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二章:教会の騎士だった男

二章:教会の騎士だった男


「これはすごいな……門が朽ちている」

 時は少し遡る。少女とディサノーロが聖堂騎士達と対峙した街――ヴィジタルの街にやってきた青年は、腐り落ちた門を見つめながらゆっくりと瞳を細める。門はまるで長い年月をかけて腐食したかのように崩れており、幾人かの兵士達がその修復にあたっていた。

 青年が門を見つめていると、休憩を取っていたのか、隣に座っていた兵士が青年に向かって語りかける。

「ん? あんた旅の人か?」

「まあ、そんなところです。しかし一体何があったのですか? ひどい有様ですね」

 青年は適当に合わせて会釈をする。すると兵士は肩をすくめて語りだす。

「なんでも悪魔がやったんだとよ。俺も詳しくは分からねえけど、女神の敵、邪悪な悪魔の右手って奴が門をぶち壊したって話だ」

「……悪魔、ですか。それは恐ろしい。私も長いこと旅をしていますが、さすがに悪魔にはお目にかかったことがないですね」

「だろ? ただでさえ戦争で治安が乱れてるってのに、この上悪魔ときたもんだ。笑っちまうぜ。まあ教会の奴らの言うことなんざあまり信じちゃいないけどな……。だけどな……」

 兵士は崩れた門を見つめながら続ける。

「地面に倒れた教会の騎士達を見た時にはその話を信じざるを得なかったけどな」

「教会の騎士……聖堂騎士ですか?」

「おうよ。一人いれば百の兵をも凌ぐと言われる聖堂騎士様だ。その右手の悪魔ってのは十数はいた騎士様達を全員倒しちまったってんだからたまげたぜ。きっとそいつは恐ろしいバケモンにちげえねえ……」

「はははっ。まさか冗談でしょう? ノチェロの騎士は皆優れた(左手の加護)アオレオーレ使いと聞いています。いくら腕が立つといってもさすがに十を超える騎士を一人では倒したとはちょっと信じがたいですね」

 青年の言葉に兵士は笑いながら肩を竦めてみせる。

「まあ、正直言うと俺も信じちゃいねえんだ。どうせ教会が聖堂騎士様達が賊に倒されちまったんで、面目を保つために適当に話を盛ってるんだろうよ。……と、そろそろ戻んねえといけねえな。わりいがここまでだ。じゃあな兄ちゃん、良い旅を」

 兵士は笑いながら立ち上がると、ゆっくりと門に向かって歩き出し、青年は小さく礼をする。

「彼女は結構派手にやらかしたみたいだな。さて、アクアビットはどう出る? キルシュの耳に入ったということは、少なくとも国はこの件を承知している。そしておそらく彼女の異常性に気がついたはずだ。ならばあまり時間がない、か。どこだ……君はどこにいる?」

 青年は険しい表情を作り、そのまま門を後にした。


「ということは……その少女は今でもどうなったか分からない、と?」

 そして数日後、少女が森で一夜を明かしている時、少女が次に訪れた街――アニスの街の酒場で金髪の青年が店主と何やら話し込んでいた。

「いきなり教会の騎士様が来てあの子を殺そうとしたんだ……。正直あの子がどうなったかは分からねえ。だが聖堂騎士様に歯向かって生きていられる奴はいねえ……。あの子もどんな理由があったかは知らんがおそらく……」

 店の主人と思しき男がバツが悪そうに顔を背け、何かを思い出したように続ける。

「そうだ! あの嬢ちゃんの右手に変な鎖があって、その鎖が動いたと思ったらいきなり辺りが真っ黒になっちまったんだ。やっぱりあの嬢ちゃんは騎士様の言うように良くないもんを持ってたのかも知れねえな。今となっちゃどうでもいいことだけどよ……」

 主人の言葉に青年の瞳がゆっくりと細められる。

「なるほど……事情は分かりました」

 青年の言葉に何かを感じたのか、酒場の主人が真っ直ぐに青年を見つめて語る。

「そうかい。兄ちゃんが何をしたいのかは分からんが、くれぐれも騎士様に歯向かうような馬鹿な真似だけは止めておきな。命がいくらあっても足りねえぞ? ……っと、こいつは教会には内緒にしておいてくれよな」

