵家の名折れ。彼らに課すその役目、このキルシュヴァッサー・ザフトリングが代わって引き受けますわ」

 その言葉に衛士達からざわめきが涌き起こる。キルシュの言葉にコーディアル十四世は小さく瞳を細めてゆっくりと口を開く。

「……あれ程政まつりごとに関わろうとしなかったお前が剣を握るか、キルシュよ。アルブスの祝福とまで謳われたお前が出てくれるのであれば是非もない」

「お待ちください、陛下!」

 突然ナストロが声をあげ、コーディアル十四世は訝しげにナストロに視線を送る。

「ナストロか……お前にとってもキルシュが我がアクアビットに戻ってくるのであれば願ったりではないのか?」

「恐れながら……戦場に婦女子を連れ、あまつさえ助力を仰いだとあってはアクアビットの末代までの恥となりましょう。どうか、どうかお考え直し下さいませ。それにこのような人質紛いの事でキルシュロッター殿を動かすのは王家の威光に泥を塗りかねません」

「ふむ……それで?」

「私めの任をお解きいただきたく。これよりナストロ・マラスキーノ、一兵卒として戰場に立ちとうございます。それでどうか平にご容赦を……」

「いけませんわ、ナストロ様! ナストロ様が戦場にいかれては誰が陛下をお守りするというのですか! それに私は大丈夫ですわ。このアクアビットに生まれた身なれば、祖国の為に剣を取るのは道理」

 その言葉に騎士達が歓喜の表情を浮かべる。

「キルシュヴァッサー殿の助力があるならば心強い!」

 キルシュが戰場に立つ。その意味を分からぬ者はアクアビットにはいない。女神アルブスの比類なき強大な加護は皮肉にも兵役を課せられていない宰相家の息女に現れた。その身に宿る天恵は力だけではなく、芸能、武術、学問、あらゆる面で彼女はその才能をいかんなく発揮した。

 誰もが数十年費やして届く境地にキルシュはいともたやすく届いてしまう。彼女が剣を持てば、アクアビットの剣の頂点、剣聖とまで謳われたナストロをも凌ぐ。キルシュは自分がいかに理不尽な存在かを理解していた。故にキルシュは決して表舞台に立とうとはしない。

 手を伸ばせば何にでも容易に届く。それはキルシュにとって限りなく退屈であり、苦痛であった。キルシュの行う全ては人々の努力の侮辱である。それを理解したキルシュはいつしか感動を忘れ、その心は冷たい氷のように固まっていった。同時にキルシュは世界に絶望した。

 そんなキルシュに初めて自分の力を振るう理由ができた。しかしそれはナストロにとっては到底看過することはできない決断でもある。故にナストロは引かない。

「いいえ、これは譲れません。剣を持ち民草を守るは我々騎士の、そして兵士の勤め。それをどうしてキルシュ殿にその重責を背負わせられましょうか。仮に貴女が私よりも強かったとしても、これだけは譲る訳にはまいりません」

 譲らぬナストロを前に、その光景を黙って見つめていたヴェルヴェーヌがゆっくりと口を開く。

「……本来であれば、私が誰かに与することはない。しかし友への助力程度なら天秤が動くことはあるまい。良かろう……私が出てやる。だが剣を持ち敵を殺すのは貴様らだ。私はその手助けをするに過ぎん」

「駄目です! ヴェルが戰場に出る必要なんてありませんわ! これは私達アクアビットの民の問題なのですから!」

 その言葉にキルシュが思わず叫ぶが、ヴェルヴェーヌは小さく首を横に振り、キルシュの肩に手を置いて優しくその耳元で呟く。

「キルシュ……私の大切な友よ。キルシュの加護は私も承知している。おそらくキルシュに勝てる人間はこの広い大地を探してもそうはおるまい。だが……だが、それでもキルシュは人なのだ。人であれば死は平等に、それも驚くほど呆気無く訪れる。だからキルシュを行かせるわけには行かん……」

「ヴェル! いけませんわ! 貴女だって人でしょう!」

 慌ててキルシュが声を荒げるが、ヴェルヴェーヌは譲らない。そのままゆっくりと立ち上がるとコーディアル十四世に向かってはっきりと告げる。

「……一度だけだ。一度だけ、貴様らの敵を打ち砕こう。ただしキルシュは参加させん。私達だけだ。それで飲むのであればここは従おう。それともあくまでも私を……私達を力ずくで従わせるというのであれば、押し通るより他はないがな……」

 その瞬間、ヴェルヴェーヌを中心におぞましい程の殺気が部屋に吹き荒れる。一瞬、その場にいた者達の魂は暗く冷たい、おおよそ全ての光が吸い込まれるような深淵の底に捕われた。何もない、始原の混沌たる闇の世界。全ての命が回帰する母なる海。

