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三章:宰相の娘と騎士団長

三章:宰相の娘と騎士団長


「キルシュお嬢様。旦那様がお呼びでございます」

 ツェニートはその美しさは随一と呼ばれたアクアビットの王都であり、街の中心にはツェニートを象徴するかのように巨大な宮殿イーリスがそびえている。宮殿からそう遠くない場所に位置するとある大きな屋敷の一室で、女中とおぼしき女性がうやうやしく頭を下げる。その様子にキルシュと呼ばれた少女は手をひらひらとふりながら了承の意を示す。

「お父様が一体何の用でしょうか。姫様との会食まだ先ですし……」

 そう言うと、キルシュは小さなマントを羽織って部屋を後にする。陽は既に傾き、空は茜色に燃えている。斜陽がキルシュの美しい赤い髪を照らし、腰まで伸びた髪が時折吹きこむ風にたなびいている。

 硬い大理石の廊下に靴の音が響き渡り、キルシュは大きな扉の前で足を止める。

「お父様、キルシュですわ」

 キルシュは扉を軽くノックすると、それに呼応するように中から小さな声が響き、キルシュはゆっくりと扉を開く。

「これから夕食ですのに、どうなさったのですか? お父様が私をわざわざ部屋に呼ぶなんて珍しいですわね」

「ああ……少しお前の耳に入れておきたい事があってね」

 部屋の中には大きな机が置かれ、一人の初老の男性――キルシュの父親であるオレアデス・ザフトリングが腰をかけていた。キルシュは扉を閉めるとゆっくりと部屋の中へと進む。

「……つまりお母様の耳に入れたくないと?」

 キルシュの言葉にオレアデスは小さく頷くと、ゆっくりと口を開く。

「我がアクアビットがヴィンサントと開戦してからこれで四年目になる。始めはお互い停戦の落としどころを探していたが、王子の暗殺未遂の一件からもはやそれも叶わぬ。陛下は近々大規模な遠征を考えておられる。それはもはや止められまい」

 その言葉にキルシュが思わず瞳を細めてオレアデスに詰め寄る。

「しかし……王宮では騎士団長のナストロ様を始め、多くの方がこれ以上の戦いは無意味と仰っていたではありませんか。陛下もお父様の言葉ならきっと……」

 キルシュの言葉にオレアデスは悲しそうに首を小さく横に振る。

「……王子の一件を境に全てが変わったのだ。多くの臣がヴィンサントを討つべしと声高に叫んでいる。血を流すのは民草だというのに……勝手なものだ」

 キルシュの家――ザフトリング家は代々アクアビットの宰相を輩出しており、その血筋は王家の傍流たる侯爵家である。現当主、オレアデス・ザフトリングは宰相としてその政治手腕をふるっていたが、その温和な性格から影では戦争強行派からは臆病者と評されていた。

 子供の頃より父の背中を見て育ってきたキルシュには、父親の為政者としての在り方を理解し、何よりもその国民を大切に想い、臆病者としての誹りを受けつつも戦争を終わらせるべく奔走している父の姿を誇りに思っていた。

「道理で……最近、私に国のために剣を取れと仰る方が多いんですの。私の力は人を傷つけるためのものではないというのに、困った方達ですわ」

「っ! まさか! お前を戦場に送り出すつもりか! 斯様な年端の行かぬ娘に剣を持てとは、そこまで堕ちたか……あるいは、そこまで疲弊したか……。まあ良い……キルシュよ、お前は何も心配せずとも良い。後はわしに任せておきなさい」

「どうせ大公様の一派でしょう? キトゥルス王子が都合よく倒れ、後に残るはリンデンバウム姫のみ。ならば今王が倒れてしまえば、次の王座は大公様のものですからね。私を抱き込めば姫の扱いも楽になると考えてのことでしょう」

「これ、そういうことを言うものではないよ。キルシュ」

 オレアデスがキルシュに向かって小さく首を横にふり、キルシュはいたずらっぽく舌を出す。オレアデスは真っ直ぐにキルシュに向かい合うと、先程までとは一変、真剣な表情でゆっくりと口を開く。

「……気になることを聞いたのだ。ノチェロ教皇庁の聖堂騎士が我がアクアビットで謎の呪いに倒れたとか。それもかなりの数だ。それに表には出ていないが、行方不明になっている騎士もかなりいるそうだ」

 オレアデスの言葉にキルシュの瞳が一瞬小さく細められる。そんなキルシュの様子をよそにオレアデスが続ける。

「既にお前も知っているかもしれんが、先日北にある小さな村が邪教徒を匿ったとして聖堂騎士によって焼き払われたそうだ。そこは隠れ里だったらしくてな、我々もその村の存在を教会から聞かされるまでは知らなかった程だ」

 オレアデスは小さく息を吐くと、だが、と付け加えて続ける。

「いくらアルブスの光が届かぬ邪教の輩とて、それらも大事な我がアクアビットの民だ。王からの許しが出たとはいえ、力ある聖堂騎士が邪教徒の粛正という大義名分の下に民草を殺すというのは正直看過しかねる。大きな声では言えぬがな」

「あらあら、教会に聞かれでもしたら首が飛ぶ発言ですわよ? でもその聖堂騎士様と言えば、一人で百の兵士にも勝ると謳われる方々でしょう? そんな騎士様達が誰かに遅れを取るとは思えませんわ。何かの間違いではないのでしょうか?」

