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四章:巡合

四章:巡合


 ツェニートから少し離れた森の中、トレスとヴェルヴェーヌは焚き火を囲んで寄り添っていた。

「寒くないかい? ヴェル?」

「いや……トレスと一緒だからな。とても暖かい……」

 トレスがヴェルヴェーヌの肩を抱き寄せ、ヴェルヴェーヌは瞳を閉じてゆっくりとトレスにもたれかかる。

「……ヴェルには辛い思いをさせてしまった。本当に済まない。だが、もう僕がいる。何があっても僕が君を守ってみせる」

 トレスがヴェルヴェーヌを抱きしめる手に力をこめ、ヴェルヴェーヌがその手に自分の手を添える。

「ああ……私もトレスと一緒なら大丈夫だ。もうあいつは……出したくない……」

「大丈夫だ。そんなことは僕がさせない。君が世界の言葉を選ぶその時まで、僕は君と共にあると約束しよう」

 その言葉にヴェルヴェーヌが無言で頷くと、トレスがその頭を優しく撫でる。ヴェルヴェーヌの灰色の髪は焚き火の炎に照らされて茜色に輝き、その黒い瞳は眩いばかりの輝きを宿している。ヴェルヴェーヌはトレスの服を見つめると、心配そうにその上を指でなぞる。

「トレス……ここ……穴が空いてるな……。ひょっとして私を助ける為に?」

 不安そうに語るヴェルヴェーヌの頭を撫でながらトレスが小さく首を横にふる。

「僕は大丈夫だよ。それにヴェルも知っているだろ? 僕は普通の人よりかは死ににくい」

 その言葉にヴェルヴェーヌが瞳を伏せて小さな声で問いかける。

「後悔……しているか?」

 トレスは不安そうに呟くヴェルヴェーヌの頭を撫でると耳元で呟いた。

「まさか。こうして僕は君と一緒にいることができる。それだけで僕の世界はいつだって幸せになるのさ。僕と一緒に生きてくれて、僕を生かしてくれてありがとう、ヴェル……」

 その言葉に照れくさかったのか、ヴェルヴェーヌは小さく頷くと焚き火を眺めながら呟く。

「教会の連中は……私を諦めずにまた来るのだろうな」

「うん……彼らは僕らが一緒にいることを知った。いや、彼の『先見』で知っただろう。おそらくは今度は上位の騎士達が来るだろうね……」

 その言葉に一瞬ヴェルヴェーヌの肩が小さく震え、トレスは優しくその肩を抱き寄せる。

「大丈夫、僕がいる。何があっても僕が君を守るさ」

「だが……だが、次に来るのは、間違いなくあの小僧だ。お前は戦えるのか?」

「……僕は君の為に生きている。僕の命は君の物だ。仮に誰であったとしても君に害為す全てから僕は君を守ると誓ったんだ。それが例え彼であったとしても、だ」

「私は……嫌だ。トレスがあの小僧と戦うのは見たくない……」

 ヴェルヴェーヌの小さい手がトレスの背中に回されて、少女はトレスの胸に顔をうずめて肩を震わせた。

「……奴らは、私を討つことは人々の明日を守るためだと信じていた。その瞳に迷いはなかった。だが私はそんな者達を殺してしまった。そしてトレスも私のせいでかつての仲間と戦わねばならなくなってしまった。許してくれ……トレス」

 腕の中で泣くヴェルヴェーヌを見つめながら、トレスは優しい声で告げる。

「……ヴェルのせいじゃないさ。彼が弱かったから、彼が僕の言葉を信じれていればこんなことにはならなかった。いや、僕が彼の心を変えられなかったからなんだ。全ては僕のせいさ。でも大丈夫さ。彼と違ってあの子はあの『景色』を見ていない。ならきっと話せば分かってくれる。優しい子だからね」

「トレス……」

 落ち着いたのか、ヴェルヴェーヌは恥ずかしそうに下を向きながらトレスの言葉に小さくうなずき、その様子にトレスは満足そうにうなずいた。すると突然トレスが空を見上げ、何事かとヴェルヴェーヌが首をかしげる。すると二人の下に一羽のフクロウが舞い降りた。

「これはキルシュからの返事だね。どうやら無事に手紙は届いたらしい」

「何? キルシュもいるのか?」

 ヴェルヴェーヌは驚いた表情でトレスを見上げ、トレスは朗らかに笑う。

「ああ、彼女は今ツェニートに戻っていてね。ツェニートにいる間は彼女の所でお世話になることになってるんだ。アクアビットを出るにしても今は戦争中だから、様子を見て落ち着くまでの間だけどね」

「そうか……。またキルシュに会えるのか。彼女は息災だろうか……」

 ヴェルヴェーヌは嬉しそうに瞳を細め、トレスも小さく頷く。

「彼女は相変わらずさ。それに彼女が協力してくれるのなら、これ程心強いことはないよ。アクアビットの中においては尚更ね」

「そうか……。だが私が行くことで彼女に迷惑をかけてしまわないだろうか?」

「それは僕も言ったんだけどね、『友達だから』で一蹴されてしまったよ」

「ははっ。キルシュならきっとそう言うに違いない。キルシュに厄介になるつもりは無いが、顔を見ておくのも悪くないな」

「そうだね。彼女もヴェルに会えるのを楽しみにしていたよ。……さて、明日も早い。そろそろ寝ようか」

「そうだな……」

 ヴェルヴェーヌは小さく頷くと、嬉しそうにトレスにもたれかかる。トレスはそんなヴェルヴェーヌの肩を抱き寄せて、優しく頬を撫でる。それが心地よかったのかヴェルヴェーヌは猫のように瞳を細め、程なくして小さな寝息を立てはじめた。

「『アルブスは光を産み、アーテルは混沌を纏う。天秤が傾く時、神の鎖は天倫を紡ぎ、世界を選び取る』」

 寝息を立てるヴェルヴェーヌの髪を撫でながらトレスが続ける。

「光の女神と混沌の女神は表裏一体。ヴェルがアーテルを選んだのではない、僕達がアーテルを選んだんだ。何故皆それに気がつかない……」

 トレスは寝息をたてているヴェルヴェーヌの髪を撫でながら闇に向かって呟いた。



 とある森の中、少し開けた場所で人の死体と思しき肉塊が散乱していた。地面は赤く染まり、その周囲にはやはり同じように原型を留めていない人の死体が転がっている。その傍らで一人の少女が震えていた。

「いっ、いや……来ないで……。助けて……」

 少女を囲むように数匹の巨大な獣が低い声で唸り声をあげている。獣の口の端には食い散らかされた犠牲者の四肢が咥えられており、その光景に少女は奥歯を鳴らして後ずさる。

「やだ……やだ……。お父さん、お母さん……」

 怯える少女をあざ笑うかのように、獣が巨大な牙を覗かせてゆっくりと少女に歩み寄る。後ずさる少女は突然何かに足を取られて尻もちをつく。少女が慌てて足元を見ると、そこには上半身が食いちぎられて消失した死体が転がっていた。

「あ……ああっ……」

 少女は錯乱しているのか目に大粒の涙を浮かべ、その焦点は定まらない。そんな少女を前に、突然獣達が大きく吠えたかと思うと、その内の一頭が少女に向かって飛びかかる。獣の巨大な爪が真っ直ぐに少女に吸い込まれ、少女の視界が赤く染まる。そして少女は迫り来る死を受け入れた。

 獣の爪が少女の首に届くと思われたその瞬間、少女の眼前を赤い光線がほとばしる。

「えっ?」

 繰り出された獣の爪が光に飲まれたかと思うとこつ然と消え去った。次の瞬間、少女の眼前を赤い光が埋め尽くし、周囲にいた獣達は悲鳴を上げるまもなく全て光に飲まれて消えた。