 その時、その場にいた全ての人々は確かに死を垣間見た。

「なっ……」

 最初に反応したのはナストロであった。呆然としながらも咄嗟に剣に手をかけてコーディアル十四世を庇うように前に歩み出る。その額には玉のような汗が滲む。ナストロの行動に我に返ったのか、騎士達が咄嗟に剣を引き抜きヴェルヴェーヌに向けて構えた。

 一方のヴェルヴェーヌはその様子にまるで興味がないといった様子で、ただコーディアル十四世を見つめている。

「……それでよかろう。かの『右手の悪魔』と『トレス・クァレンタ』と切り結んで果たしてこちらにどれだけの被害が出るかも分からんのでな」

「……キルシュもそれでいいな?」

 ヴェルヴェーヌの言葉にキルシュが叫ぶ。

「認めませんわ! ヴェルが戦場に立つなんて! それにこれは私の、アクアビットの民の問題ですわ!」

「駄目だ……分かってくれ。キルシュ……」

 しかしキルシュも譲らない。

「……いいえ、分かりませんわ。貴女達を巻き込んだのはこの私ですもの。これは私達の戦い。それでもヴェルが戦場に行くというのであれば、私は絶対ついていきますわ。それに……」

 キルシュがヴェルヴェーヌの肩に手を置くと、その瞳に涙を讃えて力なく呟いた。

「……私のこの力。こんな力欲しくなかったのに……それでもこの力で大切な人を、友達を守れるなら……私は……」

 ヴェルヴェーヌは泣き崩れるキルシュを抱きしめると、その背中に手を回して小さく呟いた。

「……我儘な子だ。どうせ断っても着いてくるのだろう? 分かった……私の負けだ。だが、絶対に無理は許さんからな……」」

「……ありがとう」

 ヴェルヴェーヌの腕の中でキルシュがつぶやき、部屋にキルシュの嗚咽が小さく響いた。


***


「リンデンバウム姫も遠征に同行なさるですって!?」

 ツェニートにあるザフトリング邸の一室で、キルシュとナストロ、トレスにヴェルヴェーヌ、そしてオレアデスが机を挟んで座っている。オレアデスの口から語られた言葉にキルシュが思わず大きな声で聞き返し、一方のオレアデスは真剣な表情で首を縦にふる。

「うむ……キトゥルス王子がまだ復調なさらぬ今、前線で疲弊した兵士の士気を鼓舞するには姫をおいて他にいないと言うことになってな。姫も快く受け入れて下さった。それに姫が言っていたぞ。姫の慰問の際にはキルシュ――お前が付くことを約束していると」

 オレアデスが瞳を細めながらキルシュを見つめ、キルシュは苦笑しながら首を縦にふる。

「あれは……その。まさか本当に姫が前線に行かれるとは思わなかったので……」

 オレアデスの視線を受けてキルシュが俯きながら弁解し、そんなキルシュを庇うようにナストロが口を開く。

「……しかしリコリスの街は国境近くの言わば前線。なぜ陛下はそのような危険な場所に姫を?」

 ナストロの言葉にオレアデスの瞳が一瞬細められ、その身に纏う気配が一変する。それを感じたナストロとキルシュは真剣な表情でオレアデスを見つめ、トレスとヴェルヴェーヌもオレアデスの言葉を待つかのように真っ直ぐに視線を送る。

「……この件はエウクスタ殿の進言によって決まったのだ。既に聞き及んでいるかもしれんが、トレス殿とヴェルヴェーヌ殿との会食も彼の発案によるものだ」

「エウクスタ様……知慧院の長。……そう、やはりそういうことでしたの」

 キルシュが何かに気がついたのか小さく声を漏らし、オレアデスが首を縦にふる。

「知慧院は教会の聖堂騎士を数多退けたという右手の悪魔――ヴェルヴェーヌ殿に興味を持った。そしてヴェルヴェーヌ殿の、そしてトレス殿の力に気がついたのだろう」

「……そしてエウクスタ殿は宮中で開戦派を束ねる方でもあります。おそらくお二人を戦争に利用するために、手を回していたのかと。そして……」

 ナストロは一瞬言いよどむとオレアデスが代わりに続ける。

「ふむ……なるほどな。今回の一件はキルシュを抑えることで穏健派の筆頭であるわしとナストロ殿の両方を抑える為の計略であったということか。してやられたな」

 オレアデスの言葉にナストロが首を縦にふる。

「あの方は強行派で戦争を推し進めている一人ですが、決して私利私欲に走るような方ではありません。あの方はこのアクアビットを何よりも愛していらっしゃいます。それに故に膠着状態であるヴィンサントの戦いの要であるリコリス付近の国境の攻防戦に強い感心を示していました」