「はははっ、そうですね。肝に命じておきますよ。僕も命は惜しいですからね。ではそろそろ行こうと思います。ご飯美味しかったです。またここに来ることがあったら寄らせて頂きますね。これお勘定」

 青年はそう言うと多めの硬貨を主人に握らせ、酒場を後にする。空には上弦の月が浮かび、街灯もない裏通りが月明かりで煌々と照らされる。青年は小さく手を握り締めると空に向かって小さく呟いた。

「……やっと……やっと見つけたぞ。ヴェルヴェーヌ」


「……どういうことだ? ここからは彼女の気配の残滓を感じない。ということは彼女はこの街道を使っていない?」

 その翌日、アニスの街を出た青年は大きな街道を歩いていた。街道は途中で岐路になっており、そこに立てられた道標の前で青年が腕を組みながら首を傾げている。

「彼女はノチェロを目指している。それには必ず王都ツェニートを経由しなければならない。ならば彼女は必ずここを通るはず。しかし彼女はここを通った気配はない。何故だ……?」

 青年はしばし考え込み、何かに気がついたのか突然顔を上げる。

「……もしかして彼女は街道を歩けなかった? 教会の騎士は街だけじゃなくて街道にもいた。だから彼女は街道を使わなかった。ならば彼女が進んだのは……」

 青年がそう呟くと、街道脇の広大な森を見つめて瞳を細めた。

「っ!」

 突然、青年が大きくその場を飛び退いたかと思うと、青年のいた場所に無数の槍が突き刺さる。次の瞬間、街道脇の森の中から白い鎧に身を包んだ騎士達が現れ、瞬く間に青年を取り囲む。その様子に青年が驚いた様子で語りかける。

「僕に何かい……? 生憎ノチェロの聖堂騎士に睨まれるような事をした覚えはないんだけどね?」

 騎士達は剣を引き抜き、その切っ先を青年に突きつけて大きな声で叫ぶ。

「見つけたぞ! トレス・クァレンタ! 邪教にその魂を染め、アルブスの光を汚す裏切り者め! 教皇猊下の命である、我らと共に来てもらおうか」

 その言葉にトレスと呼ばれた青年が小さく微笑み、両手をあげる。

「ノチェロでも僕の素顔を知る者は二人だけしかいない。君達が僕を僕だと知ることは無いはずなのだけどね……」

 青年は苦笑しながら周囲を見渡し、何かに気がついたかのように小さく頷いた。

「……そうか。そういえば『彼』は『前見』の加護を持っていたんだったね。トレス・クァレンタがここにいるという事実さえ分かれば、外見などは気にする必要はない……か。これは、してやられた……かな?」

「教皇猊下は全てを見通していらっしゃる。貴様を悪魔の右手の下には行かせん!」

 その言葉にトレスの眉が一瞬小さくひそめられる。そんなトレスの様子をよそに、騎士は続ける。

「悪魔の右手……女神アルブスの威光を汚す不浄。闇の女神アーテルの化身。忌まわしき邪教徒にして終焉の篝火。ノチェロの惨禍を知らぬとは言わせぬぞ! 何故貴様程の男が悪魔に惑わされた!」

 騎士がトレスに向かって叫び、手にした剣をトレスの喉に突きつける。緊張した空気が周囲を包み、トレスは真っすぐに騎士を見つめながらゆっくりと口を開く。

「彼は……そして君たちは何も理解していない。確かにあの時、世界はアーテルによって混沌に還された。だが……」

 トレスの語気が強くなる。

「世界を選んだのは、混沌を選んだのは、他でもない僕達『人』だ。彼女はただの天秤に過ぎない。彼女にその責を押し付けるのは間違っている! 君達は何故それに気がつかない!?」

「黙れ! 人が破壊を望んだだと? 世迷い事を! その汚れた口を二度と開けなくしてやってもいいのだぞ? 逆らうようなら殺しても構わんと言いつかっている」

 騎士の剣を持つ手にわずかに力が込められる。騎士がその気になれば、その手に持つ剣はトレスの喉をいとも容易く貫ける状況にある。そんな状況にあってもトレスは真っすぐに騎士を見据えて視線を離さない。