「お日様? 温かい……」

 その光景を前に、少女は朦朧とする意識の中で小さく呟いた。

「悪いな、ちょっと加減を間違えちまった。怪我はないか? 嬢ちゃん?」

 突然声が響き、少女は自分の体が抱きかかえられるのを感じた。慌てて振り向くと、そこには少女を抱きかかえて朗らかに笑う少年の姿があった。

「あ……なたは?」

「おっ? ちゃんと喋れるか。良かった、喉は無事みたいだな」

 少年は少女を抱えたまま周囲に散らばる犠牲者の死体を一瞥して小さく呟いた。

「……おいおい、いくら森の中だっていってもよ、こんなツェニートに近い場所で魔獣が出るかぁ? 普通? 守護結界が弱まってるってもんじゃねえぞ……ったく」

 少年は少女を優しく地面に下ろすと、難を逃れた魔獣たちから少女を守るようにその前に立つ。少年は白銀の鎧と大きな赤いマントに身を包み、そのマントには金色の美しい刺繍が施されていた。少女はその刺繍に見覚えがあったのか小さく呟いた。

「教会の……騎士様?」

 その言葉に少年が小さく笑うと、獣達に向かって叫ぶ。

「さて、ツェニートに行くまでの暇つぶしだ。混沌の海へ戻ってアーテルに可愛がってもらいな!」

 少年の言葉と同時に森の中に赤い閃光がほとばしる。閃光はその動線にある全てを穿ち、光に貫かれた獣の身体が音もなく消失する。獣が悲鳴をあげるが光の乱舞は終わらない。

「綺麗……」

 少女の眼前は光で埋め尽くされ、鬱蒼とした森の中が一面赤く照らされた。

「……ちとやり過ぎたか。まぁ人助けだし……いいよな」

 少年が頭をかきながら眼前の光景に苦笑し、一方の少女は変わり果てた森の姿に思わず目を見開いた。

「森が……なくなっちゃった……」

 少年達の目の前には、先ほどまで覆い茂っていた木々は見当たらず、黒い大地から立ち上る煙とその香りが森が一瞬にして焼き払われた事を雄弁に物語っている。驚いて立ち尽くしている少女を前に、少年が頭をかきながら問いかけた。

「ところで……嬢ちゃん。ツェニートってどっちか分かるか?」


「もうちょっとで森を抜けるからな? 大丈夫か?」

「うん……」

 少年は少女を担ぎながら森の中を歩いていた。僅かに差し込む木漏れ日が鬱蒼とした林床を照らし、二人は木々をかき分けながら森を進んでいく。

「……山菜を採りに来たところを襲われたのか。そいつは……運が悪かったな」

「でもっ! でも今まであんな獣、この森にいなかったの! 突然現れて……お父さんとお母さんが……。それに近所のおじさん達も……」

 少女は何かを思い出したのか、少年の背中で小さく震え出す。そんな少女の様子に少年が奥歯を噛みしめる。

「ああ……だろうな。あの獣――いや、魔に魅入られた魔獣と呼ぶべきか。奴らは本来人のいない、瘴気の溜まった場所に住んでるんだ。本来ならツェニートに張られたアルブスの結界のおかげで奴らがここに近づけるはずがねえんだ」

「じゃあどうしてあの獣はここにいたの? どうしてお父さんとお母さんは食べられないといけなかったの?」

 背中で嗚咽を繰り返す少女の言葉に少年は苦い表情で続ける。

「つまり……この周囲で女神アルブスの加護が打ち消さる『何か』があったってことだ。例えば闇の女神の力が現れた、とかな」

「アルブス様の加護が消えちゃったの? 闇の女神……アーテルのこと?」

 少女が一瞬泣くのをやめて少年に問いかける。そんな少女の言葉に対して少年が何かを答えようと口を開いた瞬間、前方から白い鎧に身を纏った騎士の一団が少年達に向かって駆け寄って来るのが見える。

「ジオグラン様! こんなところにおられたのですか、探しましたぞ!」

 ジオグランと呼ばれた少年は駆け寄ってくる騎士達の姿を認めると、小さく肩をすくめて少女をその場に降ろし、ほほえみながら語りかける。

「もう大丈夫だ。後はあいつらがうまくやってくれる。食い物がないなら教会にくれば、豪華じゃねえがそれなりに食わせてやれる。いろいろあって大変だと思うけど、頑張って生きることを諦めるなよ? いいな?」

 真っ直ぐに瞳を見つめて語る少年を前に、少女も小さく首を縦に小さくふる。そうこうしている間に二人の周囲には純白の鎧に身を包んだ騎士――聖堂騎士達が集まりジオグランを取り囲む。

「一体どちらへ行っておられたのですか? いきなり森に向かって駆け出されたかと思ったら……その少女は?」

 騎士がジオグランの傍らに立つ少女を見て目を細め、少女は不安そうにジオグランのマントの袖を掴んで小さく震える。そんな少女の様子にジオグランは少女の頭に手を置くと、乱暴に撫でて微笑んだ。

「安心しな。みんな教会の騎士達だ。悪いようにはしねえよ」

 ジオグランは少女に向かって笑顔を作ると、騎士達に向かって口早に告げる。

「勝手に出ちまって悪かった。ちょっと『堕ちた』獣がいたんでな。それとこの嬢ちゃんの親が襲われた。遺体はこの先だ。後は頼む」

「まさか、ここはツェニートの眼と鼻の先ですぞ? 『堕ちた』獣が近づけるはずが……」

 ジオグランの言葉に騎士が驚いた様子で問いかける。一方のジオグランは真剣な表情になり、低い声で呟いた。

「……そのありえねえことが目の前で起きてんだよ。アルブスの加護が薄れて、闇の女神の気配が強まってやがる。早く悪魔の右手を何とかしないと……こりゃ本当にヤバイぜ」

 その言葉に騎士達が息を呑み、ジオグランが空を見つめて大きく叫ぶ。

「たった一人に送り込まれた聖堂騎士達がやられたってのは俄には信じがてえが、この俺が、俺達がここに来た。なら、この先どんな賽を振っても出目は変わらねえ。裏切り者もろともアーテルの下に送ってやるぜ!」

 その言葉に騎士達が剣を掲げて一斉に叫ぶ。

「我ら『紅翼』の名に賭けて!」

 そんな騎士達を眺めながらジオグランが小さくつぶやいた。

「……待ってな、トレス。もう逃さねえ」


**


「じゃあ、俺はちょっと調べ物をしてくるから、嬢ちゃんの事は任せた」

 ツェニートに到着したジオグラン一行は街の中心に立つ教会にいた。ジオグランの言葉に騎士が頷き、少女も事情を理解したのか小さく頷く。ジオグランは心配そうに見上げる少女の目の前にしゃがみこむと、朗らかに笑った。

「今は辛いと思うけどよ、生きてりゃ絶対良いことがある。辛かったらいつでも教会にくればいい。これは嬢ちゃんが頑張れるためのお守りだ」

 ジオグランはそう言うと首に下げていたネックレスを外し、少女の首にかける。少女は首にかけられたネックレスに手をあててをなぞると、驚いたようにジオグランを見上げた。一方のジオグランは微笑みながら小さくうなずいた。

「さて……面倒だけど行くか。ノチェロにない文献がツェニートにあるとは思えないけどな」

 

 ツェニートの図書館を訪れたジオグランは、目的の本がないことを確認すると小さくため息をついた。

「……ない、か。案の定、ノチェロの災禍に関する本は全部教皇庁にあるものと同じだ。まぁ初めから期待なんざしてなかったけどな。一応他の棚も探してみるか……くそっ、広すぎだぜ、ここは」