「なるほど……だからエウクスタ様は手練を送り込んで戦況を変えたいと考えた。それもただの手練ではなく、戦況を変えられるほどの存在……。それは聖堂騎士をも凌駕する力を持つヴェルとトレス。そしてアクアビット随一と謳われた『剣聖』のナストロ様とこの私……という訳ですか」

 キルシュの言葉にオレアデスが顔を歪めて首を縦にふる。

「……エウクスタ殿はヴェルヴェーヌ殿とお前が知己であり、お前がヴェルヴェーヌ殿を一人で戦地に送り出すような性格ではないことを理解していたようだな。お前が行くとなれば当然ナストロ殿も黙ってはいない。キルシュのみならず、穏健派の筆頭であるナストロ殿を戦場に送り込むことができる。考えたものだ……」

 オレアデスの言葉にナストロが小さく頷くと、キルシュとヴェルヴェーヌを眺めて続ける。

「仮にキルシュ殿を手に入れられなくても、ヴェルヴェーヌ殿とトレス殿の力が噂通りなら十分過ぎる戦力になります。どちらに転んでもアクアビット王家は強大な武力を手に入れることができます。故に陛下はエウクスタ殿の計に乗ったのでしょう」

 その言葉にキルシュが重い口調で呟いた。

「……いくら頼まれても国の治世に関与しようとしなかった私に首輪を付けたかったと? なる程合点がいきましたわ。それにわざわざ姫を慰問に行くように仕向けるとは、エウクスタ様は最初から私に剣を持たせる気でしたのね……」

 キルシュの言葉にナストロが苦しそうな表情で小さく首を縦にふる。それを聞いていたトレスが腕を組みながら呟いた。

「……なるほどね。逆も考えられる。僕らの力はあなた方にとっては眉唾だ。ならばそんなものに頼るよりかは、その実力が保証されているキルシュを手に入れたほうが国としては遥かに現実的だ。そして噂通り僕らが武力として使えるのならば尚良し、くらいの心算なのだろうね。ならばやはり本命はキルシュか」

「ふん……私達はキルシュを釣る餌にされたというのか。気に入らんな……」

 静かに憤るヴェルヴェーヌを前に、トレスがその頭を撫でながらゆっくりと呟く。

「……個人的に見れば非道かもしれないね。だけど一歩引いた視点から見てみると、王の判断は至極当然の判断だよ。アクアビットの国民はキルシュ一人だけじゃない。戦に負けるということは、国民全てが被害を被ることになる。だからこそ、王は国のために打てる手を全て打つ気なのだろう。その際どっちが本命かは問題じゃない。判断としては間違えてはいないよ」

 その言葉にトレスが一瞬俯くとゆっくりと口を開く。

「ええ……残念ながら。我々は長きに渡るヴィンサントのとの戦で疲弊しており、今が正念場であるのも事実。実際にキルシュ殿が戦場に立つかもしれないと聞いた兵士達の湧き様は凄まじかったですから……」

 その言葉にキルシュがヴェルヴェーヌとトレスを真っ直ぐに見つめながら語る。

「私はアクアビットに生まれた身です。祖国の為に剣を持つことは厭いませんわ。でも貴方達は違う。ヴェルに戦場に立たねばならない理由など何もないというのに……」

 苦しそうに顔をしかめるキルシュを前に、ヴェルヴェーヌは優しい笑顔で首を横に振る。

「過ぎたことだ。それに私が首を横に振れば、そこにいるナストロ殿と切り結ぶことになる。それはお互いの望むところではないし、キルシュの想い人を傷つけたくはない」

 その言葉にキルシュが驚いた様子でヴェルヴェーヌを見つめると、ヴェルヴェーヌはイタズラっぽい笑顔を浮かべて小さくほほえんだ。一方のナストロは耳まで赤く染まり、俯きながらもキルシュの様子を伺っていた。

 そんなナストロの様子にキルシュが深い溜息をつき、ヴェルヴェーヌが笑みを零す。

「ともあれ、この遠征で私が誰かを手にかけることはしない。あくまで助力するだけだということを忘れないでくれ」

「何を言いますか。ヴェルには天幕で寝ていてもらいますわよ? これは私達の戦いなのですから」

「何を言いますか! 戦は男が前に立つものです。キルシュ殿も天幕で寝ていてもらいますよ?」

 キルシュの言葉にナストロが続き、キルシュは困った表情で肩を竦めてみせる。そんなキルシュに向かってトレスが小さく笑う。

「ははっ、どうやらそういうことらしい。なら僕がヴェルの代わりに出よう。レディ達は良い子で待っていてくれ」

 ヴェルヴェーヌが何かを言いかけるが、トレスがそれを許さない。トレスの言葉にナストロが嬉しそうに首を縦にふり、その光景にキルシュとヴェルヴェーヌは諦めたのか小さく肩を竦めてみせた。