 キルシュの言葉に、オレアデスの瞳が鋭く細められる。

「……実はな、最近陛下もその噂を気にかけておられてな。お前の言うように聖堂騎士団といえばその全てが女神アルブスの加護を持つ屈強な騎士達だ。そんな騎士達が我が国内で次々と倒れたとあらば、では誰が騎士達を討ったのか、という話になる」

「俄には信じがたいお話ですわね。聖堂騎士団といえば軍隊を率いてようやく渡り合えるような手合ですし。お父様には何か心当たりでも?」

 その言葉にオレアデスが小さく首を横に振る。

「ノチェロ――教皇庁から通達があってな、これからも聖堂騎士をアクアビットに送るそうだ。お前ならこの意味、分かるな?」

 キルシュがオレアデスを真っ直ぐに見つめて小さく呟く。

「……件の邪教徒とやらはまだ打ち取られていない。そして多くの騎士をたった一人の邪教徒にあてるということは、その力は聖堂騎士を遥かに凌駕する、といったところでしょうか?」

「うむ。多くの騎士を退けたその者の力は推して知るべし、ということになる。たかが一介の邪教徒の成せる業ではあるまいよ」

 その言葉にキルシュがゆっくりと瞳を細めながらオレアデスに問いかける。

「それで……アクアビットは、陛下はいかがするおつもりですか? まさかその噂が真実ならば、件の邪教徒を戦の道具に使うとでも?」

 キルシュの言葉にオレアデスが苦しそうに表情を歪めて小さく頷いた。

「……現在知慧院がその邪教徒について調べているそうだ。何でも混沌の女神アーテルを崇拝しているという事は分かったのだが、それ以外はまだ何も分かっておらん」

「創世の女神アルブスに対をなす破壊の女神アーテルですか……」

「うむ。知慧院は我らに女神アルブスの加護の力があるように、その異教徒にアーテルの加護があってもおかしくはないと考えているようだな」

「その力が聖堂騎士を退けたと?」

 キルシュの言葉にオレアデスは小さく首を横にふる。

「今はそこまでは分からん。だが陛下がそれに並々ならぬ興味を抱いているのも事実だ。おそらくはその力を戦争に使えれば、あるいはヴィンサントを打ち破れるやもしれんとお考えのようだ……」

「……」

 オレアデスの言葉にキルシュは答えない。そんなキルシュを眺めてオレアデスは続ける。

「さて、わしが何故お前を呼んだのか、だったな。今は戦争も激化の一途を辿り、国内においては治安も乱れ、それに加えて例の邪教徒の件もある。お前が『特別』なことは重々分かっているが、それでも昔のようにふらっと旅に出られると、わしもリザも心配なのだ。分かってくれるな?」

「あらあら……珍しく真面目なお話が続くので、私にまたまつりごとに参加しろと言われるのかと思いましたが……」

 キルシュはいたずらっぽくほほえむとオレアデスが続ける。

「それにお前が旅に出ている間のナストロ君の顔が見ていられなくてな。彼は良い男だぞ。家柄を差し引いてもその性格と人望、そして騎士としての力、全てにおいて言うことなしだ。いい加減、彼の申し出を受ける気にはならんのか? キルシュよ」

「……結局それが本命でなくて? まったく、随分と回りくどい事をしますのね、お父様も。確かにナストロ様は良い方ですが……私はまだまだ若輩。妻という大役を果たせそうにもありませんわ」

 キルシュの言葉にオレアデスが何かを言いかけるが、部屋の扉が叩かれて夕食の宅が整った事が伝えられる。

「あらあら、残念ですけど夕食の時間ですわね。お母様を待たせる訳にはいかないので、私は先に行っておりますわ」

 その言葉を待ちわびていたかの様にキルシュが朗らかにほほえむと、食堂へと足早に消えていく。その背中を見つめてオレアデスが小さくため息をついた。


 その日の夜、キルシュは自室でベッドに横たわりながらオレアデスの言葉を反芻していた。

「教会が動く……教皇はあの子を葬るまで追い続ける。さらにあの子の力と存在は王家に知られ、戦争の道具にされる。世界はあの子を逃さない。それでもあの子は世界のために歩き続ける……こんな残酷なことって……」

 キルシュは窓の外を見つめながらゆっくりと瞳を細める。暗闇の中に上弦の月が浮かび、キルシュは自らの左手を月に重ねながら呟く。

「……あなたは、あなた達は死んでいた私の心に色を与えてくれた。退屈という名の籠に囚われ、絶望という名の日常に蝕まれていく私の魂に新しい世界を教えてくれた。だから……あなたは私が絶対に守ってみせますわ。ヴェル……私の大切なお友達」

 小さく呟いたキルシュの耳に突然窓を叩く音が聞こえ、キルシュは慌てて窓を開く。するとどこからか一匹のフクロウが部屋に舞い込んできた。その足には小さな文が結ばれており、キルシュは手慣れた様子でそれを外す。