 小さな目録を片手に、ジオグランが図書館をさまよっている最中、時を同じくしてキルシュも図書館を訪れていた。

「神話……だけでもこんなにあるんですの? 正直気が重いですわね……」

 キルシュの目の前には大量の本が並び、本棚を前にしてキルシュが大きくため息をつく。そして本棚から適当に一冊抜き出し、何気なく頁をめくる。

「……混沌の女神アーテルが目覚めし時、陽は光を失い、世界は闇に包まれた。希望が絶望へと塗り替えられ、大地は死に絶えた。……それがノチェロの惨禍。誰でも知っているお伽話ですわね。何故教会がヴェルを追うのか、トレスは詳しくは話してくれませんでしたが、唯一語った言葉がノチェロの惨禍」

 キルシュは本を閉じるとゆっくりと瞳を細めてつぶやいた。

「……教会があそこまで聖堂騎士を動かすからには何が重要な理由があるのでしょうが、このお伽話を信じてヴェルを狙うというのもちょっと考えにくいですわね」

 キルシュは険しい表情になると、いくつかの本を手に取り、抱きかかえるように机へと向かう。腕の中で積み重なった本がキルシュの視界を奪い、キルシュは書庫の角からやってきた人影に気が付かずにぶつかってしまう。

「きゃっ!」

「うわっ!」

 小さな悲鳴と共に抱えていた本が床に落ち、ようやく誰かとぶつかったことを認識したキルシュが慌てて目の前を見る。そこには本の角がぶつかったのか、ジオグランが頭を抱えてうずくまっており、その光景にキルシュが慌てて本をどかす。

「すっ、すみません! 大丈夫ですか?」

「いてて……。いや、こっちこそ不注意だった。その……嬢ちゃんは大丈夫か?」

「いっ、いえ。私は大丈夫ですが、その……本当に怪我などなさっていませんか?」

 キルシュの言葉にジオグランが小さくほほむと、ゆっくりと首を横にふる。

「心配すんな。本に頭をかち割られたとあっちゃ、騎士の名が廃るぜ」

 その言葉にキルシュが何かに気がついたのか、真っ直ぐに少年を見つめて首をかしげながら問いかける。

「そのアルブスの紋章は……まさか貴方は聖堂騎士様でしょうか……? でもその赤いマントは……」

 床に散らばった本を拾っていたジオグランはキルシュの言葉に一瞬手を止め、小さく首を縦にふる。

「ああ、ご明察。教会の聖堂騎士が本にやられたなんて知られたらいい笑い草だ。このことは内緒に頼むぜ」

 苦笑しながら頭をかくジオグランを前に、キルシュも小さく笑い出す。

「ふふっ……聖堂騎士様ってもっと怖い方達だと思っていましたわ。強く、そして厳しい方々だと」

「いや、概ねその理解で正しいと思うぜ。俺がちょっと外れてるだけだからさ……と、俺はちょっと用事があるから、これだけ運んでおいてやるよ」

 ジオグランは拾い上げた本を絶妙のバランスで積み重ねると、片手で持ちながら机へと向かう。それを見たキルシュが慌てて後を追いかける。

「あっ、あの、騎士様。大丈夫です。自分で運べますわ」

「気にすんな。ぶつかって迷惑をかけちまった詫びとでも思ってくれ」

 ジオグランはそのまま手に持つ本を机の上に起き、積み上げられた本を一瞥すると関心したように呟いた。

「……へぇ? アルブスの創世記ばっかりだな。ちょっと意外だな。嬢ちゃんみたいな若い子はみんな英雄譚とかを読むものだと思ってたぜ」

 その言葉にキルシュが小さく首を横に振る。

「神話もなかなかロマンがあって素敵ですわよ。と言っても、ノチェロの聖堂騎士様に対して言う言葉ではありませんが」

「ははっ……違いねえ。神話なんざ今を生きてる俺達には関係ねえ話だけどよ、たまに大事なことが書いてあるんだぜ? まぁ……楽しむつもりで読んでみるといいさ。じゃあな、嬢ちゃん」

 ジオグランはそう言うと、手をひらひらとふりながら去っていく。キルシュは去っていくジオグランを見つめながら呆然とその背中を見つめていた。

「赤いマントに金色の刺繍……どこかで……」


「……たく『時が来るまでここで待て』って言われてもなぁ、教皇様の『予見』は曖昧すぎるんだよ。一度『視たら』その時が終わらないと次の景色が見えないって面倒くさすぎだろ。俺と紅翼を無駄に留め置くなんて随分と景気がいい話じゃねえか」

「ジ……ジオグラン様。ストレガ様をそのように申しては……」

 ツェニートにある教会の一室で、ジオグランが呆れた顔で肩を竦め、周りにいた騎士達が慌ててジオグランを止める。

「……まあいいさ。ここにいりゃ会えるんだろ? その悪魔の右手って奴によ。それとあの裏切り者……トレス、トレス・クァレンタにもな」

 その言葉に騎士達の間に動揺が走る。それぞれの表情に浮かぶのは困惑と僅かばかりの不安。そんな中、騎士の一人が遠慮がちにジオグランに問いかける。

「ジオグラン様……あの男は……」

「……奴は仲間を殺して逃げた裏切り者だ。こともあろうに世界を滅ぼそうとしているアーテルの走狗に尻尾を振ってな。奴らは俺らの大切にしようとしているその全てを踏みにじる。……絶対に、ここで討つぞ」

「はっ!」

 ジオグランの言葉に騎士達の間に緊張が走り、ジオグランは帯刀した剣を撫でながら小さく呟いた。

「お前は……お前だけは俺の手で引導を渡さなきゃなんねえんだ……トレス」


 程なくして陽が落ち、教会で夕食を済ませたジオグランは食堂を出ると騎士達に向かって右手をあげる。

「じゃあ、ちょっと飲んでくるぜ。件の悪魔の話を聞けるかもしれないしな」

「とか言って、ただ飲みたいだけじゃないんですか?」

「ちげえよ、情報収集。大事な仕事だろ?」

「それならわざわざジオグラン様がやらずとも我々が……」

「いいってことよ! じゃあ、朝までには戻るぜ」

 騎士達の追求から逃げるようにジオグランは手を振りながら颯爽と教会から飛び出し、その背中を見つめた騎士達は深い溜息をつく。

「さて、さすがツェニート。こんな時間なのに人が多いぜ。ノチェロとは大きな違いだな」

 夜でも街中に煌々と燃えている灯りを見てジオグランは関心したように言葉を漏らす。通りには楽しそうに酒を飲む男女で溢れ、とてもアクアビットが戦時中の国とは思えない活気に満ちていた。

「なんでぇ、思ったよりも平和じゃねえか……いや、違うな。不安だから忘れたいんだな……」

 ジオグランは宛もなく夜の繁華街を歩き、人が少なくなった通りの外れにある小さな酒場の門をくぐる。

「へい、いらっしゃい」

「一人だ。席はあるかい?」

「ちょうど一人分、カウンターでよろしければ空いておりますよ」

「そうか、じゃあお邪魔するぜ。キツイのを頼む……っと、横を失礼するぜ。お嬢さん」

 促されるままジオグランがカウンターに座り、隣に座っているカップルに小さく会釈をする。その言葉に楽しそうに話し込んでいだ女性がおもむろに振り返り、ジオグランを見つめると驚いた表情で思わず口に手をあてる。

「あっ……貴方は……昼間の騎士様?」

「……そういうお前さんはあの熱心なお嬢ちゃんか。奇遇だな。そちらの男前は嬢ちゃんの良い人かい?」

 ジオグランが楽しそうにほほえむと、その女性――キルシュの隣に座っていたナストロが不思議そうに二人を見つめて首を傾げる。そんなナストロを見て慌ててキルシュが昼間の一件を説明し、ナストロは得心がいったのか頭を下げる。