「……何の罪も無い無垢な少女を不浄と呼び、地獄を届け、あまつさえ関係ない者まで巻き込んで粛清する。果たしてそれが女神アルブスの示した光なのか! 君達の剣は、想いは、力は、そんなもののために磨かれたというのか!」

 トレスの言葉に騎士達がいきりたつように叫ぶ。

「笑止! 我らの剣は、力は、その全ては世界の安寧を守り、力なき民草を守る為にある。……どうやらかつては栄誉あるアルブスの騎士でありながら、心まで悪魔の走狗と成り果てたようだな! 語るに落ちたな、トレス・クァレンタ! 貴様に、貴様らに人々の明日を踏みにじらせはせん!」

 騎士は怒りに体を震わせながらトレスにつきつけた剣に力を込める。騎士の剣がトレスの喉を貫くまさにその瞬間、トレスは喉に突きつけられた剣を指で掴むと――そのまま事も無げに圧し折った。

「……今の僕はただの男、ヴェルヴェーヌ・デュ・ベレイを守る一人の男だ。君達が彼女を害するというなら、悪いが僕は君達をこのまま行かせる訳にはいかない」

 剣の破片がきらきらと陽光を反射させながらゆっくりと散っていく。その光景に騎士達は一瞬言葉を失って立ち尽くす。しばし呆然と立ち尽くしていた騎士達は我に返ったのかトレスに向かって叫ぶ。

「貴様はあの方の気持ちを考えたことがあるのか! あの方が今どんな思いで剣を握っておられるか。全ては貴様に刻まれた汚名をそそぐためだ。何故……何故それ程の力を持ちながら我々を、いや女神アルブスを裏切った! トレス・クァレンタ!」

 慟哭にも似た騎士の叫びが周囲に木霊し、その言葉にトレスは小さく息を吐く。

「……君達は信じないだろうけど、僕はアルブスを裏切ってはいない。そして彼には辛い思いをさせたと思っている。だけどここからは彼は関わるべきじゃない。もちろん君達もだ。だから大人しくノチェロに戻れ。僕に剣を抜かせないでくれ」

 その言葉に騎士がゆっくりと首を横に振り、真っ直ぐにトレスを睨む。

「……ここまできてまだ世迷い事を。だが貴様の答えは受け取った。身も心も悪魔に懐柔された哀れな男よ。悪魔もろともここで――死ね!」

 騎士が叫んだ瞬間、その手に持つ剣が紅蓮の炎に包まれた。騎士はそのままトレスに向かって大きく踏み込むと、凄まじい速度で剣を振り下ろす。燃え盛る剣は虚空に炎の尾を刻みながら真っ直ぐにトレスに迫る。

「……くっ!」

 トレスはそれを半身を捻ってかわし、騎士の剣はトレスの頬をかすめて地面に向かって吸い込まれていく。

 剣が地面に触れた瞬間、轟音と共に地面が爆砕し、巨大な火柱が立ち昇る。火柱はまるで波のように剣を振り下ろした方向にいくつも立ち上り、その動線上にあった全てを飲み込んで焼きつくしていく。

「……君の加護は炎か。なるほど大したものだ。だけど『彼』程ではないね」

 その言葉に騎士が大きく叫ぶ。

「貴様!」

 騎士が刃を返すと真っ直ぐにトレスに向かって剣を薙ぎ、爆炎がそれに続く。騎士の剣がトレスの胴に向かって真っ直ぐに吸い込まれていく。次の瞬間、金属が打ち合うような甲高い音が周囲に鳴り響く。

「……僕にもやらなきゃいけないことがある。悪いけど僕はここで斬られる訳には行かない」

 トレスの剣が騎士の剣を受け止め、その余波が衝撃波となって大地を駆け抜ける。その光景に騎士が小さく笑みを作る。

「愚かな! 我が紅蓮の刃は全てを焼きつくす浄化の炎。斯様な邪教の剣で止められると思ったか!」

 騎士がそう叫ぶとその手に持つ剣が赤く輝き、次の瞬間、トレスの体が巨大な火柱に包まれた。火柱は凄まじい熱を放ちながら空に向かって真っ直ぐにに伸び、空を赤く染める。

 程なくして炎の勢いが弱くなり、火柱も徐々に細くなる。騎士はその光景を前にゆっくりと瞳を細めると、周囲にいる騎士達に向かって語りかける。

「これがかのトレス・クァレンタとはなんとも呆気ない。所詮闇の女神に与する邪悪ということか……。まあいい、あとは右手の悪魔だけだ。行くぞ」

 しかし周囲の騎士達はいずれも驚嘆の表情で立ち尽くしており、その言葉に応える者はいない。それを不審に思った騎士が何かを察したのか慌てて振り向き、目の前の光景に言葉を失った。