「……トレスは無事にヴェルに会えたのですね。良かった……」

 キルシュはフクロウに括りつけられた文を読みながら思わず笑みをこぼし、急いで引き出しから便せんを取り出すと何やら書き綴る。

「これをトレス達にお願いね」

 したためた文をフクロウの足に括り付けると、フクロウは小さく鳴いて夜の闇へと飛び去っていく。それを見届けたキルシュは小さな声で呟いた。

「世界は誰も貴女を認めない。でも私だけは……」



 翌日、キルシュはツェニートの中心にそびえる王宮イーリスに赴いていた。長い廊下の横は鍛錬場になっており、多くの騎士達が剣を手に持ち打ち合っている姿が見える。キルシュがその光景をしばし眺めていると、突然一人の騎士がキルシュに向かって駆け寄ってくる。

「これはこれは、キルシュロッター殿。今日はいかがなさいましたか? まさか、この僕に会いに……という事だったらいいなぁ……なんて。ははは」

 騎士が兜を脱ぐと、そこにはキルシュよりも少し年上と思しき青年が爽やかな笑顔でほほえんでいた。そんな青年を前に、キルシュは小さく礼をする。

「あら? 今日はせっかくナストロ様に会いに来ましたのに、そのような態度では少し悲しいですわ?」

 その瞬間、騎士の表情から笑みが消え、真っすぐにキルシュを見つめて驚いたように叫ぶ。

「ほっ、本当ですか! 本当に僕に……? 夢じゃ……ないですよね?」

 ナストロと呼ばれた騎士は子供のように目を大きく見開き、感動しているのかその肩は小さく震えている。そんなナストロの様子にキルシュは小さく苦笑するとそのまま続ける。

「鍛錬が終わったらお茶でもいかがですか? 少々お尋ねしたい事がありますの」

「もっ、もちろん! では後で!」

 ナストロはそう言うと走りながら鍛錬場へ消えていく。その背中を見つめながらキルシュが小さな声で呟いた。

「……二枚目で性格も良く、人望も厚い。そして腕も立つ。更にあの若さで栄えあるアクアビットの近衛騎士団長を務めるお方。揃い過ぎですわね」

 その瞬間、キルシュの後ろから声がかけられる。

「おやおや、代々宰相を排出する名門中の名門のザフトリング公爵家において、アルブスの祝福とまで言われる程に抜きん出た才覚を示した時代の寵児、キルシュロッターにそこまで言わせるとは。ナストロ君の日々の努力もようやく実りそうだね」

 キルシュはその声に聞き覚えがあるのか、嬉しそうに振り向いた。

「オリトリウスおじさま!」

 キルシュが振り向いた先には壮年の男性が立っており、キルシュは笑みを浮かべながら深く礼をする。

「最近の陛下はいつもキルシュの事ばかり気にしているよ。兄さんの後を継ぐのはいつだってね。最近は戦で内政に割ける人員が不足しているんだ。正直今すぐにでもキルシュには僕らを手伝って欲しいくらいだよ」

 オルトリウスと呼ばれた男性の言葉にキルシュがいたずらっぽく首を横に振る。

「何を言うのですか。父の後を継ぐのはおじさまですわよ。それに何度も言っているように私にまつりごとは向きませんわ」

「何を言う。正直僕は早くキルシュに全部渡して引退したいんだよ。年寄りを大事に思ってくれるなら、ここは是非ナストロ君と結婚して兄さんの後を継ぎ、このアクアビットを導いてくれたまえ。陛下だけでなく義姉さんもそれを願っているはずだよ」

「はいはい……。そうやって周りから固めていくのが大人の汚いやり方ですわね……全く。私まだ十六ですわよ」

「何を言う。十六と言えば立派なレディじゃないか……っと、どうやら王子様が来たようだね。邪魔者はここいらで失礼するとしよう。早く孫の顔を見せて年寄りを落ち着かせてくれたまえ。ははは!」

「っ! おじさま!」

 キルシュが抗議の声を上げると、オリトリウスは笑いながら足早に去っていく。そして先ほどから背後に気配を感じていたキルシュは、苦笑しながら振り向いた。

「やっ……やあ。お待たせしました……キルシュロッター殿……」

 そこにはどうやら先ほどのオリトリウスとキルシュの会話を聞いたのか、耳まで赤く染まったナストロが佇んでおり、恥ずかしそうに明後日の方向を見ながらぎこちなく語りだす。

「あっ、あのですね! じっ、自分は子供はまだ早いと言いますか……、いや、子供が嫌いとかそういう意味ではなくてですね……あの……」

 ナストロは動揺しているのか、その言葉は一向に要領を得ない。キルシュはそんなナストロを一瞥すると小さくため息をつき、このままでは埒が開かないと半ば強引にナストロの手を取ってほほえんだ。

「……相変わらずうぶなお方ですのね、ナストロ様は。おじさまの戯れ言は置いておくとして、それでは行きましょうか。それと何度も言うように私の事はキルシュとお呼び下さいませ」

「でっ、では……キルシュ殿。その、手が……」

「私の手がどうかしましたか?」

「いや、そっ、その……。キルシュ殿のようなうら若き乙女が男の手を掴むなど……。いや、嬉しいのですが……いやいや……ですが……」

「はいはい……。これさえ無ければ素敵なお方ですのに……」

 キルシュはうろたえた様子のナストロを強引に引っ張りながら、回廊の奥へと消えていった。


 宮殿から出た市街地の一角にあるとある店の奥で、ナストロとキルシュは向かい合ってテーブルを囲んでいた。

「戦争についてですか……正直難しい所ですね。ヴィンサントは山岳地帯が多くて、平野では無敵を誇る我々の騎馬隊でも攻めあぐねているのが現状です。それに相手の中には強力な女神の加護を持つ者もいるらしく、敵の地の利もあわさってなかなかに厳しい戦いを強いられているのも事実です」