「どうやら話はまとまったようだな。出発は一週間後と聞いているが、必要な物があれば言ってくれ。急ぎ手配しよう」

 オレアデスが一同に向かって語りかけ、その日は解散となった。

 

 その夜、キルシュはオレアデスの部屋を訪れていた。

「……本当にいいのだな? お前も悩んだ末での結論ならば何も言うまい」

「はい……もう決めたことですし」

「お前は昔から決めたことは決して譲らない性格だったな。全く誰に似たのだか……」

「ふふっ、きっとお母様ですわね」

 その言葉にオレアデスが瞳を細めて静かに問いかける。

「あれにはもう話したのか?」

「はい。今回の事情も説明いたしました」

 その言葉にオレアデスが深いため息をつくと、真っ直ぐにキルシュに向かって告げる。

「お前は誇り高きザフトリングの血を引く者だ。いかなる障害がその前に立ちふさがろうとも、お前のその意思はきっと辿り着くだろう。それがザフトリングであり、それが我が娘である。……良かろう。ならばそのように取り図ろう。もっともそれが必要にならないことを祈っているがな」

「ありがとうございます……お父様。愛していますわ」

 キルシュは小さく呟くとオレアデスに向かって深く頭を下げる。するとオレアデスはキルシュを強く抱きしめ、その耳元で小さく呟いた。

「……儂もだ、愛しい我が娘よ。儂はお前を誇りに思うぞ。お前の覚悟、このオレアデスが確かに受け取った」

「はい……」

 キルシュとオレアデスの瞳に小さな涙が流れた。


****


 馬が隊列を組みながら街道を南下している。先頭にはナストロが、その後ろにはキルシュが続く。その傍らには大きな馬車が並走しており、馬車の窓からリンデンバウムがキルシュに向かって手を振りながらほほんでいた。

「キルシュ、道中よろしくね。今回は国境近くに行くと聞いていたからちょっと怖かったけど、キルシュがいるなら安心だわ。それにナストロ様も来て下さるとは、お父様も心配症なのですね」

「このキルシュロッター・ザフトリング、その全てを賭けて姫をお守りいたしますれば、どうぞご安心を」

「ふふっ、キルシュにそう言われると心強いわ」

 馬車の中からリンデンバウムが顔を出し、キルシュが真剣な表情で答える。その後ろにはヴェルヴェーヌを胸の前に乗せたトレスの馬が続く。

「ふむ。アクアビットの近衛の服も存外悪くないな。特にこの肌触りが……」

 トレスの腕の中で従者に扮したヴェルヴェーヌがまんざらではない様子で微笑み、そんなヴェルヴェーヌの様子にトレスは小さく苦笑する。

「どうやら僕らに配慮してくれたみたいだね。まさか教会も僕らが王女の従者に扮しているとは思わないだろうしね」

「はっ、それこそ姑息な手と言うものだ、トレス。教皇ストレガは予言の加護を持つ。さすれば、変装など微塵も役に立たん」

「まぁ……その通りなんだけどね。彼の予言は見えたり見えなかったり、結構定まらないからね。念を入れるに越したことはないさ」

 トレスはヴェルヴェーヌの背中を見つめながら小さく瞳を細めた。ヴェルヴェーヌくらいの年であれば多くの少女がそうするように、綺麗な衣装に憧れ、宝石に目を輝かせ、淡い恋の一つでもして胸をときめかせるものである。

 しかしヴェルヴェーヌは違う。これから彼女が赴くのは血と死が蔓延する戦地である。トレスはヴェルヴェーヌを抱きしめる手に力を込めると誰にも聞こえることのない声で小さく呟いた。

「……たとえ世界が破滅を選択したとしても、僕はいつだって君と一緒にいるよ」

 

 街道を南下すること数日、一行は慰問の地であるリコリスの町にたどり着いた。街は直接的な戦火にされされてはいないものの、国境間近という立地もあって兵士達の重要な駐屯地となっていた。通りは傷ついた兵士達で溢れ、どこか剣呑な空気が漂っていた。