「これはノチェロの聖堂騎士様でおられましたか。キルシュ殿の恩人ならば私の恩人も同じです。一杯ご馳走させて頂きたいのですが、いかがですか?」

 ナストロが店主に目配せをすると、店主が小さく頷きジオグランにグラスを差し出した。ジオグランは一瞬迷う素振りを見せるが小さく頷くと、グラスを手に取り微笑んだ。

「生憎ぶつかったのは俺だし、恩人と言われるようなことは何一つやってねえ。だが、せっかくごちそうしてもらえるなら遠慮無く頂戴するぜ。ええっと……」

「ナストロ、ナストロ・マラスキーノと申します」

 ナストロが名乗った瞬間、ジオグランの瞳が大きく見開かれ、一瞬グラスを持った手が固まる。そんなジオグランの様子にキルシュとナストロが首を傾げ、我に返ったジオグランがナストロを眺めながら呟いた。

「……まさかこんな所で、噂に名高いかの剣聖ナストロ・マラスキーノ殿に出会えるとは思っていなかったんでね。待てよ……そのナストロ殿は嬢ちゃんの事をキルシュって呼んでたよな。ということは、まさか嬢ちゃんは……」

 驚くジオグランをよそに、キルシュが立ちあがると優雅に一礼をする。

「私はキルシュ、キルシュロッター・ザフトリングにございますわ、騎士様」

 優雅に頭を下げるキルシュを前に、ジオグランは思わず笑い出し、小さく首を横に振る。

「なんてこった。剣聖の次はかのオレアデス・ザフトリング公の息女、アルブスの祝福とまで謳われたあのキルシュロッター嬢ときたか。人は見かけによらないものなんだな。『激震』なんて大層な字名がついてたから正直もっと大女を想像してたぜ」

「あら……ノチェロの騎士様に名前を覚えていただけるとは光栄ですわ。でも私の加護はナストロ様や他の騎士様達とは違って雷も呼べなければ風も起こせない、つまらないものですわ。そんなものが聖堂騎士様のお耳に届くとは、お耳汚しも甚だしいですわ。お恥ずかしい限り」

 苦笑するキルシュを前にジオグランはいたずらっぽく語りかける。

「……嬢ちゃんはいろいろ隠しているみたいだけど、教会の連中はみんな知ってるぜ。アルブスの光と謳われた寵児、キルシュロッター・ザフトリング。その力はこの世の全てを凌駕するってな」

 その言葉に何かを感じたのかキルシュがいたずらっぽく問いかける。

「そういえば騎士様のお名前を伺っておりませんでしたわね。今は付けていらっしゃらないけれど、昼間に見たあの赤いマント。……まさか騎士様は紅翼騎士団の方でしょうか?」

 キルシュの言葉にナストロが驚いたようにジオグランを見つめ、ゆっくりと口を開く。

「……ノチェロの聖堂騎士と言えば一騎で女神の加護を持たぬ凡庸の兵、百を凌ぐと言われております。その中でも三翼騎士団……紅翼、翡翼、そして碧翼の騎士達は数いる聖堂騎士達の中でも精鋭中の精鋭とか……」

 ナストロの言葉にジオグランは小さく笑うと、はっきりと告げる。

「そういえば俺の自己紹介がまだだったな。剣聖とアルブスの祝福に名乗らせて俺だけ名乗らないのは申し訳ねえ。だから名乗らせてもらうぜ。俺の名はジオグラン。ノチェロ聖堂騎士団長、ジオグランだ。家名は訳ありなんでね、ちょっと勘弁してくれ」

 その瞬間、二人のグラスを持つ手が止まり、まるで信じられないものを見るかのように目を大きく見開いた。

「ジオグラン……代々のノチェロ聖堂騎士団長の歴史の中で、初めて『トレス・クァレンタ』の名を継がなかった最初の騎士。紅翼のジオグラン……」

 ナストロが思わず小さく漏らすとジオグランはゆっくりと首を縦にふる。

「ああ、俺がジオグラン。トレス・クァレンタを超える男だ」


***


「そろそろキルシュが指定した場所だな。その前にちょっと休もう」

 ヴェルヴェーヌとトレスは街道を真っ直ぐに南下し、一路王都ツェニートを目指していた。街道にはいくつか大きな街が点在しており、二人は人混みに紛れながら旅を続けていた。

「次はあの街か……。久しく訪れていなかったが、話を聞くに最近では随分と大きくなったようだな」

「ああ、ヴェルが見た時と比べたら大違いさ。きっと驚くよ。あそこはヴィンサントとの国境が近いから、外からもいろいろな物が入ってくるし、きっと美味しいものもたくさんあるよ」

「何、それは本当か? 最近は木の実や獣肉ばかりだったからな、たまには甘い果物でも食べたいものだな……」

 遠慮がちに、しかし物欲しそうに首をかしげるヴェルヴェーヌの姿に、トレスがほほえみながらその頭を撫でる。

「そうだね、仕方ないとはいえ、最近は質素な食事ばっかりだったからね、たまには美味しい物を食べようか」

「本当か!? 嘘じゃないな?」

 トレスの言葉にヴェルヴェーヌが嬉しそうに瞳を輝かせてトレスの顔を見上げ、そんなヴェルヴェーヌを見つめてトレスは満足そうに頷いた。


「ほう? これはなかなかのものだな。祭りでもあるのか?」

 街に入った二人が見たものは、通りひしめき合う露店と、往来を埋め尽くす程の人の波、そして通りの先にある広場に用意された大きな舞台であった。その様子にヴェルヴェーヌが瞳を輝かせ、何かを言いたげにトレスを見つめている。

「なっ、なぁ……トレス……」

「分かっているよ。どうやらお祭りがあるみたいだね。ちょっと見て回ろうか」

「うっ、うむ! 祭りを見るのは久しぶりだからな、少し見ておきたいと思ってな」

「ははっ、分かっているよ。じゃあ、行こうか」

 トレスの言葉にヴェルヴェーヌは満面の笑みを浮かべると大きく頷き、トレスを待たずに足早に露店へと消えていく。トレスはそんなヴェルヴェーヌの背中を見つめながら小さく呟いた。

「……君はいつまでも変わらないな、ヴェルヴェーヌ。変わるのはいつだって人の方だ」

 そんなトレスの視界の端では、ヴェルヴェーヌが露店商の女性と何やら親しげに話し込んでいる姿が映る。その光景にトレスは小さく口元をほころばせて、ゆっくりとヴェルヴェーヌの下に歩み寄る。

「それでね……ここにはたまにヴィンサントの人も買い出しに来るんだよ」

「……ヴィンサント? 戦争中なのにか? 敵国ではないのか?」

 ヴェルヴェーヌの言葉に女性は笑いながら首を横にふると小さな声でささやく。

「……そんなこと誰も気にしちゃいないよ。戦争なんて王様達が勝手にやってることだし、私らはただこうして毎日を平和に生きたいだけさ。誰も殺し合いなんて望んじゃいないしね」

「平和……か。みんなそう思ってくれているといいのだがな……」

 ヴェルヴェーヌが小さく呟くと、突然大きな音が広場から聞こえてくる。

「おっと、始まったみたいだね。せっかくなら見ていきなよ」

「今日は人が多いように見えるが、何か祭りでもあるのか?」

「今日は女神様をたたえるお祭りさ。ほら、広場が見えるだろう? ああして年に一度、光の女神アルブス様の前で踊りと祈りを捧げるのさ」

 ヴェルヴェーヌが広場に視線をやれば、広場に設置された大きな舞台の上で踊り子達が華やかな音楽とともに舞を披露しており、その横には純白の鎧に身を包んだ騎士達が並んでいるのが見えた。それを見るや、一瞬ヴェルヴェーヌの肩が小さく震え、ゆっくりと後ずさる。そんなヴェルヴェーヌの様子に気がついてか、トレスがヴェルヴェーヌの両肩に手を置いて抱きしめる。