 その部屋は予め二人のために用意されたものであり、周囲に人の気配はない。キルシュは真剣な表情でナストロの言葉に小さく頷き、一方のナストロは苦しそうに眉をしかめるとゆっくりと続ける。

「正直、守りの堅いヴィンサントにこちらから攻め入る利はあまりないのです。我々は専守防衛に努めるべきでしたが、王子の一件以降、陛下は変わられた……」

「……件の暗殺未遂の件ですわね。しかしこうも多くの兵を戦争に割いてしまうと、逆に隣国のストレガが何もしてこないのも気になりますわね」

 キルシュの言葉にナストロは小さく首を横に振る。

「一応同盟国ですからね。でもどちらかが弱った時にストレガが何かをしてくる可能性も否めません。今は同盟という紙切れ一枚を信じるしかない状況です。本来であれば戦争などしている状況ではないのですが……。ご存知かとは思いますが、民の中で不安と不満が高まっております。治安も悪化の一途を辿っておりますし……」

「作物の値段が高騰していますわ。戦の備蓄にほとんど取られてしまったので流通量が少なくなっていますし。今年は比較的豊作だったからそれでも良いのですが、来年はどうなるか。飢えは人の心を蝕み、ひいては国を蝕むこととなりましょう」

「ええ……その点に関してはお父上であるオレアデス公が尽力なさっておられます。それでなくても国内は不穏な動きがあるというのに……」

 思わず漏らしたナストロの言葉に、キルシュは一瞬瞳を細めて問いかける。

「それは……教会の事でしょうか?」

 その言葉にナストロが驚いた様子で目を見開き、隠す気がないのか小さく頷いた。

「……やはりご存知でしたか」

「父からあまり出歩くなと釘を刺されましたわ。鳥は籠の中では羽ばたけないの言うのに」

 キルシュがいたずらっぽく笑うと、ナストロが苦笑しながら首を横に振る。

「オレアデス公の気持ちも分かります。聖堂騎士と言えばアルブスの加護を持つ精鋭中の精鋭。一人一人が強大な力を持ちます。僕とて遅れを取る気はありませんが、彼らを複数相手にして無事でいられるかと問われれば正直難しいでしょうね」

「そんな聖堂騎士達が何者かに倒され、昏倒した状態で教会に運び込まれた。それには呪詛とも思える不可思議な力が働いていて騎士達は未だに目を覚まさない、というおまけ付き、でしたわね」

 キルシュの言葉にナストロが真剣な表情で首を縦にふる。

「……あまり大きな声では言えませんが、この件に関しては陛下をはじめ、多くの者達が関心を持っています。日頃の教会への莫大な献上金を快く思っていなかった文官たちは教会の弱みを握る絶好の機会と考えたのでしょうね。しかし武官達と陛下の関心はそれとは別にあるようですが……」

「……随分と面倒くさいことになっておりますのね。平和を司るはずの教会も新しい教皇様が即位なさってからは随分と血生臭いですし、アクアビットもいつの間にかヴィンサントと開戦しています。静観を決め込むストレガも最近きな臭い話をいくつか耳にします。何やら世界がおかしな方向に流れているように感じますわ」

「全くです……」

 ナストロはそう言うと、突然わざとらしく窓の外に視線をやると、ぎこちなくキルシュに向かって振り返る。

「あっ……あの……。キルシュ殿。もし……もし、迷惑でなければ、その……明日、夕食をご一緒しませんか? 最近美味しい店を見つけまして……。あの、無理にとは、いいませんので……」

 ナストロは余裕がないのか、その端正な顔は耳まで赤く染まり、それでも真っすぐにキルシュを見つめながらたどたどしく語る。そんなナストロを前に、キルシュは満面の笑みを浮かべながら小さく首を縦にふる。

「あら、それは楽しみですわね。……それではエスコートは期待してよろしいのでしょうか?」

「はっ、はい! お任せ下さい! このナストロ・マラスキーノ、剣に誓って!」

「……夕食は剣に誓うものではありませんわよ、ナストロ様。ところで……」

 突然キルシュの瞳が小さく細められ、そんなキルシュの様子に何かに気がついたのかナストロの纏う気配が一変する。その表情には先程と同様に照れた笑みを浮かべているが、その瞳の奥に獅子を彷彿とさせる鋭い輝きが宿っている。

「しかしここのケーキは中々ですね。食べきるのが勿体無いくらいです、ねっ!」

 ナストロは微笑みながらフォークを手に持ち、ケーキに伸ばしたかと思うと、次の瞬間、窓に向かって投擲した。

 投げられたフォークは窓を音もなく貫き、宵の闇へと消えていく。次の瞬間、周囲にくぐもった悲鳴が響き渡る。その声を聞くや、ナストロは腰の剣に手をかけながら窓の外に飛び出した。

「どこの手の者かは知らぬが、その程度でこのナストロ・マラスキーノの前に立つとは舐められたものだ。出てこい!」

 暗闇にナストロの声が木霊するが、それに応える者はいない。ナストロはしばし周囲を見つめながら立ち尽くし、小さく首を横に振りながら申し訳無さそうにキルシュに語りかける。