「まさか……ありえん……」

「……だから言っただろう? 君じゃ『彼』には届かない。ならば僕には届かない」

 トレスは火勢の弱まった火柱の中で平然と腕を組み、はっきりと響く声で語る。その体は淡い輝きを宿し、その髪は白く輝いている。トレスが小さく腕を振ると周囲に凄まじい風が吹き荒れ、たちまち火柱が消えていく。

 やがて風が収まり、そこには初めから何事も無かったかのように腕を組みながら佇むトレスの姿があった。

 その光景を前に騎士が驚愕の表情を浮かべながら絞りだすように呟いた。

「これが……これがトレス・クァレンタ……か」

「そうだ。僕がトレス・クァレンタ。最初にして最後の騎士。君達風に言えば『最後のトレス・クァレンタ』といったところか」

 トレスはゆっくりと瞳を細めると、騎士達に向かって剣を構える。そして小さく剣を横に振った。

 たったそれだけの動作でトレスを中心に凄まじい風の奔流が生まれ、周囲の騎士達を瞬く間に飲み込んだ。一瞬の出来事に騎士達は声を上げる間もなく風の濁流に飲み込まれ、そしてはじき出される。あるものは路上に、あるものは脇に広がる森の木々に強かにその体を打ち付けられた。トレスを囲んでいた騎士たちは一瞬にして地面に倒れ伏し、うめき声を上げながら立ち上がる気配はない。

「へぇ……あれに耐えたということは、君達は風の加護を持っているのかい?」

 トレスの背後には吹き飛ばされずに耐えた騎士達が額に大粒の汗を浮かべながらしゃがみこんでおり、それを見たトレスが関心したように呟いた。そんなトレスに向かって騎士の一人が叫ぶ。

「トレス・クァレンタ……それ程の力を持ちながら何故アルブスに……いや、人に弓を引くのだ! 何故貴様ほどの騎士が悪魔に魂を売ったのだ! 何故……」

 騎士が何かを言いかけた瞬間、突然周囲に暗く冷たい気配が充満する。その瞬間、鳥はさえずりを止め、大地は沈黙した。おぞましい程の冷たい気配に騎士が苦しそうに胸を抑えて膝をつく。

「くっ……なっ、何だ? 今のは?」

 騎士達は額に大粒の汗を浮かべながら蒼白な表情で苦しそうに呟く。一方のトレスは何かに気がついたのか、大きく叫ぶ。

「……これは……まさか!」

 トレスは大きく目を見開き、その表情は驚嘆に染まっている。一方の騎士達は苦しそうに剣を支えに立ち上がると、トレスをゆっくりと取り囲む。そんな騎士達に向かってトレスが低い声で告げる。

「……退いてくれ」

「なに?」

 その瞬間、トレスの纏う気配が一変した。

「……時間がない。退いてくれ」

「貴様……一体何を?」

 トレスは冷徹な瞳で騎士達を見つめると淡々とに告げる。

「別の追手がいたみたいだね……。君たちが彼女に何をしたかは分からないが、彼女に何かが起きた。だから僕は行かねばならない」

 トレスの纏う気配が騎士達を押し潰すかのようにのしかかり、その気配にあてられた騎士達が一瞬怯む。次の瞬間、我に返った騎士が剣を雄叫びをあげながらトレスに斬りかかる。

「貴様をあの悪魔の元に行かせる訳にはいかん!」

 騎士はそう言うなり、トレスに向かって突きを繰り出した。剣は淡い光を纏い、その神速の突きがトレスの胸元にゆっくりと吸い込まれていく。その刹那、トレスは左足で地面を蹴り、右足を軸に半身を回転させて突きをかわすと小さく手を振った。