「……トレス」

「大丈夫だ。彼らは僕らに気がついていない。だけどあまり長居はしない方が良さそうだね」

「そうだな……。だがもう少しだけ、あの祭を見ていたい。駄目か?」

 ヴェルヴェーヌが不安そうにトレスの手を握りしめ、トレスはその小さな手を優しく握り返しながらゆっくりと首を縦にふる。

「そうだね……ここから見ている分には問題無いだろうから、ちょっとだけ見ていこうか」

 舞台の上では次々に踊り子が入れ替わり、次いで聖歌隊と思しき少年少女達が舞台の上に立った。まだ声変わりをしていない少年達の澄み切った声が周囲に響き渡り、それを聴いていた観衆が思わず恍惚の表情を浮かべる。すると、その歌を聞いてヴェルヴェーヌが小さく首をかしげた。

「この歌……アルブスだけじゃなくてアーテルも讚えるのだな。まだこのような歌が残っていたとは思わなかったぞ」

 ヴェルヴェーヌを背中から抱きしめながら、トレスがその耳元で小声で答える。

「うん。今となっては珍しいけど元々はみんなこうだったんだ。だけど彼が教皇の座に就いてから……いや、彼があれを知ってから、世界は大きく変わってしまった。お陰で今じゃ女神アーテルは邪神扱いだ」

「……ふん、下らんな。アルブスとアーテルは対をなす創世の女神。世界は混乱と秩序の繰り返しの中で育まれ、その栄枯盛衰こそが世の理だというのに」

 ヴェルヴェーヌの言葉にトレスが小さく頷くと、ヴェルヴェーヌを抱きしめる手に力をこめながらつぶやいた。

「ああ……彼らは何も分かっていない。二つの女神を選ぶ創世の天秤は世界の意思。アーテルが世界を滅ぼすんじゃない。世界の意思が、人々の意思がアーテルを喚んだんだ。ならば簡単さ。みんながアルブスを、平和と安寧を願えばいい」

 その言葉にヴェルヴェーヌが悲しそうな表情で小さく首を横にふる。

「それができぬから世界は滅びた、違うか? 人は栄枯盛衰の理の環からは抜け出せぬのかもしれん……。いつもそうだ。殺し、奪い、そこにあるのは欲だけだ。そんな人間達が、世界が、アルブスを選べるものか」

「……そうだね。それでも、安寧を願う人々の心があるのであれば、世界はきっと優しい光に満ちたものになるさ。僕らはそれを信じて見届けるだけだ」

「そうだな……」

 うつむきがちにヴェルヴェーヌがつぶやき、トレスがその頭を撫でながら微笑んだ。

「ヴェルヴェーヌ……。君は何も心配しなくていい。例え世界が君に刃を向けたとしても、この僕が君を必ず守る。僕はいつだって君の隣にいるさ」

「ありがとう……トレス」

 ヴェルヴェーヌがはにかみながらトレスの胸にもたれかかり、小さく呟いた瞬間、トレスがヴェルヴェーヌの体を抱き寄せて歩き出す。突然の事にヴェルヴェーヌが慌てて何かを言おうとするが、トレスの表情を見て何かに気がついたように後ろを振り返えろうとする。

「振り返るな! ヴェル!」

 その瞬間、トレスが小さく叫び、その言葉に全てを察したヴェルヴェーヌはトレスト共に足早に人混みをかき分けていく。ヴェルヴェーヌの手を引きながらトレスが振り返らずに語る。

「騎士ではないみたいだが、明らかに僕らを見つめていた。それにこの人混みだ。相手が暗殺者の類だった場合、僕はともかくヴェルヴェーヌには危険すぎる」

「そうか……できれば祭りを楽しみたかったが、無粋な輩もいたものだな……」

「とりあえず街を出て、最悪また森暮らしになってしまうけど大丈夫かい?」

 足早に人混みをかき分けながらトレスが心配そうにつぶやき、一方のヴェルヴェーヌは笑顔で答える。

「森の食事にはちと飽きていたが仕方あるまい」

「ははっ、じゃあ今度キルシュにあった時にはせいぜい美味しいものを食べられるようにお願いしようかな」

 トレスの言葉にヴェルヴェーヌが苦笑すると、二人は街の外へと消えていった。そんな二人を離れた場所から二つの影が見つめていた。

「……おい、逃げてしまったぞ? 本当にあいつらなのか?」

「特徴からすると間違いないだろう。だが、偶然ここを訪れた男と少女の二人連れという可能性もある。まぁ、それももうすぐ明らかになるだろう」

「なんで俺達がこんな周りくどい事をしなきゃなんねえんだ。殺すならいつも通りサクッとやっちまえばいいだけなのによ」

 男がおどけてみせると、隣にいた青年が男を睨みつけながら首を横にふる。

「……勘違いするな。今回の任務はあくまであの男の素性を知ることと、その隣にいる少女が件の悪魔かどうかを見極めることだ」

「悪魔ねえ……。正直俺には女神様だろうが悪魔だろうがどっちでもいいんだがな。まあ、金さえ貰えば文句はねえさ」

「それでいい……。さあ、見せてもらうぞ。トレス・クァレンタ、伝説と謳われたノチェロ聖堂騎士の頂点の実力とやらを。そして悪魔の少女よ」

 青年が小さく呟き、二つの影はトレス達の後を追って街の外に消えていく。


「とりあえず追ってきてはいないようだ。思い過ごしだといいんだけどね」

 街を出てしばらくした頃、トレスが後ろを振り返り安堵の溜息を漏らす。その隣にいたヴェルヴェーヌも緊張していたのか、胸に手を当てて小さく息を吐いた。

「……偶然だと思いたいが、トレスが間違うはずがない。ならばどうして追いかけてこないのだ?」

 ヴェルヴェーヌが怪訝そうに呟くと、トレスがおもむろに立ち止まる。

「まさか……」

「トレス?」

 ヴェルヴェーヌが心配そうにトレスに声をかけたまさにその瞬間、一本の槍がヴェルヴェーヌの胸をめがけてどこからともなく飛来した。槍がまさにヴェルヴェーヌを貫かんと迫った瞬間、トレスが瞬時にヴェルヴェーヌの前に躍り出ると、腰に携えた剣を引き抜いて飛来する槍を弾き落とす。

「ヴェルは僕の後ろに!」

「……分かった」

 次の瞬間、街道脇の茂みから白い甲冑に身を包んだ騎士達がトレス達の目の前に踊り出る。その光景に思わずヴェルヴェーヌが後ずさると、街道脇の茂みからも白い甲冑に身を包んだ騎士達が現れた。そんな騎士達を見つめながらトレスが眉をしかめながら小さく呟いた。

「……どうして僕達がここにいるって分かったんだい? 僕たちは昨日までは森を歩いていたし、街に出たのは今日だけだ。それにしては君達はまるで僕達がここを通るのを知っていたかのように待ち構えていた。彼の『予見』の加護は近い未来を頻繁に見えるような力じゃない。どうにも解せないね……」