「……申し訳ありません。どうやら逃げられてしまったようです」

 ナストロがうなだれながら席に戻ると、キルシュはまるで気にしていない様子でティーカップを傾ける。

「……どちらの『お客様』でしょうか?」

 その言葉の意味を理解したのか、ナストロは苦笑しながら肩をすくめてみせる。

「穏健派の筆頭であるオレアデス公の息女であるキルシュ殿。そして武官の頂点の一つたる近衛騎士団長ながらも穏健派の僕。どちらが狙われてもおかしくないですね。戦争を好む強硬派か、オレアデス公の失脚を狙う者どもか、まあ相手が誰でもあまり変わりませんが……」

「もしくは私の力が目当か……せっかく美味しいケーキでしたのに、無粋な方達ですわね」

 その言葉にナストロは苦笑し、キルシュも肩をすくめておどけてみせる。


「もう夜も遅いですし、先ほどのことも気になります。お送りしましょう」

「あら、それは頼もしいですわ。私にそのようなことを仰ってくださるのはナストロ様だけですもの」

 キルシュの言葉にナストロは思わず小さく笑う。

「はははっ、このアクアビットで貴女に手を出すような愚か者はそうそういないでしょう」

「あら? それは私が『ザフトリング』だからですか? それとも『アルブスの祝福』だから?」

 キルシュはいたずらっぽく左手に視線を移し、ナストロが苦笑しながら首を横にふる。

「……その両方ですよ、レディ」

「でもナストロ様はこうして私を守ってくださいますわ」

「それは男の意地という奴です。たとえ至らなくとも、男は好きな女性を守りたいと思うものなのですよ」

「ふふっ……近衛騎士団長様にそうおっしゃって頂けるとは、光栄ですわね」

 キルシュは嬉しそうにほほえみ、ナストロも小さく笑う。二人はそのまま夜の喧騒の中へと消えていく。

「私はここで大丈夫ですわ。今日はお付き合い頂きありがとうございました。ではまた明日、ナストロ様のエスコートを楽しみにしておりますわ」

 二人がツェニートの繁華街のとある大きな辻に差し掛かかった頃、キルシュがナストロに向かって小さく頭を下げる。そんなキルシュを見てナストロが慌てて首を横に振る。

「しかし、ここでは……。屋敷までお送りします」

「ちょっと野暮用がありますの。お気持ちだけ頂いておきますわ。それともナストロ様は野暮なお方なのかしら?」

「いっ、いや。僕はそんなつもりじゃ……」

 キルシュの言葉に慌てるナストロを前に、キルシュは微笑みながら首を横に振る。

「冗談ですわ。でも心配して下さって有り難うございます。ちょっと買い物をしようと思いまして……」

「そういうことでしたか。でも先程のことも気になります。くれぐれも大通りから外れないで下さい。それを約束して頂けなければ、このナストロ、野暮を承知でキルシュ殿から離れません」

 その言葉にキルシュは一瞬驚いた表情を見せると、真っ直ぐにナストロを見つめて満面の笑みを浮かべて小さくうなずいた。

「はい。約束いたしますわ。ナストロ様に野暮な方になって頂いては困りますもの」

「それなら安心です。それでは、くれぐれも気を付けて下さい。では……また明日お会いするのを楽しみにしております」

「私もですわ。それではごきげんよう」

 キルシュの言葉にナストロは嬉しそうに小さく首を縦に振ると、そのまま通りの中へと消えていく。その背中を見つめていたキルシュが小さくため息をつくと、ゆっくりと口元を綻ばせた。

「大切に思われるというのも存外悪くないですわね。あの方の前でなら私は女性でいられるかもしれません……。さて……」

 キルシュはそのまま通りを真っ直ぐに通りぬけ繁華街を抜け、人のいない倉庫街へと向かっていた。周囲には飾りのない単調な作りの建物が並んでおり、キルシュは建物を縫うように奥へと進んでいく。そして開けた場所に出ると突然立ち止まる。

「さて……誰かは存じませんが、あれからずっと『視て』いますわね。そろそろ現われたらいかがですか? レディを覗き見るのは良い趣味とは言えませんわね」

 キルシュがそう呟いた瞬間、キルシュを取り囲むように周囲に黒い影が現れた。影は全身を黒い服に身を包み、背格好から男と分かる。男たちは無言で剣を抜くとゆっくりとキルシュとの間合いを詰める。一方のキルシュは突然現れた賊に驚くこともなく、不愉快そうに眉をひそめた。

「大方私を拐かしてお父様と取引でもしたいのでしょうが、この手の無粋なエスコートにはいい加減飽きていますの。どうせ時間の無駄ですし、お引取り願えないでしょうか?」

 キルシュがつまらなそうにため息をつきながら男達に向かって語りかける。しかし男達は無言で剣を構えてゆっくりと距離を詰める。そんな男達の様子に、キルシュは嬉しそうに口元を釣り上げる。

「……どうやら今までの方とは違うみたいですわね。それほどまでにお父様が怖いのですか? それともこの私が狙いでしょうか? ふふっ……それはそれで、怖いですわね」

 小さく笑うキルシュをよそに、突然男の一人が大きく踏み込み、一切の躊躇いを見せずに真っ直ぐにキルシュの足に向かって剣を突き出した。一瞬の出来事にキルシュは思わず目を大きく見開き、次の瞬間、怪しく笑った。