 たったそれだけの動作で周囲に巨大な鎌鼬が生まれ、突き出された剣の刀身を瞬く間に切り刻み砂塵へと還す。

 その光景に騎士が驚愕の表情を浮かべ、一方のトレスは大きく息を吸うとはっきりと語る。

「……時間がない。お互い引けぬのであれば――押し通すまでだ!」

 その言葉と共にトレスは騎士達に向かって駆け出した。


「くそっ! 追手に先を越されたか! 間に合ってくれよ……」

 トレスは街道を走る。まるで何かに導かれるように、トレスは迷わずに街道の脇に広がる森の中に飛び込んだ。森の中を駆けながらトレスが小さく瞳を細めて苦しそうに呟く。

「森が……黒い。やはり……ヴェルが力を使ったのか? それに先程の気配、まさかとは思うが……」

 トレスの瞳には肉眼では捉えることのできない距離にある森の奥深くに広がる黒い霧がはっきりと映っていた。その光景にトレスは思わず奥歯を噛みしめる。

「違う……あの気配は……ヴェルじゃない。『彼女』が目覚めたのか。くそっ!」

 トレスはそう叫ぶや、瞳を細めて意識を集中する。その瞬間、トレスの体を包み込むように風が吹き荒れる。風の結界に覆われたトレスが大きく叫ぶ。

「すまないが、事は一刻も争う。許してくれ」

 その言葉と共にトレスの周囲を渦巻く風の勢いが増し、トレスは周囲の木々をなぎ倒しながら矢のように森の中を一直線に疾走した。



『あら、まだ起きていましたか。ふふっ……残念。だけど選択の刻は近い。また会いましょう、愛しい我が子らよ』

 全身に黒い霧を纏った少女は小さく呟くと、突然膝から崩れ落ちる。それに呼応するかのように周囲を漂っていた冷たい気配が一瞬にして霧散する。黒い霧が徐々に晴れ、森はその本来の姿を取り戻す。

 少女の周囲にはおびただしい数の騎士の死体が転がっており、大地は赤く染まっている。そこに命の気配は無く、森の木々は皆枯れ果てている。全ての命が食いつくされ、そこには純然たる死の気配のみが残っていた。

 地面に倒れ伏した少女は小さなうめき声と共にゆっくりと立ち上がり、苦しそうに周囲を見渡して思わず目を細める。

「くっ……これは……? そうか、私が……喰ったのだな」

 少女はそう呟くと矢に貫かれた腹に手を当てる。そこに本来あるべき傷はなく、始めから何もなかったかのように珠のような白い肌があるのみであった。それを見た少女は顔をしかめると、周囲に散乱する騎士達の死体を見つめて小さく呟いた。

「……愚か者が。貴様らの国を……人を想う気持ちは分かる。明日を生きるために抗うその心は美しい。だがお前たちは何も分かっていない……」

 少女は思わず瞳を伏せて小さく首を横に振り、よろめく体を支えながら歩き出す。

「毒は完全には消えなかったか……」

 少女は突然立ち止まると後ろを振り返り、追手がいないことを確認すると小さく安堵の溜息をつく。

「今、騎士どもに会う訳にはいかん。私は……まだ、世界の答えを受け取っていない。次は耐えられるかどうか……」

 そしていよいよ街道が目に見える距離まで戻って来ると、少女は慎重に周囲を確認しながら自分に言い聞かせるように呟いた。

「遠回りになるが……迂回するしかあるまい……」

 少女が街道に出るべく足を踏み出そうとした瞬間、少女の腕を一本の矢が貫いた。

「えっ?」

 何が起きたのか理解できない様子で少女が腕を見つめていると、突然周囲から矢を構えた騎士達が姿を現した。

「悪魔の力を持つとはいえ、所詮子供よな。いくら目眩ましを使おうが、こうも真っ直ぐに逃げるとは……。獣の方が余程賢く逃げるというものよ」

 突然現れた騎士達を前に少女が警戒した様子で後ずさる。その光景に騎士が叫ぶ。

「今だ! 射よ!」

 その言葉と共に、木々の間を縫って飛来した矢が少女を襲う。

「くっ……追手か……」

 その光景に少女が右手を小さく振ると、銀色に輝く鎖がまるで蛇のように虚空を泳ぎ、飛来する矢を叩き落す。

「ふん、やはり矢は不意打ちしか無理か。ならば斬るしかあるまい」

 騎士の言葉に少女を囲んでいた騎士達が矢から槍に持ち変える。騎士はゆっくりを間合いを詰めながら少女に迫り、一方の少女は慌てた様子で大地に右手を付き、精神を集中する。その光景に騎士が叫ぶ。