「これは……予想以上にひどいですわね……。国境付近での戦いが膠着状態に入ってからまだ数ヶ月しか経っていないのに、街は負傷兵だらけですわ」

「同感です。ヴィンサントは山岳地帯に潜み我々の軍勢をうまく凌いでいるみたいですね。数で劣るヴィンサントならではの戦いに攻めあぐねていると聞いております」

 キルシュの言葉にナストロが頷き、その傍らにいたヴェルヴェーヌが思わず顔をしかめる。彼らの目の前には全身を包帯で覆われた負傷兵達が通りの両脇にひしめいており、その光景を前にヴェルヴェーヌが小さく呟く。

「いつの時代も変わらんな……。人は安寧を忘れ、こうして殺し合い、混沌を自ら招き入れる。あの時がそうであったように、人は再び滅びを繰り返すというのか……」

 悲しそうに呟くヴェルヴェーヌを前に、トレスが小さく首を横に振る。

「違うよ……ヴェル。滅ぶのが怖いからこそ、みんなこうして必死に抗うのさ」

「ふん……滅びを恐れるが故に戦い、そして滅んでいくと? 全くもって度し難い」

 ヴェルヴェーヌは小さく鼻で笑うと手当を受けている兵士達を眺めながら呟いた。

「……だが、その抗うその魂は……その生命の煌めきはアルブスの光そのものだ。まだ人は明日を望み、両の眼は進むべき道を見つめている。ならば人は滅ぶまいよ」

「……そうだね。そうあって欲しいと僕も思うよ」

 二人の会話を聞いていたキルシュは何も語らず、ただ目の前の兵士達を眺めていた。

 

 その翌日、リンデンバウムによる兵士への激励の言葉が伝えられる集会が開かれることになり、一行は用意された天蓋の中で待機していた。

「では明日の夜から女王様のお言葉が?」

「ええ、その予定ですわ。前線にいる兵士達と入れ替わりになるので、数日はかかると思いますが」

「ふむ。それで……件の前線とやらはどこなのだ? 地図があるなら見せてもらおう」

「ヴェル! 貴女まさか……」

 ヴェルヴェーヌの言葉にキルシュが緊張した面持ちで振り返り、トレスも厳しい表情を浮かべる。ナストロはそんな二人の様子に戸惑いながらも懐から地図を取り出してヴェルヴェーヌに手渡す。

「ナストロ様!」

 キルシュが非難の声をあげるがヴェルヴェーヌがそれを制し、キルシュに向かって小さく微笑んだ。

「……なに、ちょっとした興味だ。さすがに単身で乗り込むような真似はしない。トレスに怒られてしまうからな」

「トレスだけじゃなくて私も許しませんからね……」

 キルシュがヴェルヴェーヌを睨むが、一方のヴェルヴェーヌはいたずらっぽく笑ってみせる。そんなヴェルヴェーヌの様子にキルシュがため息をつき、ナストロに恨みがましい視線を向ける。

「えっ? 僕ですか? そっ……その、申し訳ありません」

 キルシュの無言の圧力に屈したのか、ナストロが額に汗を浮かべながら頭を下げ、その様子にトレスが無言でナストロの肩を叩く。


「食事までまだ時間があるから私はキルシュと街を見るとしよう。それにリンデンバウム姫が私と話したがっているそうだからな」

 ヴェルヴェーヌが立ち上がると、トレスに向かって小さく頷き、一方のトレスも首を縦にふる。

「ではトレス、ヴェルをお借りしますわ。それでは昼食の時にまた」

「ああ、お願いするよ。ヴェルをよろしく頼む」

「キルシュ殿。私も後で参ります故、それまでどうか姫をよろしくお願い致します」

 トレストナストロの言葉にキルシュが小さく頷くと、ヴェルヴェーヌとキルシュは天幕を後にする。そして残された二人はお互いに顔を見あわせると、小さく笑い出す。最初に口を開いたのはナストロだった。

「そういえばこうして二人で話すのは初めてですね、トレス・クァレンタ殿。訃報が飛び交っておりましたので、まさかご存命だとは思いませんでした。それにこれ程お若い方だとも」

「はははっ、年の事はよく言われますよ。こう見えても若くはないつもりなのですが。それを言うならナストロ殿こそ、その若さで『剣聖』の名を冠し、栄えある近衛騎士団の頂点に上り詰められるとは、大したものだと思いますよ」

 トレスの言葉にナストロは一瞬嬉しそうな表情を浮かべ、天幕の扉を見つめながら小さい声で呟く。

「それでも……キルシュ殿には敵いませんからね。私が彼女に勝ったその暁には……」

 ナストロは突然顔を赤らめて口籠り、その様子に何かを察したのかトレスは小さく笑みを浮かべる。

「なるほど……。端から見るにキルシュはナストロ殿を受け入れているようにも感じますが、そこは男の意地、といったところですか。アルブスの祝福たる彼女を打ち負かすことは容易ではないと思いますが、その想いがあればきっと届くと思いますよ」