「……迷わず足を狙いますか。なるほど、あなた方は本当に今までの方と違うようですわね」

 キルシュは素早く屈むと無造作に手を振るう。その瞬間、剣を握った男の瞳が驚愕に染まった。

「馬鹿な……」

 男の剣はキルシュの足にたどり着くことはなく、差し出されたキルシュの指に挟まれて止まっていた。男が思わず小さく呟き、手に持つ剣はキルシュに掴まれて動かないのかその肩は小さく震えている。

「……せっかく期待しましたのに、この程度とは。……期待した私が馬鹿でしたわ」

 剣を指で止めたままキルシュは小さくため息をつくと、ゆっくりと瞳を細めて低い声で男達に告げる。

「もう十分ですわ。ごきげんよう」

 その言葉と共にキルシュが小さく笑ったかと思うと、そのまま指で挟んでいた剣を圧し折った。甲高い音が夜の空に響き、折られた剣の切っ先が石畳の上を跳ねる。その光景に男達は目を見開き、慌ててキルシュから飛び退いた。

「あら、お逃げになるのですか? それではお見送りいたしますわ」

 キルシュが小さく笑った瞬間、キルシュの掌底がいつの間にか男の胸にめり込んでいた。音を置きざりにし一撃は男を大きく吹き飛ばした。空気が大きく揺れ、吹き飛ばされた男は倉庫の壁を粉砕してまだその勢いは止まらない。男はいくつかの建物の壁を突き破りようやく止まる。

「馬鹿な! あの距離を一瞬だと!?」

 眼前の光景に男達が思わず声を荒らげ、動揺した様子でゆっくりと後ずさる。男達とキルシュとはそう遠く離れていないが、踏み込みだけでは掌底を当てられる距離ではなかった。しかしキルシュはそれをやってのけた。

 動揺する男達をよそに、キルシュは吹き飛ばされた男の方角を見つめながら小さくため息をつく。

「……ちゃんと加減しましたのに。またお父様にお叱りを受けてしまいますわ」

「くっ……舐めるなよ、小娘。殺すなとは言われているが、生きていれば文句は言われまい。まずはその四肢をもいでくれる!」

 男達がいきり立ち、それぞれが剣を左手に持ち帰ると一斉にキルシュに向かって駆け出した。その様子にキルシュが瞳を細め、小さく微笑みながらつぶやいた。

「あら、あなた方も加護を持っていらしたのですね。でも、女神の力はこういう事に使うとは、あまり感心しませんわね」

「ぬかせ! 小娘が!」

 男が叫ぶと同時にキルシュに向かって剣を振り下ろす。その瞬間、剣が小さく輝いたかと思うと男の足元が大きく隆起し、それは大きな波となって真っ直ぐキルシュに向かって突き進む。波と化した地面の隆起がキルシュの下に辿り着いた瞬間、地面から鋭い土の槍がキルシュに向かって突き出した。

「ぐっ……うぅ」

 キルシュが小さくほほんだ瞬間、男の膝には先程キルシュに襲いかかった土の槍が深々と突き刺さっていた。男は一瞬何が起きたのか理解できない様子で自らの足を見つめ、次の瞬間、苦悶の声をあげる。

「レディに対して随分と無粋な贈り物をするのですね。お返ししましたわ」

 キルシュは別段特別なことは何もしていない。ただ刹那の内に自らに迫る土の槍を掴みとり、そのまま圧し折って男に向かって投げただけである。うずくまる男を横目にキルシュは自分を取り囲む男たちに向かって告げる。

「もう遅いですし、そろそろ終わりにしませんこと? まだおやりになるならどうぞ皆さんでかかっていらして。そうでないならその方を連れてお帰りなさい」

 キルシュはそう言うや、ゆっくりと左手を天に向かって掲げる。夜の空に浮かぶ月光を受けて、その左手が淡い輝きを宿す。小さな輝きは明滅を繰り返し、キルシュの左手に複雑な紋様となって浮かび上がる。

 紋様はゆっくりと広がり、次第にキルシュの左腕全体が淡い輝きに包まれる。その光景に男の一人が小さく呟いた。

「あれが……キルシュロッター・ザフトリングの加護。アルブスの祝福とまで謳われた力が、まさかこれ程とはな……」

「あら、ご存知でしたのね。私の力を知っているのは城でも一部の方々のみ。それを知っているということであれば、話が早いですわ。皆様には少しお聞きせねばならないことができましたわ」

 キルシュは笑顔で微笑み、夜の空に男達の悲鳴が木霊した。


**


 翌日、キルシュは再び王宮に訪れていた。

「それでね、お兄さまの容態が回復に向かっているって聞いたの。私とても嬉しくて……」

「まあ……キトゥルス王子が。それは喜ばしい事ですわね、姫」

 どこか王宮の豪華な一室で、美しいドレスに身を包んだ少女がキルシュに向かって話しかけている。年の頃はキルシュと同じくらいに見えるが、その頭につけられた豪華な髪飾りがその少女の身分を雄弁に物語っていた。

「もう! キルシュったら、二人だけの時は名前で呼んでって言っているでしょ!」

「はいはい、分かりましたわ。でもここだけですからね? リンデンバウム」

 リンデンバウムと呼ばれた女性はキルシュの言葉に満足そうに頷き、キルシュは小さくため息を付く。するとリンデンバウムは真剣な表情になり、その身に纏う気配が一変した。そんなリンデンバウムの様子にキルシュは小さく瞳を細めて言葉を待つ。