 トレスの言葉をよそに、騎士の一人がトレス達に向かって剣を向けると大きく叫ぶ。

「終世の篝火、悪魔の右手と女神アルブスに背き悪魔に魂を売った裏切り者、トレス・クァレンタ! ここで死んでもらうぞ!」

「……やれやれ。問答無用か。ヴェルは念のため後ろの連中を『縛れる』かい?」

「ああ……無用な殺しはしたくないからな」

 トレスの言葉にヴェルヴェーヌが小さく頷き、その右手に小さな光と共に銀の鎖が出現する。その様子に騎士達の間に動揺が走る。

「あれが……邪悪な女神の加護か……。何とおぞましい……」

 ヴェルヴェーヌの右手に現れた鎖を見て動揺する騎士達を横目に、トレスが大きな声で告げる。

「ノチェロに戻って教皇ストレガに伝えるといい。彼女は天秤に過ぎない。世界は彼女が選ぶんじゃない、君達が選ぶんだとね」

 トレスはそう呟くと、一瞬にして剣を構えた騎士の懐に滑り込み、大きく剣を切り上げる。たったそれだけの動作で凄まじい突風が生まれ、騎士は大きく後ろに吹き飛ばされる。

「ぐっ……この裏切り者が……」

 吹き飛ばされて地面を数回はねた騎士が地面に倒れたままトレスを睨み、難を逃れた騎士達が間を置かずに一斉にトレスに向かって駆け出した。トレスは迫る刃を事も無げにいなすと、そのまま剣の柄で騎士の喉を打つ。騎士はその場に崩れ落ち、その真横から別の騎士の槍がトレスを襲う。

「筋は悪くないけど、その程度じゃ僕には勝てないな」

 トレスは死角から放たれた槍の一撃を半身を捻って交わすと、そのまま更に体を捻り繰り出された槍の穂先を切り落とす。トレスの勢いは止まらない。トレスはそのまま更にもう半回転して体をねじり込み、騎士の顎を蹴りぬいた。騎士がその場に膝から崩れ落ち、トレスは大きく飛び退きヴェルヴェーヌの横に立つ。

「面倒だ! ひとまず寝ていてくれ!」

 トレスはそう言うや剣を大きく横に薙いだ。その瞬間、トレスの周囲に巨大な竜巻が生まれ、騎士達はなすすべもなく空高く巻き上げられる。やがて風の勢いが止み、空高く舞い上げられた騎士達がゆっくりと地面に落下する。その光景にトレスがヴェルヴェーヌに向かって叫ぶ。

「ヴェル!」

「任せろ!」

 その瞬間、ヴェルヴェーヌの右手が眩く光ったかと思うと、地面に巨大な魔法陣が現れた。光が文字を刻んだかと思うと魔法陣が一瞬黒く輝き、次の瞬間、大地から黒い光柱が天に向かって立ち上り落下してくる騎士達の体を包み込む。その瞬間、騎士達が異変に気がついたのか蒼白な表情で叫ぶ。

「馬鹿な……体が……動かん!」

 黒い光に包まれた騎士達はそのまま受け身を取ること無く地面に強かに打ち付けられ、苦悶の表情を浮かべている。

「……貴様らの魂を『縛った』。しばらくそこで寝てるがいい」

「こ……の……悪魔めが……」

 騎士達が苦しそうに呟くが、ヴェルヴェーヌは悲しそうに騎士達を見つめて瞳を細める。動けない騎士達を横目に、トレスがヴェルヴェーヌの頭を撫でながら告げる。

「ありがとう、ヴェル。僕一人だとどうしても荒っぽい方法しか思いつかなくてね。助かったよ」

「構わん。私とて無用な殺生は好まぬ。それにこやつらの気持ちも分かるつもりだ」

「ヴェル……。だけど……僕は君を守るためなら彼らを斬ることをためらわない」

「分かっているさ……。私もみすみす殺されるつもりはない。世界の為にもな」

 トレスの言葉にヴェルヴェーヌが小さく首を縦にふり、二人は地面にうずくまる騎士達を横目に、足早にその場を去った。

 その光景を離れた場所から見つめる二つの影があった。

「……あの優男、すげえな。一瞬で聖堂騎士をやりやがった。しかもあいつ、まだ本気じゃねえ」

 男の言葉に、隣にいた青年が小さく首を縦にふる。

「それにあの少女の使った力、尋常ではない……」

「ああ……さっきのは凄かったな。アルブスの加護は左手でしか使えないはずだろ? なんであのガキは右手なんだ? それにあんな力、見たことも聞いたこともねえぞ」

「……私にも詳しくは分からんが、どうやらあれが教会が追っている『悪魔』とやららしいな。忌まわしき右手の力。破壊と混沌の女神の加護……か」

 青年の言葉に隣にいた男が肩を竦めてみせる。

「しかし教会の聖堂騎士ってのは一人で兵士百人に勝るとも言われてるんだろ? ちょっと拍子抜けだぜ」

「そう言うな、俺達とてあの男と真正面から戦って勝てるかどうか分からん。それにあの娘の不思議な力のこともある。ともあれ仕事は終わりだ。引くぞ」

「はいよっと。騎士様達も密告通り動いてくれて、あの優男と嬢ちゃんの力も見れた。上々だな。エウクスタの旦那に何かうまいものでも食わせてもらうとするか」

 青年が小さく呟くと、隣の男も首を縦に振り、次の瞬間、二人の姿がその場から忽然と消えた。


「教会が動いた? しかもダンスクの街で?」

 トレスとヴェルヴェーヌが騎士に襲われた翌日、王都ツェニートのあるザフトリング邸の一室で、宰相オレアデスが部下の報告を聞いて顔をしかめていた。その隣には腕を組んで壁に寄りかかるキルシュの姿が見える。男は報告を終えると一礼と共に部屋を去り、それを見届けたオレアデスが小さくため息をつきながら語りだす。

「再び教会が動いた、か。どうやら件の悪魔とやらはツェニートに近づいているみたいだな。彼らの目的はどこかは分からんが……」

「それで……アクアビットとしてはいかがなさるおつもりですの?」

 それまで沈黙を保っていたキルシュが口を開く。

「何もせんよ。別に彼らが罪のない民草を傷つけたという話は聞いていない。教会には教会なりの大義名分があるのだろうが、それは我がアクアビットのそれではない。ただ、無用な混乱を民にもたらさないかと、それだけが心配だ」

 キルシュはオレアデスの言葉にどこか安心したような表情を浮かべ、小さくため息をつく。オレアデスはそれを見逃さなかった。

「……時にキルシュよ。最近図書院通いと聞いているが急にどうしたのだ? 学問に目覚めたというわけでもあるまい?」

「少し調べたいものがありまして。しかしもうお父様の耳に入ったのですか?」

 キルシュは表情一つ変えずに答え、オレアデスは机の上に置かれた紙に手を伸ばすと小さく瞳を細めた。

「……ふむ。どうやらお前はいつのまにか信心深くなったようだな。創世の女神に関する本を十冊以上もか。早く返却しろと催促が来ておるぞ」

「そっ、それは……」

 キルシュはオレアデスに手渡された紙を受け取ると、焦ったように瞳を泳がせる。そんなキルシュを見つめながら、オレアデスは急に真剣な表情になり、キルシュを真っ直ぐに見つめながら語る。

「……お前がその才能故に世界に退屈していることは知っている。しかし、いたずらに首を突っ込むものではないぞ? 特にその悪魔の話が本当であれば、相手は聖堂騎士を数十人も葬っている化け物だ」

 オレアデスの言葉にキルシュは答えない。そんなキルシュを見つめながらオレアデスが続ける。

「それに教会の邪魔をすればお前とてどんな誹りを受けるか分からん。侯爵家の、しかも現役宰相の息女が教会に対して弓引く逆賊とみなされれば、わしとて庇うことは難しい。わしが異端を庇うとなれば、最悪、我がアクアビットも教会に異端と見なされかねん。そうなれば静観している周辺諸国が我が国に攻め込む格好の口実となろう」