「無駄なことを……目眩ましなど無意味ということがまだ分からぬか! 構わん、行け!」

 その瞬間、少女を中心に地面に巨大な光り輝く魔法陣が出現する。

「私の力は目眩ましだけでは無いぞ? 聞いていなかったのか?」

 少女が不敵に笑うと、魔法陣が一瞬強く明滅する。次の瞬間、光は黒い霧へと姿を変え、騎士達の体に纏わりつくように広がっていく。

「な……んだ……これは? ただの暗闇ではない……」

 槍を構えた騎士が霧に包まれた瞬間、突然胸を抑えて苦しそうに膝を付く。他の騎士達も同様に苦しそうにうずくまる。

「急に……体が……重く。くそっ……力が……」

 騎士達は苦しそうに呟くと次々にその場に崩れ落ちる。

 少女はその光景を一瞥すると、そのまま足を引きずりながら街道に出る。その光景に、地面にうずくまっている騎士が小さく口元を釣り上げて呟いた。

「逃げおおせられると思うなよ。貴様は再びあの矢を受けた。……我々の勝ちだ!」


「くっ……」

 少女は顔を小さくしかめると、腕に突き刺さった矢を引き抜いた。その表情は蒼白で呼吸は乱れ、額に大量の汗を浮かべている。

「やはり先程の矢にも毒か……。このままでは……まずい……な」

 少女は目眩を感じて両手を地面に付き、大きく深呼吸をする。しかし乱れた呼吸は戻らず、意識は徐々にその輪郭を失い始める。少女は瞳を閉じると、何かに耐えるように小さな体を震わせながら力なく呟いた。

「トレス……何をしている。私はここだ。間に合わなくなる前に……早く……早く……来て」

 その瞬間、周囲に騎士の声が響き渡った。


「いたぞ! やはり北に向かっていたぞ!」

 突如周囲に声が鳴り響き、少女は朦朧とする意識を奮い立たせて顔をあげる。かすれる視界の中で、少女は自らに向かって駆け寄ってくる騎士の姿を捉えた。その光景に少女は苦しそうに右手を騎士達に向ける。その瞬間、先ほどと同様、大地に巨大な魔法陣が出現し、騎士達の体が黒い霧に包まれた。

「なっ、なんだ? 急に体が……」

 叫び声と共に騎士達が次々に苦しそうに地面にうずくまる。そんな騎士達をよそに、少女は木にもたれかかるようにして苦しそうに立ち上がる。既にその瞳は焦点を失い、視界はぼやけて定まらない。呼吸は体を満たすことはなく、体を鈍い痛みが駆け巡る。

「駄目だ……私は……。私は……まだ……」

 朦朧とする意識の中で少女の耳に再び男の声が届く。少女がかろうじて動く瞳を動かすと、視界の端に新手と思しき騎士達が剣を構えながら駆け寄ってくるのが見える。しかしもはや少女は動くことは叶わず、少女はそのまま力なく崩れ落ちた。

「おい! 例の悪魔が倒れてるぞ!」

「……恐らく毒矢が効いたのだろう。手間をかけさせる。しかし……このような少女が多くの我らの同胞を葬ってきたとは到底信じられんな」

 騎士達は緊張気味に倒れた少女を囲むと、ゆっくりと剣を突きつける。

「ああ……全くだ。だが森の中で此奴が使った暗闇の呪法を見ただろう。あれこそ呪われた混沌の女神の加護の力に相違あるまい。いくら見た目が幼くても、此奴は予言に現れた終世の篝火、右手の悪魔だ。破滅の芽はここで摘み取らねばならん」

「ああ……では、首をもらうとするか」

 騎士の一人が剣をゆっくりとあてると、響く声で大きく叫ぶ。

「世界を破壊に導く闇の女神の化身は今ここに浄化され、世界は再びアルブスの名の下に安寧と秩序の光を取り戻す! さらばだ、悪魔の右手よ! その汚れた魂と共にアーテルの下に還れ!」