「……キルシュも知っての通り、ヴィンサントとの停戦協定が破棄されて以来、国の治安は悪化の一途を辿り、民の心は荒んでいるわ。本来であればこのような不毛な戦争は一刻も早く終わらせたいのだけど、お父様はお兄様の一件で人が変わってしまったかのように戦争に明け暮れてしまわれた……」

「ヴィンサントによるキトゥルス王子の暗殺未遂の件ですわね……。でも王子はこうして無事だった訳ですし……」

 キルシュの言葉にリンデンバウムは悲しそうに首を横にふる。

「それでも……お兄様が卑劣な手段で命を狙われたという事実は変わらないの。王宮内ではアクアビットの誇りにかけてヴィンサントを誅せよとの声が高くなって、もはやそれは止まりそうにないわ。かろうじて私とキルシュのお父様であるオレアデス公とで抑えているのだけど、もうそろそろ限界。この前も大規模な派兵が決まってしまったし……」

「それに関しては父も悔やんでおりましたわ。国の威信と国民の命を天秤にかけて国の誇りを選んだ訳ですから……」

「もはやこうなっては戦争を収める事は不可能だわ。でも……それでも私はこの馬鹿げた争いを終わらせたいの! その為には私が表に出る必要があるわ。テラスから手を振っているだけで戦争が終わるはずないもの」

 その言葉にキルシュが驚いた様子で目を大きく見開き、慌てて首を横にふる。

「いけません! キトゥルス王子の件もありますし、これでリンデンバウムの身に何かがあったら……」

「いいの。私も少しでも祖国の為に命をかけてくれている兵士達を慰められれば、と思っているから」

「つまり……慰問に向かうと?」

 キルシュの言葉にリンデンバウムは小さく頷き、その様子にキルシュは腕を組んで考え込むそぶりを見せる。そんなキルシュの心境を察してか、リンデンバウムがキルシュに向かって不安そうに小さく呟いた。

「それで……キルシュにお願いがあるの。慰問に行く時……その、一緒に来てもらえないかしら? ナストロにお願いしてもいいのだけど、彼は近衛騎士。父上をお守りするという役目を疎かにさせる訳にはいかないの」

「……」

 キルシュは真っ直ぐにリンデンバウムを見つめて語らない。リンデンバウムは続ける。

「……本当はキルシュが戦場に行きたくはないのは知っているの。でもキルシュが来てくれるというならお父様も納得すると思うから……これは私の我儘なの……。キルシュを戦いに巻き込むつもりはないし、道中一緒にいてくれるだけでいいの。駄目……かしら?」

 リンデンバウムは不安そうにキルシュを見つめ、そんなリンデンバウムの様子にキルシュは小さい溜息とともに笑みをこぼす。

「……私がリンデンバウムのお願いを断る訳が無いでしょう? 分かりました……私もお供致しますわ。でもこれっきりですわよ?」

 キルシュの言葉に一瞬リンデンバウムが複雑な表情を作る。

「私の我儘に付き合ってくれてありがとう……キルシュ」

「リンデンバウムの我儘は今に始まったことではありませんから大丈夫ですよ」

 キルシュが苦笑しながら頷くと、リンデンバウムは嬉しそうにキルシュを見つめて朗らかに笑う。すると何かを思い出したようにリンデンバウムが口を開く。

「そう言えばキルシュは最近のアクアビットで起きた教会絡みの話を知ってる?」

「……多少は」

「じゃあ話が早いわ。その教会が追いかけているのが実は悪魔だって噂って本当なのかしら? 多くの聖堂騎士が返り討ちにあったって」

 リンデンバウムの言葉に一瞬キルシュは眉をひそめ、小さく首を横に振る。

「……正直何とも言えませんわね。我が国に悪魔がいるなんて戯れ言を信じる気にもなりませんし、多くの者は教会が根を広げるのに使っている方便だと考えていると思いますわ。騎士に関しては……件の悪魔とされた者が単純に強者だっただけかと」

「でも教会の聖堂騎士よ? 多くの聖堂騎士がその誰かにやられちゃったのは事実なのでしょう? お父様をはじめ、多くの臣下達がそれを信じて、その実態を探るべく動いていると聞くし、それに知慧院も動き出したと聞いているわ。……ねえキルシュ、その悪魔って本当にただの噂なのかしら?」

 真っ直ぐにキルシュを覗きこむリンデンバウムに対して、キルシュは苦笑しながら肩をすくめてみせる。

「悪魔の真偽はともかくアクアビットの思惑なら分かりますわ。教会に対する牽制と、仮にその悪魔と称された者が本当に聖堂騎士を退ける程の強者であるならば、あわよくば戦力に取り込もうとでも考えているのでしょう」

「戦力ね……一人が加わったくらいで戦争が終わるなら、こんな戦争はとっくに終わっているというのに。……あっ、でもキルシュは別よ。あなたの力なら本当に戦争を一人で終わらせられそうだし」

「リンデンバウム……、私は……」

 その言葉にキルシュが悲しそうに瞳を伏せ、それを見たリンデンバウムが慌てて首を横に振る。

「あっ、ごめんなさい。そういう意味じゃないの。お父様はまだあなたを諦めていないみたいだけど、この私がそんなこと絶対させないわ。友人を殺し合いの道具になんて絶対させないんだから!」