 トレスの言葉にナストロは照れくさそうに小さく頷くと、どこかためらいがちに語りだす。

「……トレス殿はかの聖堂騎士団の長を務めた方。いや、トレス・クァレンタとは聖堂騎士の中でも最強の騎士が名乗る名であると聞いております。しかしその名も貴方で途切れ、今の聖堂騎士団長――ジオグラン殿には受け継がれていません。貴方がここにいることと何か理由があるのでは、と少し邪推してしまいますが……」

 ナストロの言葉にトレスは苦笑しながら頭をかく。

「……いろいろ僕も少々複雑な立場でして、その辺りは聞かないでもらえると助かります。それに……僕の仕えている女神は変わりませんよ。ただ、教会はそれを理解できなかった」

 トレスの言葉に一瞬ナストロが首をかしげるが、突然何かを思い出したように腰にさげた剣を撫でながら悪戯っぽくほほえんだ。

「もし……トレス殿にお時間があるならば、昼食まで少し付き合って頂けませんか? 聖堂騎士団長を務めた最強の騎士と打ち合える機会などそうそうありませんので」

 その言葉にトレスも笑顔で首を縦にふる。

「ははっ、お手柔らかにお願いします。キルシュの未来の旦那様の実力を知る良い機会ですし」

「そうなるといいんですけどね……。はぁ……」

 二人の騎士はそのまま天蓋の外へと消えていった。


 キルシュとヴェルは街を散策しながらリンデンバウムの元へと向かっていた。通りに座り込んでいる兵士達が二人に好奇の視線を向けるが、二人はそれを気に留めること無く通りを進んでいく。中には二人を眺めて怪しげな笑みを浮かべる者もおり、その光景にヴェルヴェーヌが小さく呟いた。

「……随分と女が珍しいと見える。女など診療所にたくさんいるだろうに」

「おそらくは私達の格好が珍しいのでは? 衛生士はもう少し簡素な格好ですから」

 キルシュがヴェルヴェーヌに語りかけた瞬間、突然二人の前に数人の兵士が立ちはだかった。そのいずれも顔や腕に包帯を巻いており、一見して負傷兵だということが分かる。

 キルシュは男達の意図を汲みあぐねるかのように首をかしげ、一方のヴェルヴェーヌは小さくため息をつく。すると男の一人が口を開いた。

「おうおう、姉ちゃん達、随分と綺麗な格好してうろちょろしてるみてえだが、あんたらのために命を張って戦った俺達のことは素通りかよ?」

 その言葉にキルシュが瞳を小さく細めて一瞬何かを考えこみ、男達に向かって頭を下げる。

「私達に平和な日常があるのは、その裏で騎士様達が命を賭して国を守って下さっているお陰。至らぬ身ではございますが、微力ながら毎日息災のお祈りをさせて頂いております」

 キルシュが深く頭を下げると、男達は一瞬面食らったように固まり、今度はヴェルヴェーヌに向かって詰め寄る。

「そっちの嬢ちゃんは分かってるみてえだが、お前さんは何か無いのかよ?」

「残念ながら無いな。私はこの国の民ではないし、お前たちが死のうが私には関係ない」

 即答するヴェルヴェーヌを前に、一瞬にして男達の纏う気配が変わる。

「おいおい、アクアビットの人間じゃないならなんでこんなところにいるんだ? ここは戦場だぜ? まさかテメエ、ヴィンサントの間諜じゃねえだろうな?」

 その一言で男達が一斉に笑みを浮かべる。

「そうだな、怪しいぜ。なんでガキがこんなところにいるんだよ。きっと間者に違えねえ」

「なら、まずはいろいろ調べなきゃなんねえな。いろいろとな」

 男達は口元を歪めながらヴェルヴェーヌに詰めより、ゆっくりとその小さな体に向かって手をのばす。

「おやめなさい……彼女に触れたならば、その腕、なくなると思いなさい」

 その瞬間、キルシュが男の手首を摑んでひねり上げる。

「いてて! 折れる、また折れちまう!」

 男が叫び、キルシュが呆れたように小さくため息をつく。

「命をすり減らしていれば心も摩耗するのは道理。それにしてもなんと情けない……これが我がアクアビットの兵とは……って、ヴェル?」

 一瞬、何か違和感を感じたキルシュが首をかしげる。するとヴェルヴェーヌが不思議そうな顔で腹に手をあてて呆然と佇んでいた。いつの間にかヴェルヴェーヌの白い服が赤く染まっており、その腹部には小さな短刀が深々と突き刺さっていた。