 騎士はそう叫ぶや、大きく剣を振り上げる。

 少女の耳にはもはや騎士達の言葉は届いていない。ただ少女は直感的に自分はここで殺されるということを理解した。少女は遠のいていく意識の中で、自分の死が意味するところを考え、一筋の涙をこぼした。

 それは苦しみと悲しみ、そして無念。途切れゆく意識の中で、少女はここにはいない恋人の名を呟いた。

「トレス……すまない……私は……」

「ヴェルヴェーヌ!」

 騎士の持つ剣が振り下ろされたその瞬間、凄まじい轟音が鳴り響き、一条の光が騎士の持つ剣を粉砕した。光はそのまま動線上にある木々を貫きながら森の奥へと消えていく。次の瞬間、周囲に凄まじい暴風が吹き荒れる。

「なっ、なんだ! この風は? 前が見えん!」

「この力……まさか……あの男か?」

 周囲を吹き荒れた暴風は少女を囲っていた騎士達を一瞬にして吹き飛ばし、騎士達は木々にその体を打ちつけられて小さなうめき声を上げる。風は次第に収まり、視界を覆っていた砂塵が晴れていく。

 そこには少女を抱きかかえて立っているトレスの姿があった。


 既に少女の耳は音を聞くことを止め、少女は静寂の中にいた。しかし、自分の名を呼ぶその声は、自分の愛した人の声は、確かに少女の耳に届いた。閉じかけていた少女の瞳に光が宿る。そして再び大粒の涙を流しながら少女が呟いた。

「トレ……ス。遅い……待ちかねた……ぞ」

「……すまない、ヴェル。待たせてしまったね」

 トレスは少女の腕の傷を見て小さく眉をひそめると、おもむろに左手を当てて意識を集中させる。トレスの左手が眩いばかりの輝きを放ち、その光は優しく少女を包み込む。光は小さな明滅を繰り返し、少女の腕の傷が瞬く間に消えていく。

 光に包まれた少女の表情に色が戻り、荒れていた呼吸も落ち着きを取り戻す。その光景にトレスは小さく安堵の溜息を付き、再び少女を強く抱きしめる。

「もう大丈夫だよ、ヴェルヴェーヌ。遅れてすまなかった。よく……頑張ったね」

 少女は朦朧とする意識の中、体が軽くなるのを感じ、優しい温もりを感じながらゆっくりと瞳を閉じて小さく首を横にふる。

「……お前なら来てくれると信じてた。ずっと、ずっと会いたかったぞ……トレス」

 その言葉にトレスが優しくヴェルヴェーヌと呼ばれた少女の髪を撫でる。少女――ヴェルヴェーヌは安心して張り詰めていた緊張の糸が切れたのか、そのままトレスの腕の中で意識を手放した。トレスはヴェルヴェーヌを抱きかかえたまま、自分達を遠巻きに囲んでいる騎士達を睨んで叫ぶ。

「……聖堂騎士の使う毒は本来魔獣を狩る時に使うものだ。それをまさか人に使うとは……語るに落ちたな……」

 トレスはそう言うや、腰に挿した剣をゆっくりと引き抜いて騎士達を睨む。

「貴様は……トレス。トレス・クァレンタか。……女神アルブスに弓引く忌まわしい裏切り者め!」

 騎士達が緊張気味にトレスを睨むが、一方のトレスは表情一つ変えずにゆっくりと瞳を細める。

「死ね! 邪悪に魂を売りし愚かな咎人よ! 悪魔と共にここで果てろ!」

 槍を持った騎士が叫びながらトレスに向かって大きく踏み込みと、すさまじい速度で突きを繰り出した。槍は一瞬小さく輝いたかと思うとその刀身に紫電をまとい、雷光が虚空に光の尾を刻む。その光景にトレスは左手を突き出して小さく叫ぶ。

「ぬるい!」

「ばっ、ばかな……」 

 騎士の繰り出した雷鳴をまとった神速の突きは、トレスの突き出された左手の手前でまるで何かに押し返されるように止まっていた。その光景にトレスは小さく叫ぶ。

「その程度では僕の風は貫けないよ。……僕も随分と舐められたものだね!」

 トレスがそう叫んだ瞬間、槍が音もなく砕け散った。その光景に思わず驚愕の表情を浮かべる騎士の体が轟音とともに折れ曲がるように弾き飛ばされた。騎士は木々の枝を圧し折りながら森の中を吹き飛ばされ、そのまま大きな木の幹に叩きつけられて悲鳴をあげる。