 その言葉にキルシュは優しくリンデンバウムを抱きしめ、その耳元で小さく囁いた。

「……ありがとう、リンデンバウム。私の大切なお友達」


 時は少し遡り、王宮のとある一室で一人の白髪の男が豪華な椅子に腰をかけていた。その目の前には全身を黒い服に身を包んだ男が跪き、何かを話している。

「失敗したか……相手があのザフトリングの娘ならばそれも致し方あるまい。しかし、宰相殿にも困ったものだ。今こそヴィンサントを打ち破る好機だというのに、ここぞという所で邪魔をする。つくづく戦況を読めぬ方だ」

「いかが致しますか? 始末を?」

 跪いた男の瞳に鋭い輝きが宿る。すると白髪の男は小さく首を横にふる。

「それはならん。穏健派とはいえ、オレアデス公の手腕なくして我がアクアビットの繁栄はありえん。直接手を出せぬから、こうして搦め手に頼る羽目になる。しかし、件のザフトリングの娘の力、所詮噂話だと思っていたがまさかこれ程とはな。あながちあの噂も間違いではないかもしれん」

「しかし私には正直あの手練の者達が年端もいかぬ小娘に遅れを取ったとは俄に信じがたく……。おそらくは昼に共にいた近衛騎士団長が戻ってきたのではないかと」

 白髪の男は外を眺めながら瞳を細め、楽しそうに口元を吊り上げながら語る。

「そういえば貴様は知らんのだったな。一部の者の間にだけまことしやかに語られるあの噂を。何故あの娘がアルブスの祝福と呼ばれているのかを。今まで陛下が何故あのような小娘にご執心だったのかが分からなかったが、今回の件で確信したわ」

「それほどまでなのですか、あの娘は!?」

 男が驚いた表情で思わず語気を強め、白髪の男は小さく首を縦にふる。

「噂が本当であるならば、あの娘は……まさにアルブスの奇跡そのものよ。奴が男であったならば、この戦況も容易に覆る程のな。剣の腕はアクアビット随一と謳われているあのナストロですら敵わぬというのもおそらく嘘ではあるまい」

「あの小娘は『剣聖』ナストロ・マラスキーノをも凌ぐと?」

 跪いた男が困惑気味に漏らし、一方の白髪の男はゆっくりと瞳を細めて頷いた。

「案ずるな、オレアデス公に関してはまだ策はある。それよりも教会共がアクアビットで何やら不穏な動きをしているのが気になる。あくまで噂だが、どうやら我が国には百にも及ぶ聖堂騎士を葬った悪魔がいるそうだ。これには陛下も大層気にかけておられてな、見極めよと仰られた。人と金は好きなだけ使え、手段は問わん」

「はっ!」

 男は小さく頷くと、白髪の男は窓の外に広がるツェニートの夜景を眺めながら小さく呟いた。

「……皆腑抜けおって。我らがアクアビットの血脈に刻まれた誇り、勇猛果敢なる先達の意思を断じて汚す訳にはいかん。必要とあらば……我が栄光あるアクアビットの為ならば、このエウクスタ、オレアデス公とて斬る事に躊躇いは無い! それこそが我らがアクアビットの誇り!」

 エウクスタと自らを名乗った男は窓の外を見ながら呟くと、机の上に置かれた鳥籠に視線を移す。その中には傷ついたフクロウが入っており、その足には文が結ばれていた。

「オレアデス公の屋敷から放たれたフクロウか……。さて、どう出るか?」

 エウクスタはゆっくりと文に目を通すと、次の瞬間、その表情が驚愕に染まる。

「宛先はトレス……? まさかノチェロの光翼と謳われたあのトレス・クァレンタか! 確か最後のトレス・クァレンタは死んだと聞いていたが……何故ザフトリングの娘があの男と? それに手紙に書かれているこの娘……まさか」

 エウクスタは急ぎ机の引き出しから便箋を取り出すと、文の内容を書き写していく。程なくしてエウクスタは筆を止め、文をフクロウの足に括りつけると、そのまま窓の外に解き放つ。

 夜の闇に消えていくフクロウを眺めながらエウクスタは瞳を細めながら小さく呟いた。

「死んだはずの男、代々教皇の片腕としてその剣を振るった英雄達の末裔。そしてそんな男が守る一人の少女……。ザフトリングの娘は一体何を知っている……?」

 腕を組むエウクスタの前で、床に跪いたまま男が瞳を細めながら口を開く。

「……トレス。トレス・クァレンタといえば、ノチェロの聖堂騎士団長の名。今代は死んだと聞いておりましたが……いかがなさるおつもりですか?」

「悪魔がどの程度のものかは分からんが、あの男が関わっているというなら話は早い。わしは知慧院と共に悪魔について調べる。お前はそのトレス・クァレンタが本当に存命なのか、そしてそこに悪魔とやらがいるかを見極めてまいれ」

「御意に……」

 エウクスタの言葉に青年が小さく頷くと部屋を後にする。一人、部屋に残された男は窓の外を見つめながらはっきりと呟いた。

「我らがアクアビットの栄光の為とあれば、たとえ相手が悪魔であったとしても、食ってみせようぞ」


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