「それは……承知しておりますわ」

「うむ。興味を持つのは構わんが、くれぐれも短慮は控えるようにな。もっとも聡いお前の事だ、そんな心配は杞憂だろうが」

 キルシュの言葉にオレアデスは満足そうに頷き、キルシュはそのまま部屋を後にした。自室に戻ったキルシュは窓の外を眺めながら、空を飛ぶ鳥を眺めながら小さくつぶいた。

「……立場というものは存外重いものですわね。私にも、あの子達のように自由に飛べる羽があったらいいのに……。ヴェル、トレス……どうか無事で」


 時を同じくして、王宮イーリスの一室でエウクスタが手にした文を見つめながら嬉しそうに顔を歪めていた。

「トレス・クァレンタ……やはりあの男が生きていたか。そしてそれに同行している少女……異端の力を使い数十もの聖堂騎士を退けるとは、やはり教会が追っていたのはこの少女で間違いなさそうだな」

 エウクスタは小さく呟くと、目の前に視線を落とし、悲痛な表情で跪いた。

「我が誇り高きアクアビットは決して卑劣なヴィンサントには屈しませぬ。……王子の無念、必ずやこのエウクスタが晴らしてみせましょう。王子が目覚めた暁には、ヴィンサントをアクアビットで塗り替えた地図をご覧に入れましょうぞ」

 エウクスタの目の前には大きな寝台が置かれ、そこに一人の青年が小さな寝息を立てていた。暗殺未遂の憂き目に遭うもかろうじて一命を取り留めたアクアビット王子――キトゥルスである。エウクスタは未だに目覚めぬキトゥルスを前に深く頭を下げ、決意に満ちた表情で呟いた。

「闇の女神の力を持つ少女と、かつてのノチェロ教皇庁、聖堂騎士団の頂点を極めた男……最後のトレス・クァレンタの名を冠する男。我がアクアビットの礎になってもらうぞ」


「ダンスクで教会に嗅ぎつかれたことは予想外だったけど、何とかキルシュとの約束の日までには間に合いそうだ」

「本当か? キルシュに会うのも久しぶりだから楽しみだ。もっともこのような状況で彼女に会うのははばかられるが……」

 ヴェルヴェーヌが嬉しそうなに笑みを浮かべると一転、浮かない表情でうつむいてしまう。そんなヴェルヴェーヌの心中を察したのか、トレスがヴェルヴェーヌの頭を優しく撫でながらほほえみかける。

「大丈夫。キルシュもヴェルの力になりたいって言ってくれたんだ。彼女にいろいろお世話になってしまうのは心苦しいけど、今はそれが一番安全だからね。お礼は後ですればいいさ」

 トレスの言葉にヴェルヴェーヌは小さく首を横に振ると、俯いたまま呟いた。

「……ヴィジタルの街で、私を守ろうとしてくれた男が殺された。でもそれが最初じゃない。教会によって村が焼き払われみんな死んだ。私に関わった多くの人が死んだ。その上キルシュにまで何かあったら私は……」

 ヴェルヴェーヌの瞳には涙が浮かび、その手は小さく震えていた。そこに普段の冷静な態度は見られず、トレスを見つめる瞳には不安と僅かばかりの恐怖が宿る。トレスはそんなヴェルヴェーヌを見つめると正面から強く抱きしめる。

「……ヴェルの両手には世界がある。君がここまで苦しまねばならないのは、ひとえに僕のせいだ。君の中からアルブスの光を奪ってしまったのは他でもないこの僕だ。君の中にアルブスが戻れば……」

 トレスが呟いた瞬間、ヴェルヴェーヌの瞳が大きく見開かれ、強張った表情でトレスを見上げる。

「駄目だ! それは許さんぞ、トレス! お前は私と共にいてくれると誓った! 今までも、そしてこれからも私達は一緒だ!」

 突然叫んだヴェルヴェーヌを前に、トレスは一瞬驚いた表情を見せると、ヴェルヴェーヌを抱きしめる手に力を入れる。

「……ああ、誓うよ。僕はいつだってヴェルと共にある。君のためだけに生きると誓ったあの日から、僕の命は君のものだ」

「トレス……もう……私を一人にしないでくれ。お願いだから……」

 ヴェルヴェーヌは泣きながらトレスを強く抱きしめると、優しく語りかける。

「ヴェルの心配も分かるつもりだよ。彼女には立場がある。いくら彼女が『ザフトリング』であっても、教会と真っ向からぶつかるのはまずい。『キルシュロッター』個人としてなら問題ないんだろうけどね」

 その言葉を聞いて、ヴェルヴェーヌがトレスの腕の中で小さく頷く。

「ああ……キルシュには家族がいる……。あの子の温かい家庭を私が壊すわけにはいかない……」

「……アクアビットは形式的には教会を立ててはいるけど、その実は疎ましく思っているのも事実。彼らが積極的に教会に協力することはないだろうけど、異端視されるのはまずいからね。いざとなったら教会に配慮するかもしれない。そうなったらいくらキルシュといえど、僕らを庇いぬくことは不可能だろう」

「それなら尚更、私達はキルシュの世話にならない方がいいんじゃないのか?」

 ヴェルヴェーヌ心配そうにトレスを見上げて呟くが、トレスは小さく首を横に振る。

「そうなったらその時さ。今は彼女を頼ろう。それもまた、友としての在り方だよ、ヴェル」

「しかし……」

 ヴェルヴェーヌが小さく頷いた瞬間、突然トレスが剣を抜いて脇の茂みに向かって投げつける。次の瞬間、小さな悲鳴が響き、街道に一匹の獣が踊り出る。それを見たトレスがヴェルヴェーヌに向かって小さくほほえんだ。

「……今日は早くに夕食にありつけそうだね」

 獣はそのまま勢い良く走り、トレスとヴェルヴェーヌの目の前を駆け抜けていく。それを見たヴェルヴェーヌが小さく右手を掲げると、小さな光とともに銀色の鎖が出現し、蛇のようにうねりながらすさまじい速度で獣に迫る。鎖は獣に追い付くや、瞬く間にその体を縛り上げる。

「『死』の加護なら痛みもなく逝ける……許せよ」

 ヴェルヴェーヌが小さく呟くと、獣を縛っている鎖が一瞬小さく輝き、獣の体から黒い霧が溢れ出す。次の瞬間、獣は力なく瞳を閉じてその場に倒れ伏した。

 ヴェルヴェーヌは横たわる獣を眺めながらゆっくりと瞳を閉じ、その頭をトレスが優しく撫でる。


 街道脇にそれた森の中、黙々と獣を解体するトレスの傍らで、ヴェルヴェーヌが悲しそうにその光景を眺めていた。その視線に気がついたのか、トレスがとつとつと語りだす。

「ヴェル……アーテルの力は決して忌み嫌われるものじゃない。ただ、人はその本質を理解できないだけなんだ」

「ああ……分かっている。分かっているさ。だが……私にとって、死はあまりにも近すぎる」

 ヴェルヴェーヌは絞りだすように呟き、その表情には悲しみが浮かぶ。ヴェルヴェーヌは続ける。

「……私が世界を滅ぼすかもしれない存在だと知れば誰でも怖れるだろうさ。教会が私を必死に屠ろうとするのはある意味、至極当然のことだ。そうは思わんか?」

 ヴェルヴェーヌは自嘲気味にトレスに向かって問いかける。作業を終えたのか、トレスが手についた血を吹きながらヴェルヴェーヌに真っ直ぐに向き合うと、ゆっくりと口を開く。