「かはっ……」

「ヴェル!!」

 その光景に慌ててキルシュがヴェルヴェーヌに向かって手を伸ばす。まさにその瞬間、突然突風が吹き荒れキルシュは大きく吹き飛ばされる。キルシュは吹き飛ばされながらも咄嗟に受け身を取りヴェルヴェーヌに向かって振り向くと、先ほどキルシュに腕を極められた男が左手を伸ばして立っていた。

「貴方……腕が折れているというのは嘘ですわね……」

 その光景にキルシュが腰の剣に手をかけ緊張気味に呟いた。男の傍らではヴェルヴェーヌが苦しそうに顔を歪めながらうずくまっている。幸いにして致命傷は避けられた様子であったが、ヴェルヴェーヌは蒼白な表情で苦しそうに顔を歪めていた。

「この力……刃に力を篭めたか……。まさか……負傷兵に扮するとは……教会も用意周到な事だ、な」

 ヴェルヴェーヌが苦しそうに呟くと、その右手が淡く輝き銀鎖が出現する。その光景に近くにいた男達が隠し持っていたナイフを抜いて、一斉にヴェルヴェーヌに向かって投擲する。

「させませんわ!」

 その光景にキルシュが咄嗟に腰にさしていた剣を投げつける。剣はナイフを弾きながら通りの彼方へと消えていく。男達は徒手になったキルシュを一瞥すると低い声ではっきりと告げる。

「アクアビット公爵家……ザフトリング家の息女か……。我々に牙を向くことは世界を敵に回すも同義。愚かなことは考えないことだ。それとも貴様の選択がアクアビットの意思という訳か?」

「くっ……」

 男の言葉にキルシュは苦しそうに顔を歪める。そんなキルシュを横目に、男達は膝を付いてうずくまるヴェルヴェーヌに向かって左手をかざし、大きな声で叫んだ。

「世界滅亡の忌まわしき鍵、終世の篝火、闇の女神の走狗よ。ここに女神アルブスの業をもって混沌の闇に還れ!」

 その瞬間、ヴェルヴェーヌの足元から巨大な火柱が立ち上った。力の脈動を一切感じさせることなく、突然地面が燃えた。火柱の勢いは凄まじく、周囲の風を巻き込みながら巨大な渦となり、それはいつしか紅蓮の竜巻へと姿を変える。

 ヴェルヴェーヌの小さな体は一瞬にして火柱に巻き込まれて消えた。

「ヴェル!!」

 思わずキルシュが叫ぶが、燃え盛る竜巻は周囲を巻き込んでその勢いは尚衰えない。

「……このノチェロ聖堂騎士団三翼が一つ、紅翼を今までの騎士と同じだと思わぬことだな。……もはや塵も残っておらぬか」

 男達は燃え盛る竜巻を見つめながらゆっくりと手に持つ武器を収める。その光景にキルシュが怒りを湛えた瞳で男達を睨みつける。

「……よくも、よくもヴェルヴェーヌを。私の大事な友達を……。許さない、貴方達は絶対に許さないわ!」

「貴様が許そうが許すまいが瑣末なことよ。世界はこれで大破壊を免れた。我ら女神の光はあまねく大地を照らし安寧が訪れる。……しかしこれが右手の悪魔――我らの同胞を数多葬ってきた輩とは……なんともあっけない」

 騎士の言葉にキルシュは左手を真っ直ぐに天に向かって掲げ、大きな声で叫ぶ。

「ヴェルが世界を破壊する悪魔など、それこそ貴方がたの妄言。トレスの言葉を信じず、その盲信をもって斯様な少女を手にかけるとは! それでも騎士ですか!」

 キルシュの叫びと共に掲げた左手に小さな光がともる。光はゆっくりと明滅を繰り返しながら輝きを増し、次第に複雑な紋様となってその腕に刻みこまれていく。それに呼応するかのようにキルシュの体が淡い光に包まれる。

「アルブスの祝福とまで言われた貴様の加護か……。直接見たことはないが所詮才に恵まれただけの小娘に我々が遅れを取ることはありえんな」

 その言葉に呼応するかのように、いつの間にかキルシュの周囲には白銀の鎧に身を包んだ騎士達が構えていた。

「……通りにいた負傷兵達は全て貴方がたの変装だったのですね」

「さて……悪魔は散り、我らが戦う理由は無いはずだが、それでもその下らん感傷にすがり、無意味な悪魔の仇討ちを望むか、侯爵家の娘よ」

 騎士達が一斉に武器を手にキルシュを囲み、その光景に全身を光に包まれたキルシュが騎士達に向かってゆっくりと構えを取る。キルシュのその様子に騎士達は眉を潜め、左手を突き出しながら構える。