「ぐあっ!」

 鈍い音とともに騎士がうめき声をあげ、その場にゆっくりと崩れ落ちる。

 その光景に、騎士達は何が起きたのか理解できなかった。唯一分かったことは一瞬の内にトレスに向かって繰り出された槍が破壊され、騎士が吹き飛ばされたことである。

 その光景に騎士達が緊張気味に呟いた。

「……さすがはトレス・クァレンタ。その名は伊達ではないということか。ならばこちらもなりふり構ってはいられんな」

 騎士がそう呟くと、トレスを囲っていた騎士達が一斉にトレスに向かって左手を向ける。ある者は青い光を、ある者は黄金色の光を腕に宿し、その光は剣へと伝わっていく。

「卑怯と呼んでもらって一向に構わん。我らの使命は世界の安寧を守ること。悪魔の右手と貴様を葬る為ならばその汚名も喜んでかぶろうではないか!」

 その言葉と共に騎士達が一斉にトレスに向かって駆け出した。騎士の一人が金色に輝く剣を振った瞬間、空が割れトレスに向かって雷が降り注ぐ。その横から別の騎士が剣を振るう。それだけの動作で真空の刃が生まれ、トレスの周囲をあまねく切り裂いていく。

「悪魔もろともここで朽ち果てろ!」

 紅蓮に輝く剣を持った騎士がトレスに向かって剣を振り下ろした瞬間、大地から凄まじい炎柱が吹き出し、炎は風に飲まれてその勢いを増し、瞬く間に巨大な炎の渦となって周囲を焼きつくす。巨大な火柱に雷が降り注ぎ、周囲は轟音と共に眩いばかりの光に包まれた。

 凄まじい衝撃と共に、街道は一瞬にしてその姿を変える。脇に覆い茂っていた木々は跡形もなく燃え尽くし、大地は落雷と真空の刃によって大きく抉られていた。吹き荒れていた風雷は消えさり、周囲を舞い上げられた砂塵が覆い尽くす。騎士たちはその光景を前に、小さな笑みを浮かべながら呟いた。

「いくら貴様が強大な力を持つ騎士だったとしても、たった一人で我らの相手をできるとでも思ったか……その驕りが貴様の敗因だ。悪魔の右手と共に逝くがいい」

 騎士が倒れているヴェルヴェーヌに視線を送った瞬間、周囲にトレスの声が響く。

「……残念だけど君達を侮ったつもりはないし驕ったつもりもないよ。君達では僕には届かない。それだけさ」

「なっ!」

 立ち上る砂塵の中からトレスの声が響き、騎士が驚いた表情で叫ぶ。次の瞬間、一陣の風が吹き抜け、周囲を覆っていた砂塵を吹き飛ばす。そして顕になった目の前の光景に騎士達は思わず言葉を失った。

「むっ……無傷だと? ありえん! いくら貴様に強大な加護があったとしても、我々の力を受けて無傷でいられるはずが……」

「……そういえば君達は知らない――いや、知らされていないんだったね。僕の本当の名前を。そしてその名前の意味するところを」

 そこには気を失っているヴェルヴェーヌを抱きかかえて佇んでいるトレスの姿があった。その光景に騎士の間に動揺が走る。

「貴様がそれを言うか! 栄誉あるその名を汚した貴様が!」

 騎士の一人がいま忌々しそうにトレスを睨む。一方のトレスはゆっくりとヴェルヴェーヌを地面に寝かせると、騎士達を見つめてゆっくりと呟いた。

「……僕のことはどうでもいい。だけど君たちは彼女を、ヴェルヴェーヌを傷つけた。……こう見えても今の僕の心は怒りでどうかしてしまいそうなんだ。正直……加減は出来かねる」

 その言葉と共に、トレスから凄まじい殺気が滲み出る。それに当てられたのか騎士達は一瞬体を小さく震わせると思わず後ずさる。そんな騎士達をよそに、トレスが一歩、また一歩と騎士達に歩み寄ると小さく微笑んだ。

「だから……君達には……ここで退場してもらうとするよ」


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