「死は生の始まり。そして生は死をもってその根源に還る。女神アルブスは光を産み、秩序を産み、そして命を育んだ。だがそれもアーテルの力があればこそなんだ」

 トレスの言葉にヴェルヴェーヌは答えない。そんなヴェルヴェーヌを見つめながらトレスが続ける。

「女神アーテルは闇を産み、混沌を産み、そして命を蝕む。だからこそ地上に降りた魂は、常に生と死の間を回り続けることができる。この世界は常に誕生と破壊の環の中にある。君が教えてくれたことさ」

「……ああ。所詮私は天秤にすぎん。人が、世界が秩序と混沌、どちらを選ぶかは私の預かり知らぬことだ。私達のすべきことは、世界の声を聞き、その選択を見届けるだけだ。仮に世界が再び壊れることになったとしてもな……」

「そうだね……。僕らにできることは、人が再び過ちを犯さないよう祈るしか無い、か。教会はどうしてそれに気が付かないんだ。ノチェロの惨禍はアーテルが引き起こしたけれど、彼女を――アーテルを選んだのは他でもない僕ら自身だということに」


****


「ノチェロの惨禍ですか? 遥か昔、それこそ神話の世界がまだこの地上にあった頃に起きたという大破壊のことですよね? ノチェロを中心に起きたからそう呼ばれているとか。子供の頃よく読んでもらった絵本にありましたね。懐かしいなぁ。僕もよく言われましたよ。悪いことをすると女神アーテルに喰われてしまうと」

 ツェニートのとある酒場の一角で、キルシュとナストロがグラスを片手に話し合っていた。

「でもノチェロって教皇庁がある、いわば聖地ともいえる場所。そんな場所がなぜ女神の不興を買ったのでしょうか?」

 ワイングラスを傾けながらキルシュが首をかしげ、一方のナストロも答えを持ち合わせていないのか苦笑しながら答える。

「教皇庁といっても、彼らの女神はあくまで光の女神アルブスだけです。彼らからしたら混沌の女神アーテルは邪神ですし、アーテルはそんな教会の態度が気に入らなかったかもしれませんね」

「あらあら、穏やかじゃありませんわね。気に入らないで世界を滅ぼされてはたまりませんわ」

「まあ……お伽話ですからね。あまりまじめに受け取ってもしょうがないかなって思いますが……」

 ナストロが皿の上の肉を上品に切り分けていく。そんなナストロを見つめながらキルシュがいたずらっぽく首を横にふる。

「あら? でもノチェロには惨禍の爪跡という大きな穴がありますわよ? 見るのにお金をとっているようですけど」

「あれはまあ、いわゆる権威付けって奴じゃないでしょうか? 教会にかかればなんでも女神の縁の品、奇跡の賜物に早変わりですよ」

「あら? アクアビットの近衛騎士団長様がそんなことを言っていると教会に知られたら大変ですわね。どこに耳があるかわかりませんわよ? 先日のジオグラン様のこともありますし」

「はははっ、そうですね。軽率でした」

 ナストロは楽しそうにグラスを傾け、キルシュもそれに合わせてグラスに口をつける。するとナストロが不思議そうに首をかしげながらキルシュに問いかける。

「しかしいきなりどうしたんですか? まさかキルシュ殿がお伽話に興味がおありだとは、少々意外でした」

 その言葉に一瞬キルシュは何かを言いかけるが、小さく首を横にふる。

「ただの興味ですわ。学ぶことはいつだって楽しいですから」

「ははっ、それは何とも頼もしい。…ところで」

 その瞬間、笑っていたナストロの表情から笑顔が消え、真剣な眼差しでキルシュを見つめながらゆっくりと口を開く。

「情報は隠されていますが、先日、ダンスクの街付近で何かあったようです。聖堂騎士が派遣されたと思ったら、翌日治療院に寝転がっていましたからね。正直何があったのかは分かりませんが、あの数の聖堂騎士達がベッドに並んで横たわっている様子はなかなか壮観でしたよ」

 その言葉にキルシュの眉が僅かに釣り上がる。そんなキルシュを横目にナストロが続ける。

「……これで我が領内で負傷した聖堂騎士の数はゆうに百を超えます。今回もそうですが、件の悪魔の右手とやらが教会の騎士達をこうも容易く退けているという事実は我々にとっても大きな意味を持ちます。そして我々アクアビットは必ずしも教会に従順ではない。王宮内でも特に最近それが顕著に見られるようになりました」

「ナストロ様……まさかそれは……」

 その言葉にキルシュの瞳が鋭く細められ、ナストロは小さく首を縦にふる。

「ええ……、お察しの通りです。教会が追うその悪魔の正体を突き止めるべく、一部で動きが見られます。知慧院が動いているとの話もあります。彼らが動く以上、ある程度本気みたいですね」

「まさか……そんな根も葉もない噂の為に知慧院が動いたとでも?」

 驚くキルシュを横目に、ナストロが小さく首を縦にふる。

「ヴィンサントとの戦が膠着状態な今、軍部はその戦況を覆す何かを欲しています。仮に悪魔でないとしても、聖堂騎士を屠った実力は本物でしょうから、国としては是非ともその悪魔とやらの正体を明らかにしたいようですね」

「神ならぬ悪魔頼みですか。全くもって愚かな話ですわ。そんなことを考えるくらいならまだ空飛ぶ船を作る方が現実的ですわ」

「全く……正直そんなことを考える暇があるのであれば、和平の為の策でも練れば良いとは思いますが、王子の一件でもはやそれも叶わぬ夢となりましたし……」

「仮にその悪魔の正体が                                                                                                                                                                     腕の立つ傭兵だったとして、戦争に素直に協力してくれるとは思えませんわ」

「確かに……恐らく教会から身を守るという条件で懐柔しようとするでしょうね。もっとも相手が本物の悪魔で、我々の言うことに聞く耳を持たぬのであればそれも叶いませんが、件の悪魔とやらは何故か教会の聖堂騎士しか手にかけていない。ならば話し合う余地があるのだと踏んだのでしょうね」

「全く下らない……」

「ええ……全く。これ以上お互い血を流す意味など何もないというのに、誇りと体面を重んじるアクアビットらしいといえばらしいですが。しかしそれも貴族に限った話で、市井の者には関係ありませんし……」

 二人はそれ以上は語らず、ただ机の上に置かれたグラスを傾けた。


 時を同じくして、ツェニートにある教会の一室で、ノチェロから送られてきた手紙を受け取ったジオグランがゆっくりと立ち上がる。

「……ようやく教皇様が予言を『視た』か」

「それでは!」

 その言葉に同じ部屋にいた騎士達が緊張気味に立ち上がる。ジオグランは小さく頷くと良く響く声ではっきりと告げる。

「ああ……『紅翼』の出番だぜ」

「ダンスクの街で奴らが現れたと聞いた時、我々はここに待機させられましたからな、待ちわびましたよ、この時を」

 騎士の一人が剣を撫でながら小さく笑みを浮かべるとジオグランも首を縦にふる。

「ストレガ様の要求は一つ。裏切り者のトレス・クァレンタと終世の篝火――悪魔の右手を屠れ、とさ」

 その言葉に騎士の一人が怪訝な表情で首を傾げる?

「悪魔の右手はいいとして、トレス・クァレンタも、ですか? 連れ戻すのではなく?」

「……そうみたいだな。まぁ当然だろう。奴はアルブスに背いた裏切り者だ。今じゃ悪魔の騎士気取りだそうだ」

「ジオグラン様がそう仰るのであれば……」

 ジオグランは手紙を騎士に渡すと、騎士達は足早に部屋を後にする。広い部屋に一人残ったジオグランがツェニートの夜景を眺めながら小さく呟いた。

「……悪魔の右手は世界を滅ぼす邪悪。この大地の上で笑っている命を守るためにも、ノチェロの惨禍は二度と引き起こすわけにはいかねえ。なのに……なんであんたはそこにいるんだ……親父」



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