「……良かろう。宰相殿にはご息女は悪魔に魅入られ、その汚れた魂はアルブスの威光を前に浄化されたと伝えておこう」

 両者の間で緊張が高まり、キルシュがその力を開放しようとしたまさにその瞬間、周囲にヴェルヴェーヌの声が鳴り響いた。

「止めておけ……キルシュが手を出せば、ひいてはアクアビットが責を問われることになる。私の為に怒ってくれるのはありがたいが、な」

 その声に騎士達が驚いた表情で周囲を見渡す。

「馬鹿な! あの炎嵐の中で生きているだと!」

 炎の竜巻は消えずに通りの中心を渦巻いていたが、一瞬その中心が眩く輝いたかと思うと、次の瞬間、まるで最初から何もなかったかのように竜巻がたちどころに霧散した。

「……この程度で我が力を超えられるとは思うなよ、小僧ども」

 その中心には腹を抑えながら佇んでいるヴェルヴェーヌの姿があった。その体からは黒い霧が立ち上り、ヴェルヴェーヌは血に濡れた手を舐めると地面に手をつき、不敵に微笑んだ。

「銀鎖が反応できない不意打ちとは……悪意を消したか。さすが『紅翼』……小癪な真似をする。だがその代償……高く付くぞ!」

 ヴェルヴェーヌが叫んだ瞬間、その足元に巨大な魔法陣が出現し、その中にヴェルヴェーヌの銀鎖が沈んでいく。

「なに!?」

 突然騎士達の足元に巨大な魔法陣が出現し、ヴェルヴェーヌは天に向かって両手を掲げる。

「その生命、少々喰わせてもらうぞ!」

「あ? あああぁあああぁ!!」

 ヴェルヴェーヌの言葉と共に魔法陣から黒い雷がほとばしり、騎士達の体を蹂躙する。次の瞬間、黒雷に絡め取られた騎士達は突然呻き声をあげて苦しみだす。あるものは自分の喉を押さえながらもがき苦しみ、あるものは顔面をかきむしりながらのたうち回る。騎士達の体から黒い霧が溢れだし、黒い霧はまるで吸い寄せられるようにヴェルヴェーヌに向かって集まっていく。

「これが……ヴェルの闇の女神の加護……」

 その光景にキルシュが思わず顔を背ける。騎士達は次々と倒れ伏し、騎士達を絡めとっていた黒雷は忽然と消え去った。それに呼応するかのようにヴェルヴェーヌの周囲に渦巻いていた黒い霧がヴェルヴェーヌに吸い込まれるように消えていく。

「……ふん。この程度でこの私を屠れると思っているあたり、私も随分と見くびられたものだな」

 倒れ伏す騎士達を横目に、ヴェルヴェーヌが腕を組みながら呟く。ヴェルヴェーヌの刺されたはずの腹の傷はいつの間にか消えており、その灰色だった髪は漆黒に染まっていた。その姿にキルシュが思わず叫ぶ。

「ヴェル! 無事ですの? お腹の傷は? 火傷はありませんか? それにその髪は?」

「……気持ちは分かるが、どうやら問答している暇はなさそうだぞ?」

 ヴェルヴェーヌが街のある一点を指すと真剣な表情で呟いた。その瞬間、街の一角が眩い閃光と轟音と共に消え去った。

「なっ! 今度はなんですの!?」

 思わず叫ぶキルシュをよそに、ヴェルヴェーヌは瞳を小さく細めながら呟いた。

「……あれはおそらくトレスの客だ。それよりもキルシュは姫を連れてここを出たほうがいい。おそらくこれからここは戦場になる。それも相当苛烈な戦場にな」

 ヴェルヴェーヌの言葉に我に返ったキルシュは、動揺した様子でヴェルヴェーヌに向かって問いかける。

「でっ、でも! ヴェル達も一緒に逃げないと……」

「……残念ながらそうはいかん。奴らの狙いは私だ。それに姫が私と仲睦まじく手を繋いで歩く訳にもいくまい。アクアビット王家は私とは無関係でなければいけないからな。奴らにとっては民草も王家も関係ない。私に与するものは別け隔てなく殺すぞ。分かったら急げ……時間がない」

「……分かりました。姫を安全なところまでお連れしたら戻りますので、ヴェルはそれまで無茶をしないでください!」

「駄目だ。キルシュは早く姫を連れて逃げろ。殺したくはあるまい? ならば急げ!」

「くっ……」

 ヴェルヴェーヌの言葉にキルシュは小さくうなずき、疾風のようにその場から消え去った。ヴェルヴェーヌは空を見上げながら小さく呟いた。

「さて……やはりあの小僧が来てしまったか。お前にあの小僧は斬れまい。どうするトレス?」

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